吉雄蔵六・養正・正安・敦・菊瀕

《吉雄 敦=藏六》祖父を祐卓:字は公禮・號は菊瀕:小倉藩典醫 宗親の子:長男 藏六【小倉市誌. 下編】大正10年

《吉雄 敦=藏六》
祖父を祐卓:字は公禮・號は菊瀕:
小倉藩典醫 宗親の子:長男 藏六
【小倉市誌. 下編】大正10年

【小倉市誌. 下編】大正10年
《吉雄 敦》  p67-68/313
吉雄敦 字は公禮 菊瀕と號す。
小倉藩典醫 宗親の子なり。

天保十二年(1841) 日田 咸宜園に入り、
弘化三年(1846)  秋月 江藤泰養に醫を學びて歸り、君側に侍す。
           ※江藤泰養⇒江藤養泰

[日中両国における人痘接種法の比較研究]
 日本医史学会雑誌第五十巻第二号
 平成十六年六月二十日発行
Ⅱ 日本における人痘接種法    p10/36
三、緒方春朔の種痘法       p13/36
 春朔はこの種痘の成功を友人の医官・江藤養泰に見せると、
江藤は自分の女子に種痘を試みた。 p14/36
 緒方春朔の種痘法:医官・江藤養泰
〔画像〕緒方春朔の種痘法:医官・江藤養泰
※江藤泰養⇒江藤養泰:下記

四年(1847)    長崎に遊び、
嘉永元年(1848)  大坂に至り、緒方洪庵の門に入る。

五年(1852)    長州萩 靑木周弼に從學し、
安政二年(1855)  藩に還る。

明治二年(1869)  藩廳 豐津に移り、
         學を興すや、其の敎授となる。
         典醫舊の如し。

明治五年(1872)  醫業を棄て、勸業寮に出仕す。

六年(1873)    陸軍中尉となり、
八年(1875)    大尉に進む。

然れども痔疾を患ひ、遂に志を伸ぶるを得ず。

明治二十四年(1891)十月二十五日歿す。
享年六十三。

 按ずるに吉雄敦の祖父を祐卓 子因といふ。
 儒醫にして廣瀨淡窓と交あり。
 淡窓 小倉に在りし時、
 「小倉宿吉雄兄之宅、話舊面作」の詩あり。
 吉雄氏の宅は職人町
 (即ち柳木馬場にして室町五丁目電車通北側の邊)にありき

 〔吉雄菊瀕先生傳〕
 先生 吉雄氏、諱 敦、字 公禮、號 菊瀕、
 豐前小笠原侯典醫 宗親之長子也、
 文政十二年三月十六日(1829年4月19日)生、
 於小倉室町之邸、幼而頴悟、志於儒、
 天保十二年(1841)年十二、
 入豐後 日田 廣瀨淡窓 窻家塾宜園、
 螢雪之苦五年、學業大進、嶄然顯頭角、
 弘化三年(1846) 辭 宜園、
 從 筑前 秋月 江藤泰養、學醫 半歳而歸、
 擢󠄀侍於君側、先生非安於小成之器、
 遠遊之志不能禁、請解職、不聽、
 小倉小藩而在九州之咽喉、
 受幕末奢靡遊惰之餘弊殊■、 ※■:艹に匹
 士風偸安姑息、志學講道者尠矣、先生請遊學之擧、
 惟 父 宗親 慫慂之耳矣、上司及儕輩非沮之已矣、
 從而慢罵笑其狂、荏苒過年、
 四年(1847) 遂被許而遊 長崎、
 在 宗家 吉雄厚載 之門、學醫傍講儒、
     ※吉雄厚載:吉雄幸載?
     【西洋医術伝来史】昭和17年
      【西洋医術伝来史】p108
     〔画像〕【西洋医術伝来史】p108

