大本教関連

《伊賀いせ子》須磨 伊賀邸 昭和7年1月4日【壬申日記 1の巻】昭和7年

《伊賀いせ子》須磨 伊賀邸 昭和7年1月4日
【壬申日記 1の巻】昭和7年

【壬申日記 1の巻】昭和7年
著者    月の家 著
出版者   天声社
出版年月日 昭和7.6
 壬申日記 一の巻
 昭和七年一月一日
https://dl.ndl.go.jp/pid/1137768/1/8
 一月四日  於 須磨 伊賀邸
高木總務の滿洲行きをおくらんと
午前の八時龜岡をたつ
心地よく神苑晴れたり
汽車の窓に見る高殿は朝日かがよふ
高木總務小谷哲氏を伴いて
勇み出で行く奉天の旅
神戸にて高木一行と相わかれ
閑月伴ひ
須磨に向へり
伊賀いせ子舘に入りて
信徒と黄昏るるまで漫談をなす
須磨支部の中尾氏邸を訪ひ行きて
信徒ともに神言を宣る
尺八や三味に合して歌うたふ
咽喉の冴えをば聞かされにけり
小夜更くるまでも眠らず
信徒の讀む物語聞きてゐたりき
https://dl.ndl.go.jp/pid/1137768/1/15
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
※《伊賀ヒサ》と《伊賀とら》《伊賀いせ》の関連は不明。
【官報 1910年01月15日】明治43年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 明治43年
 〇貯金通帳亡失及盗難等
左記貯金通帳亡失及盗難等ノ事故ニ罹リタルニ付キ
若シ其所在ヲ發見シタル者ハ速ニ
最寄郵便貯金取扱局所ニ届出ツヘシ
 明治四十三年一月 郵便貯金局
記番號   ぬはか 一六二三
交付局所名 攝津 須磨
預人氏名  伊賀ヒサ
p11【官報 1910年01月15日】明治43年
〔画像〕p11【官報 1910年01月15日】明治43年
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年09月27日 05:15
「伊賀とら」さんのお墓:天王平(綾部市)
[小野雄二]平成30年9月23日

伊賀いせ子[伊賀とら(伊賀治子の姉)]
生 明治8年(1875)前後
歿 昭和10年(1935)10月11日 60歳

伊賀とら(伊賀治子)
生 明治13年(1880)前後
歿 昭和20年(1945)7月31日  65歳

松村正子(伊賀とら 長女)[小野一雄・雄二の伯母]
生 大正3年(1914)1月20日
歿 昭和62年(1987)1月25日  74歳

伊賀光枝(伊賀とら 二女)[松村正子の妹]
生 大正4年(1915)前後
歿 昭和5年(1930)12月15日  15歳

伊賀義男(伊賀とら 長男)
生 大正8年(1919)前後
歿 昭和19年(1944)7月30日  25歳
【大本 松村家代々神霊】を基に作成
平成30年(2018)9月24日
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須磨より伊賀伊勢子(伊賀とら姉)【東北日記 1之巻】昭和3年

