女髪結

《伊賀とら》女髪結の見た各地の婦人の風俗【近代婦人雑誌目次総覧 第9巻 (婦人世界)】1985.10

【近代婦人雑誌目次総覧 第9巻 (婦人世界)】1985.10
著者    近代女性文化史研究会 編
出版者   大空社
出版年月日 1985.10
 婦人の働き
 婦人世界 秋季增刊
女髪結の見た各地の婦人の風俗…伊賀とら子(九六)
p120【近代婦人雑誌目次総覧 第9巻 (婦人世界)】1985.10
〔画像〕p120【近代婦人雑誌目次総覧 第9巻 (婦人世界)】1985.10
https://dl.ndl.go.jp/pid/12092662/1/120
近代婦人雑誌目次総覧 Ⅱ期 第9巻
揃定価  六一、八〇〇円
(本体価格六〇、〇〇〇円)
一九八五年一〇月一六日 印刷
一九八五年一〇月二二日 発行
監修者 中嶌 邦
編集者 近代女性文化史 研究会
発行者 相川 仁童
発行社 株式会社 大空社
    〒115 東京都北区赤羽二ノ三六ノ一二
    電話 〇三(九〇二)二七三一
印 刷 平河工業社
製 本 東和製本
https://dl.ndl.go.jp/pid/12092662/1/264
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【ファッションドキュメンテーション (6)】1997-03
著者    ファッションドキュメンテーション研究会 編
出版者   神戸文化短期大学
出版年月日 1997-03
★女髪結の名人に結って貰った記:婦人記者
 婦人世界8(5)(1913)104-109
★女髪結の名人に結って貰った記(続):婦人記者
 婦人世界8(6)(1913)67-69
https://dl.ndl.go.jp/pid/2274728/1/43
★女髪結の見た各地の婦人の風俗:伊賀とら子
 婦人世界 8(12)(1913)96-99
https://dl.ndl.go.jp/pid/2274728/1/46
★髪結としての二十年:伊賀とら
 婦人界(東京社)(1917.12.1)62-64

ファッションドキュメンテーション No.6
    1997年3月31日
編集 ファッションドキュメンテーション研究会
編集責任 高橋晴子
発行 神戸文化短期大学
   〒673 明石市明南町2丁目1番50号
   tel 078-927-0771
   fax 078-927-0774
表紙デザイン 鈴木八朗
定価2,500円(本体2,427円)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2274728/1/55
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《伊賀とら》桑島千代・大沢たけ【東京一代女】邦枝完二 昭和25年(1950)

《伊賀とら》桑島千代・大沢たけ
【東京一代女】邦枝完二 昭和25年(1950)

【東京一代女】邦枝完二昭和25年(1950)
著者    邦枝完二 著
出版者   ジープ社
出版年月日 1950
p1【東京一代女】邦枝完二昭和25年(1950)
〔画像〕p1【東京一代女】邦枝完二昭和25年(1950)
  石の下に  p34-47/
https://dl.ndl.go.jp/pid/1642513/1/34
三十間堀の桑島千代、
南金六町の大沢たけ、
大阪から來た日吉町の伊賀とらと、
新橋の腕ッこきの髪結は、
島田、げいこ、つぶし、銀杏返し、
丸髷、桃割、唐人髷と、
それぞれの好みの髪を、
ちつとでも女ッぷりの佳くなるようにと、
腕に縒をかけて結い上げるのを、
自慢にしているのであるが、
一代前の、吉原から來た烏森のお夏が、
水髪が得意であつたごとく
お千代は鬢の取り方がいかにも巧く、
そろそろ秋風が吹きそめた旦那も、
お千代が、結い上げた鬢の色気を見て、
甘ッたるくしだれかゝれば、
あと一年は寿命が続くといわれるくらいの、
人に負けない特技を持つていた。

三人の梳手が、
朝から夕方まで立ッ放しで梳き続けても、
下地ッ子に早くから番をとらせておかないことには、
結つてもらいそこねるという大繫昌。
遠く柳橋や下谷からも、
景気のいゝのになると、
https://dl.ndl.go.jp/pid/1642513/1/35
俥で乗り着けるくらいであるから、
客溜りには、
いつも自分の番を待ついる芸者の、
五人や七人ないことはなかつた。

