今村ケイ:前島ケイ

《近角常觀》《伊藤賢道》《春日圓城》【第一高等学校一覧】【東京帝国大学一覧】

《近角常觀》《伊藤賢道》《春日圓城》【第一高等学校一覧】【東京帝国大学一覧】

《近角常觀》
第一高等学校 入学 明治23年(1890)
       卒業 明治28年(1895)
東京帝国大学 文科大学 哲学科
       入学 明治28年(1895)
       卒業 明治31年(1898)

《伊藤賢道》
第一高等学校 入学 明治23年(1890)
       卒業 明治28年(1895) 
東京帝国大学 文科大学 漢学科
       入学 明治28年(1895)
       卒業 明治31年(1898)

《春日圓城》
東京帝国大学 文科大学 国史科
       入学 明治28年(1895)
       卒業 明治31年(1898)
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《近角常觀》《伊藤賢道》
第一高等中學校 予科入学 明治23年(1890)
【第一高等学校一覧. 明治23-24年】
第一高等中學校一覽目錄(本校分) p1/74
 〇第二十章 生徒姓名      p39/74
  〇本 科
  〇豫 科           p48/74
 英第三級二之組
就學所 入 學 年 月 等級 廰府 縣族 姓  名 生 年 月
應 募 明治廿三年七月 三級 滋賀縣平民 近角常觀 明治三年十二月
應 募 明治廿三年七月 三級 三重縣平民 伊藤賢道 慶應元年六月

【第一高等学校一覧. 明治24-26年】
 英第一級三之組     p161/186
入 學 年 月 等級 廰府 縣族 姓  名 生 年 月
明治廿三年七月 三級 滋賀縣平民 近角常觀 明治三年十二月
明治廿三年七月 三級 三重縣平民 伊藤賢道 慶應元年六月

【第一高等学校一覧. 明治26-29年】
第一高等中學校一覽 自明治二十六年 至明治二十七年 p1/237
 〇第十章 生徒姓名   p54/237
  〇本 科
 一部一年三之組(文科) p57/237
近角常觀  滋賀
伊藤賢道  三重
第一高等中學校一覽 自明治二十七年 至明治二十八年 p76/237
 〇第九章 學生姓名(明治廿八年二月一日調)    p132/237
一部三年四之組(文科)  p133/237
近角常觀  滋賀
伊藤賢道  三重     p134/237
第一高等中學校一覽 自明治廿八年 至明治廿九年 p154/237

《近角常觀》《伊藤賢道》
第一高等学校 明治28年(1895) 卒業
【第一高等学校一覧. 明治33-35年】
  〇第七章 卒業生姓名  p67/239
〇明治二十八年七月(第一高等學校大學豫科)卒業 p90/239
         (二百二十九名)
  文科志望(三十七名)  p91/239
近角常觀  滋賀
伊藤賢道  三重
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《近角常觀》《伊藤賢道》《春日圓城》
東京帝国大学 文科大学 明治28年(1895) 入学
【東京帝国大学一覧. 明治28-29年】
  第五 文科大學學生及生徒 p176/308
     (姓名ノ上ニ〇印ヲ附スルハ特待生)
 哲學科           p177/308
   第一年(姓名イロハ順) p178/308
近角常觀  滋賀
 漢學科           p179/308
   第一年(姓名イロハ順) p179/308
伊藤賢道  三重
 國史科           p179/308
   第一年(姓名イロハ順) p180/308
春日圓城  新潟

【東京帝国大学一覧. 明治29-30年】
  第五 文科大學學生及生徒 p195/334
     (姓名ノ上ニ〇印ヲ附スルハ特待生)
 哲學科           p195/334
   第二年
 近角常觀  滋賀      p196/334
 漢學科           p197/334
   第二年
〇伊藤賢道  三重      p198/334
 國史科
   第二年
 春日圓城  新潟      p198/334

