[畑中健二]『自決』

[畑中健二]⑤後記・参考文献・奥付『自決:森近衛師団長斬殺事件』飯尾憲士

[畑中健二]⑤後記・参考文献・奥付
『自決:森近衛師団長斬殺事件』飯尾憲士

『自決:森近衛師団長斬殺事件』飯尾憲士
表紙『自決』1
《画像》表紙『自決』

  後 記
この作品が「すばる」誌上に載り、
店頭に出た日から電話がかかりはじめた。
それは半月ほどつづいた。
多い日は十人ほどからあった。
陸士の先輩期や同期の人たちからのものが主で、
殆ど未知の人だった、

陸士教育を批判したことに対する叱責を待ち受けていたが、
電話の内容はそのことには触れず、
上原重太郎大尉の自決に至るまでの真実を書きとめたことを
是とするものだった。

「日本のいちばん長い日」の
単行本と文庫本の内容を傲岸にも対照したりしたが、
執筆者半藤利一氏(現文藝春秋第二出版局長)から電話があった。
労をねぎらうもので、私は大変恐縮した。

不破博氏(元東部軍参謀・大佐)からの手紙には、
”霧が晴れたような気持ち“だとあった。

竹下正彦氏(元陸軍省軍務課員・中佐)からもいただいた。
畑中少佐、上原大尉の日常の風姿をも書かなければ
ならないと務めたことに、
賛意が表されてあった。

柄沢勇太郎氏(元憲兵中尉)からは、
長距離電話がかかってきた上に、分厚い封書まで届いた。
氏は、長い間、上原大尉に自決の道を採らせたことに対する
是非の責苦を、一人で負ってこられたようであった。

作品に於いて、戦争やクーデターに対する批判に
筆を費やしすぎないようにした。
それは「天皇」を批判することで十分であるはずだった。
一つの時代、一つの場に於ける一人の人間の行動が、
不透明のまま伝えられることを防ぐことに主点を置いた。

一年余の取材中、
陸士出身の多くの方々から御教示にあづかった。
そのかつての学校に背をむけつづけている私は、
複雑な気持ちがあった。
「すばる」編集長水城顯氏をしばしば訪れ、
酒の座で調査経過を勝手にしゃべった。
抜かりがないかを自問自答する作業であった。
今年一月に亡くなられた氏の夫人が、
当時危篤状態をつづけておられたことを、後日知った。
氏は、うむ、うむ、と、長い時間私の饒舌につきあってくれた。
有難く思っている。

「サンデー毎日」の西山正記者が弊屋に取材に来、
かつての同誌特集を“誤報”と認める記事を書いた。
爽やかな記事であるという電話が、
多くの知人からかかってきた。
西山記者の姿勢も、私としては有難かった。

ともあれ、宿願の仕事をなんとか終えたささやかな感慨がある。

 昭和五十七年七月  飯尾憲士
後記『自決』
〔画像〕後記『自決』

 参考文献
参考文献『自決』
〔画像〕参考文献『自決』

  初出誌「すばる」昭和五七年六月号

自決 森近衛師団長斬殺事件
一九八二年八月一〇日第一刷発行
著 者 飯尾憲士
装丁者 田村義也
発行者 堀内末男
発行所 株式会社集英社
    東京都千代田区一ツ橋二~五~一〇
    郵便番号一〇一
    電話 東京二三八~二八四二(出版部)
         二三八~二七八一(販売部)
印刷所 大日本印刷株式会社
定価  一〇〇〇円
奥付『自決』
〔画像〕奥付『自決』
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[畑中健二]④軍務課長吉本重章大佐の読んだ弔辞『自決:森近衛師団長斬殺事件』飯尾憲士

[畑中健二]④軍務課長吉本重章大佐の読んだ弔辞
『自決:森近衛師団長斬殺事件』飯尾憲士

『自決:森近衛師団長斬殺事件』飯尾憲士
表紙『自決』1
《画像》表紙『自決』

「もう一つ気になっておりますことは、
 椎崎さんのことがあまり書かれていないことでございます。
 ご存知のように、健二より一期先輩にあたります。
 兄のように敬慕していましたようで、
 健二と最後まで行動を共にしてくださったことが、
 身内として心に沁みるのでございます」