天野のオムライスや、
プランタンのホット・サンドヰツチが、
次々に配達されて、
聽いたり聽かせたりするのは、
座敷のうわさ、岡惚れののろけ、
芝居の話、着物の好み。
……岡惚れの話はしても、
そのくせ自分の旦那のことは、
これッぱかりも口にしないのが、
規則というのか、
習慣というのか、
一種の不文律になつているのも、
旦那大事の商売なればこそなのであろう。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1642513/1/36
東京一代女 定価二百八十円・送料四十円
昭和二十五年九月 二十日印刷
昭和二十五年九月二十八日発行
著 者 邦枝 完二
発行者 佐藤淸四郎
印刷所 同盟印刷株式会社
発行所 株式會社 ジープ社
    東京都中央區銀座西二ノ一
    電話京橋(56)四三四〇・四九四一・七三四〇
    振替口座東京一九五一〇九
https://dl.ndl.go.jp/pid/1642513/1/226
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《伊賀トラ》奈良県の美容界の先駆者田中直江さん【女性教養 12月(287)】昭和37年(1962)

《伊賀トラ》奈良県の美容界の先駆者田中直江さん
【女性教養 12月(287)】昭和37年(1962)


【女性教養 12月(287)】1962
出版者   日本女子社会教育会
出版年月日 1962-12
 奈良県の美容界の先駆者
   田中直江さん
 日本美容界の発展の歴史は、つねに、
その時代の政治と社会の動きを反映して、
大きな波のうねり、そのままに日本の女性史、
女性の解放史の一コマを演じてきた
役割の偉大さも興味ふかい。

 かえりみると、明治の日本髪、大正の洋髪
昭和のパーマネントと、
大きな変動の歩みのあとは、
日本の欧米文化吸収の嵐で
忽ち一変してしまった。

 美容界にも東京と大阪のポイントがあり、
互に交流し、刺激し、発展しあったものである。
 明治大正のころの大御所は東京の伊賀トラ女史。

 そこへ大正の初期、
アメリカがえりの山野千枝子女史が丸ビルで開業して、
華やかな洋髪、洋装時代をリードしての十年間、
コテによるウエーヴの新しい黄金時代を謳歌した。

 次に昭和のはじめ、
東京日本橋の旅館の娘がアメリカで結婚し、
ロサンゼルスを中心のアメリカ美容と、
はじめてのパーマネントウエーヴ(永久的の意味)を
日本へ持ち帰ったのが、初代のメイ牛山。
神田に開業し、思いきって銀座の表通りに
七丁目のメガネやの二階に進出したのが、
このハリウッド美容室。
髪に電気をかけるなんぞ怖いとか、
チリチリにやけて丸坊主になるとか、
たいへんな評判のうちに、
日本の美容界はアッというまに、
パーマ一色に圧倒されてしまった。

 勢いにのったハリウッド美容室は、
横浜、静岡、名古屋、大阪、神戸、福岡と
支店を進出させて怒濤のように日本制覇を夢みたが、
やがて牛山夫妻の離婚と
メイ女史の再渡米から再婚、死去。
日本も満州事変から支那事変のひろがりと
日米開戦から敗戦へ。

 戦後はコールドパーマの全盛で、
山野愛子女史の抬頭と
巨大な美容学校の経営の成功。
芸術的技法というか、
センスの名和好子女史、
古くから松坂屋で陣どってた
横浜生れの芝山みよか女史。
日本美容界草分けのひとりの
マリールヰズ女史の養女千葉益子女史。
重鎮の牛山喜久子女史。
女史美術出身の早見君子女史。
着つけでは日本一の腕を誇った
銀座うらの遠藤波津子女史。

 牛山喜久子さんは、
メイ牛山の夫君牛山清人氏の弟の吉二郎夫人。
目白女大中退で、そのころ歌舞伎座近くの
ハリウッド美容学校の卒業生。
ヒノエウマ生れで、きかぬ気の、
パリパリ活躍中のメイ牛山女史の
タフな生活ぶりをそば近く驚嘆してきた一人で、
今日の美容界で、
経歴といい、頭脳、実力ともに
やはり第一人者のカンロクである。