 嘉永元年(1848) 至 大坂學於 緒方洪庵、
 當時諸藩知名之士、及其門者頗多、
 如 長藩 大村益次郎、世以明治復古之元勳稱、
 其他參 明治大政者不鮮、先生與此輩遂隨、
 與 益次郎 最親善、而先生以儒自期、
 故其出處自與此輩異焉、以是其事蹟亦無如是輩可睹、
 五年(1848) 西歸嗣家、直遊 長州萩 靑木周弼 之門、
 安政二年(1855) 藩命召還焉、先生性甚不懌醫、
 欲以以儒立、屢 辭職不聽、
 慶應二年(1866) 小倉藩 與 長州藩 構難也、
 先生扈幼主、避難於肥後、事平、
 小笠原氏 移 藩廳 於豐前豐津、興藩學、
 先生任敎授、典醫如舊、
 明治五年(1872) 政府廢藩置縣、
 先生於是始得棄醫業、仕官 任勸業寮九等出仕、
 六年(1873) 任陸軍中尉、
 七年(1874) 進 陸軍大尉 叙正七位、
 八年(1875) 患痔疾、以不堪軍職、
 轉 補陸軍八等出仕、
 爾後 終生殆爲痔疾所惱、
 在官徒從事薄書、宿志蹉跌矣、
 雖然講學不怠、在病蓐之中、手不曾放巻、
 明治二十三年(1890)秋 宿疴癒、
 退隱於豐津、欲籍筆硯舒其志、而天借年、
 二十四年(1891)七月 胃生癌、
 十月二十五日沒、享年六十有三、

 娶中川氏
 長男 藏六 嗣家、
 長女 朔 嫁 陸軍砲兵大尉 木内梧樓、 ※下記
 皆先妻之出也、
 二男 英三郎 爲 陸軍砲兵少尉、
 三男 寅五郎、
 四男 午六郎、
 二女 登米、
 三女 辰、
 皆幼、
 先生為人溫厚恭謙、操
 p67【小倉市誌. 下編】大正10年
《画像》p67【小倉市誌. 下編】大正10年

 持有規矩、接之使人有春風駘蕩之感、
 而其内有不可侵者、先生好讀歷史、
 傍用力詩文、成一家、常語人曰、
 幕府末葉以還、儒者之於經書、
 以多知古人之説爲務、所謂説話之學、
 靡然爲風、而體得實踐、附之忽諸、無寸益於實用、
 世人等閑視儒者亦宜也哉、
 學者之於經書、固雖講學之骨子、
 廣渉獵歷史、通暁古今之成敗、人事之變遷、
 以長識見磨材器、當今之時勢、
 寧爲急務、詩文雖末技、非籍之、不能發意思、
 先生之此言、鑑儒者迂腐、遠於實用而爾云乎、
 先生經綸之材、爲病疴所遮、不能施於世、
 而其發詩文者、亦散逸、惜矣夫
            緒方淸溪
 詠吉雄敦翁
 一朝抛刀圭 身在儒林列 詞藻巧天資 奇思眞卓越 天女衣不縫
 飃揚雅且潔 余昔抱詩書 曾侍講筵末 廣舌如轆轤 霏霏吐玉屑

