女髪結

東京新橋桑島千代髪結場⇒東京新橋伊賀とら髪結場【美容の歴史散歩 (美容文庫 ; 46)】1984

【美容の歴史散歩 (美容文庫 ; 46)】1984
著者    小出新次郎 著
出版者   女性モード社
出版年月日 1984.4
p1【美容の歴史散歩 (美容文庫 ; 46)】1984
〔画像〕p1【美容の歴史散歩 (美容文庫 ; 46)】1984
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168920/1/1
近代髪結場の光景
(東京新橋桑島千代髪結場)⇒
(東京新橋伊賀とら髪結場)
※下記、元画像記載。
p62【美容の歴史散歩 (美容文庫 ; 46)】1984
〔画像〕p62【美容の歴史散歩 (美容文庫 ; 46)】1984
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168920/1/62
美容文庫 46  美容の歴史散歩
昭和59年4月10日 初版発行
定価2900円
著 者 小出新次郎
発行者 今成  弘
印刷所 明和印刷株式会社
    二葉印刷株式会社
製本所 和光堂製本所
発行所 株式会社 女性モード社
    東京都新宿区下落合3の15の27
    振替口座/71540
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168920/1/129
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2022年06月05日08:15
《伊賀とら》PDF[東京一流 新橋 伊賀とら 桑島千代
 髪結場の光景]絵葉書
10-1東京一流 新橋 伊賀とら 髪結場の光景
 10-1東京一流 新橋 伊賀とら 髪結場の光景

11-1東京一流 新橋 桑島千代 髪結場の光景
 11-1東京一流 新橋 桑島千代 髪結場の光景
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東京の有名な「髪結い」新橋の伊賀とら、下谷の佐藤あき、柳島の桑島千代・高木きく(美髪学会設立)【髪と女優】伊奈もと 著1961

【髪と女優】伊奈もと 著1961
著者    伊奈もと 著
出版者   日本週報社
出版年月日 1961
p3【髪と女優】伊奈もと 著1961
〔画像〕p3【髪と女優】伊奈もと 著1961
https://dl.ndl.go.jp/pid/2493201/1/3

   櫛を片手の私の半生
   (自叙伝をふくめて)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2493201/1/9

生まれは宮城県栗原郡若柳町で、
弟が一人の姉弟二人、
元来山けの多い父は世間によくある
相場や事業の失敗やらで
家庭は不和となり、
母と私を残して弟を連れ、
北海道で一旗挙げると言って生き別れ、
母と私は片田舎で細々と暮らしているうちに
ともかく小学校は終えました。

明治から大正にかけて、
東京の有名な「髪結い」には、
新橋の伊賀とら、
下谷の佐藤あき、
柳島の桑島千代、
などという人がいて、
いずれも花柳界をバックにしていましたが、
これに対して山の手を地盤としたのに
高木きく(あとに美髪学会設立)が
小石川伝通院にいて、
いずれも隆盛をきわめておりました。

いなかの小学校を出たばかりの私は、
なんとか東京に出、
将来名高い髪結いになりたいものと、
母を説得して一人東京に出てまいりました。
そして高木きくの門をたたき、
ようやく入門がかなったのでした。

田舎娘のこととて言葉はむろん、
櫛一つ使い方も満足にできず、
無我夢中の日が流れました。
厳しい徒弟生活は姉弟子に気がねし、
師匠の肩も人よりもよけいに叩き、
冬の日など、
赤ぎれや霜やけに悩みながら
血の出る思いで修業に修業を重ね、
歯を食いしばって技術の錬磨に明け暮れました。

たかが小学校程度の教育、
これではいけないと、
当時はやった通信教授の本に齧りついて
少しでも仕事のかたわら学問を覚えたいと、
石油ランプは使えぬため、
豆ランプの下でせっせと勉強もしました。
師匠のあとに従って大きなお邸へ髪結いに回り、
いまでも忘れませんのが、
海軍大将斎藤実さんのお嬢さまの髪の「下すき」、
これが私の外へ出て仕事をした初めてのものです。
p11【髪と女優】伊奈もと 著1961
〔画像〕p11【髪と女優】伊奈もと 著1961
https://dl.ndl.go.jp/pid/2493201/1/11
昭和36年1月5日 印刷
昭和36年1月7日 発行 二八〇円
著 者 伊那もと
発行人 湯川洋蔵
印刷人 松村 保
発行所 日本週報社
    東京都千代田区代官町一
    振替口座・東京九九〇六八
印 刷・明和印刷
製 本・江口製本
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新橋の桑島千代、關口ぶん、伊賀とら、女髪結の繁昌、金庫のかゞやき【水の流れと】大正5年

