《松風幸造》四代目嘉定の養子【人事興信録. 第15版 上】昭和23年(1948)
【人事興信録. 第15版 上】昭和23年(1948)
《松風幸造》 p262/292
《松風幸造》 p262/292
松風工業(株)常務
松風陶器(株)取締役
大阪商工局勞働問題囑託
京都出身
大正七年三月 京都市 八木政一の二男に生れ
嘉定の養子となつた
昭和十六年 京大法學部を卒業し ※下記(八木幸造)
現時前記の職にある
家族
養祖母 ナカ
養母 美代
妻 喜美
長女 悠美子
養妹 美子
同 俊子
(京都市東山區清水坂二丁目)
(電話 祇園二八四)
【京都帝国大学一覧. 昭和17年度】
○卒業生姓名(五十音順) p232/336
法學部 法學士
○昭和十六年十二月學士試驗合格 p232/336
八木幸造 京都 p234/336
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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松風の創業者 松風嘉定について
美術陶磁器から人工陶歯まで
今村 嘉宣
Ⅱ.松風家の系譜 p1/12
1.初代松風嘉定(しょうふう かじょう)
〈僧より転じた製陶家〉
尾張の国鳴海の出身で山科小栗栖の寺の住職をしながら
半僧半俗の托鉢生活をしていた。
筆墨の道にも長けた僧で、趣味で陶芸を学んでおり、学問は和漢に通じ、
美術品に対する鑑識の眼力は時流を抜く存在であった。
清水坂に移り嘉永元年(1848)ごろから製陶業を本業とする。
当時、磁器の多くは概ね中国より渡来のもので
原材料は国内で入手が難かったが、
初代は磁器の将来を見込んでその製造研究に傾倒した。
「松風」家名の由来は諸説あるが、
清水寺御詠歌の「松風や音羽の瀧の清水を結ぶ心は涼しかるらん」
からとされている。
2.二代目松風嘉定(嘉響) p2/12
〈清水における輸出磁器製造の嚆矢〉
尾張国東春日井郡大泉村の山田家の出身。
天保13年(1842)に生まれる。
瀬戸で製陶を学び、三代目嘉定実父の井上延年と仲間であった。
経営の才能があり、慶応2年25才の時、
初代嘉定にその腕を見込まれ、養子として二代目となる。
Ⅲ.三代目松風嘉定〈窯業を近代工業化した先駆者〉
1.三代目嘉定の略歴
明治3年(1871)に瀬戸の陶工井上延年の長男
常太郎として瀬戸に生まれる。
明治11年(1879)常太郎8歳の折、
名古屋の博覧会に行幸の明治天皇の御前で国貞県令に選ばれ、
獅子の小面をお捻りにてご披露する。
山高信離ご説明「天上の石麒麟」と賞賛される(図5)。
陛下より御賞詞賜る。
瀬戸美術学校を卒業し、一時東京の井上良斎方に滞在する。
伏原有文に英語や漢文の指導を受ける。
明治21年 京都陶器株式会社に就職。
明治23年 二代目嘉定長女と結婚し三代目嘉定となる。
明治25年 京都陶磁器商工巽組合設立に尽力し設立する。
先代より「松風亭」と号していたものを廃し「松風」と号する。
明治39年 松風陶器合資会社を設立する。社長就任。
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