【昭和之日本:御大典記念】

[山野千枝子女史]【昭和之日本:御大典記念】 昭和4年

[山野千枝子女史]【昭和之日本:御大典記念】昭和4年

【昭和之日本:御大典記念】昭和4年
[山野千枝子女史] p465/718
明治二十八年三月十一日生
東京市麹町區永樂町 丸ビル一階
電話 丸ノ内 三九五七番
丸ビル化粧料本舗、
米國ネオス會社 東洋總代理店、
美容美髪師

文化の進歩と
婦人美粧の變遷とは、
不即不離の密接なる關係在りて、
街頭に一瞥する婦人の美髪美容に依りても
優に一國の文明を卜知し得べし。
我が帝都のシビック・センターたる丸ノ内ビルに
美容院を經營し優秀なる技術を以て
滿都の婦女子に?々好評を博する山野千枝子女史は、
都下凡百の美容師中
嶄然一頭地を抽く至能至技の人也。
女史は横濱の人にして
神戸市の高等家政女學校を卒業し
大正二年
山野末松氏に嫁し直に良人と共に渡米し
日本美術雑貨商を營む。
旁々紐育市ワナメーカ・ビユテー・スクールに學び
卒業後紐育知名の美容院、ロビンソン・ビユーテー・パーラを初め
ホテル・バンダビルド美容院並に
ジョーンス・ヘヤスペンヤリスト等に勤務して技能を練磨し、
後ち白人と協力してブロードウエの要衝に
スタンリース・ビユーテイシヨツプを經營し、
金髪美人の間に嘖々たる令聞を謳はる。
剰へ希臘人及び西班牙人に就き洋式化粧品の製法、
洋式鬘の製法等を修得し
大正十一年十月歸朝す。
歸來一番、
絶對無害染毛劑ネオスヘヤの輸入、
ネオス會社東洋總代理店等の經營に努め
翌十二月現地に歐風美容院を開設して
東都の斯業に一新紀元を劃すに至る。
大阪及神戸に各々支店或は營業所を併設し
今や全國的に斯業界を風靡せんとしつゝあり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1188629/465
昭和四年五月廿八日印刷
昭和四年六月七日 發行
定價 金 五拾圓
編輯兼發行者 世良淸一
       東京市四谷區鹽町一丁目十八番地
印刷者    石原愼之助
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
印刷所    東京毎夕新聞社副業部
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
發行所    東京毎夕新聞社
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
       振替口座 東京 六八八六番
(土開製本所製本)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1188629/715

【現代婦人職業案内】主婦之友 婦人家庭叢書 第一篇
 大正15年3月19日発行
主なる美容院及學校養成所は左の通りです。 p34/68
理容館    (遠藤波津子)  東京市京橋區竹川町一二
艶粧館    (島田つや)   東京市牛込區筑土八幡町九
巴里院    (マリールウヰズ)東京市麹町區有樂町一ノ三
小口美容研究所(小口みち子)  東京市京橋區南傳馬町一ノ六
丸の内美容院 (山野千枝子)  東京市丸の内ビルデング内
銀座美容院  (早見君子)   東京市京橋區銀座
女子整容大學 (山本久榮)   東京市麹町區紀尾井町六
資生堂美容術師養成部      東京市京橋區竹川町
日本女子美容術學校       東京府下中野町字中町六一〇
大阪美髪女學校美容術科     大阪市東區玉造東雲町
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019153/34
美髪師 p34-35/68
女髪結といって軽蔑したのは昔のことです。
今では婦人美髪師といはれて、
立派な婦人職業として新しい意義を持ってきました。
一流どころの髪結さんになると、
何十萬といはれる財産を拵へて豪儀なものです。
髪結と一緒に美容をやればなほ便利であります。
現在全国に二萬四千七百人餘の婦人美髪師がをります。
―略―
主なる結髪師と学校及養成所
桑島千代    (東京市京橋区宗十郎町一一)
伊賀とら    (東京市京橋区宗十郎町一〇)
關口文子    (東京市京橋区南金六町一四)
佐藤あき    (東京市下谷区数寄屋町一三)
日本女子美髪学校(東京市神田区表猿楽町二)
東京女子美髪学校(東京市牛込区水道町三二)
東京婦人美髪学校(東京市本郷順天堂横丁)
大場理髪館婦人部(東京市芝区櫻田本郷町一四)
大阪美髪女学校 (大阪市東区玉造東雲町)
http://dl.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019153/35