 メイ牛山女史の出現は、
日本の美容界に大きな旋風をまき起した。
当時の読売婦人記者小川好子女史
(現東芝リビングサークル)のバックアップで
新宿に出現したのがマヤ片岡女史。
三越では小口みち子女史のにらみもあり、
大場静子女史、
高山たけ女史など一流が競っていた。

 とにかく、日本の美容界が、
昔ふうの髪結いさんクラスから、
洋行がえりの女史スタイルにまで
向上して拡がりをみせた。

 もっと偉い人もあった。
 山本久栄女史。

 この人は東京の赤坂見附に
「美粧倶楽部」の看板をかかげ、
紀尾井町に美容学校を経営し、
京都に店をもってご大典のおりの
十二ヒトヱやオスベラカシの髪を扱い、
大阪の堺筋の本町に店をかまえて、
東京大阪を忙しく往復し、
いわゆる上流家庭にふかく根をおろした
目ざましい活躍と手腕は、
いまも尚語りぐさをにぎわしている。

 山本久栄女史は伊賀トラさんに学び、
「思いつき夫人」とよばれたほどの
あらゆる新企劃を発表し、
「マガレット」コート
其他のたくさんの作品もある。

 神戸のスズ細野女史もアメリカがえり。
この人に学んだのが名和好子女史。
神戸という異国趣味の町でみがかれたセンスは
香り高く今日の名和女史の名声にうなづかれる。

 大阪の梅本文子女史。
 今日でもミニヨン美容室をもち、
大阪の淀君のような存在。
裕福な有閑夫人が、
子供のない生活のあきたらなさからか、
美容院の開業。
藤原あきさんクラスの
気品たかい美貌の人であった。

   修業時代
 いまの奈良美容界の元老は
タナカ美粧園の田中直江女史。

 東京大阪のこういう美容界の起伏をバックにして
田中直江さんの今日までの歩みをたどってみる。

 直江さんは明治36年生れ。
奈良県山辺郡福住村山田の出身。
父は直次郎、母はテル。
生家は山ふかい農家であったが、
母のテルさんは髪結いもした。

 13才のとき、
奈良市のおはるさんの
門下生として住みこみ修業にスタート。
当時の奈良には三人の髪結いの名手がいて、
おつねさんが元林院の芸妓衆あいて、
おはなさんが町方衆、
おはるさんは芸妓と娼婦が
お客さんに多かった。

 そのころの流行とは、
キモノにしろ、髪形にしろ、
だんぜん芸者さん優勢時代で、
いわばいまの映画スターなみ。

 直江さんは5人姉弟のいちばん上。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2735308/1/16
   両親の教え
   独立から妹たち
   不屈な研究心
https://dl.ndl.go.jp/pid/2735308/1/17
   アメリカ旅行で
   明日の美容師
   信仰に活きる
https://dl.ndl.go.jp/pid/2735308/1/18
昭和三十七年十一月二十日印刷
昭和三十七年十二月 一日發行
    東京都港区芝公園十二号地
    日本女子会館
編集人 古川 八重
発行者 古川 八重
印刷者 松村  保
    東京都港区芝公園十二号地
    日本女子会館
発行所 財団法人 大日本女子社会教育会
    振替東京七四二〇〇番
    電話 芝(431)六八九二番 三七〇番
https://dl.ndl.go.jp/pid/2735308/1/26
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《新橋の名結髪師 伊賀トラ女史》中川トラ女史 佐世保市元町【諸道大観 長崎県版】昭和12年

《新橋の名結髪師 伊賀トラ女史》
中川トラ女史 佐世保市元町
【諸道大観 長崎県版】昭和12年

【諸道大観 長崎県版】昭和12年
出版者   諸道大観社
出版年月日 昭和12
  中川トラ女史  佐世保市元町
 美 容
女性の美くしさを發揮さすには
麗質に磨きをかけ
整容に技巧を加へて
更に一段の光りを添へなければならぬが、
况して職業人としては顧客の個性を見究め、
其の個性を生かして
理容の目的を達せねばならぬので、
徒に形式にのみ拘泥するを許さず、
故に外見は極めて容易な業のやうに思へるが、
事實は非常に苦心を要し
滿足に仕上げるには大きな困難が伴ふ、
其の困難を克服して
女性群の信用を博して居るのが
中川美容院である。