須磨より伊賀伊勢子(伊賀とら姉)
【東北日記 1之巻】昭和3年

【東北日記 1之巻】昭和3年
著者    月の家 著
出版者   天声社
出版年月日 昭和3.8-4.2
   東北日記
 昭和三年七月十一日
梅田安子 伊賀伊勢 純子の三婦人
 ※伊賀伊勢:伊賀いせ(伊賀とら姉)
伊都雄 吉原 岩田氏 同車す。
 ※伊都雄:大国浩三(戸籍名)
  大国 弘(小野又一の姉)の夫
 七月十二日  於 高天閣
大津驛まで同車見送りたる
宣、信氏名左の如し。
京都より
出口日出麿、
伊賀治子(※伊賀とら)、
鎌光よね子、平野松三郎、木全仙右衛門、
大谷敬祐、粟辻忠造、荒川安史、南貴太郎、
三雲孝四郎、三雲麻子。
天恩郷より
加藤明子、日田井輝男、出村喜一郎。
宇治より
石田要之助(但し米原まで)。
大阪より
米倉一郎。
須磨より
伊賀伊勢子 ※伊賀治子(とら)の姉
の諸士にして、
大津に出むかへたる人々は、
西村爲次郎、藤丸、辻、堀江の夫妻諸氏なりき。
暑さの時節諸氏の厚情を感謝す。
又滋賀縣の農林主事補
北村常三氏の繁中の出迎を感謝す。
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年03月08日 05:40
《伊賀とら》義侠者の伊賀お寅
[下山京子]仲居變装記 常盤花壇
【一葉草紙】大正3年(1914)
 三 藝者氣質  p130/187
《お寅さん》は相變らず後姿を見せて仕事に餘念ない。
黄色い聲の賑かな話は彼方此方に起つて
既(も)う私の存在は認められて居ないらしい。
周圍の事情がこんなだから
私もツイ油斷してゐると突然横手から、
『若し貴女、一寸(ちょ)いと』
と優しげな聲がする。
ハツと膽(きも)を潰(つぶ)して向ふを見ると、
何時の間にか廿五六の束髪に
結(ゆつ)た品の好い奥樣風の人が立つてゐて、
『此方でお話をしませう』
と澄(すん)だ東京辯で次の間へ案内された。
丁寧に頭を下げると、
『私は《お寅》の姉ですが
 一體貴女は怎(ど)ういふ譯で―』
※伊賀いせ子[伊賀とら(伊賀治子の姉)]下記詳細
と凛々しい眼附で眤と見詰める。
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《女髪結の伊賀トラさんは著名で》大本敎の新風景【更生日記 4の巻】昭和6年

《女髪結の伊賀トラさんは著名で》
大本敎の新風景【更生日記 4の巻】昭和6年

【更生日記 4の巻】昭和6年
著者    月の家 著
出版者   第一天声社
出版年月日 昭和6.4-7.5
更生日記 四の巻  月の家著
昭和六年 自 四月一日
     至 四月卅日
https://dl.ndl.go.jp/pid/1137567/1/4

 ◇四月十一日 江州日々新聞所載記事 p153-154
  女性でバツクする
   大本敎の新風景
    信者や宣傳使に
     著しい女性の進出
女性を開祖に持ちその又
敎主を女のお世嗣と定めた
京都府の大本敎では
エロ、グロの兩女性風景が敎團を彩る。
大本には男女平等制が布かれ
滿二十歳以上の信者には
參政權の淸き一票が與へられてゐる。
全國初回の賛襄(代議員)の中に
二人の女性が當選した時には
豫期したとは云へ信者間で奇異の目を睜つたもので、
その一人が本縣彦根町の高祖富士子女史であつた。
今では女の大宣傳使、正宣傳使、准宣傳使がザラにあり、
女の分院長を始め、分所、支部長があつて
斷然男性の壘を摩してゐる始末、
從つて女傑も少なくない。
開祖が超人であれば
二代、三代その姉妹の方々にも
思藻的にも思想界にも秀でゝゐるし
女髪結の伊賀トラさんは著名で
墨西哥(メキシコ)より修業にて歸朝の宮本ツネ、
竹内テル子、三段崎ミチ、田端サキ、
成川アサ子、遠山幾子、
吉野分院長吉野時子、
大宣傳使加藤明子女史の如きは
確に男まさりの豪のものであらう。
此の外藝界方面、文藝、内侍方面には女大を始め
高等敎育、普通敎育を受けた
エロ、グロによつて色とりどりの交響樂を奏してゐる。
瑞の御魂變性女子たる王仁師御大によつて
太陽系を形造り之を圍繞する衛星にも
前兩樣の經緯によつて錦の機を織り上げた。
曰く筑紫女王柳原燁子、
曰く江木欣々女史、
曰く桂公愛妾お鯉の方、
曰く古屋登代子女史など、
尚平塚雷鳥女史の王仁師訪問の噂もある。
昨今信者や宣傳使に著しく女性の進出を見つゝある
大本は女性の魅力によつて將來榮えもし、
幾多のナンセンスが貽されても行きさう、
是れが大本をバツクする
現在の新風景とも云へよう。
(吉野花明)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1137567/1/153
昭和六年七月三日印刷 更生日記四の巻奥附
昭和六年七月十日發行 定價壹圓
編輯兼 第一天聲社
發行者 京都府何鹿郡綾部町大字本宮村
    字東四ツ辻十三番地
    振替大阪六〇五三四番
印刷者 東尾吉三郎
    京都府何鹿郡綾部町大字本宮村
    字東四ツ辻十三番地
販賣所 第二天聲社
    京都府南桑田郡龜岡町
    大本天恩郷内
    振替大阪七五九一七番
https://dl.ndl.go.jp/pid/1137567/1/249
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《髪結さんの伊賀とら》婦人界だより【又新公論 1(2)】大正12年