【東京帝国大学一覧. 明治30-31年】
 第五 文科大學學生及生徒 p209/360
     (姓名ノ上ニ〇印ヲ附スルハ特待生)
 哲學科          p210/360
   第三年
 近角常觀  滋賀     p211/360
 漢學科          p213/360
   第三年
〇伊藤賢道  三重
 國史科
   第三年
 春日圓城  新潟

《近角常觀》《伊藤賢道》《春日圓城》
東京帝国大学 文科大学 明治31年(1898)卒業
【東京帝国大学一覧. 明治31-32年】
 哲學科       p263/331
明治三十一年七月卒業
 近角常觀  滋賀  p263/331
 漢學科
明治三十一年七月卒業
 伊藤賢道  三重  p265/331
 國史科
明治三十一年七月卒業
 春日圓城  新潟  p265/331
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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第五章 第二節 近代の布教者に見る伊藤康善との比較
第一項 近角常観の廻心と獲信への導き
 ―略―
父から仏教を学んだ常観は、元彦根藩士が開いた寺子屋に通う。
その後、東本願寺が経営する京都府尋常中学校に学んだ。
同校の校長として一八八八年(明治21年)七月に赴任したのは
清澤満之(一八六三~一九〇三)であり、
常観は清澤から卒業証書を受け取っている。
成績優秀だった常観は、
一八八九年(明治22年)七月に東本願寺の留学生として、
春日圓成、伊藤賢道と東京留学に向かうこととなった。
※春日圓城
上京した常観は、
一八九〇年(明治23年)に第一高等中学校の予科へ入学、
一八九三年(明治26年)に同校本科へと進学し、
一八九五年(明治28年)に卒業した。
同じ年の九月に帝国大学文科大学哲学科へ進み、
一八九八年(明治31年)七月に学士号を取得した。
常観は、宗教哲学を研究するため大学院へ進んだ。
 ―略―
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伊藤賢道(杭州日文学堂兼浙江布教監理)明治39年8月13日台湾に引き揚げ:近代における真宗の対アジア布教の展開過程

伊藤賢道(杭州日文学堂兼浙江布教監理)
明治39年8月13日台湾に引き揚げ:
近代における真宗の対アジア布教の展開過程

(共同研究)
 近代における真宗の対アジア布教の展開過程
           木場明志
           小島 勝
           桂華淳祥
           遠藤 一

 真宗総合研究所紀要 第九号

 二 近代のアジア地域における真宗大谷派開教使の教育事業 p5/45

明治三二年(一八九九)   p7/45
  一月    南京に金陵東文学堂を開設。
  同月    杭州に日文学堂を開設。
  五月二〇日 蘇州に日文学堂を開設。

明治三九年(一九〇六)
  八月十三日 伊藤賢道(杭州日文学堂兼浙江布教監理)、
        中国僧学堂開設に尽力中のところ、
        出先日本領事より退去命令を受け
        止むなく台湾に引き揚げる。
        ために多年にわたる杭州開教が頓挫。
p7-真宗総合研究所紀要 第九号
〔画像〕p7-真宗総合研究所紀要 第九号
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《伊藤賢道》ニ清国在留禁止ヲ命セシ以来(明治39年8月13日)当館管内ニハ一人モ本邦布教者在留不致候:明治41年11月