院主トラ女は
香川縣三豊郡觀音寺町三好藤太氏の二女で
明治五年十月九日出生、
少女時代を北松浦郡相浦町で送るうち
手先が器用で髪結ひが好きで
自分の髪は固より、
友達の髪を結ひ、
家族の髪結ひを
一手に引受けて自然に上手になり、
近所の甲乙の髪を結つてやつたりして
獨り樂しんで居るうちにメツメツと腕を上げ、
遂に勸められて髪結の看板を揚げ、
獨習で技術を練つて
鮮かな腕の冴えを現はして居たが、

(明治)三十七年の當時
軍港第一流の旅館油屋に番頭をして居た
中川德松氏と結婚し、
夫君の勤務關係から
(明治)三十八年佐世保市に移り
現所に開業したのである。
日露戰役を境として佐世保は市勢の發展目覺ましく、
東京はじめ各地よりの來住者多く、
時勢の進運につれて
女性の好尚にも變化を來したので
此の環境の中に在つて
自己流で押し通すことは不利益だと考へ、

(明治)四十五年上京して
新橋の名結髪師伊賀トラ女史について修業し、
歸來伊賀流の結髮で好評を得たが、

女史の旺盛な研究心は年と共に益々度を加へ、
爾來昭和八年までに
前後十四回上京して研究を重ね、
又滯京中銀座の理容館遠藤はつ子女史について、
美顔術、着付等を修業し、
結髪理顔等美容に關する新
流行新傾向を研究して剰す所なく、

既に齡は還曆を過ぎたが、
燃ゆるが如き研究心が
新しいものを求めて
止まぬ努力は精神は
何時までも若さを失はず、

長女德子女史も母の指導を受ける外
遠藤女史について修業をかさね、
佐世保新舊兩檢番の意氣向きをはじめ
全市に院名を弘め、
上流家庭の結婚着付けに手腕を讃へられて居る。

既に養成した門生は十名に上り、
久留米、大村、武雄より來りて敎を請ふ者さへあり、

毎年勅題始め新流行は
其都度遠藤・伊賀兩師より
書面指導の聯絡があり、
同業者間に重きをなして
組合長も四期重任して居り。

往年遠藤女史が震災に遭ひ九死に一生を得た時、
衣類並に附屬品を取揃へて急送し
師の難を救ふた隱れた美行があり、
業界の德望を集めて居る。

夫君は明治六年三月三日福山市草戸町生れ、
明治四十年來町内組長を勤め、
妻女の關係から佐世保の髪結組合の事務を擔當し、
警察關係の交渉其の他會務を取扱つて居る。
p29【諸道大観 長崎県版】昭和12年
〔画像〕p29【諸道大観 長崎県版】昭和12年
   宅島モリ女史 長崎市東小島町
 結 髪
   溝田チク女史 長崎市西中町
 結 髪
昭和十一年十二月二十九日印刷
昭和十二年 一月  五日發行 非賣品
編輯兼發行人 荒木 武雄
       長崎市西琴平町二十五番地
印刷人    中川 俊二
       長崎市外浦町七番地
印刷所    中川印刷所
       長崎市外浦町七番地
發行所    諸道大觀社
       長崎市西琴平町二十五番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《伊賀トラ》日本髪の美【生活と趣味 2(秋の巻)(4)】昭和10年(1935)

《伊賀トラ》日本髪の美
【生活と趣味 2(秋の巻)(4)】昭和10年(1935)

【生活と趣味 2(秋の巻)(4)】1935
出版者   生活と趣味之会
出版年月日 1935-09
p6【生活と趣味 2(秋の巻)(4)】1935
〔画像〕p6【生活と趣味 2(秋の巻)(4)】1935
https://dl.ndl.go.jp/pid/1481809/1/6

   日本髪の美
 花嫁の美しさ初々(ういうい)しさは、
文金高島田のお振袖姿に
しくものはありません。
如何に洋装全盛になつても、
結婚式には日本髪と、
誰にも考へられてゐます。
 花笄や簪(かんざし)をさし、
角かくしをつける花嫁のお島田は、
周圍をぐつと大ぶりにしたのが、
華やかなお振袖の模樣ともよく調和いたします。
さればこそ
花嫁の結髪に慣れた人の手に結ひ上げられなくては……
 1・2は美しく装(よそほ)はれた花嫁姿で、
大きい前髪と鬢(びん)、長い髱(たぼ)も、
この装(よそほ)ひには丁度ふさはしいのです。
 このお寫眞は、
京都の名家 内貴家より輿入れされた
淺見家若奥樣の
御結婚當時の記念撮影です。
  京都 伊賀トラ
p25-1【生活と趣味 2(秋の巻)(4)】1935
〔画像〕p25-1【生活と趣味 2(秋の巻)(4)】1935

