《吉雄 敦=藏六》
祖父を祐卓:字は公禮・號は菊瀕:
小倉藩典醫 宗親の子:長男 藏六
【小倉市誌. 下編】大正10年
祖父を祐卓:字は公禮・號は菊瀕:
小倉藩典醫 宗親の子:長男 藏六
【小倉市誌. 下編】大正10年
【小倉市誌. 下編】大正10年
《吉雄 敦》 p67-68/313
吉雄敦 字は公禮 菊瀕と號す。
小倉藩典醫 宗親の子なり。
天保十二年(1841) 日田 咸宜園に入り、
弘化三年(1846) 秋月 江藤泰養に醫を學びて歸り、君側に侍す。
※江藤泰養⇒江藤養泰
[日中両国における人痘接種法の比較研究]
日本医史学会雑誌第五十巻第二号
平成十六年六月二十日発行
Ⅱ 日本における人痘接種法 p10/36
三、緒方春朔の種痘法 p13/36
春朔はこの種痘の成功を友人の医官・江藤養泰に見せると、
江藤は自分の女子に種痘を試みた。 p14/36
〔画像〕緒方春朔の種痘法:医官・江藤養泰
※江藤泰養⇒江藤養泰:下記四年(1847) 長崎に遊び、
嘉永元年(1848) 大坂に至り、緒方洪庵の門に入る。
五年(1852) 長州萩 靑木周弼に從學し、
安政二年(1855) 藩に還る。
明治二年(1869) 藩廳 豐津に移り、
學を興すや、其の敎授となる。
典醫舊の如し。
明治五年(1872) 醫業を棄て、勸業寮に出仕す。
六年(1873) 陸軍中尉となり、
八年(1875) 大尉に進む。
然れども痔疾を患ひ、遂に志を伸ぶるを得ず。
明治二十四年(1891)十月二十五日歿す。
享年六十三。
按ずるに吉雄敦の祖父を祐卓 子因といふ。
儒醫にして廣瀨淡窓と交あり。
淡窓 小倉に在りし時、
「小倉宿吉雄兄之宅、話舊面作」の詩あり。
吉雄氏の宅は職人町
(即ち柳木馬場にして室町五丁目電車通北側の邊)にありき
〔吉雄菊瀕先生傳〕
先生 吉雄氏、諱 敦、字 公禮、號 菊瀕、
豐前小笠原侯典醫 宗親之長子也、
文政十二年三月十六日(1829年4月19日)生、
於小倉室町之邸、幼而頴悟、志於儒、
天保十二年(1841)年十二、
入豐後 日田 廣瀨淡窓 窻家塾宜園、
螢雪之苦五年、學業大進、嶄然顯頭角、
弘化三年(1846) 辭 宜園、
從 筑前 秋月 江藤泰養、學醫 半歳而歸、
擢󠄀侍於君側、先生非安於小成之器、
遠遊之志不能禁、請解職、不聽、
小倉小藩而在九州之咽喉、
受幕末奢靡遊惰之餘弊殊■、 ※■:艹に匹
士風偸安姑息、志學講道者尠矣、先生請遊學之擧、
惟 父 宗親 慫慂之耳矣、上司及儕輩非沮之已矣、
從而慢罵笑其狂、荏苒過年、
四年(1847) 遂被許而遊 長崎、
在 宗家 吉雄厚載 之門、學醫傍講儒、
※吉雄厚載:吉雄幸載?
