◆早竹虎吉

軽業 早竹乕吉(早竹虎吉)【大阪自由一覧:開化】明治12年

軽業 早竹乕吉(早竹虎吉)【大阪自由一覧:開化】明治12年

【大阪自由一覧:開化】明治12年
[諸藝■著名]p22-23/25
手品    桺川一蝶齊  p23/25
同     桺川小蝶齊
照葉狂言  堀井仙助
軽業    早竹乕吉(早竹虎吉)
須磨琴   真鍋豊平
月琴    平井連山
地歌    法師■平
清本    清本延房
同     清本延常
葉歌    ■ 半七
同       ■■丸
新内    鶴沢八蝶
同     鶴沢■蝶
舞     山村
 p23【大阪自由一覧:開化】明治12年
〔画像〕p23【大阪自由一覧:開化】明治12年
 郵便開凾時限表
い號便 午前  五時 三十分
ろ號便 午前  七時 廿五分
は號便 午前  九時二十五分
に號便 午前 十一時  十分
ほ號便 午後  一時 十五分
へ號便 午後  二時五十五分
と號便 午後  四時三十五分
ち號便 午後  六時二十五分
  定價六戔
明治十二年九月廿二日
出版御届仝年十月二日
東區平野町五丁目八番地
編輯兼出版人 石川和助
南久宝寺心齊橋南ヘ入
賣捌人 小島伊兵衛
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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大阪の獨樂廻し早竹虎吉一座・ホルトガル人タロサ引率【高橋是清自伝】昭和11年

大阪の獨樂廻し早竹虎吉一座・ホルトガル人タロサ引率【高橋是清自伝】昭和11年

乘船コロラード號は
七月二十五日(慶應三年) ※1867年8月24日
朝六時に三發の號砲を合圖に桑港に向つて出帆した。

八月十八日(慶應三年)  ※1867年9月15日
午前十一時漸く目指す桑港に到着

【高橋是清自伝】昭和11年
   いよいよ故國出發  p33/423
 慶應三年(十四歳)の春も早終りに近いころとなつて、
我々のアメリカ行きの御許しが出た。
勝小鹿、富田鐵之助、高木三郎の三氏には、
それぞれ藩から、
學校に入つて勉強出來るだけの手當をくれる事になつたが、
鈴木と私はまだ幼いので、
向ふで誰かに世話を賴まねばならぬと、
 ―略―
 斯くて出立の準備を整へて待つて居る所、
七月二十三日(慶應三年)に至つてアメリカ船コロラード號が、
香港から横濱に入港して來た。
 ―略―
   旅費を飮む
 我らの乘船コロラード號は七月二十五日(慶應三年)
朝六時に三發の號砲を合圖に桑港に向つて出帆した。
此の船は今日から見れば實に小さい、
僅に六、七百トン足らずの外輪船であつた。
そのころ、アメリカ通ひの船は、毎月一回づつ
香港から上海、横濱を經由して桑港との間を往復してをつた。
盛んに、支那人が米國に移民する時代で、
その時も、澤山支那人が乘つてゐた。
 ―略―
 船が横濱を出てから一週間ばかりの後であつた。
下等に乘つてゐる日本人船客は、
我々四人だけと思ひ込んでゐたら
まだぞくぞくと日本人がゐる。
皆船に暈(よ)つてゐるので顔を出さないから
何人ゐるか判らないが、
その中の通辯らしいのが圖らずも
私の横濱時代の先輩で名前は忘れたが、
上唇が少し裂けてゐたので
俗に三ツ口と仇名されたその人であつた。
それに聞くと、
この一行は大阪の獨樂廻し早竹虎吉一座で、
ホルトガル人タロサに引率されて
アメリカから歐洲に興行に赴く所であるといふ事であつた。
 p36【高橋是清自伝】昭和11年-50
〔画像〕p36【高橋是清自伝】昭和11年
   桑港の少年赤毛布
 海路二十三日を費して八月十八日(慶應三年)
午前十一時漸く目指す桑港に到着した。
富田氏の一行は直ちに出迎への馬車に乘つて
桑港一流のホテル『リツクハウス』に行つて仕舞つた。
昭和十一年二月五日印刷 『高橋是淸自傳』奥附
昭和十一年二月九日發行  定價 一圓八十錢
著作權代表者 上塚 司
發 行 者  東京市京橋區京橋三ノ一
       千倉 豐
印 刷 者  東京市神田區神保町三ノ二九
       山縣 精一
發 行 所  東京・京橋 第一相互館
       千倉書房
       電話 京橋(56)三七一六・八一一五・二一八一
       振替 東京九七八
三陽堂 靑野印刷所  製版
山縣製本印刷株式會社 印刷
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[早竹虎吉]※初代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
早竹 虎吉(はやたけ とらきち、
生年未詳 - 慶応4年1月15日(1868年2月8日)は、
幕末期の曲芸師、軽業師である。京都生まれ。
慶応3年7月25日(1867年8月24日)、約30名の一座を率いて、
虎吉は横浜を出発しアメリカに渡航した[6]。
その後、明治7年(1874年)に実弟が二代目早竹虎吉を襲名した[8]。
脚注
6.^ 同じ船には、後に内閣総理大臣となる高橋是清も乗船していたと伝わる
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早竹虎吉(初代)ニューヨークで死亡・慶応4年1月15日(1868年2月8日):見世物興行年表