     日本髪の美
(右頁) 1 2 京都 伊賀トラ
(左頁) 3   高山美容院 高山たけ子
     4 5 理容師   木村 すゑ
p25-2【生活と趣味 2(秋の巻)(4)】1935
〔画像〕p25-1【生活と趣味 2(秋の巻)(4)】1935
https://dl.ndl.go.jp/pid/1481809/1/25
昭和十年九月 二十日印刷納本
昭和十年九月二十四日發  行
 (第二巻・第四號秋の巻)
東京市京橋區銀座八丁目二番地
出雲ビル二二號
編輯兼發行兼印刷人 太田 菊子
東京市牛込區市谷加賀町一ノ一二
印刷所 大日本印刷株式會社 市谷工場
東京市京橋區銀座八丁目二番地
出雲ビル二二號
發行所 生活と趣味之會 (禁轉載)
    電 話  銀座三八六八番
    振替口座東京七一八二九番
https://dl.ndl.go.jp/pid/1481809/1/95
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《伊賀とら・伊賀虎》新橋芸妓相手の名人髪結い[昭和を彩った藝道の花々]【経済往来 38(8)】昭和61年

《伊賀とら・伊賀虎》
新橋芸妓相手の名人髪結い
[昭和を彩った藝道の花々]
【経済往来 38(8)】昭和61年


【経済往来 38(8)】昭和61年(1986)
著者    経済往来社 [編]
出版者   経済往来社
出版年月日 1986-08
 老記者の置土産     p116-125/128
昭和を通じての人物談義(第十二回)
 昭和を彩った藝道の花々
  ―将棋・相撲・浪曲・落語・演劇界の巨人たち
      大草 実
      萱原宏一
   司会 下村亮一
 天下無敵の木村名人と双葉山
  附り・「芸阿呆」の升田幸三
〔写真〕関根十三世名人(右)と
    実力名人第一号の木村名人。
    中央は立会人の金易二郎八段。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1411732/1/116

  談話者紹介
大草 実 明治35年宮崎生れ。
     大正14年文藝春秋社に入社。
     「文藝春秋」初期の編集を事実上統括する。
     昭和12年菊池寛と意見を異にして退社。
     現在、詩人嵯峨信之として
     「詩学社」を主宰す。
     著書多し。
萱原宏一 明治38年生れ。
     早大卒後講談社に入社。
     「講談倶楽部」「キング」編集長を経て
     取締役編集局長。
     文化放送、フジテレビの常務取締役等を歴任し、
     現在は文筆に専念。
     「私の大衆文壇史」「八方破れ野球放談」等
     著書数種。
下村亮一 明治43年京都府生れ。
     昭和7年日本評論社に入社。
     「経済往来」「日本評論」編集長。
     報知新聞社論説部員等を経て、
     昭和26年経済往来社社長となり、
     現在は会長主幹。
     「晩年の露伴」「雑誌記者50年」等著書あり。
〔写真〕財界将棋の雄、時計王服部金太郎
https://dl.ndl.go.jp/pid/1411732/1/117

 奇巧「煙り詰め」の話
  附り・「待った八段」と天皇の駒
〔写真〕森の石松で鳴らした広沢虎造と愛児
https://dl.ndl.go.jp/pid/1411732/1/118

〔写真〕三船久蔵十段(右)の押込の型
https://dl.ndl.go.jp/pid/1411732/1/119

  浪曲師と落語家種々相
   附り・桂米朝のこと
〔写真〕四代目柳家小さん夫妻
https://dl.ndl.go.jp/pid/1411732/1/120

〔写真〕榎本健一(エノケン)父子
https://dl.ndl.go.jp/pid/1411732/1/121

  古川ロッパとエノケン談義
   附り・沢田正二郎余話
〔写真〕気取ったポーズの古川緑波
https://dl.ndl.go.jp/pid/1411732/1/122