【神戸高等家政女学校裁縫学習精義. 和服之部】
昭和九年五月
神戸高等家政女學校長 旭 竟恩
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1437977/3
昭和九年拾月拾日印刷
昭和九年拾月廿日發行
定價 金 壹圓五拾錢
編輯兼發行人 旭 竟恩
       神戸市林田區片山町一丁目二七五
印刷人    松井梅藏
       神戸市神戸區花隈町三二二
       電話 元町 二〇八一番
印刷所    松井印刷所
       神戸市神戸區花隈町三二二
發行所    神戸高等家政女學校
       神戸市林田區池田上町
       電話 湊川 ⑤ 二六八七番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1437977/179

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


《神戸市の高等家政女學校を卒業》

[学校法人玉田学園 神戸常盤女子高等学校]
 沿革
1908年(明治41年)校祖玉田貞也 私立家政女学校創立
1915年(大正 4年) 私立神戸高等家政女学校と改称
1921年(大正10年)神戸家政女学校と改称
1929年(昭和 4年) 神戸高等家政女学校と改称 旭竟恩第二代校長就任
―略―
http://www.kobe-tokiwa.ed.jp/2gaiyou/message.html

[小口みち女史]【昭和之日本:御大典記念】昭和4年

[小口みち女史]【昭和之日本:御大典記念】昭和4年

【昭和之日本:御大典記念】昭和4年
[小口みち女史] p478/718
明治十六年二月八日生
東京市外千駄谷原宿二一四
電話 靑山 五九二九番
小口美容研究所主、
三越美容室主任

時代世粧の變遷は文化水準の向上に比例するは自明の理にして、
就中、震災を一轉期として美髪美容の變化せるは較著たる事實たり。
之れを目して保守論者は輕佻と罵り浮華と深慨すと雖も、
時代の推移は抗すべからざる處と云ふべく
從つて時代美を構成する美髪粉黛の創案
或は洋風化は時勢の趨く處に馴致すべきものたるは
是れ又當然の事たり。

我が小口女史は疾くより斯る時世
粧の變遷に着目し舊習を打破して
新時代の麗人に層一層の美を添加しつゝある
斯界の功勞者也。

兵庫縣加東郡社町の人
舊一柳藩士
寺本武氏の長女に生れ
後ち小口氏に嫁す。
是より先郷里に於て敎職に在ること六年
感ずる處あり
上京して遠藤波津女史に師事し
美髪及美容術の研究に没頭す
時に明治四十一年の交なり。

大正三年
獨立して芝公園十四號地に美容術研究所を創設し旁々
桃谷順天館經營の巴里院に聘せられて
其日本部主任となり
後ち現地に移住して化粧品製造を開始す。
越えて大正十三年十二月
京橋區南傳馬町に小口美容術研究所を經營し
信望益々萬都の婦女子に喧傳せらるゝに至る。

昭和二年四月
三越に美容室の開設せらるゝと同時に招聘せられて
其主任となり現在に至る。

趣味高雅
和歌を好くし專心斯道の向上に努めつゝあり。
倂かも女史の指導に依りて
斯界に覇をなす者
都下に充滿せり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1188629/478
昭和四年五月廿八日印刷
昭和四年六月七日 發行
定價 金 五拾圓
編輯兼發行者 世良淸一
       東京市四谷區鹽町一丁目十八番地
印刷者    石原愼之助
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
印刷所    東京毎夕新聞社副業部
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
發行所    東京毎夕新聞社
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
       振替口座 東京 六八八六番
(土開製本所製本)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1188629/715

【現代婦人職業案内】主婦之友 婦人家庭叢書 第一篇
 大正15年3月19日発行
主なる美容院及學校養成所は左の通りです。 p34/68
理容館    (遠藤波津子)  東京市京橋區竹川町一二
艶粧館    (島田つや)   東京市牛込區筑土八幡町九
巴里院    (マリールウヰズ)東京市麹町區有樂町一ノ三
小口美容研究所(小口みち子)  東京市京橋區南傳馬町一ノ六
丸の内美容院 (山野千枝子)  東京市丸の内ビルデング内
銀座美容院  (早見君子)   東京市京橋區銀座
女子整容大學 (山本久榮)   東京市麹町區紀尾井町六
資生堂美容術師養成部      東京市京橋區竹川町
日本女子美容術學校       東京府下中野町字中町六一〇
大阪美髪女學校美容術科     大阪市東區玉造東雲町
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019153/34
美髪師 p34-35/68
女髪結といって軽蔑したのは昔のことです。
今では婦人美髪師といはれて、
立派な婦人職業として新しい意義を持ってきました。
一流どころの髪結さんになると、
何十萬といはれる財産を拵へて豪儀なものです。
髪結と一緒に美容をやればなほ便利であります。
現在全国に二萬四千七百人餘の婦人美髪師がをります。
―略―
主なる結髪師と学校及養成所
桑島千代    (東京市京橋区宗十郎町一一)
伊賀とら    (東京市京橋区宗十郎町一〇)
關口文子    (東京市京橋区南金六町一四)
佐藤あき    (東京市下谷区数寄屋町一三)
日本女子美髪学校(東京市神田区表猿楽町二)
東京女子美髪学校(東京市牛込区水道町三二)
東京婦人美髪学校(東京市本郷順天堂横丁)
大場理髪館婦人部(東京市芝区櫻田本郷町一四)
大阪美髪女学校 (大阪市東区玉造東雲町)
http://dl.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019153/35