早竹虎吉(初代)ニューヨークで死亡・
慶応4年1月15日(1868年2月8日):見世物興行年表

見世物興行年表
明治1年
2014年01月03日
慶応四年/明治元年(1868年・戊辰)一
○一月十五日(西暦1868年2月8日)、
早竹虎吉がアメリカニューヨークで死亡。
(「内外新聞」/『日本人登場』)
「慶応四年戊辰五月 内外新聞・第七(七日毎に出版)
❍第四編に記せし軽業師寅吉が始末、
其慥(たしか)なる書面を抜粋して左に挙ぐ。
正月元日より興行せしに、二日、三日頃より寅吉発病して、
同十六日終ニ病死す。
※慶応4年1月15日(1868年2月8日)
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見世物興行年表
明治7年
2014年02月21日
明治7年(1874年・甲戌)一
○一月より、大阪難波新地溝の側にて、二代目早竹虎吉の軽業。
(絵ビラより)

明治7年(1874年・甲戌)六
〈編者註〉
二代目虎吉は初代の実子、養子、兄弟、弟子の諸説があって一定しない。
ここでは弟(実弟か義弟かは不明)といっている。
上記省略文中に、二代目虎吉は「堂々タル六尺体躯ノ輩」とあり、
長身であったことが分かる。
 〈編者註〉二代目虎吉
〔画像〕〈編者註〉二代目虎吉
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見世物興行年表
明治8年
2014年02月28日
明治8年(1875年・乙亥)二
○一月九日より、東京神田五軒町九番地にて、
二代目早竹虎吉の軽業が再開される。

明治8年(1875年・乙亥)四
○五月七日より、東京両国回向院にて、二代目早竹虎吉の軽業。
(「あけほの」5・7、5・14)
「大坂登りの軽業師二代目早竹寅吉早竹福太郎の両人、
両国回向院にて本日より前代未聞の大軽業を興行するよし。
前代未聞に当(あたる)か知れんといふことなり」(5・7)
〈編者註〉若太夫は早竹福太郎(八歳)。
演じたのは旗竿の曲(吹流し・鶯の谷渡り・大の字など)、行燈渡り、
蜘蛛の巣がらみ、獅子の子落しなどで、
ここでも初代虎吉の芸をそのまま演じ、好評を得ている。