 編者云はく吉雄敦及次に掲ぐる西雍は所謂儒醫なり。
 姑く本節に収む。
 p68【小倉市誌. 下編】大正10年
《画像》p68【小倉市誌. 下編】大正10年
大正十年七月二十五日印刷
大正十年七月二十八日發行 〔小倉市誌下編〕
編纂兼發行者 小倉市役所
印刷者 鷲見九市
    東京市牛込區市谷加賀町一丁目十二番地
印刷所 株式會社 秀英舎第一工場
    東京市牛込區市谷加賀町一丁目十二番地
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※長女 朔 嫁 陸軍砲兵大尉 木内梧樓
【官報. 1902年08月26日】明治35年
免本職補臺灣守備砲兵第三大隊長  p2/9
 野戰砲兵第五聯隊大隊長 陸軍砲兵少佐
 木内梧樓
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[秋月藩]5万石 外様 黒田氏 子爵 福岡県朝倉市
「秋月嘉永分限帳」(『黒田三藩分限帳』福岡地方史談話会編、
 西日本図書館コンサルタント協会、1980年)
より氏名と苗字のみを抜粋しました。
(同列)
 戸原暦庵 佐谷永庵 福井伯民 戸原養拙 渡辺遷林 江藤養泰
 「秋月嘉永分限帳」江藤養泰
〔画像〕「秋月嘉永分限帳」江藤養泰
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[橘葉医学舘]
 天保七年三月、小笠原長会によって
橘葉医学館が市内京町札の辻に建てられた。
最初の守護となった保利文亮は筑前鹿家で医業を営んで
名医の誉の高い人であったが、
藩主小笠原長会に召されて、
嘉永弐年藩医に登用され、医学館の守護となった。
翌三年八月五日病改したが、養子文溟が継承した。
文溟は父の死後、秋月藩医江藤養泰に学び、
安政二年六月帰郷して橘葉館守護を命ぜられた。
後に献上唐津焼の中興と仰がれた草場見節を医学寮世話方に任じた。
又明治四年四月廿九日に蘭法医の大中春良を教師に迎え、
医学館の内容もいよいよ整った。
明治五年、耐恒寮洋学館が廃絶し、志道舘漢学部も衰微すると、
独り橘葉館のみとなり、学生の集るもの多く盛況を呈したが、
明治五年学制改革と共に橘葉館も衰微し遂に閉鎖されるに到った。
 橘葉医学舘-秋月藩医江藤養泰
〔画像〕橘葉医学舘-秋月藩医江藤養泰
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[女将のご挨拶221 - 洋々閣]
 仁の系譜 ~草葉の陰~
#221 平成30年8月
◎保利文溟 (ほりぶんめい) 医学者
 文政八年―明治三十八年 (1825―1905)
 名は貢、字は享甫、松浜と号す。佐志村神官宮崎但馬正の二男。
弱冠にして儒を筑前今宿亀井雷首に学び、
二十二才で唐津藩医保利文亮の養子となる。
父に就て医を学び、父没後、秋月藩江藤養泰に師事。
安政二年帰郷医学館主護となる。
元治元年御医師に召抱えらる。
明治三年橘葉医学館都講に任ぜられた。
医業のかたわら書画、詩歌、俳句を能くし著書に戎衣論あり、
賦するところ鶴城八景は広く世に伝わる。(保利哲郎)
 女将のご挨拶221 - 洋々閣
〔画像〕女将のご挨拶221 - 洋々閣
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《吉雄菊瀕》[名は敦・字は公禮・号を菊瀕=行草書七律][名は正安・字は公礼・通称は敦=コトバンク]

《吉雄菊瀕》
[名は敦・字は公禮・号を菊瀕=行草書七律]
[名は正安・字は公礼・通称は敦=コトバンク]

菊瀕吉雄敦、行草書七律(幕末維新、AD1829~1891)
    絹本肉筆・・縦23cm、横16cm
「菊瀕」の下に、陰刻「吉敦」と陽刻「菊頻」の落款が押されている。
吉雄菊瀕は豊前の人で、名は敦、字は公禮、号を菊瀕と称し、
唐津藩の侍医吉雄宗親の長子で幼にして儒者を志し、
広瀬淡窓の門人となって詩文を学び、
後に医術を学んで君側に侍り、
更に大阪で緒方洪庵に入門するが、
明治以後は陸軍大尉となった儒医である。
 吉雄菊瀕は豊前の人
《画像》吉雄菊瀕は豊前の人
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吉雄菊瀕 よしお-きくひん
コトバンク吉雄菊瀕
《画像》コトバンク吉雄菊瀕
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
1829-1891 幕末-明治時代の医師。
文政12年3月16日※1829年4月19日生まれ。
豊前(ぶぜん)小倉藩(福岡県)藩医
豊後(ぶんご)日田(ひた)の咸宜(かんぎ)園で儒学を,
筑前(ちくぜん)秋月で医学をまなび,侍医となる。
さらに長崎に遊学,大坂の緒方洪庵,
長門(ながと)の青木周弼(しゅうすけ)にまなぶ。
嘉永(かえい)7年藩内最初の種痘を実施した。
のち藩校育徳館で洋学をおしえた。
明治24年(1891)10月25日死去。63歳。
名は正安。字(あざな)は公礼。通称は
コトバンク解説・吉雄菊瀕
《画像》コトバンク解説・吉雄菊瀕
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《吉雄菊瀕=敦》田中光顕伯爵が吉雄菊瀕の原案に基き「遊就館」と決定:靖国神社

《吉雄菊瀕=敦》田中光顕伯爵が吉雄菊瀕の原案に基き「遊就館」と決定:靖国神社

靖國神社 遊就館の歴史
 1-靖國神社
《画像》1-靖国神社
 2-遊就館の歴史
《画像》2-遊就館の歴史

 遊就館の歴史
◆遊就館は明治10年の西南戦争が終わるころ設立の構想が出され、
同12年に陸軍卿・山県有朋を中心に、
「御祭神の遺徳を尊び、また古来の武具などを展示する施設」として構想され、
イタリアの雇教師カペレッティーの設計により、
明治14年にイタリア古城式の建物が竣工し、
翌15年2月25日に開館式が行われました。