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[關口文子女史]【昭和之日本:御大典記念】昭和4年

[關口文子女史]【昭和之日本:御大典記念】昭和4年

【昭和之日本:御大典記念】昭和4年
[關口文子女史] p576/718
明治十五年二月十三日生
東京市京橋區出雲町一三
電話 銀座 四七二七番
美容術師
美容術は時代の生める彩花也。
婦人美の變遷に伴れて粉黛を異にするは自然の數にして、
近來、美容術の洋風化せるは
國民文化の國際化に反映する處と云ふべく、
その技巧の繊細を極め、
時代世粧の粹を發揮して
都下凡百の斯業者に卓然たる異彩を放つものを
關口文子女史となすべし。

女史は東京府の人
關口勝五郎氏の長女として
市外調布町に生れ、
六歳にして同町の永法寺(現在の大正寺)に入つて修養に努む。
十三歳の交
京橋區山城町の粕谷わか女史に師事して
專念斯術を練磨すること三年、
明治三十一年四月一日
京橋區八官町に獨立開業す。
次で同三十三年鑑札制度布かるゝや
第一回の一等鑑札を交附せらる。
是より先、
銀座或は築地の私塾に通學して專ら英語を修得し、
或は又生花術の稽古をなし
關月庵の雅號を授けらる。
同三十六年某氏に嫁し
病夫を助けて激勵し狀師たらしめんと努力せしも、
誠意通ぜず、遂に破鏡の嘆を見る。
茲に於て女史は奮然起つて獨立獨行の決心をなし
專ら美容術を以て終始せんとし、
京橋區南金六町に店舗を構へしが
震災直後三十間堀に移轉し
超へて昭和三年更に現地に移轉し盛大に事業を經營して
遂に今日の信用を博するを得たり。
家庭には嚴父勝五郎氏母堂とめ子健在にして
尚ほ弟妹二子ありて家庭頗る圓滿なり。
趣味は和歌を好くし佳什甚だ多し。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1188629/576
昭和四年五月廿八日印刷
昭和四年六月七日 發行
定價 金 五拾圓
編輯兼發行者 世良淸一
       東京市四谷區鹽町一丁目十八番地
印刷者    石原愼之助
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
印刷所    東京毎夕新聞社副業部
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
發行所    東京毎夕新聞社
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
       振替口座 東京 六八八六番
(土開製本所製本)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1188629/715

【現代婦人職業案内】主婦之友 婦人家庭叢書 第一篇
 大正15年3月19日発行
主なる美容院及學校養成所は左の通りです。 p34/68
理容館    (遠藤波津子)  東京市京橋區竹川町一二
艶粧館    (島田つや)   東京市牛込區筑土八幡町九
巴里院    (マリールウヰズ)東京市麹町區有樂町一ノ三
小口美容研究所(小口みち子)  東京市京橋區南傳馬町一ノ六
丸の内美容院 (山野千枝子)  東京市丸の内ビルデング内
銀座美容院  (早見君子)   東京市京橋區銀座
女子整容大學 (山本久榮)   東京市麹町區紀尾井町六
資生堂美容術師養成部      東京市京橋區竹川町
日本女子美容術學校       東京府下中野町字中町六一〇
大阪美髪女學校美容術科     大阪市東區玉造東雲町
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019153/34
美髪師 p34-35/68
女髪結といって軽蔑したのは昔のことです。
今では婦人美髪師といはれて、
立派な婦人職業として新しい意義を持ってきました。
一流どころの髪結さんになると、
何十萬といはれる財産を拵へて豪儀なものです。
髪結と一緒に美容をやればなほ便利であります。
現在全国に二萬四千七百人餘の婦人美髪師がをります。
―略―
主なる結髪師と学校及養成所
桑島千代    (東京市京橋区宗十郎町一一)
伊賀とら    (東京市京橋区宗十郎町一〇)
關口文子    (東京市京橋区南金六町一四)
佐藤あき    (東京市下谷区数寄屋町一三)
日本女子美髪学校(東京市神田区表猿楽町二)
東京女子美髪学校(東京市牛込区水道町三二)
東京婦人美髪学校(東京市本郷順天堂横丁)
大場理髪館婦人部(東京市芝区櫻田本郷町一四)
大阪美髪女学校 (大阪市東区玉造東雲町)
http://dl.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019153/35