椎崎中佐の岳父辻邦助という人から、
畑中家に弔問状が届いていた。
消印の日付は、自決後ほぼひと月経った九月十一日である。
畑中少佐は、昭和二十年のはじめに
夫人と二女を鳥取に疎開させたのち戦災に遭って、
陸軍省の地下室で起居しているが、
一カ月半ほど椎崎中佐と共に岳父の家で
家族同様の生活していたらしく、
そのときの様子をこまごまと認めて知らせてきていた。

私は、椎崎中佐が大尉で区隊長だったころの生徒である
佐野幹雄元少佐をたずねた、椎崎中佐像を話した。
体力抜群で、無口だったということ、
「戦友」の歌を口ずさみながら涙を流していたということ、
そいだような頬できびしい眼をしていたということ、等等。

椎崎中佐と畑中少佐の遺体は、
十五日午後竹下中佐によって宮城前から引き取られ、
市ヶ谷台上で阿南陸相の遺体と共に、
夜、荼毘(だび)に付されたが、
軍務課長吉本重章大佐の読んだ弔辞を、
畑中氏は保存していた。 p254
p252-253『自決』
〔画像〕p252-253『自決』

「皇軍ハ飽迄御聖断ニ従ヒ行動ス」
という陸軍の方針を示した阿南陸相に背いた二人は、
叛逆将校となったわけだが、
弔文は二人を英霊として綴ってあった。
叛逆者扱いできない心情が、陸軍のなかにあったのだろう。

  弔 辞
故陸軍省軍務局課員 大本営陸軍参謀六軍中佐椎崎二郎君
同陸軍少佐畑中健二君ノ霊ニ告ク
国歩最モ苦難ノ転機ニ方リ壮烈両君ノ大義ニ殉スルニ遭フ
万感胸ニ迫リ捧クヘキ言葉ヲ知ラス
椎崎君 畑中君 共ニ軍職ニ身ヲ奉スルコト茲ニ十有数歳
出テテハ大陸ニ或ハ南方第一線ニ奮闘シテ
仇敵撃滅ノ任ニ当リ
入リテハ軍ノ中枢ニ配セラレテ戦争指導ノ枢機ニ参画セリ
コノ間常ニ尽忠憂国ノ至誠ニ一貫シテ任務ノ完遂ニ邁進シ
上ニ仕フルコト誠 下ヲ遇スルコト慈
身ヲ持スルコト厳 以テ軍人精神ノ本髄ニ徹シタリ
偶々今次ノ大変ニ際会スルヤ胸ニ烈々タル信念ヲ蔵シツツ
黙々トシテ事態ノ転換ニ最善ノ努力ヲ致シ
事此処ニ到ルヤ遂ニ一死以テ皇国悠久ノ大義ニ殉シタリ
其ノ至誠其ノ壮烈誰カ讃仰セサランヤ
皇国未曾有ノ大難ニ方リ今後苦難ノ下
再興ノ道ヲ打開センカ為
両君ニ期シタルコト甚タ大ナルモノアリ
(中略)
両君ノ霊亦以テ冥スヘキナリ
一言以テ弔辞トナス
両君ノ英霊冀クハ来リ饗ケヨ
 昭和二十年八月十六日
   陸軍省軍務課長
   大本営第十二課長
    陸軍大佐従五位勲四等 吉本重章

「健二さんは、親身に、おねえさんと慕ってくれはりました。
 やさしいお人でした」と老夫人が言ったが、
その夫人が仏壇にあげた灯明も燃えつきていた。
秋の陽はいつのまにか落ちていて、
「自彊院健行拳忠居士」
の戒名もはっきり読みとれないほどに、
座敷は暗くなりはじめていた。

   二十四
   ―略―
p254-255『自決』
〔画像〕p254-255『自決』
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[畑中健二]③日記・死体検案書『自決:森近衛師団長斬殺事件』飯尾憲士