館名は、構想段階で正式名称が決定するまでは
「額堂並に武器陳列場」と仮称されていましたが、
後の宮内大臣 田中光顕伯爵が
学者吉雄菊瀕の原案に基づいて正式名称を「遊就館」と決定しました。
 3-学者吉雄菊瀕の原案
《画像》3-学者吉雄菊瀕の原案
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《吉雄 敦》陸軍大尉 陸軍省準奏任御用掛 福岡県豊前国京都郡大谷村五百七十一番地

《吉雄 敦》 陸軍大尉 八等出仕 陸軍省準奏任御用掛
       福岡県豊前国京都郡大谷村五百七十一番地
       文政十二年三月十六日生※1829年4月19日
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[一等給下賜 中尉 吉雄 敦 三月五日] p1/2
レファレンスコード C10071879200
件名 3月7日 1等給下賜中尉吉雄敦
【 画像数 】2
作成年月日 明治7年1月
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[一 同 中尉 吉雄 敦] p4/22
レファレンスコード C09120193000
件名 8.25 宮内卿 聖上皇后宮御写真別紙の者へ願の通下賜候
【 画像数 】22
作成年月日 明治7年8月25日
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[叙正七位 吉雄 敦]
陸軍省日誌明治七年第九十号  p1/16
○十一月七日
 御沙汰書
任陸軍少佐  陸軍大尉正七位  風間繁成
叙正七位            鮫島宗条
同               吉雄 敦
任陸軍中尉      陸軍少尉 滝 貞美
任陸軍少尉  兵学寮十三等出仕 三村友芸
達書
参謀局第三課分課被 仰付 陸軍省四等出仕 大鳥圭介
 C08010410900-1
《画像》C08010410900-1
レファレンスコード C08010410900
件名 第90号11月7、8、9日、8月31日分
【 画像数 】16
作成年月日 明治7年11月
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[任 陸軍大尉  陸軍中尉 吉雄 敦]
陸軍中尉 吉雄敦 任陸軍大尉  p3/10
レファレンスコード C04025400700
件名 式部寮より本多忠直宣下
【 画像数 】10
作成年月日 明治7年7月19日~
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[吉雄 敦]
一 吉雄敦  p2/21
叙正七位   p7/21
レファレンスコード C04026033400
件名 明治7年 「大日記 宣旨 1月起12月畢 令 陸軍第1局」(5の5)
【 画像数 】21
作成年月日 明治7年1月~明治7年
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[八等出仕 吉雄 敦 入浴休暇之儀ニ付伺]
  八等出仕 吉雄 敦 入浴休暇之儀ニ付伺
八等出仕 吉雄敦 病気為 @入浴之儀別紙之通願出
@之通御許可相成度此段相伺候也
 明治十二年二月十日
     第一局長代理
       陸軍中佐 浅井道博
  陸軍卿 西郷従道代理
   陸軍少将 小澤武雄殿

 伺之通 二月十日 〔陸軍少將 小澤武雄 印〕 p2/2
レファレンスコード C04028420900
件名 1より吉雄入浴伺
【 画像数 】2
作成年月日 明治12年2月10日
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[年報編纂掛 八等出仕 吉雄 敦]
年第十一号
局四百九号
一 康熙字典 全記
右@年報編纂ニ付入用之儀@条
御渡@相成@様願度此段相伺也
  年報編纂掛
 明治十二年四月廿一日 八等出仕 吉雄 敦
   陸軍少将 小沢武雄殿
レファレンスコード C04028496400
件名 年報掛より康煕字典渡し方伺
【 画像数 】1
作成年月日 明治12年5月
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[八等出仕 吉雄 敦]
八等出仕 吉雄 敦  p2/50
同局記室課々僚付之事
レファレンスコード C04028675600
件名 明治12年「大日記 10月 宣告辞令進退諸達伺 令 陸軍省総務局」(4の2)
【 画像数 】50
作成年月日 明治12年10月
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[吉雄 敦:文政十二年三月十六日生※1829年4月19日]
 八等出仕 吉雄 敦 上等給下賜之儀上申 p1/4
   総務局記室課々僚
      八等出仕 吉雄 敦
右職務勉励其才能 上等給適当之者ニ付 自今上等給
下賜度 此段申進候也
 明治十三年三月十二日
   総務局長 陸軍少将 小沢武雄
  陸軍卿 大山巌殿
 C10072449800-1
《画像》C10072449800-1