【水の流れと】大正5年
著者    小野賢一郎 著
出版者   実業の世界社
出版年月日 大正5
p3【水の流れと】大正5年
〔画像〕p3【水の流れと】大正5年

   二、くろかみ
  蚊帳くゞる女は髪に罪深し  太祇
新橋の照葉が大阪の八千代の妹として
南地から出る時には
すべて京好みで京都から髪結ひも呼寄せた

東京はよし町の喜久子が
見習ひ先の京都から歸つて出る時にも
髪結ひを伴れて來た。

新橋の桑島千代、關口ぶん、伊賀とら、
女髪結の繁昌、金庫のかゞやき――
實(げ)に罪深き女よ、
女は髪にまで罪業はあるなれ。

火事の夜、髪の毛が燒けるとて、
姉さんかぶりをして鼻歌うたひ乍ら、
火事を見物してゐた女も見たが
髪の結ひやうが氣に入らぬとて
下谷から日本橋、
日本橋でも駄目の柳橋と、
一日に二回も三回も
車で飛び廻つた女もあつたが――
太祇はうまいことを云ふ。
『水の流れと』奥付
『定價金六十五錢』
大正五年十一月二十五日印刷
大正五年十一月二十八日發行
著 者 小野賢一郎
    東京市麴町區有樂町一丁目四番地
發行者 武井 文夫
    東京市京橋區弓町十三番地
印刷者 武井 万二
    東京市京橋區弓町十三番地
印刷所 千代田印刷株式會社
發行所 實業之世界社
    東京麴町區有樂町一の四
    電話四五一五(營業用)
    本局四五一六(編輯用)
    振替口座東京三四三三番
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《伊賀とら》日本髪を結ったら日本一の名人:伊賀家さだ(鈴木ハナ)【ひとすじの心】和田芳恵 著1979

【ひとすじの心】昭和54年(1979)
著者    和田芳恵 著
出版者   毎日新聞社
出版年月日 1979.1
p3【ひとすじの心】昭和54年(1979)
〔画像〕p3【ひとすじの心】昭和54年(1979)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12567196/1/3
  髪結いの名人 伊賀家さだ
https://dl.ndl.go.jp/pid/12567196/1/46

鈴木ハナ(伊賀家さだ)は、
明治三十八年(1905)に静岡の在で生まれた。
父は菓子職人であったから、
店から店と渡り歩いて、
いつも、独り旅を続けていた。
ハナはひとり娘だが、
両親がかわいがり、
娘のために安住の地をもとめて、
沼津へ店を持つことになった。

しかし、大きなことをするには、
東京へ出ることだと、
ハナが小学校へはいるころ、
下谷の池端へ職場をみつけて、一家は上京した。
ハナが池端小学校を出たのは、
数えの十四歳の春である。
ハナの父は、
娘をりっぱな髪結いにしようと思った。

この頃、新橋でいちばん名を売っていた髪結いは、
伊賀とらと桑島千代、
それに大沢たけの三人であったが、
なかでも、伊賀とらは、東京で、
いちばんの名人といわれた人である。

この頃、弟子はみな住み込みであったが、
伊賀とらは仲々ハナを弟子にするといわず、
そのため、幾度も通って、
やっと、ゆるされたそうである。

朝の五時からハナはたたきおこされ、
飯たきや拭き掃除から走り使いと夜遅くまで、
ほとんど休む暇もなかったが、
一週間のお目見えも無事につとめて、
やっと十年間の年期奉公をつとめる
内弟子になることができた。
たった一週間のあいだに、
仕立ておろしのきものの膝が抜けていたそうだから、
およそ人使いのあらさがわかるというものである。