  新橋七人組と松蔦・寅右衛門
   附り・竹本綾之助色を惜しむこと
〔写真〕晩年の女義の女王竹本綾之助(左)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1411732/1/123

大草 君は新橋の七人組は知らんだろう。
   その中で洗い髪のお妻というのが
   一番有名なんだ。
   こう長い髪を洗い髪にして。
萱原 花の家のお妻は明治二十七年に
   落籍(ひか)されているんだよ。
   話古いよ。
   お囲(かこ)い者でいる時に、
   市村家橘(十五代羽左衛門)と
   浮気の現場を押さえられて、
   一騒動起しますな。
   身体がうずいて血が騒ぐ女だったってね。
   それは知ってるけど、
   あの頃もう七人組がおったのかい?
下村 七人組はもっと後じゃないかい。
大草 あとのは後の七人組だろう。
萱原 東おどりで名を売ったまり千代なんか、
   七人組と違うの?
大草 双葉山全盛の頃、七人が結束して、
   お互いに、双葉には手を出さんと約束したんだ。
下村 手を出さんっていう、
   ダルマ同盟の話は聞いているよ。
大草 さすがのあんたでも、
   伊賀虎という髪結いさんの話はしらんだろう。
萱原 いや、知りませんな。(笑)
大草 伊賀虎という女の髪結いさんで、
   新橋芸妓相手の名人髪結いだ。
   なんで僕が知ってるかというと、
   前に話した僕の親父の後援者だった、
   秋田毅の細君が、
   江戸家の悦子といって、
   新橋でお妻なんかの朋輩で、
   伊賀虎のお得意だったんだよ。
下村 ああそうか。
   江戸家の出なら大したもんだ。
   御承知の通り、
   新橋芸妓は二つあって、
   新橋南地といった烏森と、
   煉瓦地新橋だ。
   江戸家と三升家は煉瓦地の二大
〔写真〕歌沢寅右衛門(昭和10年頃)
p124【経済往来 38(8)】昭和61年
〔画像〕p124【経済往来 38(8)】昭和61年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1411732/1/124

   名門で、
   なかんずく江戸家は組合長で偉いんだよ。
萱原 下村君、御蘊蓄ですな。(笑)
下村 なあに青蛙房本の
   「女芸者の時代」に書いてあるよ。
   両派が張合って、
   この二派は表の入口で判然としていたそうだ。
   ついでにもう一口御蘊蓄を御披露すると、
   江戸家派は入口に御神燈の提灯を下げていたが、
   三升家派は軒に石油ランプをつけていたんだ。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1411732/1/125
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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豐竹呂昇一座【中京花の栞】大正1年

豐竹呂昇一座【中京花の栞】大正1年

【中京花の栞】大正1年
出版者   中京花の栞社
出版年月日 大正1

豐竹呂昇一座  p34/99
(上段)左より
 喜昇  東廣  呂昇
(下段)左より
 房勝  雛駒  右昇
p34【中京花の栞】大正1年
〔画像〕p34【中京花の栞】大正1年
大正元年十二月二十五日印刷
大正元年十二月二十八日發行 定價金貳圓
發行兼編輯人 石崎 義雄
       名古屋市仲之町二丁目十一番地
寫眞製版所  堀内製版所
       名古屋市中區南大津町二丁目
印刷所    秀文社
       名古屋市中區南呉服町二丁目
       電話四〇九〇番 四六〇九番
發行所    中京花の栞社
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《伊賀とら・伊賀おとら》新橋にいて後祇園に移った当時知られた結髪の名手【吉井勇全集 第8巻】昭和39年(1964)

《伊賀とら・伊賀おとら》
新橋にいて後 祇園に移った
当時知られた結髪の名手
【吉井勇全集 第8巻】昭和39年(1964)

【吉井勇全集 第8巻 (随筆,紀行,雑纂,年譜)】昭和39年(1964)
著者    木俣修 編集並に解説
出版者   番町書房
出版年月日 1964
   磯田多佳女
    ―略―
「新小説」の明治四十三年七月号には、
「代表的婦人」として、
豊竹呂昇、富田屋八千代、上村松園、
伊賀おとら、鳩山春子、日向きむ子、
江木栄子、福田英子、平塚明子、
榊原蕉園、平岡しづ、立花屋橋之助とともに
その略歴と談話筆記が載せられているから、
その当時から教坊の才媛としての令名は、
かなり広く聞こえていたのだろう。