《伊藤賢道》ニ清国在留禁止ヲ命セシ以来(明治39年8月13日)
 当館管内ニハ一人モ本邦布教者在留不致候:明治41年11月

杭州
B12081606500-1
〔画像〕B12081606500-1

機密第七号
 明治四十一年十一月二十四日
       在杭州
   領事館事物代理 吉岡彦一

 外務大臣伯爵小村寿太郎殿

  当館管内ニハ本邦布教者在留セサル件

当館管内ニ於ケル本邦布教者ニ就キ取調方
本月十六日付機密送第一二号ヲ以テ御訓令ノ趣敬承候処
明治三十九年八月十三日当時
杭州在留ノ大谷派本願寺派遣僧
伊藤賢道ニ清国在留禁止ヲ命セシ以来
当館管内ニハ一人モ本邦布教者在留不致候
蓋シ髙洲前任領事ヨリ其当時及稟申候如ク
伊藤賢道ニ在留禁止ヲ命シタハ
同僧ガ浙江江蘇ニ亘リテ常ニ各所ニ出没シ
金銭ヲ徴シテ信徒ヲ収容シ
又ハ書ヲ裁シ
地方官ニ向テ信徒ノ保護ヲ請求スル等ノ
穏ナラサル行為アルニ加ヘテ
時ニ清国寺院ヲ本願寺ニ帰依センモノヽ如ク装ヒ
寺院ヲ学校用ニ徴発スル清国人ノ処置ニ反抗シ
謝礼ヲ受クル等ニテ深ク当地方官民ノ嫌悪ヲ受ケ
其行為地方安寧ヲ妨害セントスルモノト認メタルニ出候
右御参考及御報候 敬具
B12081606500-2
〔画像〕B12081606500-2
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レファレンスコード B12081606500
件名 2.杭州
   外務省外交史料館
   戦前期外務省記録 3門 通商
   10類 宗教、教育及学芸
   1項 宗教在清国本邦布教者状態取調之件
【 画像数 】2
作成年月日 明治41年11月24日(1908/11/24)
作成者   在杭州領事館事務代理 吉岡彦一
組織歴   外務省
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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清国浙江省内三十五個寺院連絡シテ大谷派本願寺ヘ帰属セントスル風説ニ関シ…:明治37年12月8日

明治三十七年  p1/33
清国浙江省内三十五個寺院聯絡シテ
大谷派本願寺ヘ帰属セントスル風説ニ関シ
在同国帝国領事館ヨリ具報一件

No.4918  p2/33
   上海発 東京著 三十七年十二月八日后 六、一五 八、三〇
 小村外務大臣  小田切総領事
第五二〇号
浙江省内寺院三十五ヶ所ノ僧侶ハ
大谷派本願寺ノ派遣セシ伊藤賢道ナル者ヲ経テ
本願寺ニ帰属センコトヲ申出テ
右 伊藤ハ代表者ヲ引連レ本邦ニ赴ケリ
元来清国僧侶ノ意志ハ
寺ノ領地ニ対スル地租ノ増徴セラルヽヲ脱シ
若ハ政府ガ寺院ヲ学校ニ改スルノ意アルヨリ
之ヲ避ケン為メ此ノ挙動ニ出テタリトノ風説アリテ
当地ニ於ケル議論囂々タリ
依テ本件ニ対シ十分ニ監視ヲ与ヘヲレレコトヲ望ム
     取調ヲ要ス

機密第二〇一号 p3/33
 ―略―
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レファレンスコード B12081604400
件名 1.清国浙江省内三十五個寺院連絡シテ
     大谷派本願寺ヘ帰属セントスル風説ニ関シ
     在同国帝国領事館ヨリ其報一件
   外務省外交史料館
   戦前期外務省記録 3門 通商
   10類 宗教、教育及学芸
   1項 宗教
   南清ニ於ケル東西本願寺布教一件
【 画像数 】33
作成年月日 明治37年5月16日~明治38年1月14日
      (1904/05/16 - 1905/01/14)
作成者   在上海総領事小田切万寿之助//華厳寺住持伊藤賢道
      //在杭州副領事大河平隆則
組織歴   外務省
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 倫理および宗教(1-032)
東京朝日新聞 1915.5.15-1915.5.21 (大正4)
[対支]布教権問題 (一〜七)
[其一]
安藤鉄腸
(六)
支那布教の一斑
 ―略―
支那僧侶官憲の圧迫に苦しみ、日本布教師に訴えて、
其の難より免れんとしたり。
而して其の著るしきは浙江省にして、
当時東本願寺より伊藤賢道氏駐在し、
浙江省に於ける名刹幾十箇寺の所属を移して、
東本願寺の管下としたり。
蓋し是れ支那僧侶の希望にして、
伊藤氏は之を以て支那寺院の保護に任ぜんとしたりしなり。
然れども地方官憲は之を不当とし、遂に問題を生じて、
日支両国間の談判となれり。
 ―略―
茲に於て交渉は北京に移され、
時の公使内田康哉子其の衡に当りて、
日本仏教布教の、欧米条約布教権に均霑すべきを主張し、
月を累ねて決せず、
竟に浙江省事件は、
寺院財産は爾後没収す可らずとの発令を以て解決したりと雖も、
根本問題たる布教権の事に至りては、
支那政府条約の明文なきに藉口して、飽迄之を肯かず、
爾後布教権は懸案として以て今日に至る。
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杭州日文学堂 明治32年(1899.1) 「杭州城内忠清港」清末の日本語学習書からみる日本語教育《魏 維》