明治8年(1875年・乙亥)六
○七月十六日、東京築地延遼館にて、外国人饗応のため、
早竹虎吉の軽業や太神楽を見せる。(郵便報知新聞7・15)
「明十六日、築地延遼館にて、外客を饗応せらるゝとて、
軽業師早竹虎吉始め太神楽などの諸芸人を召し、
御馳走の品々は精養軒へ命ぜられたりと。
河村海軍大輔も臨席の由なれば、
該客は多分英国副水師提督ライトル氏外数名なるべしといふ」
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見世物興行年表
明治15年
2014年04月18日
明治15年(1882年)三
○四月、京都四条北劇場にて、二代目早竹虎吉の軽業。
(西京新聞3・7、3・12、4・9)
「新京極で曩頃中ヨイサテと流行した軽業師竹沢万治は、
此度故人で有名なりし早竹虎吉の芸名を相続し
二代目早竹虎吉と改名したので、
近々に四条北側劇場にて名弘(なひろめ)初お目見[得]の
軽業及び初代虎吉が得芸(おはこ)の独楽曲を数々興行するとの
サア評判じや〳〵」(3・7)
「新京極で曩頃中々と(シカジカ)云第千四百九十六号に載せた
竹沢万治が二代目早竹虎吉と改名の一件は大間違だと
北側劇場の興行元とか勘定方とか結髪のある男や
脊高男杯が当社に来り
囂々然(がやがやぜん)蝶々乎(てふてふこ)として弁解には、
全く二代目早竹初代虎吉の弟福松が兄の芸名を相続して
此度興行するのですと云ひ
升から看客(みなさん)へ一寸」(3・12)
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見世物興行年表
明治17年
2014年05月02日
明治17年(1884年)三
○二月十四日より、大阪千日前にて、早竹(早綱)鯉之助安五郎の軽業。
(「此花新聞」2・16/朝日新聞2・15)
「軽業師の名人とまで聞えたる早竹虎吉は、先年洋行したるが、
彼地にて病死したる後、
同人の弟子早竹鯉之助同安五郎の両人は去る明治九年より英国に渡り、
同国にて名技の伝習を受け、遂に昨冬帰坂したるが、
一昨年[編者註:一昨日の誤記か]より南地千日前にて軽業の興行を始めたり。
其興行中、最も見物の膽を寒(ひや)したるものは、
索(つな)の上へ椅子を乗せ、其上にて種々の芸を為し、
又は自転車に乗て索を渡る等なり。寔に驚き入る計りとの評判」(此花)

「二三日前より千日前にて興行せる軽業師早綱鯉之助といふは、
一昨年米国人に雇込まれて彼国に航し、
處々興行して昨冬帰国せしものなるが、
航海中に覚えて来りし種々の奇芸を演ずるうちにも、
一條(ひとすじ)の索(なわ)を宙に引き、其上に椅子を置き、
之に腰をかけて遂に両脚を放し、
椅子の上にて自在に身(からだ)を運転すると。
又其索(なわ)の上を二枚歯の自転車にて渡るには頗る目新しく、
見るものをして覚えず喝采の声を発せしむるといふ。
人智の開達と共にかゝる遊技も追々奇巧に奇巧を加へて
世人の目を驚かすに至るも亦文明の余沢なり」(朝日)
〈編者註〉
自転車による綱渡りはすでに明治十五年七月、
横浜でフランス人ブロンドが演じているが、
日本人としては彼らが最初であろう。
この頃の日本では自転車そのものがまだ珍しく、
記事の文面通り外国で習得してきたことは間違いない。
この芸は大いに受けたと思われる。
なお早竹虎吉の弟子云々に関しては
「朝日」が早綱としていることなど、不確かな部分が多い。
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見世物興行年表
明治20年
2014年05月23日
明治20年(1887年)五
○六月一日より、大阪千日前東側の大小屋にて、三代目早竹虎吉の軽業。
(大阪日報5・29) 
「…(千日前)東側の大小屋手品、鞠、曲乗の跡へは、
桑港戻りの三代目早竹虎吉の軽業を出し(後略)」
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見世物興行年表
明治22年
2014年06月13日
明治22年(1889年)六
○七月二十五日より三十日間、東京日本橋区中洲町にて、
二代目早竹虎吉の軽業。
(郵便報知新聞7・24/東京朝日新聞8・14)
「先代の虎吉は、先年外国へまで渡航して軽業を興行し大に喝采を博したるが、
今度二代目の早竹虎吉久々にて上京し、
明二十五日より向ふ三十日間、中洲町に於て興行する筈なり。
同人は初代の形を其の儘大道具大仕掛けにて技倆を奮ひ、
此の興行を終りし上は直に外国に渡航して、
外人の耳目を驚かさんとの決心なりと」(郵便報知)

「昨今中洲にて興行中の早竹虎吉が軽業は自転車の針かね渡り、
鍋島猫騒動、猫の宙乗り其他佐倉惣吾等の曲芸を
大道具大仕懸にて見するよし」(東京朝日)

明治22年(1889年)八
「[広告]西洋大軽業興行 今回両国回向院境内に於て 
早竹虎吉三十三回に付 正午十二時開場同五時迄、
同六時開場同十一時限、晴雨共昼夜二回興行仕候 
最上等椅子付御一人前金三拾銭、上等同貮拾銭、中等同拾銭、下等同五銭。
 早竹一座」(東京朝日11・14)

「両国回向院にて興行中なる早竹虎吉の連中は、
本日と明日に掛け数万枚の切符を 諸人に与へ、
新発明の芸十八番を残ず演(し)て見せると」(東京朝日12・7)