  福岡県士族  p3/4
   吉雄 敦
   文政十二年三月十六日生 ※1829年4月19日
一 明治二年正月十四日 任豊津藩校助教
一 五年九月七日    勧工寮九等出仕被申付
一 六年五月八日    任陸軍中尉
一 七年三月七日    一等給下賜
一 七年七月廿二日   任陸軍大尉
一 七年十一月五日   敘正七位
一 八年九月八日    補陸軍省八等出仕
一 十年一月十一日   出仕被廃
一 十年一月十二日   補陸軍省八等出仕
 C10072449800-3
《画像》C10072449800-3
レファレンスコード C10072449800
件名 小沢少将 3月12日 8等出仕吉雄敦上等給下賜の儀上申
【 画像数 】4
作成年月日 明治13年3月12日
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[吉雄八等出仕より願済に付熱海表へ罷越候間御届]
   敦儀
今般願済ニ付五月二日発程豆州
熱海表ヘ罷越候間此段申進候也
十三年五月二日
  八等出仕 吉雄 敦
 総務局長 陸軍少将 小沢武雄殿
レファレンスコード C10072555500
件名 吉雄8等出仕より願済に付熱海表へ罷越候間御届
【 画像数 】1
作成年月日 明治13年5月2日
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[吉雄八等出仕より箱根塔の沢温泉へ入浴済帰京仕候間御届]
   敦儀
依願往復ヲ除キ三週間 相州箱根塔ノ沢温泉ヘ入浴済
本日 帰京仕候間 御侯乃届申上候也
   明治十三年五月二十五日
   八等出仕   吉雄 敦
総務局長 陸軍少将 小沢武雄殿
レファレンスコード C10072558400
件名 吉雄8等出仕より依頼箱根塔の沢温泉へ入浴済帰京仕候間御届
【 画像数 】1
作成年月日 明治13年5月
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[八等出仕 吉雄敦 依願免出仕及 当省御用掛及総務局課僚仰付]
   八等出仕 吉雄 敦
依願免出仕
  吉雄 敦
当省御用掛ヒ@候事
 准奏任月給金八十五円下賜事
   右同人
総務局課僚仰付候事
前書之通候条 別紙本人ヘ可相達候也
明治十七年八月三十日
   陸軍卿 西郷従道
 総務局長 小沢武雄殿
レファレンスコード C10072857000
件名 8月30日 小澤総務局長
   8等出仕吉雄敦依願免出仕及当省御用掛及総務局課僚仰付
【 画像数 】2
作成年月日 明治17年8月30日
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[官報購読義務を被免通牒]
 送甲第六五六号
   当省准奏任御用掛
     工藤雅節
右依願御用掛被免
   同
     吉雄 敦
右非職被仰付
前書ノ通ニ候条 自今官報購読義務ヲ免レ候
間此段及御通牒候也
 十九年三月二十日 陸軍省総務局
  駅逓局 官報買揃所御中
レファレンスコード C03030019100
件名 工藤雅節外1名官報購読義務を被免通牒
【 画像数 】1
作成年月日 明治19年03月20日
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[總務局より駅逓局へ被免の通牒]
送乙第一四六三号
  准奏任御用掛 工藤雅節
  仝      吉雄 敦
右非職並@免相成候旨 駅逓局ヘ
通知致置候条為心得通牒
 三月二十七日 総務局次長
レファレンスコード C06080021700
件名 総より駅逓局へ工藤外1名被免の通牒
【 画像数 】1
作成年月日 明治19年3月27日
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[吉雄 敦:福岡県豊前国京都郡大谷村五百七十一番地]
陸軍省受領 二第一二九六号
   福岡県豊前国京都郡大谷村
   五百七十一番地 士族
    非職 元陸軍省准奏任御用掛
       吉雄 敦
右之者 本月二十日 当本部 陸軍部雇 申付
月給金五拾円給与致シ候条 此段及御通牒候也
 追テ右之趣其筋ヘ御通牒相成度
 此段申添候也
 明治二十年五月二十三日
   参謀本部 陸軍部 副官 土屋可成
  陸軍省 総務局 次長 児嶋益謙殿
 C10050304400
《画像》C10050304400
レファレンスコード C10050304400
件名 非職元陸軍省准奏任御用掛の者参謀本部陸軍部雇申付の件通牒
【 画像数 】1
作成年月日 明治20年5月23日
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『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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《吉雄正安=敦》豊前小倉藩十五万石・切米名簿:藩校育徳館:東本願寺・咸宜園