内弟子になった当初、
ハナが、薄い夜具にくるまっていると、
上野の夜桜や、広小路の夜店のことが思いだされてきて、
自然にねむい眼に涙がたまるのであった。
最初のうちは、幾度、家へ逃げ帰ろうとおもったか
ハナはわからないそうである。

「あの頃とは、だいぶ様子もかわりましたが、
 伊賀とらの店は、資生堂からはいった、
 今の見番の前あたりだったと思います。
 私の呼び名は[さだ]ということになり、
 下梳き、癖直し三年という女髪結いの道へはいったわけです。
 お師匠さんは、たしかに名人だと思いましたね。
 この人の手にかかると、
https://dl.ndl.go.jp/pid/12567196/1/47

 髪が生きてくるんですね。
 大昔の女は、髪を自然に垂らしていたにちがいありません。
 働くに不自由なところから、
 髪をつかねるようになったのでしょう。
 だから、昔の女は、ゆさゆさと自由に伸したままだったから、
 生きもののような魅力が髪にあったにちがいありません。
 それを結うということで、
 窮屈にしてしまうのですから、
 どうしても、髪の持つ生命感が失われるのです。
 これに生きた魅力をあたえることは、
 大へんな腕だと思いますね。
 秘伝は、自得するしかないものだと
 お師匠さんにいわれて、
 そのときは、不満に思ったのですが、
 やがて、こういう機微がわかってきたのは、
 自分の腕がすすんだときだったのです。
 今は、一年半ぐらい学校へ行き、
 インターンを経て、三年たらずで、
 先生とよばれる資格を持つわけですが、
 こんなことで通用するものなら
 あまいものだと思いますね。
 しかし、こんな考えが古いというんでしょうね。
 ここには、弟子が十三人おりましたが、
 私は二年めに、もう、下拵えの位置につきました。
 こんなわけで、十年の年期も一年早くなり、
 二十三歳で柳橋へ店を持つことができるようになりました。
 この頃、島田が八十銭ですから、
 割のいい商売と言えましょう。
 「日髪日化粧」という言葉もあったほどで、
 おしゃれも多かったですね。
 二十八歳で結婚しました。
 私たちの仲間の言葉で、
 結婚すれば元結がしまらなくなるといって、
 結婚をきらう風があります。
 つまりは、やはり職人独特な道楽家業なのでしょう。
 私は、佐藤得二さんの『女のいくさ』を読んで、
 なるほど、
 私たちの世界がよく描けているなあと思いましたが、
 あの女主人公のように、
 自分の主人に色っぽい勤めをしたら、
 とても身が持たないと思いましたね。
 ―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/12567196/1/48

 ―略―
 あっさり、店をやめてしまったのですよ」
伊賀家さださんは、盆栽の見える庭に向った廊下で、
自分が生きてきた道筋を私に語るのであった。

伊賀とらさんのところでの相弟子は、
ほとんど、まだ、
四十に手がとどかぬうちに死んでしまったそうだ。
その頃の内弟子は、食べものが悪く、
それに、髪結いはきつい仕事だから、
早死にしたのだろうと[さだ]はいうのであった。

[さだ]さんは、伊賀家を継いだが、
伊賀とらこそ、日本髪を結ったら、
日本一の名人だったというのである。

《とら》は、最初は、神戸にいて、髪結いをしていた。

寺の息子で、泉谷祐勝という妻子のある男と《とら》は、

はげしい恋をするようになり、
寺を棄てた泉谷祐勝は、いっしょに東京へ出てきて、
新橋に髪結いをはじめることになった。

※泉谷祐勝
生 明治15年(1882)3月
歿 昭和42年(1967)2月3日

※伊賀とら(伊賀治子)
生 明治13年(1880)前後
歿 昭和20年(1945)7月31日  65歳

これは、
泉谷祐勝が伊藤博文に
眼をかけられていたからだということだ。
泉谷祐勝は、こんなわけで、店の近くに住居を持ち、

《とら》は、仕事を終えると、
その日のあがりを入れた銭箱をさげて、
自宅に帰ってゆく。
内弟子たちは、銭勘定が終ったら、
夜が明けるだろうと陰口をたたいたものだそうだ。
そのように商売は繁昌した。