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

[佐藤あき女史]【昭和之日本:御大典記念】昭和4年

[佐藤あき女史]【昭和之日本:御大典記念】昭和4年

【昭和之日本:御大典記念】昭和4年
[佐藤あき女史] p473/718
慶應三年十一月廿六日生
東京市下谷區數寄屋町一三
電話 下谷 一六〇二番
美髪美容師
東都婦人美髪界の元老たり名手たる
佐藤あさ女史が         ※佐藤あき女史
前半生に於ける苦闘史は、
今日成り上り者のハイカラ美容師などの
到底想像だに容さざる處にして
剛毅なる態度と不屈不撓の精神とは、
六尺男子も爲めに三舎を避くる處也。

女史は埼玉縣南埼玉郡川柳村字麥塚の名家
飯高秋次郎の三女に生る。
生家は代々名主を勤めし素封家たりしが、
女史は十九歳の時緣談に傔らずとなし
廿歳の時健氣にも獨立を志し家出して上京、
郷里出入の髪結お春女の妹を頼倚り
その千住の寓居に倚る、

間もなく自ら進んで髪結を志願し
池の端の渡邊つる女の内弟子となる。
勞苦惨澹を重ね、
只管師匠の命に服從すと雖も
師匠は顧客の受けよきを却て疎じ、
三年後には遂に放逐の憂目に遭遇す。

茲に於て女史は奮然と決心し愈々獨立開業せり。
次で郷里の隣村千疋村の人
佐藤宗治氏との緣談纏まれるを以て
茲に初めて家庭の人となる時に二十三歳也。

爾來、辛苦勉勵して家業に精勵せし爲め
非凡な技術漸く認められ遂には
岩崎家、前田侯家、溝口伯家、有馬伯家、岩倉公家
其他の名門の奥向に出入するに至り
聲名忽ち滿都に喧傳せらる。
爲めに財大に成り五十萬圓の資財を積むに至れり。

其の内廿萬圓を寄附して淺草神吉町に美髪研究所を設置し
後進の途を開き貢献する處頗る大也。

大正八年下谷婦人結髪業組合長に推され、
同十一年東京婦人結髪業組合聯合會々長に推戴せらる。
現に勇退して閑地にありと雖も隱然元老格たり。
一男三女あり。
熱心なる金光敎の信者也。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1188629/473
昭和四年五月廿八日印刷
昭和四年六月七日 發行
定價 金 五拾圓
編輯兼發行者 世良淸一
       東京市四谷區鹽町一丁目十八番地
印刷者    石原愼之助
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
印刷所    東京毎夕新聞社副業部
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
發行所    東京毎夕新聞社
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
       振替口座 東京 六八八六番
(土開製本所製本)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1188629/715

【現代婦人職業案内】主婦之友 婦人家庭叢書 第一篇
 大正15年3月19日発行
主なる美容院及學校養成所は左の通りです。 p34/68
理容館    (遠藤波津子)  東京市京橋區竹川町一二
艶粧館    (島田つや)   東京市牛込區筑土八幡町九
巴里院    (マリールウヰズ)東京市麹町區有樂町一ノ三
小口美容研究所(小口みち子)  東京市京橋區南傳馬町一ノ六
丸の内美容院 (山野千枝子)  東京市丸の内ビルデング内
銀座美容院  (早見君子)   東京市京橋區銀座
女子整容大學 (山本久榮)   東京市麹町區紀尾井町六
資生堂美容術師養成部      東京市京橋區竹川町
日本女子美容術學校       東京府下中野町字中町六一〇
大阪美髪女學校美容術科     大阪市東區玉造東雲町
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019153/34
美髪師 p34-35/68
女髪結といって軽蔑したのは昔のことです。
今では婦人美髪師といはれて、
立派な婦人職業として新しい意義を持ってきました。
一流どころの髪結さんになると、
何十萬といはれる財産を拵へて豪儀なものです。
髪結と一緒に美容をやればなほ便利であります。
現在全国に二萬四千七百人餘の婦人美髪師がをります。
―略―
主なる結髪師と学校及養成所
桑島千代    (東京市京橋区宗十郎町一一)
伊賀とら    (東京市京橋区宗十郎町一〇)
關口文子    (東京市京橋区南金六町一四)
佐藤あき    (東京市下谷区数寄屋町一三)
日本女子美髪学校(東京市神田区表猿楽町二)
東京女子美髪学校(東京市牛込区水道町三二)
東京婦人美髪学校(東京市本郷順天堂横丁)
大場理髪館婦人部(東京市芝区櫻田本郷町一四)
大阪美髪女学校 (大阪市東区玉造東雲町)
http://dl.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019153/35