《吉雄正安=敦》豊前小倉藩十五万石・切米名簿:藩校育徳館:東本願寺・咸宜園

豊前小倉藩十五万石
豊津藩士族地行・切米名簿
吉雄正安 7人扶持 格式中士
 豊津藩士族地行・切米名簿
《画像》豊津藩士族地行・切米名簿
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一橋大学機関リポジトリ
日本の商人と商人家族のおこなう教化と教育の歴史(上)
  中内敏夫
p6/10
69(明治2)年7月16日、かれは藩校育徳館の御学館
が蔵書が少なく困っているときいて、地域の他の豪商2
人と相談して「為資料金子千五百両差上申度」との「口
上覚」を差出した。この金で吉雄正安が大阪へ本を求め
にゆき、8月13日には藩主から嘉左右にほうびが与えら
れた。72年には育徳館の分校の大橋洋学校の外人教師カ
ステロの月俸を半分たてかえてくれないかと学校側がい
うので、「証文」をとって「金札八十七両弐歩貸渡」し
た。大橋洋学校は維新の政治革命でおくれをとった小倉
藩が学校教育でこれをとりもどすべくつくられた「洋学」
 吉雄正安が大阪へ本p6
《画像》吉雄正安が大阪へ本p6
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関西大学学術リポジトリ
松本 白華・北方心泉を中心に
p15/71
また、長三州『韻華楼日記』の8月2日には、
「昨日広瀬林外来。先是余柬長松文助薦広瀬林外・青木錦邨・
吉雄正安三人于正院記録局既而林外拝命。」とあり、
広瀬林外・青木錦邨・吉雄正安ら三人の咸宜園出身者を
長松文助に口利きを依頼して、林外は正院記録局に就職している。
 明治期における東本願寺の清国布教について
《画像》明治期における東本願寺の清国布教について
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《吉雄養正=敦》『緒方洪庵と適塾』:適塾記念会所蔵 適塾門下生書簡

《吉雄養正=敦》『緒方洪庵と適塾』:適塾記念会所蔵 適塾門下生書簡

『緒方洪庵と適塾』梅溪 昇・2001年6月1日発行
 1『緒方洪庵と適塾』
《画像》1『緒方洪庵と適塾』

吉雄養正もまた広瀬淡窓に学び、 p138
長崎を経て適塾に学び、のち典医となる。
廃藩の後陸軍に出仕した。
 『緒方洪庵と適塾』p138-139
《画像》『緒方洪庵と適塾』p138-139

福岡県 33人  p154
吉雄 養正(161)
 『緒方洪庵と適塾』p154-155
《画像》『緒方洪庵と適塾』p154-155
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『適塾』第 1 号(昭和 31・1956 年)~第 52 号(令和元年・2019 年) 総目次
p11/25
〔第 28 号〕平成 7(1995)年 12 月 1 日
<適塾門下生調査>
適塾門下生に関する調査報告(15) 芝哲夫
宇治田隼太・武谷祐之・桑原林庵・牛島養朴・中島泰民・
舟曳卓介・佐野栄寿・伊藤精一・丸川襄吉・
吉雄敦・伊藤貞斎・鶴田仙庵・高松春民・工藤寛哉・
吉川圭周・藤野良泰・吉永永叔・高原治郎作・
小野義真・所郁太郎・青木玄英・松下済民・上野春庭・
江馬天江・奥村春斎・久坂玄機・高橋正直
 〔第 28 号〕平成 7(1995)年 12 月 1 日p11
《画像》〔第 28 号〕平成 7(1995)年 12 月 1 日p11

p15/25
〔第 36 号〕平成 15(2003)年 12 月 1 日発行
適塾記念会所蔵 適塾門下生書簡 芝哲夫
―長与専斎、渡辺卯三郎、小林文叔、渋谷良次、土山春庵、
 吉雄養正、佐野常民―  
〔第 36 号〕平成 15(2003)年 12 月 1 日発行p15
《画像》〔第 36 号〕平成 15(2003)年 12 月 1 日発行p15
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適塾入門者都道府県別一覧(『姓名録』による。『緒方洪庵と適塾』所収)
  適塾を訪ねる
大阪府(19)
吉雄卓爾=緒方拙斎
福岡県(33)
吉雄養正
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《吉雄藏六=敦》種痘の儀、仰付らる・安政1年6月14日【福岡県史資料. 第10輯】昭和14年