[畑中健二]③日記・死体検案書
『自決:森近衛師団長斬殺事件』飯尾憲士

『自決:森近衛師団長斬殺事件』飯尾憲士
表紙『自決』1
《画像》表紙『自決』

畑中氏は、日記を一冊用意してくれてあった。
私の前に差し出されたそれを眼にして、
予科士の生徒の頃にかえったような気持ちになった。
まだ「陸軍予科士官学校」と改称されない
「陸軍士官学校予科」の頃のものだが、
私たちが使っていたものと同じ文庫本の大きさの、
全生徒一律の日記帳だった。
「予科第二中隊第一区隊畑中健二」と書かれている。

やはり、検閲印があった。
中、区隊長に日記を見せるという制度に、
しこりを覚えた生徒は少なくはない。
形式主義の陸軍の欠陥の一つが、これだった。
建て前だけの将校を養成するという愚かな教育が、
延々とつづけられていたわけであった。
だから、私は、この日記にはあまり期待しなかった。

頁をめくった。
やはりそうだった。
「昭和六年七月十五日水曜日、雨。
 本日ヨリ本邦史ヲ学ブ。
 我ガ国史ヲヒモトキ、
 其ノ変遷ヲ見、
 国民的自負心、
 自尊心ヲ養フトコロニ目的アリ。
 一層此ノ点ニ就キ教育スレバ、
 思想善導ノ一助トナルベシ。
 本日ノ馬術ハ行軍。
 誠ニヨキ道ヲ駆ケルモ、
 我等ノ壮快ノ一ナリ。
 銃剣術盛ンニヤル。」

「九月二十三日水曜日、晴。
 朝来ヨリ空ヨク晴レテ、
 演習日和ナリ。
 八時舎前ニ集合、
 代々木練兵場ニ向フ。
 午前中ハ分隊戦闘教練。
 相当複雑ナリキ。
 最後ニ援隊トシテハ突撃ハ、
 誠ニヘトヘトニナリヌ。
 サレド満洲ニ戦フ兵士ヲ思ハバ
 申シ訳ナキコトナリ。」

どの日付の頁を読んでも、
大体このようなことが書かれてあった。
私自身の日記を読み返しているような錯覚にさえ、捉われた。
おそらく、すべての生徒の日記にも、
同じような反省や決意が書かれているだろう。
畑中健二という生徒の個性は、日記からは姿を消していた。

「弟が自決したという報せが届きましたとき、
 やはり死んだか、と思いました。
 いえ、自決の理由を知ったのは、一年ほど経ってからです。
 弟は、常々、戦死された将兵の遺族の方に申し訳ないと、
 口癖のように申しておりましたので、
 終戦のラジオ放送を聴きましたとき、
 弟は生きてはいないだろうと、直感的に思いました。
 私は京都府の土木部に当時勤めていましたが、
 軍人でない私でさえも、
 一切の望みを絶ち切られた思いで、
 死ぬより他はないと考えたくらいでした。

「後年、弟のことが書かれてあるものを読みましたとき、
 自決手段について、
 ちょっと不審な気がいたしました。 p251
p250-251『自決』
〔画像〕p250-251『自決』

 椎崎さんは軍刀と拳銃で自決されておられるようですが、
 弟は拳銃だけしか使っていないようなのです。」

その疑問は、私にもあった。
『一死、大罪を謝す』には、
「十一時二十分、
 椎崎と畑中の二人は二重橋と坂下門との中間の芝生で自決した」
とだけしか書かれていないが、
『日本のいちばん長い日』には、
「宮城前二重橋と坂下門との中間芝生で二人の将校は生命を絶った。
 畑中少佐は森師団長を射ぬいたのと同じ拳銃で額の真中をぶちぬき、
 椎崎中佐は軍刀を腹部に突きさし、
 さらに拳銃で頭を射って倒れていた」とある。