ここに挙げた「代表的婦人」の中で、
呂昇や八千代や松園は今でもよく分つているだろうが、
もう何ものだか分らなくなつていると思われる女性に、
二、三解説を加えて置く。

伊賀おとらは新橋にいて後
祇園に移った当時知られた結髪の名手、

日向きむ子は日向輝武という代議士の夫人で
美貌で知られた女性、

平岡しづは新橋の旗亭花月の女将で洋行したり
何か尖端を往つた婦人、
その他は別に註を加える必要はあるまい。
p78【吉井勇全集 第8巻】
〔画像〕p78【吉井勇全集 第8巻】
https://dl.ndl.go.jp/pid/1667280/1/78
吉井勇全集 第八巻 随筆 紀行 雑纂 年譜
昭和三十九年五月二十日発行
  定価一、六〇〇円
著 者 吉井  勇
発行者 大島 秀一
    東京都千代田区二番町二
発行所 番町書房
    東京都千代田区二番町二
    電話 東京(二六二)六六五八
    振替 東京一五八四四
印 刷 大日本印刷株式会社
製 本 株式会社 昇栄社
https://dl.ndl.go.jp/pid/1667280/1/292
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《伊賀とら・伊賀おとら》化粧問答【女子文壇 8(2)(111);2月號】明治45年(1912)

《伊賀とら・伊賀おとら》化粧問答
【女子文壇 8(2)(111);2月號】明治45年(1912)

【女子文壇 8(2)(111);2月號】明治45年(1912)
出版者   女子文壇社
出版年月日 1912-02
  化粧問答
 化粧研究會 婦人修容會
    顧問 藤波芙蓉
https://dl.ndl.go.jp/pid/11186271/1/69
問 (一)日に焦けぬ方法
  (二)顔にシワの見えぬ化粧の仕方。
  (三)生際を濃くする方法
  (四)目下東都で流行する若い女の髪の名と
     其結方を御敎示願ひます(田舎娘)
答 (一)乃至(三)
     拙著「新式化粧法」(博文館發行)及び
     「合せ鏡」(實業之日本社發行)の中に
     精しく述べて置きましたから
     それを御一覽願ひます、
     こゝでは申上げきれません。
  (四)これは
     《關口おぶん》さんなり
     《伊賀おとら》さんなりに
     御聞き下さつた方が通當でせう。
p70【女子文壇 8(2)(111);2月號】明治45年(1912)
〔画像〕p70【女子文壇 8(2)(111);2月號】明治45年(1912)
https://dl.ndl.go.jp/pid/11186271/1/70
明治四十五年一月二十五日印刷納本
明治四十五年二月  一日第八年第二號
編輯兼發行人 野口竹次郎
印 刷 人  松本  魁
印 刷 所  東京國文社
發 行 所  女子文壇社
       東京市京橋區大鋸町十、十一番地
       〒電話京橋六〇七番
       振替東京壹七貳九番
特約販賣   東京堂、北隆館、上田屋、至誠堂
       東海堂、良明堂、大阪盛文館 外
https://dl.ndl.go.jp/pid/11186271/1/106
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《伊賀とら・お寅さん》明治44年5月23日【照葉懺悔】昭和3年