《吉雄藏六=敦》種痘の儀、仰付らる
安政1年6月14日(1854年7月8日)
【福岡県史資料. 第10輯】昭和14年

《安政1年:1854》
【福岡県史資料. 第10輯】昭和14年
  一〇 小倉藩史年表  p306/442
  中村平左衞門日記(中村)
安政元年         p324/442
六月十四日 種痘の儀、官醫 吉雄藏六に仰付らる。(中村)
【福岡県史資料. 第10輯】p324
〔画像〕【福岡県史資料. 第10輯】p324

【福岡県史資料. 第5輯】昭和10年
  一五 企救郡中村平左衞門日記  p322/418
安政元甲寅歳            p342/418
種痘                p345/418
一 安政元年十月十八日(1854年12月7日)
  役宅にて、種痘に付、吉雄藏六殿被參、
  手永之醫芳洲、元立、元幹、周輔も參る。
  村々種兒共六拾人余、沼村よりも七人參り、
  以上七十人程也。
【福岡県史資料. 第5輯】p345
〔画像〕【福岡県史資料. 第5輯】p345

《安政5年:1858》
【福岡県史資料. 第10輯】昭和14年
  一〇 小倉藩史年表  p306/442
  中村平左衞門日記(中村)
安政五年         p325/442
小倉職人町 吉雄氏 種痘を行ふ。(小森)
【福岡県史資料. 第10輯】p325
〔画像〕【福岡県史資料. 第10輯】p325
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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医学史の世界
佐賀地域は大陸や西洋文化の先進受容地で発信地でした。
その様相を紹介していきます。
種痘法の普及、小倉領吉雄医師
2017年08月01日
 ―略―
◆小倉領の企救郡小森手永の大庄屋を勤めた
友石承之助(大庄屋在勤中は小森承之助と称した)が
書き綴った日記のうち、
安政5年(1858)・6年・7年の3冊が、
『小森承之助日記』第1巻として翻刻されており、
現在、北九州市いのちのたび博物館で販売中。
 ―略―
安政五年(一八五八)一一月八日の藩からの来状があった。
◆一一日になって田代村から女の仔牛一匹、
三岳村から牡の仔牛一匹、計二匹を、
職人町の吉雄医師のもとへ牛曳きらが引き連れて職人町へ連行し、
接種させた。
さらに一週間後にこの二頭を再び職人町吉雄氏のもとに連行している。
◆一週間後といえば、人間に接種してから一週間後に種を取って、
他の子に接種するので、同様に、牛に植えて、
牛痘の種を取ろうとする試みが、小倉藩領で行われていたのだった。
◆その後、種痘牛のことは出てこないので、
これはおそらく失敗したのだろうけれども、
吉雄氏なる医師によって、
仔牛に牛痘を植えて新たな牛痘の種を取得する試みが
為されていたことは、
今まであまり知られていないことであった。
 ―略―
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 科学研究費助成事業 研究成果報告書
   平成30年6月16日現在
研究課題名(和文)
九州地域の種痘伝播と地域医療の近代化に関する基礎的研究
 (9)小倉藩領でも郡医らが先に種痘を実施し、  p2/4
 小倉城下職人町医師吉雄権六が種痘実施し
た触れが嘉永7年6月12日に出されている。
   ※1854年7月6日
同領では安政5年(1858)に牛痘を牛に種え
てリフレッシュさせる再帰牛痘法を安政5年
(1858)段階で郡医らが試みていた。
 小倉藩では、安政5年(1858)に再帰牛痘法
〔画像〕小倉藩では、安政5年(1858)に再帰牛痘法
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《吉雄藏六=敦》祖父 吉雄祐卓:豐前小倉職人町・咸宜園:天保12年(1841)9月~弘化3年(1846)4月【淡窓全集. 下巻】