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

[桑島千代氏]【昭和之日本:御大典記念】昭和4年

[桑島千代氏]【昭和之日本:御大典記念】昭和4年

【昭和之日本:御大典記念】昭和4年
[桑島千代氏] p593/718
明治十二年四月生
東京市京橋區宗十郎町一一
電話 銀座 七七一番
婦人美容術、京橋築地署管内組合長
今日苟くも流行の結髪を云爲する程の者にして、
新橋の桑島千代さんの隆々たる盛名を知らざるはなかるべし。
技術の洗練せられたること、
華客送迎待遇に懇切叮嚀なること、
剰へ華客の個性を尊重して、
其人々特有の美を發揮せしむる妙技に至つては、
都下に美容術師多しと雖も
眞に氏の右に出ずるものなし。
氏は淺草の人
先考桑島重兵衛の次女に生れ
十七歳の時
京橋區山城町の粕谷結髪家に弟子入りをなし
三年間熱心修行を重ね
廿一歳の時獨立して以來
今日まで三十年間一日の如く孜々として業務に精勵し、
時代の進歩に鑑みて
昭和三年八月洋髪美容一般の技術者を傭聘し、
從來の純日本風結髪と共に倂せて好評嘖々
華客常に市をなせり。
養女みつ子孃は
昭和三年本郷眞砂町の錦秋女學校を卒業し
目下斯業を專ら見習ひつゝあり。
氏は性格寛濶にして溫情溢るゝが如きものあり。
多くの弟子に尊敬せらる。
得意は勿論日本髪にして
新橋花柳界の紅裙連は何れも
氏の妙技に依つて嬋妍を磨き好評嘖々たり。
正に斯界の元老株にして
現に築地署管内の同業者組合長に推され
人望籍甚也。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1188629/593
昭和四年五月廿八日印刷
昭和四年六月七日 發行
定價 金 五拾圓
編輯兼發行者 世良淸一
       東京市四谷區鹽町一丁目十八番地
印刷者    石原愼之助
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
印刷所    東京毎夕新聞社副業部
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
發行所    東京毎夕新聞社
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
       振替口座 東京 六八八六番
(土開製本所製本)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1188629/715

【現代婦人職業案内】主婦之友 婦人家庭叢書 第一篇
 大正15年3月19日発行
主なる美容院及學校養成所は左の通りです。 p34/68
理容館    (遠藤波津子)  東京市京橋區竹川町一二
艶粧館    (島田つや)   東京市牛込區筑土八幡町九
巴里院    (マリールウヰズ)東京市麹町區有樂町一ノ三
小口美容研究所(小口みち子)  東京市京橋區南傳馬町一ノ六
丸の内美容院 (山野千枝子)  東京市丸の内ビルデング内
銀座美容院  (早見君子)   東京市京橋區銀座
女子整容大學 (山本久榮)   東京市麹町區紀尾井町六
資生堂美容術師養成部      東京市京橋區竹川町
日本女子美容術學校       東京府下中野町字中町六一〇
大阪美髪女學校美容術科     大阪市東區玉造東雲町
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019153/34
美髪師 p34-35/68
女髪結といって軽蔑したのは昔のことです。
今では婦人美髪師といはれて、
立派な婦人職業として新しい意義を持ってきました。
一流どころの髪結さんになると、
何十萬といはれる財産を拵へて豪儀なものです。
髪結と一緒に美容をやればなほ便利であります。
現在全国に二萬四千七百人餘の婦人美髪師がをります。
―略―
主なる結髪師と学校及養成所
桑島千代    (東京市京橋区宗十郎町一一)
伊賀とら    (東京市京橋区宗十郎町一〇)
關口文子    (東京市京橋区南金六町一四)
佐藤あき    (東京市下谷区数寄屋町一三)
日本女子美髪学校(東京市神田区表猿楽町二)
東京女子美髪学校(東京市牛込区水道町三二)
東京婦人美髪学校(東京市本郷順天堂横丁)
大場理髪館婦人部(東京市芝区櫻田本郷町一四)
大阪美髪女学校 (大阪市東区玉造東雲町)
http://dl.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019153/35

[錦秋女學校]
【錦秋高等女学校長秋間為子女史の足跡】昭和7年11月18日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1099076/1

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 


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