《髪結さんの伊賀とら》婦人界だより【又新公論 1(2)】大正12年

【又新公論 1(2)】大正12年(1923)4月
出版者   又新公論社
出版年月日 1923-04
 婦人界だより ハルノ・ハナサク     p37/73
▲大本敎の淺野和三郎氏が再舉を計るさうで p38/73
 例の中六番町中野岩太の確信會なども
 大分活氣づいて來たそうな。
 この確信會には婦人部といふのがあり、
 岩太夫人と並んで
 元の梅花女學校長木村定子さんなどが
 手傳つて居るのだと。
髪結さんの伊賀とら なんといふ人達も、
 熱心ださうだから、
 將來何かの婦人運動が此邊からも起つて來はしないか
p38【又新公論 1(2)】大正12年(1923)
〔画像〕p38【又新公論 1(2)】大正12年(1923)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1525371/1/38
大正十二年四月十三日印刷納本(毎月一回)
大正十二年四月十五日發行  (一日發行)
發行編輯 弓削 新吾
印刷人  東京市芝區金杉川口町二十番地
印刷所  文正堂
     東京市芝區愛宕町三丁目一番地
發行所  又新公論社
     東京市京橋區日吉町十三番地
     電話 銀座一九二〇番
     振替東京四九九九一番
     横濱支社
     横濱市尾上町二丁目十八番地
     神戸支社
     神戸市再度筋一〇一番地
https://dl.ndl.go.jp/pid/1525371/1/68
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《伊賀とら氏》中村純一氏と結婚 昭和4年4月17日【日月日記. 4之巻】昭和4年

《伊賀とら氏》中村純一氏と結婚 昭和4年4月17日
【日月日記. 4之巻】昭和4年

昭和4年2月21日
【日月日記. 3之巻】昭和4年
月の家著 日月日記 三の巻
  昭和四年 自二月十五日 至三月廿一日
二月二十一日  於高天閣  p40/161
伊賀とら氏建築したる龜年館に色々道具持ち運びけり
午後よりは伊賀氏と共に龜年舘に入りて暫く憩ひにけり
亀年舘櫟の林隔てつゝ見る高天閣の灯の冴え

昭和4年4月17日
【日月日記. 4之巻】昭和4年
月の家著 日月日記 四の巻
  昭和四年 自三月廿二日 至四月十八日
四月十七日  於 高天閣 p163-164/173
中村氏伊賀とら氏との結婚を無事に了(をは)れり光照殿にて
※中村氏:中村純一
p164【日月日記. 4之巻】昭和4年
〔画像〕p164【日月日記. 4之巻】昭和4年
四月十七日  於 高天閣 p165/173
中村氏夫人伴ひ婚姻の謝禮述べんと高殿を訪ふ
p165【日月日記. 4之巻】昭和4年
〔画像〕p165【日月日記. 4之巻】昭和4年
※婚姻の事等        p166-171/173
=日月日記四の巻終=

【報告書 8】昭和12年(1937)
第四款 皇道大本の組織並檢擧前の幹部役員
會計課  中村純一
《中村純一》(51歳)  p89/243
 ※明治19年(1886)生?
本籍地ニハ約一万圓相當ノ資産ヲ有シ
内綠ノ妻 伊賀トラ(結髪業)ヨリ
補助ヲ受ケ生活シ居リタルモノ
皇道大本本部 會計課長
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年09月05日
[松村家遠津御祖代々祖等親族家族之神靈]〔大本教〕2/3
伊賀治子  昭和20年(1945) 7月31日 65才 妻の母
   生  明治14年(1881)?
《伊賀とら・伊賀登良:松村正子の実母》
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 … 光照殿(こうしょうでん)は、
亀岡の天恩郷にあった建物。
現在、朝陽館が建っている場所にあった。
大正14年(1925年)10月完成。
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年03月11日
《伊賀トラ》大本教 亀岡支部 光照殿 建築費 献金者
[髙秘 第一六二七號]
四 光照殿 建築費 献金者 p31/48
客月末 竣成シタル 管下
大本教 亀岡支部 光照殿 建築費ハ
管下 在住信者ノ外
左記 二十六名ノ献金ニ依リ
完成シタル趣ナリ
大阪市 《伊賀トラ》
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《名倉周藏》神戸宅地經營株式會社 監査役【神戸市会社名鑑. 大正13年】