「つてを得まして、死体検案書を見ることができました。
 弟の腹部にも切創がありました。
 やはり、軍刀を使っていました」

畑中氏が差し出した検案書の写しを受けとり、卓上にひろげた。
検案書を眼にするのは、上原重太郎のものにつづき、二度目であった。

   死体検案書
一、氏名 畑中健二
二、男女ノ別 男
三、出生年月日 明治四十五年三月二十八日
四、職業 軍人
五、死別 変死(自決)
六、病名 右下腹部切創兼頭部貫通銃創
七、死亡年月日 昭和二十年八月十五日午前十一時二十分頃
八、死亡ノ場所 東京都麴町区丸ノ内宮城前広場芝生上
  右検案候也
   昭和二十年八月十五日
     陸軍大臣官房附陸軍軍医少佐  指田隆之助 印

読みながら、「右下腹部切創」という文章が気になった。
軍刀は左から右に引く。
左下腹部に切創がみられないのは、
切腹は一応形式的であるので、かるく引き、
それで右下腹部だけに切創が残ったのであろうか。
p252-253『自決』
〔画像〕p252-253『自決』
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[畑中健二]②「京都府船井郡丹波町字富田」『自決:森近衛師団長斬殺事件』飯尾憲士

[畑中健二]②
「京都府船井郡丹波町字富田」
『自決:森近衛師団長斬殺事件』飯尾憲士


『自決:森近衛師団長斬殺事件』飯尾憲士
表紙『自決』1

各出版物が描いている畑中少佐像は、画一すぎていた。 p247
私たちの区隊長の心を動かせた
畑中健二という人物について、知りたいと私は思った。
竹下正彦氏に、
畑中少佐の写真をお持ちではないだろうかと、問い合わせた。
軍務課の先輩だった人である。
《面影は脳裏に灼きついていますが、
 戦局窮迫の折り、
 写真どころではなかったのでしょう、
 探してみましたが、
 一枚も見当りませんでした。》 p248
という返事がきた。
p246-247『自決』
〔画像〕p246-247『自決』

夫人は再婚しているが、
実兄の畑中小一郎氏が健在だと、
住所が記されてあった。
「京都府船井郡丹波町字富田」とある。
すぐに、手紙を出した。
返事は、電話できた。
弟の健二に関する写真、手紙、履歴など
揃え終わったから送る、
お問い合わせの健二の墓所は当地にあり、
祭祀は当方で行っている、という内容だった。
電話の相手が、次に言ったことが、私をすこしおどろかせた。

畑中少佐について問い合わせてきたのは、
私がはじめてであるという。
弟のことを、
皆さんは想像だけで書いておられるように思います、
と相手が呟くように言った。
今時分、また弟のことを、と、
食傷気味かもしれない先方に手紙を出すのを
ためらったのだったが、逆のようだった。

私は即座に、訪宅する旨を伝えた。
市内からバスで二時間近くかかり、
そのバスも、一時間に一本しか出ていないのでと、
私の来訪をとめる口ぶりであったが、
利用する交通機関を訊く私に、
乗車場所や時刻表、
降車停留所などをくり返し教えるのだった。

教えられた京都の八坂神社前から、
日本海方面行きの十一時ちょっとすぎのバスに乗った。
目的地の富田停留所に着くのは、
午後一時ごろなので、
食堂で早目の昼食を摂った際、
先方には電話を入れた。
停留所に迎えに出ているということだった。

秋日和の日だった。
バスは山道をのぼった。
あとひと月もすると、全山紅葉して、
美しい眺めになるだろうと、
胸の内で呟きながら、
私は窓外にぼんやりと眼を投げていた。

峠を越えた。
両側に野面の拡がっている舗装路を、
バスは単調に走った。

富田停留所で下りたのは、私一人だった。
小屋のような待合室には乗車客もいず、
バスはすぐ発車した。
待合室の脇に、長身の人物が立っていた。
私と眼が合った。
畑中小一郎氏であろう。
お互いに、歩み寄った。

小坂をのぼりつめた台地に、  p249
旧家と思われる家があった。
森を背負ってでもいるように、
家の周りに樹木が鬱蒼としている。
庭の大木は木犀である。
居室は新築したらしく、木の香が匂っていた。

