【墓標:第二次世界大戦遺族の手記】
著者 荒木盛道 編
出版者 荒木盛道
出版年月日 1981.8
元 祭野砲兵第二一聯隊
陸軍中尉 故 津田栄一
昭和二十年八月五日
ビルマ国カママウン
第十五師団第一野戦病院にて戦没
寄稿者 京都府加佐郡大江町河守
(父) 津田儀一
息子栄一は、親から言うのもおかしいことですが、
本当に心根のやさしい温厚な子でした。
家業が菓子商であるため、
福知山市内の取引先問屋への用事を頼み
〔画像〕【墓標:第二次世界大戦遺族の手記】p79
https://dl.ndl.go.jp/pid/12284497/1/79
むことが度々あった。
当時、福知山商業学校に通学していた栄一は
時としては嫌な思いをすることもあったであろうが、
唯の一度もそんな素振りを見せたこともなく、
いつ頼んでも「ハイ」と実に素直にきいてくれて
大きい荷物を持ち帰ってくれることもありました。
帰宅すると、
疲れているであろうのに直ぐ家業の手伝いをして、
私たちに無理させぬ様にと、
やさしい心遣いをしてくれたものでした。
夜は真面目に勉強し、
学業も申し分のない成績を挙げ、
二人の妹たちにとってもよく面倒をみてくれる
心やさしい兄でした。
軍隊に入る前
「お前は中等学校を出ているんだから
将校になれる資格がある。
よく努力して立派な将校になって、
お国の為精一杯ご奉公せねばならぬ」
と申しきかせました。
両親の言うことには絶対服従と言ってもよい程に
従順で素直であった丈に、
親の希望通り将校になってくれたことは
本当にうれしいことでした。
要領よく立まわって手を抜くこともしらず黙々として、
責任を果すことのみに専心し、
花も咲かせぬ蕾のまま遠い異国の地に果てた栄一、
思えば可哀相で不憫でなりません。
大江町忠勲録より(抜粋)
昭和十一年三月
河守小学校高等科を卒業、
昭和十四年
優等の成績を以って
福知山商業学校を卒業して
河守郵便局に通信事務員として就職した
昭和十六年四月
家に帰り家業
菓子製造業の手伝をしたが
資性温厚篤実よく父を助けて働き
妹を労り母に仕えた
昭和十八年二月一日
現役兵として野砲兵第三聯隊に入隊
昭和十八年二月
中支派遣となり南京の警備につく
昭和十八年七月
幹部候補生となり
昭和十九年九月
曹長に進み見習士官を命ぜらる
支那事変拡大して大東亜戦争に突入するや
昭和十九年十一月
ビルマ方面に転戦
昭和十九年十二月
野砲兵第二十一聯隊第五中隊付
翌昭和二十年一月
陸軍少尉に任ぜられ
インパール作戦に参加したが
灼熱多湿の悪地に長期の奮戦苦闘の結果、
マラリア脚気に罹り野戦病院に於て
終戦直前
昭和二十年八月五日敢えなくも
殉国の英霊と化せらる
功に依り陸軍中尉に昇進
〔画像〕【墓標:第二次世界大戦遺族の手記】p80
https://dl.ndl.go.jp/pid/12284497/1/80
「墓標」第二次世界大戦 遺族の手記
昭和五十六年七月三十一日印刷
昭和五十六年八月 十五日発行 非売品
編集兼発行者 荒木盛道
印刷所 太安堂印刷所
吉崎忠男
京都市南区猪熊通九条北
TEL(〇七五)六九一ノ五〇七六
発行所 荒木盛道
京都府加佐郡大江町南有路
TEL(〇七七三五)七ノ〇〇〇四
https://dl.ndl.go.jp/pid/12284497/1/121
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