「ことぶき座へ軽業師の早竹虎吉が俳優に成て出勤し、
葛の葉を一幕お目見え狂言に出すといふことは
前号に記載(かきのこせ)しが、
俳優連に於て早竹の出勤に苦情があり、
終に早竹は出勤せぬことになり、
夫ゆゑ葛の葉はおヂヤン」(東京朝日12・19)
〈編者註〉
初代早竹虎吉が死亡したのは慶応四年(明治元年)だから
三十三回忌はおかしい。
また初代の法要をしようとした虎吉初代の関係が、
兄弟なのか弟子なのか、いまだにはっきりしない。
さらには虎吉を名乗る人物が複数いた気配もある。
それはともかく、「二代目早竹虎吉」はこの年表にも多く登場し、
初代同様の大掛りな軽業を演じて、
日本各地で活躍し、好評を得ていることは事実である。
ところで、初代は国姓爺の虎の役で
尾上多見蔵と歌舞伎の舞台に上ったことは有名な話だが、
この虎吉にも葛の葉の話がきた。
しかし残念ながら昔気質な役者連中の横槍が入り、
オジャンになってしまった。
「文明開化」のかけ声はここまでは届かなかったようだ。
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「早竹虎吉:Haytaka Torakichite」軽業師竹沢万次の謎を追う:深沢正雪記者・ニッケイ新聞BRASIL

「早竹虎吉:Haytaka Torakichite」軽業師竹沢万次の謎を追う
:深沢正雪記者・ニッケイ新聞BRASIL

JORNAL ニッケイ新聞 連絡先
RUA DA GLORIA, 332, LIBERDADE, 
CEP 01510-000, SAO PAULO – SP, BRASIL
TEL +55(11)3340-6060

軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第16回=
幕末の軽業二名人が伯国に?
 『CIRCO-TEATRO NO SEMI-ARIDO BAIANO (1911-1942)
(バイアの半砂漠地帯のサーカス劇場=1911~1942年)』
(レジナルド・カルバーリョ著、09年、バイア連邦大学)には
次のように書かれている。

 《「Haytaka Torakichite」は、
1854年に大阪で生まれ、 ※1854年(嘉永6年・安政1年)
12歳でロンドンに向かい、 ※1866年(慶應2年)
そこで「Frank Olimecha」と名乗るようになった。
欧州、米大陸を巡業して回り、
1888年に ※1888年(明治21年)
イギリス人道化師フランク・ブラウンと共にブラジルに到着。
ブラジルではマヌエル・ペリ、フレデリッコ・カルロ、
アフォンソ・スピネリ、ポデスタ、ホルメル、シグリらと共に働いた。
1909年に ※1909年(明治42年)
フランキは自らのサーカス団「オリメチャ」を創立し、
全伯を巡業した。子どもたちは素晴らしい芸人に育ち、
サーカス団を長い間支えた》

 前節のルイス論文にあるように
フランキの渡伯が1883年(明治16年)で、
前述のようにペリ・サーカスに参加していたのであれば、謎が一つ解ける。
 エスタード紙初の日本人軽業師広告、
1886年2月28日付で ※1886年(明治19年)
「ペリ・サーカス」(Circo Pery)の
「40の手のひら怪物〃日本の階段〃(A escada japoneza)」という演目は、
おそらくフランキ・オリメシャが披露したものだろう。
 では、この「Haytaka Torakichite」とはいったい何者か――。
調べてみたら、とんでもない有名人、大物に突き当たった。
なんと〃幕末の軽業二名人〃と呼ばれた有名曲芸師に、
「早竹虎吉」(生年未詳―1868年2月8日、京都)がいたのだ。
          ※1868年2月8日(慶應4年1月15日)
 歴史系総合誌「歴博」第118号によれば、
《早竹虎吉は、幕末最後を飾る見世物のスーパースターであった。
虎吉の一座は天保ごろより大阪を拠点として活躍をはじめ、
安政4(1857)年には江戸に進出、
さらに伊勢・宮島・徳島など全国を巡業して、その人気は一世を風靡した。
虎吉の得意としたのは〃曲差し〃と呼ばれる芸であった。
長い竹竿を肩や足で支えつつ、
その上部で子方が軽業や早替りなどの曲技を披露するというもので、
危うい芸を見事に演じきって喝采を浴びたのである》
 そんなスーパースターがブラジルに移住していたことなど、
ありえるのだろうか…。
 ウィキぺディア頁があるほどの有名人であり、それによれば、
虎吉は1867年8月24日、
  ※1867年8月24日(慶應3年7月25日)
一座約30人を率いてアメリカに渡航した。
ただし、サンフランシスコを振り出しに、
サクラメント、ニューヨークなど米国各地で興行し、
フィラデルフィアでの公演終了後、
突如体調を崩して1868年2月8日に心臓病で客死した。
       ※1868年2月8日(慶應4年1月15日)
 その後、1874年に実弟が二代目早竹虎吉を襲名し、
     ※1874年(明治7年)
東京で大評判をとったとの記述があり、
二代目もブラジルに移住したとは考えにくい。
 つまり、この「Haytaka Torakichite」
本人がブラジルに来たという話もまた、
「ブラジルの竹沢万次」同様に、どうも〃本家筋〃ではなさそうだ。
 カルバーリョ論文では
「Torakiche Hayataka」本人がブラジルに来たことになっているが、
前節紹介したマルタ論文では
「フランキ・オリメシャ」はその〃子供〃になっていた。
後者の方がまだ整合性がありそうだ。(つづく、深沢正雪記者)

軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=
一世紀半も受け継がれる家=第17回
 ブラジルの早竹虎吉も、竹沢万次同様、
同じ一座でやっていた〃近い筋〃のものが名乗っていた可能性が高い。
 ブラジルに来た「フランキ・オリメシャ」は
1854年(嘉永6年・安政1年)に
大阪で生まれたと伝承されているから、
1867年(慶應3年)に米国公演した時に座長なので、
13歳ではオカシイ。
年齢的には渡米時に早竹虎吉一座に参加した
子供芸人ではないかと思える。
 それならば、渡伯時の1888年(明治21年)に34歳の働き盛りだ。
海外興行の生活を続けてブラジルまで流れ着き、
長い巡業生活を経て、ここに定住したと考えるのが妥当ではないか。
 ―略―
(つづく、深沢正雪記者)
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※下記6名:1872年(明治5年)時点 米国在留
※年齢:1869年(明治2年巳年)時点
第56号《八百吉》虎吉長男29歳 1869-29=1840(天保10年)
第57号《安次郎》虎吉次男17歳 1869-17=1852(嘉永5年)
第58号《市松》 虎吉三男14歳 1869-14=1855(安政2年)
第59号《とよ》 虎吉長女12歳 1869-12=1857(安政4年)
第62号《由松》 豊吉長男11歳 1869-11=1858(安政5年)
第66号《勝之助》
 ブラジルに来た「フランキ・オリメシャ」は
1854年(嘉永6年・安政1年)に
大阪で生まれたと伝承されているから、
1867年(慶應3年)に米国公演した時に座長なので、
13歳ではオカシイ。
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国立歴史民俗博物館
歴史系総合誌「歴博」第118号
連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」
■サーカスの夜明け-軽業芸人の海外交流
早竹虎吉は、幕末最後を飾る見世物のスーパースターであった。
虎吉の一座は天保ごろより大坂を拠点として活躍をはじめ、
安政4(1857)年には江戸に進出、
さらに伊勢・宮島・徳島など全国を巡業して、
その人気は一世を風靡した。

虎吉の得意としたのは"曲差し"(きょくざし)と呼ばれる芸であった。
長い竹竿を肩や足で支えつつ、
その上部で子方が軽業や早替りなどの曲技を披露するというもので、
危うい芸を見事に演じきって喝采を浴びたのである(図1)。
 ―略―
一方、虎吉の一座をはじめ、
鉄割福松(かねわりふくまつ)一座(図3)、
鳥潟小三吉(とりかたこさんきち)一座(図4)など、
日本で人気を勝ち得た軽業芸人たちが、
時を同じくして競い合うようにして渡航した。
ちなみにこの間、ニューヨークでは、
この中の鉄割一座の人気若太夫と
帝国日本芸人一座の隅田川一座の女三味線弾き登宇(とう)とが
密会していたのがばれ、
鉄割一座が詫状を入れるという色恋沙汰も起き、
見世物史に興を添えている。
その後、ロンドンにて登宇と濱碇定吉との間に女子が誕生。
『ロンドン・タイムス』は、日本国外で誕生した初めての日本人、と報じた。
 ―略―
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