大座敷の仏壇に、私の眼がとまる。
拡大された畑中少佐の写真が、飾られてある。
私ははじめて畑中少佐の顔を、眼にした。
脳裏に画いていた顔とは、まったくちがっていた。
唇は上原重太郎のように分厚く、引き締めているが、
両眼尻は下がり気味で、まことに温順(おとな)しい顔である。
平凡な顔ですらある。
あの激しさなどは、到底この顔からは想像できない。
この人が、国体護持のため天皇を擁して蹶起すべく、
クーデターを起こそうとしたのか、 ※宮城事件
この人が藤井、上原両大尉に、
涙をこぼしながら日本を護らねばならぬと説き、
果ては森中将を斬れとまで言ったのかと、
写真の主の言動が実感として湧いてこないのであった。

その旨を私が口にすると、
「健二は、中学生のころ、
 陸士を志望していませんでした。
 目標は、京都の三高でした。
 度胸だめしに四年生のとき陸士を受験しましたら、
 三十何人に一人という難関でしたが、
 合格の通知が参りました。
 健二は嬉しそうでもありませんでした。
 陸士には行かない、
 三高を受験すると、
 と言っておりました。
 ところが、
 “四修で陸士合格”
 と地元の新聞が大きく報道しますし、
 町では祝賀の行事さえ行われました。
 なにしろ小さい町ですし、
 それに昭和四、五年ごろのことでありますから、
 ちょっとした騒ぎでございました。
 健二は渋っていましたが、
 中学校の先生たちや父のすすめで、
 やっと陸士に行くことを決心したのでした。
 やさしい性格の弟でしたので、
 軍人向きではないと私は思っておりました。
 三高に進んで、文学方面のことをやりたかったようでした」
p248-249『自決』
〔画像〕p248-249『自決』

応接卓の上に用意してある資料のなかから、 p250
畑中小一郎氏は一枚の写真を選び出して、
私の前に置いた。
中学生時代の写真だった。
同級生らしい二、三人と写っているが、
はにかんだような顔は、
実兄の言葉を裏付けているように思われた。

「純情で生真面目すぎるほどの弟の性格は、
 父の薫陶にも依ると思います。
 私と弟は妹を中に挟んで六つちがいでしたが、
 父は、私たちが近所の人や
 友達の悪口を少しでも口にしますと、
 ひどく叱りました。
 先祖は酒造りを営んでいたようですが、
 父は農業でした。
 曲がったことを許さない性格でございまして、
 修行僧のようなきびしいところがございました。
 やっと決心して陸士に入学しました健二は、
 素直な性格のまま、
 市ヶ谷精神を全部受け入れたものと思っております」

『東部軍終戦史』は、
畑中少佐について次のように書いている。
「平常温厚の士であり、
 言語態度極めてものやわらかであった。
 しかし、内蔵するところ
 鉄石をも熔かす強烈なものがあった。
 畑中少佐と親交のあった者は、
 最後の場で彼から離れることは出来まい」

畑中少佐の後輩であった人からきた手紙には、
「礼儀正しく、心のやさしい方でした」とある。

写真を一枚ずつ見た。
野砲第一連隊付だった中尉時代の写真、
大尉のときの結婚写真、
参謀懸章を吊った少佐時代のもの……。
いずれの写真も、
どちらかというと温厚というより
おとなしすぎる顔立ちである。

このような将校が、
戦地に於て孤軍奮戦玉砕すると、
英雄視され、
一匹狼に似て蹶起に奔走すると、
馬車馬と批難される。
一人の人間に対する評価は、
容易になされるべきではない。

それは、生き残っている窪田兼三氏についても同じであると、
私は思っていた。
p250-251『自決』
〔画像〕p250-251『自決』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
※平成30年(2018)10月29日
※〔画像〕挿入 表題及一部修正
[畑中健二]「京都府船井郡丹波町字富田」
『自決:森近衛師団長斬殺事件』飯尾憲士
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[畑中健二]①「分解結合の虚偽」『自決:森近衛師団長斬殺事件』飯尾憲士