【西洋医術伝来史】昭和17年
〔画像〕【西洋医術伝来史】p108
嘉永元年(1848) 至 大坂學於 緒方洪庵、
當時諸藩知名之士、及其門者頗多、
如 長藩 大村益次郎、世以明治復古之元勳稱、
其他參 明治大政者不鮮、先生與此輩遂隨、
與 益次郎 最親善、而先生以儒自期、
故其出處自與此輩異焉、以是其事蹟亦無如是輩可睹、
五年(1848) 西歸嗣家、直遊 長州萩 靑木周弼 之門、
安政二年(1855) 藩命召還焉、先生性甚不懌醫、
欲以以儒立、屢 辭職不聽、
慶應二年(1866) 小倉藩 與 長州藩 構難也、
先生扈幼主、避難於肥後、事平、
小笠原氏 移 藩廳 於豐前豐津、興藩學、
先生任敎授、典醫如舊、
明治五年(1872) 政府廢藩置縣、
先生於是始得棄醫業、仕官 任勸業寮九等出仕、
六年(1873) 任陸軍中尉、
七年(1874) 進 陸軍大尉 叙正七位、
八年(1875) 患痔疾、以不堪軍職、
轉 補陸軍八等出仕、
爾後 終生殆爲痔疾所惱、
在官徒從事薄書、宿志蹉跌矣、
雖然講學不怠、在病蓐之中、手不曾放巻、
明治二十三年(1890)秋 宿疴癒、
退隱於豐津、欲籍筆硯舒其志、而天借年、
二十四年(1891)七月 胃生癌、
十月二十五日沒、享年六十有三、
娶中川氏
長男 藏六 嗣家、
長女 朔 嫁 陸軍砲兵大尉 木内梧樓、 ※下記
皆先妻之出也、
二男 英三郎 爲 陸軍砲兵少尉、
三男 寅五郎、
四男 午六郎、
二女 登米、
三女 辰、
皆幼、
先生為人溫厚恭謙、操
《画像》p67【小倉市誌. 下編】大正10年
持有規矩、接之使人有春風駘蕩之感、
而其内有不可侵者、先生好讀歷史、
傍用力詩文、成一家、常語人曰、
幕府末葉以還、儒者之於經書、
以多知古人之説爲務、所謂説話之學、
靡然爲風、而體得實踐、附之忽諸、無寸益於實用、
世人等閑視儒者亦宜也哉、
學者之於經書、固雖講學之骨子、
廣渉獵歷史、通暁古今之成敗、人事之變遷、
以長識見磨材器、當今之時勢、
寧爲急務、詩文雖末技、非籍之、不能發意思、
先生之此言、鑑儒者迂腐、遠於實用而爾云乎、
先生經綸之材、爲病疴所遮、不能施於世、
而其發詩文者、亦散逸、惜矣夫
緒方淸溪
詠吉雄敦翁
一朝抛刀圭 身在儒林列 詞藻巧天資 奇思眞卓越 天女衣不縫
飃揚雅且潔 余昔抱詩書 曾侍講筵末 廣舌如轆轤 霏霏吐玉屑
編者云はく吉雄敦及次に掲ぐる西雍は所謂儒醫なり。
姑く本節に収む。
《画像》p68【小倉市誌. 下編】大正10年
大正十年七月二十五日印刷
大正十年七月二十八日發行 〔小倉市誌下編〕
編纂兼發行者 小倉市役所
印刷者 鷲見九市
東京市牛込區市谷加賀町一丁目十二番地
印刷所 株式會社 秀英舎第一工場
東京市牛込區市谷加賀町一丁目十二番地
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※長女 朔 嫁 陸軍砲兵大尉 木内梧樓
【官報. 1902年08月26日】明治35年
免本職補臺灣守備砲兵第三大隊長 p2/9
野戰砲兵第五聯隊大隊長 陸軍砲兵少佐
木内梧樓
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[秋月藩]5万石 外様 黒田氏 子爵 福岡県朝倉市
「秋月嘉永分限帳」(『黒田三藩分限帳』福岡地方史談話会編、
西日本図書館コンサルタント協会、1980年)
より氏名と苗字のみを抜粋しました。
(同列)
戸原暦庵 佐谷永庵 福井伯民 戸原養拙 渡辺遷林 江藤養泰
〔画像〕「秋月嘉永分限帳」江藤養泰
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[橘葉医学舘]
天保七年三月、小笠原長会によって
橘葉医学館が市内京町札の辻に建てられた。
最初の守護となった保利文亮は筑前鹿家で医業を営んで
名医の誉の高い人であったが、
藩主小笠原長会に召されて、
嘉永弐年藩医に登用され、医学館の守護となった。
翌三年八月五日病改したが、養子文溟が継承した。
文溟は父の死後、秋月藩医江藤養泰に学び、
安政二年六月帰郷して橘葉館守護を命ぜられた。
後に献上唐津焼の中興と仰がれた草場見節を医学寮世話方に任じた。
又明治四年四月廿九日に蘭法医の大中春良を教師に迎え、
医学館の内容もいよいよ整った。
明治五年、耐恒寮洋学館が廃絶し、志道舘漢学部も衰微すると、
独り橘葉館のみとなり、学生の集るもの多く盛況を呈したが、
明治五年学制改革と共に橘葉館も衰微し遂に閉鎖されるに到った。
〔画像〕橘葉医学舘-秋月藩医江藤養泰
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[女将のご挨拶221 - 洋々閣]
仁の系譜 ~草葉の陰~
#221 平成30年8月
◎保利文溟 (ほりぶんめい) 医学者
文政八年―明治三十八年 (1825―1905)
名は貢、字は享甫、松浜と号す。佐志村神官宮崎但馬正の二男。
弱冠にして儒を筑前今宿亀井雷首に学び、
二十二才で唐津藩医保利文亮の養子となる。
父に就て医を学び、父没後、秋月藩江藤養泰に師事。
安政二年帰郷医学館主護となる。
元治元年御医師に召抱えらる。
明治三年橘葉医学館都講に任ぜられた。
医業のかたわら書画、詩歌、俳句を能くし著書に戎衣論あり、
賦するところ鶴城八景は広く世に伝わる。(保利哲郎)
〔画像〕女将のご挨拶221 - 洋々閣
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