浅野侯とか、児玉将軍などの邸にも、
《とら》は髪結いに通っていたが、これも、
伊藤博文の息がかかっていたためらしい。

この頃は、まだ、珍らしかった
野球に泉谷祐勝が熱心で、
《とら》は、野球のボールや、
ミットを染めたはでな着物をきて、
内弟子たちを引き連れ、
応援にかよったりしていた。
誰の眼にも、仲のよい夫婦に見えた。

「『女のいくさ』のなかにも、
 内弟子と主人が出来るところがあったでしょう」
と、[さだ]さんが言ってから、
「どうしたことか、
 泉谷祐勝さんと内弟子のひとりが
 関係するようになったのです。
 お師匠さんは、気のつよい人でしたから、
 黙って見過すはずがありません。
 ついに主人を相手の訴訟沙汰になり、
 きっぱりと別れてしまったんです。
 ところが、このとき、
 出入りしていた刑事とお師匠さんができて、
 これは、多分に別れた泉谷祐勝さんに対する意地も
 あってのことでしょうが、
 再婚することになりました。
 お師匠さんに男の子がふたりできたのですが、
 長男は、どうしたことか、不良少年になってしまい、
 《とら》さんの心配の種になりました。
 また、出来のいい次男は、今度の戦争で、戦死。
 この苦しみがもとで、
 大本教の熱心な信者になってしまいました。
 こうなると、毎月の利益は、
 すべて綾部の本部へ差しあげるようになり、
 そのあげく、新橋の店を売り払って、
 綾部に引っ越してしまいました。
 出口の教祖の血縁を養子にむかえて、
 お師匠さんは、大本教でなかったら、
 夜も明けない始末です。
 それでも、私ども弟子たちは、
 お師匠さんさえしあわせならと思ってあきらめたのですが、
 もう、別の世界の人だから、
 自然に脚が遠のいてしまいました。
 ですから、伊賀家は私が継いだのですが、
https://dl.ndl.go.jp/pid/12567196/1/49

 これも私の代で終りということになります」
日本髪を結う人も、
やがてはなくなるだろうから、
腕で継ぐ伊賀家がつぶれてしまっても
しようのないことだと、
[さだ]さんは思うらしかった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12567196/1/50
 ―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/12567196/1/51
ひとすじの心  1800円
昭和五十四年一月二十日 印刷
昭和五十四年一月三十日 発行
著 者 和田芳恵
編集人 吉田掟二
発行人 高原富保
発行所 毎日新聞社
    〒100 東京都千代田区一ツ橋
    〒530 大阪市北区堂島
    〒802 北九州市小倉北区紺屋町
    〒450 名古屋市中村区名駅
印 刷 図書印刷
製 本 大口製本
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年09月27日 05:15
「伊賀とら」さんのお墓:天王平(綾部市)
[小野雄二]平成30年9月23日
伊賀いせ子[伊賀とら(伊賀治子の姉)]
生 明治8年(1875)前後
歿 昭和10年(1935)10月11日 60歳

伊賀とら(伊賀治子)
生 明治13年(1880)前後
歿 昭和20年(1945)7月31日  65歳

松村正子(伊賀とら 長女)[小野一雄・雄二の伯母]
生 大正3年(1914)1月20日
歿 昭和62年(1987)1月25日  74歳

伊賀光枝(伊賀とら 二女)[松村正子の妹]
生 大正4年(1915)前後
歿 昭和5年(1930)12月15日  15歳

伊賀義男(伊賀とら 長男)
生 大正8年(1919)前後
歿 昭和19年(1944)7月30日  25歳
【大本 松村家代々神霊】を基に作成
平成30年(2018)9月24日
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京都の美粧倶楽部の伊藤ツネさん 本黄楊の櫛【美容の歴史散歩 (美容文庫 ; 46)】1984

【美容の歴史散歩 (美容文庫 ; 46)】1984
著者    小出新次郎 著
出版者   女性モード社
出版年月日 1984.4
p1【美容の歴史散歩 (美容文庫 ; 46)】1984
〔画像〕p1【美容の歴史散歩 (美容文庫 ; 46)】1984
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168920/1/1
   本黄楊の櫛
日本髪の結い上げは黄楊櫛である。
和田さんは黄楊は薩摩のものがいちばんよい。
伊豆大島にもあるが質が劣るそうである。
なぜ薩摩黄楊がいいかというと、
折れにくいこと、
脂質を含んでいること、
葉先きが頭皮に当たっても傷つけないこと、
使うほどに油が浸み使い易くなることだそうだ。
ただ薩摩黄楊は高いんでねとこぼしておられた。