《吉雄藏六=敦》祖父 吉雄祐卓:豐前小倉職人町・咸宜園:
天保12年(1841)9月~弘化3年(1846)4月
【淡窓全集. 下巻】

※《吉雄藏六⇒養正⇒正安⇒敦⇒菊瀕》の長男も《藏六》
  詳細は別稿に記載:小野一雄

天保12年9月1日(1841年10月15日)
而詣吉雄氏。祐卓設饗。元柳。猪三郎同座。
使其子藏六見。
天保12年9月7日(1841年10月21日)
藏六入塾。祐卓

弘化3年4月20日(1846年5月15日)
藏六去。之秋月學醫也。

【淡窓全集. 下巻】
 進修錄巻一 (六十歳)      p166/724
天保十二年辛丑正月元日 予年六十。 p166/724
※1841年1月23日
八月晦日 p179/724
夜吉雄祐卓來見。
耕治詣吉雄氏宿。

九月朔  p179/724
而詣吉雄氏。
祐卓設饗。元柳。猪三郎同座。
使其子藏六見。
祐卓。

九月二日 p179/724
既而返吉雄氏。
祐卓供酒。
彦六與焉 午後祐卓導散歩街上。

九月三日   p179/724
發小倉。
從行四人。範治。(池松)耕治。藏六。
二子皆以今度入門。
從至日田。

九月七日   p179/724
藏六入塾。祐卓。

 晋修錄巻五 (六十二歳)      p206/724
天保十四年癸卯正月元日 予年六十二。 p206/724
※1843年1月30日
六月二十五日    p214/724
藏六 加三權五級上
八月二十六日    p217/724
藏六 加三權六級下
十月二十六日    p221/724
藏六 加四權六級上
十月二十九日    p221/724
藏六將歸。

 晋修錄巻七 (六十三歳)        p224/724
天保十五年甲辰正月元日戊辰。 予年六十三。p224/724
※1844年2月18日 干支年 甲辰 干支日 戊辰
六月十八日      p232/724
元八。藏六。萊藏去。

 晋修錄巻九 (六十四歳)        p246/724
天保十六年乙巳正月元日 予年六十四。   p246/724
※弘化2年1845年2月7日
天保から弘化への改元が行われたのは
グレゴリオ暦1845年1月9日であり、
和暦が新年を迎えないうちに
西暦だけが新年を迎えている期間であった。
弘化元年は西暦1845年1月9日から同2月6日までの
短い期間であるため、
和暦と西暦を一対一で対応させようとする場合、
天保15年=弘化元年=西暦1844年、
弘化2年=西暦1845年となって実際とはずれが生じる。
十一月三日            p263/724
藏六爲常侍史。
是舊任也。因疾與歸郷中缺。故記。
十一月二十四日          p264/724
夜半地震。塾生二人留宿。藏六壽軒。
十一月二十五日          p264/724
改月旦評。…藏六。…除名。
十一月二十八日          p264/724
夜會話招隱洞。…會者。…藏六。亨。醵飮且食。
十二月十八日   p265/724
藏六。榮司從行。
十二月二十日   p265/724
午牌與範治小酌。
三郎。熊峯。藏六。璋二。良哉會至。與焉。

進修錄巻十一 (六十五歳) p267/724
弘化三年丙午正月元日 予年六十五。
※1846年1月27日
藏六。孝之助。同座。
藏六及奴初藏從行。
正月六日 藏六。
藏六及奴初藏從行。 p268/724
正月十日      p268/724
藏六。
正月二十五日    p268/724
藏六加六權七級上。
四月二十日     p272/724
藏六去。之秋月學醫也。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【淡窓全集. 下巻】
入門年月日 天保十二年九月五日(1841年10月19日) p639/724
住   所 豊前 小倉 職人町
氏   名 吉雄 藏六
年   齢 十三歳
紹 介 者 吉雄 祐卓
入門年月日 天保十四年二月廿日(1843年3月20日) p640/724
住   所 豊前小倉田川郡油湏原町
氏   名 和田 玄仲
年   齢 十六歳
紹 介 者 吉雄 藏六

【福岡県史資料. 第1輯】
  一九 咸宜園遊學者  p348/431
天保一二年九月五日(1841年10月19日)
豊前小倉職人町  吉雄 藏六
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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