《名倉周藏》
神戸宅地經營株式會社 監査役
【神戸市会社名鑑. 大正13年】
神戸自動車株式會社
【神戸市会社名鑑. 昭和4年版】


【神戸市会社名鑑. 大正13年】
神戸宅地經營株式會社  p156/260
所 在   多聞通二丁目二三
電 話   元町四四五番
設 立   大正九年五月
資本金   1,000,000
拂込金   250,000
積立金   1,500
目 的   土地經營・住宅地開發
取締役社長 入江孝次郎
取締役   井上 善吉
同     和田 康文
監査役   西本作次郎
同     名倉 周藏

【神戸市会社名鑑. 昭和4年版】
神戸自動車株式會社  p153/197
所 在   多聞通八丁目八七
電 話   湊川二四二、二五三番
設 立   大正八年九月
資本金   100,000
拂込金   61,000
目 的   旅客運送
代表者   名倉 周藏

【神戸市商工名鑑. 昭和12年3月】
神戸自動車株式會社   p105/160
名倉 周藏
須磨區上細澤町七
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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兵庫縣人《伊賀とら》の養子=名倉義男(名倉周藏の二男)【人事興信録. 9版(昭和6年)】【全日本業界人物大成. 坤巻】昭和7年

兵庫縣人《伊賀とら》の養子=名倉義男(名倉周藏の二男)
【人事興信録. 9版(昭和6年)】
【全日本業界人物大成. 坤巻】昭和7年

【人事興信録. 9版(昭和6年)】
《名倉周藏》  p1089/1755
 東京土木建築(株)代表取締役
 東京紙絲紡績(株)取締役
 神戸宅地經營(株)監査役
 兵庫縣在籍
 妻  さと  明治一四年 八月生 兵庫、賴廣正之助 妹
 男  周雄  明治三六年一二月生
 女  つゆ子 明治三八年 六月生
 女  まさよ 明治四三年 三月生
君は兵庫縣人 名倉仁左衞門の二男にして
明治十年十一月を以て生れ
大正三年家督を相續す
現時前記各會社の重役にして
曩に日本炭業會社取締役たり
父  仁左衞門(弘化元年五月生)は
弟  伊三郞(明治二五年三月生)と共に分家し
二男 義男(大正九年一月生)は
兵庫縣人《伊賀とら》の養子となれり
(神戸、東須磨辰巳一一)

【全日本業界人物大成. 坤巻】昭和7年
《名倉周藏》  p25/335
 神戸自動車(株) 社長
 東京紙絲紡績(株)取締役
 神戸宅地經營(株)監査役
君は兵庫縣人 名倉仁左衛門の二男にして
明治十年十一月を以て生れ
大正三年家督を相續す
長じて實業界に投じ
現時前記各會社の重役にして
曩に日本炭業會社取締役たりし外
大正十三年以來
神戸市東須磨區協議會會長及方面委員の任にあり
尚日本耕地整理組合事業界革新として有名なる事件
昭和三年二月其筋の糾彈處斷ありたる
東須磨耕地整理組合幹部の背任
横領額八十萬圓事件の調査摘發者として知らる
園藝に長じ
明治三十五年來
其生産水蜜桃果の優良無比として名聲を博したる
縣下一大果樹園(須磨百々園)の創設經營をなし
之が理想的栽培技術
生果の荷造包装の改良の宣傳指導等
斯界の功績多し
家族は
妻  さと (明治一四年生・兵庫縣 賴廣正之助 妹)
男  周雄 (明治三六年生)
女  つゆ子(明治三八年生)
女  まさよ(明治四三年生)あり
父  仁左衛門(弘化三年生)は
弟  伊三郎(明治二五年生)と共に分家し
二男 義男(大正九年生)は
兵庫縣人《伊賀とら》の養子となれり
(神戸市須磨區上細澤町七)
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年09月05日
[松村家遠津御祖代々祖等親族家族之神靈]〔大本教〕2/3
伊賀いせ子 昭和10年(1935)10月11日 60才 妻の伯母
   生  明治 9年(1876)?
《伊賀治子の姉》