京都の美粧倶楽部の伊藤ツネさん(故人)から
長年使いこんだ黄楊櫛を数本寄贈して頂いた。
黄楊とはみえないようなべっ甲色をしている。
p110【美容の歴史散歩 (美容文庫 ; 46)】1984
〔画像〕p110【美容の歴史散歩 (美容文庫 ; 46)】1984
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168920/1/110
美容文庫 46  美容の歴史散歩
昭和59年4月10日 初版発行
定価2900円
著 者 小出新次郎
発行者 今成  弘
印刷所 明和印刷株式会社
    二葉印刷株式会社
製本所 和光堂製本所
発行所 株式会社 女性モード社
    東京都新宿区下落合3の15の27
    振替口座/71540
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上村松園「序の舞」京都で一番上手な髪結さん【青眉抄】美粧倶楽部のおつねさん【春花秋鳥】上村松篁

【春花秋鳥】1986
著者    上村松篁 著
出版者   日本経済新聞社
出版年月日 1986.6
p5【春花秋鳥】1986
〔画像〕p5【春花秋鳥】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12426307/1/5
母(上村松園)は古風な髪形を研究するのが趣味で、
その後も知り合いの美粧倶楽部のおつねさんと相談して、
妻にさまざまな日本髪を結ってもらっては写生していた。
高島田、丸まげ、桃割れなどをはじめ、
割しのぶ、おしどり、三つ輪など
いろいろな髪形を次々に試みた。

昭和十一年に母が描いた「序の舞」の時も、
妻のたね子が髪形のモデルを務めた。
母自身がその時のことを
随筆集「青眉抄」の中で語っている。 ※下記
p56【春花秋鳥】1986
〔画像〕p56【春花秋鳥】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12426307/1/56
春花秋鳥 ¥3,800.
著者 上村松篁
昭和六十一年六月二十四日一版一刷
発行者 前田哲司
図版印刷 便利堂
本文印刷 奥村印刷
用紙 神崎製紙
製本 関口製本
製函 加藤製函印刷
発行所 日本経済新聞社
東京都千代田区大手町一ノ九ノ五
電話 〇三(二七〇)〇二五一
振替 東京三ノ五五五
https://dl.ndl.go.jp/pid/12426307/1/142

【青眉抄】昭和18年
著者    上村松園 著
出版者   六合書院
出版年月日 昭和18
p3【青眉抄】昭和18年
〔画像〕p3【青眉抄】昭和18年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1068967/1/3
   序の舞
『序の舞』は昭和十一年度、
文部省美術展覽會に出品しました、
私の作品の中でも力作であります。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1068967/1/95
この繪は私のあとつぎである
松篁の妻のたね子や、
謡の先生のお嬢さんや、
女のお弟子さんたちをモデルに使ひましたが、
たね子を京都で一番上手な髪結さんのところへやつて
一番上品な文金高島田に結はせ、
着物も嫁入りのときの大振袖をきせ、
丸帶もちやんと結はせて
構圖をとつたのであります。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1068967/1/96
出版會承認い30614號
昭和十八年十月二十三日 初版印刷
昭和十八年十月二十八日 初版發行(五、〇〇〇部)
定價 停 金四圓
特別行爲税相當額廿錢
合計金四圓二十錢
靑眉抄 上村松園 談
編 者 中村達男
發行者 山下洋史
    東京都神田區佐久間町四ノ三
印刷者 岩本菊雄
    東京都芝區南佐久間町一ノ七
配給元 日本出版配給株式會社
    東京都神田區淡路町二ノ九
發行所 六合書院
    東京都神田區佐久間町四丁目三番地
    振替東京七一一八七番
    電話下谷三一七七番
    出版會會員番號一四〇〇〇二番
(東東1120研文社印行)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1068967/1/183
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文化遺産オンライン 文化庁 〒602-8959
京都府京都市上京区下長者町通新町西入藪之内町85番4
序の舞〈上村松園筆/絹本著色〉
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《伊藤ツネ》(株)美粧倶楽部 社長【大衆人事録 第19版 西日本篇】昭和32年(1957)

