[誓願寺綠起の考證]太良未・太文賈古子
【日本文化と仏教】谷本富著・大正11年
【日本文化と仏教】谷本富著・大正11年
【日本文化と仏教】
天智天皇を奉讃す p21/207
壹
今茲に突然天智天皇を擔ぎ出したからとて、
何も正月否一月に間近く成つたので、
歌かるた遊びの『百人一首』を思ひ浮べての事では厶(ござ)らぬ。
實は本年は(大正九年)天皇崩後
恰も御千二百五十年に相當する由で、
去る十二月三日の御正忌を以て、
昔天皇の御本願に由つて創建せられたと言ひ傳へて居る、
京都新京極の淨土宗西山派四個本寺の一………
只今は分離獨立して一派を爲したる誓願寺に於て、
御法會が虔修せられ、
尚ほ記念講演會の開催せらるゝに方つて、
斯く申す拙者に、 ―略―
…この惠隱は誓願寺の開基といふ傳がある。…
此の時に方つて我が誓願寺が最初
天智天皇の御本願に由つて大和に御建立遊ばされ、
後 桓武天皇の遷都に際して、
之に先んじて平安の新京の近くに移つたのだと聞いては、
實に天皇と佛敎との一方ならざる御因綠を明にし奉るべきものとして、
大に欣喜した次第である。
誓願寺綠起の考證 p29-33/207
一
従來天智天皇の御草創と謂はれて居る、
京都市新京極誓願寺の綠起は、太だ有名なるものである。
※京都市新京極誓願寺:下記
―略―
―略―
仍つて自分は更に研究の歩を進めたが中々分らない。
幾度か中止しやうと思つたが、
終に辛抱の甲斐あつて、
驚く勿れ『日本紀』崇峻天皇の元年春三月に、※588年4月
百濟國より貢進したものゝ中に、
寺工 太良未、太文賈古子の二人あり。
デラダクミのタラミ、タモンケコシと和訓してあるのを見て、
此の太文賈古子が卽ち賢問子芥子國と訛傳して
終に父子二人に分けられたのだと解つた。
或は太良未太文賈古子が父子なのを、
その言に習はない名前を混同轉訛したのだと謂つても差支ない。
とにかく是は一新發見の積りだが、
淺學寡聞既にさう見(た人があるかも知らぬ。)p32/207
―略―
乃ち未定ながら卑見では、
一説に誓願寺は昔一旦大和から山城相樂郡の木津附近に移つたので
其處に多少遺址が尚存して居ると云へば、
或は是れは初から大安寺の支院とか別院とか云ふ風で、
恰も大和の法隆寺と播磨の斑鳩寺との樣な譯合であり、
從つていつとなく兩寺綠起が一所に成つて
傳はつたのであらうとも思へる、
如何なものだらう。
大正拾壹年八月廿參日 印刷
大正拾壹年八月廿八日 發行 正價金三圓
著作者 谷本 富
發行兼 西村九郎右衞門
印刷者 京都市下珠數屋町東洞院西入
橘町八番戸
印刷所 丁子屋書店出版部
發行所 丁子屋書店
京都市下珠數屋町
振替 東京四五九七
大阪一〇二九〇
【読史の趣味】大正4年
著 者 萩野由之 著
出版者 東亜堂書房
三九 飛行機で朝鮮海峡を横斷した賢問子 p144-148/241
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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浄土宗西山深草派 総本山 誓願寺
ご本尊と宝物
天智天皇は常に仏の心を求められ、
ある夜の霊夢(神仏のお告げ)により、当時仏師として名を馳せていた
賢問子(けんもんし)・芥子国(けしこく)父子に
丈六(一丈六尺=4.85メートル)の阿弥陀如来座像の造立を命じました。
二人は別々の部屋で仏の半身を彫っていたのですが、
合体すると寸分違わず合致して見事な仏像ができあがったと
伝えられています。
ご本尊の阿弥陀如来の完成とともに仏堂が建立され、
天智天皇6年(667)に七堂伽藍が完成、「誓願寺」と名づけられました。
これらは春日大明神の本地(本来のお姿)であることから、
ご本尊は春日大明神が造られたと崇め奉られました。
ところがこの阿弥陀如来像は度重なる火災で焼失してしまい、
現在誓願寺本堂に御本尊として安置されています阿弥陀如来像は、
もとは石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう:京都府八幡市)に
八幡神の御本地仏として安置されていた阿弥陀如来座像で、
神仏分離が行われていた明治2年、誓願寺に移安されてまいりました。
現在のこの阿弥陀如来座像は木造、寄木造布貼の丈六の座像で
平安時代後期の定朝様で鎌倉時代から南北朝時代の頃の作と
見られています。
宗派名 浄土宗西山深草派(せいざんふかくさは)
総本山 京都 新京極 誓願寺(せいがんじ)
総本山所在地 京都府京都市中京区新京極桜之町453
(新京極通り六角下る)
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