[畑中健二]①「分解結合の虚偽」
『自決:森近衛師団長斬殺事件』飯尾憲士

『自決:森近衛師団長斬殺事件』飯尾憲士
表紙『自決』1
《画像》表紙『自決』

途中、京都で下車した。 p246
もう一人、会いたい人がいた。
畑中少佐の実兄である。
各出版物は、畑中少佐を激しい性格の人物として画いている。

ポツダム宣言を、天皇の大権に変更を加えない、
という諒解のもとに受諾する旨の日本側の申し出に対して、
“subject to”(隷属する)という正式回答が
連合国側から届いたのを知った
陸軍省軍務局の軍務・軍事少壮課員たちが、
阿南陸相にクーデター案を述べたとき、
反対意見を持っている佐藤戦備課長を睨んで、
「バドリオ通牒者に即刻人事的処理を加えられたい」
と激しい語調で言ったという畑中少佐。

無条件降伏という再度の聖断が下ったことを
陸相が課員たちに告げたとき、
とつぜん大声であげて泣きだしたという畑中少佐。

一転、猛然と行動しはじめ、
近衛師団司令部で石原、古賀両参謀と打ち合わせるや、
日比谷第一生命館の東部軍司令部の田中静壱司令官室に、
大声で所属・姓名を申告して入室、蹶起を要請して大喝される。

汗みどろで自転車のペダルを踏んで陸軍省に引き返し、
万事休したと自決を考えている一期先輩の井田少佐に、
残された最善の実行の道をとるべきだと説く。

森近衛師団長の説得を井田、椎崎両中佐に任せると、
近衛の車を駆って駿河台の宿舎に竹下中佐をたずね、
陸相の説得を懇願する。

そして、森師団長を射ち、ニセの師団長命令を発する。

天皇を擁しての蹶起計画は、もろくも挫折したが、
「十五日午前十一時半すぎ、宮城前広場、霞ヶ関、日比谷の界隈で、
 乗馬の一将校とサイドカー乗車の一将校とが、
 ビラを撒いているとの情報に接した。
 私は椎崎中佐と畑中少佐に違いないと判断し、
 即座に逮捕方を指令した。
 しばらくすると、今度は二人が宮城二重橋寄りの芝生で、
 正午やや前に自決したとの情報が入った」
と塚本誠元憲兵参謀は書いている。

不和博元東部軍参謀は、
「宮城事件は誰が起こしたかというに、
 私は畑中少佐一人の強烈な意思によるものと考える。
 椎崎中佐といえども、畑中少佐に引きずられたものと判断する。
 従って、井田中佐及古賀、石原両参謀の如きは、
 畑中少佐の熱意にただ盲従したにすぎない」
と言っている。

「純情といえばいえようが、単純すぎた生一本の馬車馬だ」
と評している人もいる。

級友は言った。
「しかしだね、もし軍人諸公が、
 はいそれではと承詔必謹よろしく復員していったら、
 肉親が中国大陸や南方戦線で戦死し、
 あるいは空襲で爆死し、
 家財を焼かれた国民は、
 さすがに日本の軍隊は立派だと感服しただろうかね。
 その逆だろうな。
 クーデターの軍人がいて、
 猪突であろうと闇雲に戦い抜こうとし、
 最後に自決したということが、
 かろうじて国民を納得させたといえないこともない」

初対面の上原重太郎や藤井大尉をして、
森中将を斬ることを決意させた
畑中健二という三十三歳の少佐には、
激越な言葉の奥にひそんでいる
なにかしらの人間味があったのではないだろうか、
と私は思った。

馬車馬とか、生一本とかの表現では片付けられないものが
あったのではないかと思われるのだ。

旧制高等学校時代、論理学の講義で聴いた一つの言葉が、
出席率のよくなかった私であるが、
妙に耳に残っている。

「分解結合の虚偽」という言葉である。

あるお宮に、難破しなかったお札の絵馬がずらりと掲げられている。
霊験あらたかなお宮であるという。
しかし、難破した者は、掲げるはずがない。
一見しただけで全てを断定するのは誤りである、
という論理である。

純粋一途が馬車馬ならば、
天皇の言葉に忠実だった思慮深い将校は、
あるいは身の保全を考えた優柔不断の者だった、
といえないこともない。
p246-247『自決』
〔画像〕p246-247『自決』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

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