【大衆人事録 第19版 西日本篇】昭和32年(1957)
著者    帝国秘密探偵社 編
出版者   帝国秘密探偵社
出版年月日 1957
p16【大衆人事録 第19版 西日本篇】昭和32年(1957)
〔画像〕p16【大衆人事録 第19版 西日本篇】昭和32年(1957)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3010652/1/16
《伊藤ツネ》(株)美粧倶楽部 社長
      京都市美容専修学校 講師
京都市中京区四条高倉西入
電話(2)二六九
明治二二年一〇月一三日生
京都市出身
明治四五年
大阪市美粧倶楽部 山本久榮の指導を受け ※下記に記載
大正三年 東京日本女子美髪学校卒
現住所に於て開業し
昭和一〇年 京都結髪組合 五条支部長
昭和一五年 京都市結髪組合 副会長を経て
昭和二三年 京都市美容師会 副会長
      京都府美容師試験委員
昭和二四年 京都美容協同組合 理事長に就任す
宗教 真宗
趣味 読書・着物
家族 長女 有子(大正一一年)
   同夫 三雄(明治四五年)
      同志社大 経済学部卒 当社勤務
   孫  熹生(昭和二一年)
p71【大衆人事録 第19版 西日本篇】昭和32年(1957)
〔画像〕p71【大衆人事録 第19版 西日本篇】昭和32年(1957)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3010652/1/71
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年01月24日10:33
《伊賀とら》さんのなさる美術は
生きた人間を相手にする美術である
【美容全集】山本久栄著 昭和2年

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年03月10日06:00
《伊賀トラ》奈良県の美容界の先駆者田中直江さん
【女性教養 12月(287)】昭和37年(1962)
 もっと偉い人もあった。
 山本久栄女史。
 この人は東京の赤坂見附に
「美粧倶楽部」の看板をかかげ、
紀尾井町に美容学校を経営し、
京都に店をもってご大典のおりの
十二ヒトヱやオスベラカシの髪を扱い、
大阪の堺筋の本町に店をかまえて、
東京大阪を忙しく往復し、
いわゆる上流家庭にふかく根をおろした
目ざましい活躍と手腕は、
いまも尚語りぐさをにぎわしている。
 山本久栄女史は伊賀トラさんに学び、
「思いつき夫人」とよばれたほどの
あらゆる新企劃を発表し、
「マガレット」コート
其他のたくさんの作品もある。
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《京都美粧倶樂部》伊藤よね・伊藤つね【官報 1929年09月25日】昭和4年

【官報 1929年09月25日】昭和4年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 昭和4年
◎合名會社設立
商號 合名會社 京都美粧倶樂部
本店 京都市上京區今出川通烏丸西入今出川町
   三百二十八番地ノ二
目的 化粧品小間物美粧具ノ小賣販賣
   竝ニ之レニ附帶スル一切ノ事業
設立ノ年月日 昭和四年七月一日
社員ノ氏名住所 出資ノ種類及價格
   金五千圓 伊藤よね
        京都市下京區佛光寺通油小路東入
        木財山町百六十五番地
   金五千圓 伊藤つね
        京都市下京區四條通東洞院東入
        立賣西町七十一番地
   金五千圓 今井乙吉
        京都市左京区高野竹屋町四番地
   金五千圓 南 貴太郎
        京都市中京區壬生柳宮町八番地
代表社員ノ氏名 今井乙吉
◎合名會社 京都美粧倶樂部 設立登記公告ノ際
支店表示脱漏ニヨリ左ノ通リ追加ス
 支店 京都市下京區四條通東洞院東入
    立賣西町七十一番地
右昭和四年七月八日登記 京都區裁判所
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【大日本商工録:公認 昭和3年版】
著者    大日本商工会 編
出版者   大日本商工会
出版年月日 昭和3
◎萬小間物、化粧品
《伊藤ツネ》
美粧俱樂部、
京都四條高倉西入ル
御婚禮御支度御髪上
化粧婦人小間物一式
創業 大正四年
營業収益税:五七
電話:中二九四
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【祇園会】昭和10年
出版者   趣味と遊覧社
出版年月日 昭和10
和洋粧髪 御婚禮仕度 訪問御仕度は
美粧俱樂部
本店 四条大丸前  電話本局②二六九番
支店 今出川烏丸西 電話西陣➃七二七番
支店 大宮通五條上 電話下⑤四三〇一番
p25【祇園会】昭和10年
〔画像〕p25【祇園会】昭和10年
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《伊賀とら》《伊藤つね・美粧倶樂部》《上村松園(號)上村津禰(つね)》【日本紳士録 31-33版】昭和2-4年