日本野球最古の記録か 1872年(明治5年)に米国で試合、記事発掘:日本経済新聞

日本野球最古の記録か 1872年(明治5年)に米国で試合、記事発掘:日本経済新聞

日本経済新聞
日本野球最古の記録か 1872年に米国で試合、記事発掘
2019/7/18 17:49
 ―略―
見つかった記事によると、
日本チームは全米を巡業していた
「ロイヤル江戸劇団」という軽業師の一団で、
72年6月7日、 ※明治5年5月2日
ワシントンで大リーグの前身にあたる
ナショナル・アソシエーション所属の地元球団オリンピックスと対戦した。
野球は巡業中に習ったとみられる。
19世紀に発行されていたナショナル・リパブリカン紙が掲載した
5イニングの試合経過によると、日本チームは17-18と健闘している。
 ―略―
当時の記録によると、ロイヤル江戸劇団は子供を含む十数人で編成され、
英国人興行師に連れられて71年に横浜港を出発。
※下記写真:全13名:1869年10月(明治2年9月)横浜港 出発
西海岸サンフランシスコから東に移動しながら軽業を披露した。
各地の新聞に巡業の広告が掲載され、
「ゲンジロウ」や「キンジロウ」といった名前も出てくる。

米国滞在中の集合写真が残っており、ちょんまげの男性も。
 ―略― 〔共同〕
 全米を巡業していた「ロイヤル江戸劇団」
全米を巡業していた「ロイヤル江戸劇団」(サナトス・アーカイブ提供)=共同
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
[早竹虎吉]※初代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
早竹 虎吉(はやたけ とらきち、
生年未詳 - 慶応4年1月15日(1868年2月8日)は、
幕末期の曲芸師、軽業師である。京都生まれ。
慶応3年7月25日(1867年8月24日)、約30名の一座を率いて、
虎吉は横浜を出発しアメリカに渡航した[6]。
翌月にサンフランシスコに上陸。
その後、明治7年(1874年)に実弟が二代目早竹虎吉を襲名した[8]。
※恐らく、下記の虎吉が二代目虎吉。
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※以降、小野一雄作成
撮影日:1871年 7月(明治4年6月)以前
全13名:1869年10月(明治2年9月)横浜港 出発
年 齢:1869年(明治2年巳年)時点
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[本官勘合帳 外国官一号]原本:第49号~第102号
①第54号《虎吉》49歳
②第55号《奴伊》虎吉妻43歳~第60号《と免》虎吉次女5歳?
③第61号《豊吉》38歳~第66号《勝之助》
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下記7名:1871年7月(明治4年6月)帰朝 免状返納①②③記載
第54号《虎吉》 49歳
第55号《奴伊》 虎吉妻43歳(ぬい)?
第60号《と免》 虎吉次女5歳?
第61号《豊吉》 38歳
第63号《萬吉》 30歳
第64号《嘉な》 萬吉妻
第65号《角之助》
下記6名:1872年(明治5年)時点 米国在留
第56号《八百吉》虎吉長男29歳
第57号《安次郎》虎吉次男17歳
第58号《市松》 虎吉三男14歳
第59号《とよ》 虎吉長女12歳
第62号《由松》 豊吉長男11歳
第66号《勝之助》
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[航海人明細鑑3]原本:表紙・p001~p009
第56号《八百吉》虎吉長男29歳(33歳)※( )明治5年(1872)
第57号《安次郎》虎吉次男17歳(21歳)※( )明治5年(1872)
第58号《市松》 虎吉三男14歳(18歳)※( )明治5年(1872)
第59号《とよ》 虎吉長女12歳(16歳)※( )明治5年(1872)
第62号《由松》 豊吉長男11歳(15歳)※( )明治5年(1872)
第66号《勝之助》
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SANSPO.COM
2019.7.19 05:00
日本人の野球プレー最古記録発見か これまでより早い1872年に米国で
 日本野球、最古の記録発見か:サンスポ
1872年の米紙「ナショナル・リパブリカン」に掲載された
日本チームの野球試合のスコア=米議会図書館提供
※画像は削除されている
https://www.sanspo.com/baseball/news/20190719/bbo19071905000001-n1.html
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東京新聞:TOKYO Web
2019年7月18日 夕刊
最古?侍ジャパン 新聞に記録 1872年、米で軽業師一団
 「ロイヤル江戸劇団」
全米を巡業していた「ロイヤル江戸劇団」=サナトス・アーカイブ提供
日本チームの野球試合のスコア
1872年の米紙「ナショナル・リパブリカン」に掲載された
日本チームの野球試合のスコア=米議会図書館提供
https://www.tokyo-np.co.jp/article/sports/list/201907/CK2019071802000342.html
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