《伊賀とら・お寅さん》明治44年5月23日【照葉懺悔】昭和3年

【照葉懺悔】昭和3年
著者    高岡辰子 著
出版者   騒人社書局
出版年月日 昭和3
 p3【照葉懺悔】昭和3年
〔画像〕p3【照葉懺悔】昭和3年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1175844/1/3
    金春日記
   まへがき(新橋へ出るまで……)
 私が十六の年、大阪に居るのがいやになつて、
新橋の新叶家の淸香さんを賴つて
初めて東京の土地を踏んだ當時、
覺束ない筆で(今考へますと、感想文のつもりで)
幼稚な文を綴つておきましたのが、
不思議にも現在私の手元に殘つてをります。
 あの當時のものは何一つ寫眞一枚すら
殘つてをりませんのに、
書いたものが、けふまで、
私から離れずに居たのは、
自分でも理由がわかりません。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1175844/1/8
(明治44年)五月廿三日
https://dl.ndl.go.jp/pid/1175844/1/13
『遠慮なさらないで、たくさんお上んなさい……
 随分小食ですのね……。』
 おかつちやんは、お給仕しながらさういつた。
 私は、たゞ『おゝきに おゝきに』といつて、
おじぎばかりしてゐた。
 姉さんが、にこにこ笑つて
裏二階の方からおりてきた。
『お早うさん……。』といつて私は丁寧におじぎをした。
『けふはね……、一度唐人髷に結つて來てごらん……
 都合で今夜御挨拶に連れて行かうかと、
 思つて居るからね……
 おけいこは休んでいゝから髪を結つといで、
 おかつお前、このこを、
 お寅さんとこへ連れて行つて、
 ふつくらとした、
 唐人髷に結つて下さいつて、
 一緒について行つて、
 よく賴んでおくれ。』
 姉さんはかういひながら、
私の髪の毛を、じつと眺めたゐた。
『生際がいゝから、日本髪の方がにあふだらうよ……。』
 姉さんの眼は、私の顔中見てゐる。
 おかつちやんに連れられて、お寅さんとこへ行つた。
 お寅さんの家は、見番の直前だつた。
きたない家中に、大勢のすき手さんが、
せつせつと、藝者や、おしやくの髪に、
すき櫛をかけてゐた。
 お寅さんは、よう、こえた男のやうな聲の人だつた。
私が大阪言葉でものをいふと、
お寅さんも上方なまりの口調で答へてくれた。
私は、何よりも嬉しく、懐しく思うた。
 私の番が來たので、大きな鏡の前にすわると、
お寅さんは、しみじみと、
鏡の中に映つた私の顔を眺めて、
『えゝ顔してはるな……、
 お披露目しなはつたら、
 えらい人氣出まつせ……
 淸香姉さん、
 よろこんではりますやろ……。』
 お寅さんが、あんまり、づけづけいふので私は、
何んとも返事のしようがなかつた。
 初い初いしい唐人髷に結つてもらうて、
私は、喜んで家へ歸つた。
が直いやな事が頭に浮かんできた。
 今夜、姉さんに連れられて、
御挨拶に行かねばならぬ……、
どんなお客のところへ連れて行かれるのか、
いやなことや……、
鏡臺の前で。
  午後二時半
p14【照葉懺悔】昭和3年
〔画像〕p14【照葉懺悔】昭和3年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1175844/1/14
   照葉と名乘つてから
 金春日記に書いてあります通り、
私は明治四十四年六月十五日から、
向ふ五ケ年の年期で、
新橋の新叶家の淸香さんに、
三千圓の身の代金で抱へられる事になつたのです。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1175844/1/17
(明治44年)七月二日
 晴—
 七時半起床、
眠たい目をこすりながら髪を結ひに、
お寅さんとこへ駈込む。
髪が結へて、家へ歸ると、お風呂が沸いてゐる。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1175844/1/18
 無事にお披露目も濟んだし、
今夜はゆつくり寝て、
明日十一時頃に起きて髪結ひに行かう―。
  夜二時半。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1175844/1/20
昭和三年二月二十八日印刷 照葉懺悔
昭和三年三月 三 日發行 (定價金壹圓八拾錢)
著 者 高岡 辰子
發行者 村松 義一
    東京市神田區材木町二番地
印刷者 野口常太郎
    東京市神田區三崎町三丁目五十六番地
印刷所 友文社印刷所
    東京市神田區三崎町三丁目五十六番地
發行所 騒人社書局
    東京市神田區材木町二番地
    電話 浪花二〇七五番
    振替東京二六〇〇八番
https://dl.ndl.go.jp/pid/1175844/1/202
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[高岡 智照](たかおか ちしょう)
(1896年(明治29年)4月22日 – 
1994年(平成6年)10月22日)は、
東京・新橋 (花街)の人気芸妓から、
のちに出家して京都の祇王寺を再興した尼僧。
照葉時代(東京)
この指つめ事件(1911年)がスキャンダルになり、
「明治44年」大阪に居づらくなったため上京。
新橋芸妓の清香
(後藤猛太郎伯爵の愛人で
 向島に別荘「香浮園」を持っていた)が
3000円の借金を肩代わりして引き取った[24]。
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