【日本紳士録 31版】昭和2年
著者    交詢社 編
出版者   交詢社
出版年月日 昭和2
《伊賀 とら》
理髪業
四條通寺町東入二丁目御旅町
所得税一三〇
《伊藤 ツネ》
今出川通烏丸西入今出川町
所得税:七五七
電話:西陣七二七
《上村 つね》
號 松園
邦畫家、帝展審査員、
間之町通竹屋町角
所得税:一五六

【日本紳士録 32版】昭和3年
著者    交詢社 編
出版者   交詢社
出版年月日 昭和3
《伊藤 ツネ》
美粧倶樂部、美容術師、
今出川烏丸西入
所得税:七四四
營業収益税:七八
電話:中⑦〇二九四
《上村 津ね》
號 松園
邦畫家、
間之町丸太町下
所得税:一九〇

【日本紳士録 33版】昭和4年
著者    交詢社 編
出版者   交詢社
出版年月日 昭和4
《伊賀とら子》
結髪業、
河原町四條下
所得税:一三〇
電話:下⑤七四二九
《伊藤 つね》
美粧倶樂部、美粧術師、
四條東洞院東
所得税:六三二
營業収益税:八四
電話本②〇二六九 
《上村 津禰》
號 松園、邦畫家、
間之町丸太町下
所得税:一八六
電話:上③三二五五
p754【日本紳士録 33版】昭和4年
〔画像〕p754【日本紳士録 33版】昭和4年

【日本紳士録 42版(昭和13年)】
著者    交詢社 編
出版者   交詢社
出版年月日 昭和13
《伊賀 とら》
髪結業、
下京、四條寺町西
所得税:八七
電話:本②六四二九
《伊藤 ツネ》
美粧倶樂部、美容師
上京、今出川、烏丸西
所得税:四〇〇
電話:西➃〇七二七(2)
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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  近代 日本人の肖像
上村 松園
生没年 明治8年4月23日 〜 昭和24年8月27日
    (1875年4月23日 〜 1949年8月27日)
出身地 京都府
職業・身分 芸術家
別称  上村津禰(うえむら つね)、
    上村常子(うえむら つねこ)
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《伊藤つね子 美粧俱樂部 美粧術師》《上村津禰(上村松園)》【京都電話番号簿  大正11年10月改正】

【京都電話番号簿  大正11年10月改正】
出版者   京都中央電話局
出版年月日 大正11-13
20250621SS00001
〔画像〕p1【京都電話番号簿  大正11年10月改正】
長 中  五三〇
加藤ナツ 美の外
繩手、四條上、東
貸座敷

長 中 一五四二
加藤ウタ
新橋、繩手東
貸座敷

長 中 五〇三
加藤フサ 房乃家
新橋、大和大路東
貸座敷
中 四五六六共
開陽亭 別所常一
東山線、四條上
西洋料理
中 二九四
伊藤つね子 美粧俱樂部
四條、東洞院東
美粧術師
中 二九四
美粧倶樂部 伊藤つね子
四條、東洞院東
美粧術師
上 三二五五
上村津禰
間之町、竹屋町上
畫師
p107【京都電話番号簿  大正11年10月改正】
〔画像〕p107【京都電話番号簿  大正11年10月改正】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【京都電話番号簿  大正13年9月15日現在】
出版者   京都中央電話局
出版年月日 大正11-13
中 二九四
伊藤つね子 美粧俱樂部
四條、東洞院東
美粧術師
中 二九四
美粧倶樂部 伊藤つね子
四條、東洞院東
美粧術師
本局 三二五五
上村津禰
間之町、竹屋町上
畫師
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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