伊賀治子  昭和20年(1945) 7月31日 65才 妻の母
   生  明治14年(1881)?
《伊賀とら・伊賀登良:松村正子の実母》

伊賀光枝  昭和 5年(1930)12月15日 15歳 妹
   生  大正 5年(1916)?
《松村正子の妹?》

伊賀義男  昭和19年(1944) 7月30日 25歳
   生  大正 9年(1920)?
《松村正子の弟?》
※上記:《伊賀とら》の養子=名倉義男(名倉周藏の二男)

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年09月27日
「伊賀とら」さんのお墓:天王平(綾部市)
[小野雄二]平成30年9月23日
mail 20180923 18:22
今日は墓参りに行ってきました。(亀岡、綾部、衣笠)
天王平で、「伊賀とら」さんのお墓ってどこ?と思い、
事務所で聞きました。
「伊賀とら」さんとしては登録はなく、
「伊賀静雄」さんなら、A-73だと。
写真添付します。
小野雄二
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宣傳使 伊賀治子毘女之墓(伊賀とら子):綾部市天王平

宣傳使 伊賀治子毘女之墓(伊賀とら子):綾部市天王平

CIMG5820-伊賀家之墓
〔画像〕CIMG5820-伊賀家之墓

伊賀イセ子之墓
※昭和10年(1935)10月11日歿60才 明治8年(1875)生?
※伊賀治子(伊賀とら子)の姉
CIMG5812-伊賀イセ子之墓
〔画像〕CIMG5812-伊賀イセ子之墓

宣傳使 伊賀治子毘女之墓(伊賀とら子)
※松村正子(小野一雄・雄二の伯母)の母
CIMG5816-伊賀治子之墓
〔画像〕CIMG5816-伊賀治子之墓

宣傳使 伊賀治子毘女之墓
昭和二十年(1945)七月三十一日帰幽(65才) 俗名 伊賀とら子
※明治13年(1880)生?
CIMG5817-伊賀治子之墓(とら子)
〔画像〕CIMG5817-伊賀治子之墓(とら子)

73 綾部 伊賀家 伊賀静夫
CIMG5825-73-伊賀家
〔画像〕CIMG5825-73-伊賀家
撮影:2019/2/7 平成31年2月7日
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年09月27日 05:15 ◆伊賀とら(登良) 大本教関連
「伊賀とら」さんのお墓:天王平(綾部市)
[小野雄二]平成30年9月23日
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

「伊賀とら」さんのお墓:天王平(綾部市)[小野雄二]平成30年9月23日

「伊賀とら」さんのお墓:天王平(綾部市)[小野雄二]平成30年9月23日

mail 20180923 18:22
今日は墓参りに行ってきました。(亀岡、綾部、衣笠)
天王平で、「伊賀とら」さんのお墓ってどこ?と思い、
事務所で聞きました。
「伊賀とら」さんとしては登録はなく、
「伊賀静雄」さんなら、A-73だと。
写真添付します。
小野雄二
伊賀とらのお墓  伊賀とらのお墓-1
宗教法人大本本部 天王平
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伊賀いせ子[伊賀とら(伊賀治子の姉)]
生 明治8年(1875)前後
歿 昭和10年(1935)10月11日 60歳

伊賀とら(伊賀治子)
生 明治13年(1880)前後
歿 昭和20年(1945)7月31日 65歳

松村正子(伊賀とら 長女)[小野一雄・雄二の伯母]
生 大正3年(1914)1月20日
歿 昭和62年(1987)1月25日 74歳

伊賀光枝(伊賀とら 二女)[松村正子の妹]
生 大正4年(1915)前後
歿 昭和5年(1930)12月15日 15歳

伊賀義男(伊賀とら 長男)
生 大正8年(1919)前後
歿 昭和19年(1944)7月30日 25歳

【大本 松村家代々神霊】を基に作成
平成30年(2018)9月24日
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年08月24日 06:13 ◆伊賀とら(登良) 大本教関連
〔写真〕《伊賀とら》
伊豆滞在中の王仁三郎 みんなで記念撮影(大正11年8月)
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[とよたま愛読会113回(特別篇 入蒙記 12章~22章)]真澄別(松村真澄)関連

[とよたま愛読会113回(特別篇 入蒙記 12章~22章)]
真澄別(松村真澄)関連

とよたま愛読会113回(特別篇 入蒙記 12章~22章)
                 記:望月幹巳
日 時  平成18年2月26(日) 午後1時から午後4時30分まで
場 所  愛善苑 豊玉分苑 (京王線下高井戸駅下車 徒歩8分 川崎方)
物 語  特別篇 入蒙記 第一篇 「日本より奉天まで」
     第12章 焦頭爛額 ~ 第22章 木局収ヶ原

★ 報告
山河草木 特別篇 入蒙記
第2篇 奉天より洮南へ 
第12章 焦頭爛額
 ―略―
* 列車は途中で何度も故障し、
修理に何時間も費やしながらゆっくりと進んでいった。
その間に、奉天から列車で出発していた真澄別(松村真澄)一行は、
3月6日の午前零時20分ごろに洮南駅に到着していた。

第13章 洮南旅館
* 日出雄一行は3月8日の午後9時30分にようやく洮南駅に到着した。
そして洮南旅館で真澄別(松村真澄)一行と合流した。
洮南府は日本官憲の勢力がない場所であった。
現在は特殊の関係のある者のみが25名逗留しているだけの地である。
 ―略―

第14章 洮南の雲
 ―略―

第3篇 洮南より索倫へ
第15章 公爺府入り
 ―略―

第16章 蒙古の人情
 ―略―

第17章 明暗交々
 ―略―
* 温長興が出発してから、その日の午後6時ごろ、
やっと真澄別(松村真澄)一行が荷物や食料を満載して到着した。
地獄で仏に会ったような心持に、日出雄も岡崎も非常に喜んだ。
たくさんの荷物や食料が到着すると、
老印君の日本人に対する態度はまたがらりとよくなった。

* 真澄別(松村真澄)にしたがってやってきたのは、名田彦、猪野敏夫の両人であった。

第18章 蒙古気質
 ―略―
* 4月14日に盧占魁は200人の手兵を引率して、公爺府に到着した。
盧は大勢の部下の前で日出雄に抱きついてうれし泣きに泣いた。
日出雄も感慨の念に打たれたのである。
互いに旅情を慰めあった後は、真澄別(松村真澄)が事務を盧と協議した。
 ―略―
* 白凌閣は日出雄、真澄別(松村真澄)以外の日本人の言うことを聞かないので、
あるとき猪野は怒って白凌閣の横顔を木片で殴りつけた。
白は顔面が腫れ上がり、地がにじみ出たが、
このことを自分の父に告げようともしなかった。

* 日出雄は見かねて白の手当てをし、鎮魂を施した。
30分もすると、腫れは引いてしまった。
日出雄は白に、日本人にひどい目に合わされても、
自分の親に告げに行かなかったのは感心だ、と言った。
すると白は、
『大先生の家来になったのだから、もはや父母を頼ることはできない。
また、先生の代理である真澄別(松村真澄)さんの言うことは聞きますが、
その他の日本人に服従する義務はありません。
道ならぬことをすれば、蒙古男子の恥になります。』と言った。
 ―略―

第19章 仮司令部
 ―略―
* 4月20日、神勅により、日出雄と真澄別(松村真澄)には、次のような蒙古人名が与えられた。
  《出口王仁三郎源日出雄》
   * 弥勒下生達頼喇嘛[みろくげしょう ターライラマ]
   * 素尊汗(言霊別命)[すーつーはん]
   * 蒙古姓名:那爾薩林喀斉拉額都[ナルザリンカチラオト]

  《松村仙造源真澄》
   * 班善喇嘛[ハンゼンラマ]
   * 真澄別(治国別命)
   * 伊忽薩林伯勒額羅斯[イボサリンポロオロス]

第20章 春軍完備
* 4月20四日午後、ようやく5台の台車に武器が満載されてやってきた。
それにつれて仮司令部の中も活気付き、兵士たちの士気も上がってきた。
日本人側もようやく安堵し愁眉を開いた。

* 奥地は難所が多いために荷物を軽くしていくことになった。
日出雄も霊界物語や支那服・日本服は洮南に送り返し、
ラマの法衣のみを着ていくことになった。
また日出雄と真澄別(松村真澄)は宗教家として武器は携帯しなかった。
 ―略―
* 日出雄と真澄別(松村真澄)は、こんなところを開墾して穀類を植え付け、
鉄路を敷いて樹木をきり出し鉱物を採掘したならば、
実に大なる国家の富源を得られるであろうと話しつつ、進んでいった。
 ―略―

第21章 索倫本営
 ―略―

第4篇 神軍躍動
第22章 木局収ヶ原
 ―略―

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