杭州日文学堂 明治32年(1899.1) 「杭州城内忠清港」
清末の日本語学習書からみる日本語教育《魏 維》

   ―『寄学速成法』を通して―
     魏   維
-ぎ・い、広島大学大学院文学研究科博士課程後期在学-

2 林文潜と杭州日文学堂について p2/14
『寄学速成法』は1901年12月に林文潜によって編纂されたものである。
図1の奥付からわかるように、
発行者は温州瑞安虹橋の寄社であり、刊印者は翁宏昌である。
ここで注意すべきことは、
翁宏昌の住所である「杭州城内忠清港」が
1899年1月20日(旧暦)に日本東本願寺によって開設された
杭州日文学堂の所在地でもあったことである。
『張棡日記』には、林文潜が1901年1月の末頃(旧暦)、
上海を経由して杭州にある
学堂へ日本語を勉強しに行くという記述があり、
『寄学速成法』は林文潜が杭州日文学堂
日本語を勉強してから書かれたものであると推測できる。
杭州日文学堂における日本語教育が一体どれほど
実践されていたかははっきりしていない。
しかし、『張棡日記』において、
わずか一年間で本を完成させた林の才能を絶賛していたことや、
林が当時杭州の有名な翻訳雑誌である
『訳林』の翻訳の仕事を担当していたことから、
杭州日文学堂で日本語教育を受けた林文潜は
相当な日本語能力を身につけていたと推測できる。

⑻ 林文潜(1897-1903)  p13/14
字州髄、浙江省瑞安の出身。
1901年(明治34年)1月頃杭州日文学堂に入り、
8月頃南洋公学の特班生として入学し、
日本語教科書の翻訳を担当していた。
また、同時期に、支那翻訳館で翻訳者を務めた。
その後、瑞安に戻って日文速成蒙学を創立した。
1903年(明治36年)3月日本へ留学したが、病気で帰国し9月に死亡。
呉(1965)は林を「晩清先進革新人士」と評価している。

⑼ 仏教の浄土真宗大谷派の本山である。  p13/14
日清戦争後清国で布教活動を展開し、
教育事業も積極的に推進した。
その教育事業として、
杭州日文学堂を始めとする6校の東文学堂を作った。
杭州日文学堂(1899.1)の他、 ※明治32年(1899)
金陵東文学堂(1899.1)、蘇州東文学堂(1899.5)、
蘇州有隣学堂(1903.10)、泉州彰化学堂(1901.8)、
彰州日華書院(1902.4)。

⑿『訳林』が1901年、伊藤賢道、林長民などにより主編された
中国浙江省最初の翻訳雑誌である。  p13/14

⒀ 林長民(1872-1925)       p13/14
1899年(明治32年)10月頃杭州日文学堂に入学。
その後『訳林』の主編を務めた。
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14. 杭州の歴史-12 明
10.明
城東の忠清巷
通聖土地廟付近が杭州絹織物発祥の地と言われています。
唐の大臣、ちょ遂良の子孫が揚州から
杭州忠清巷に機織の技をもち移り住んだと、
明の時代の書物に書かれています。
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《杭州日文学堂 堂長 伊藤賢道》明治32年(1899)~明治39年(1906) [清末中国における東本願寺の東文学堂]劉建雲

《杭州日文学堂 堂長 伊藤賢道》
明治32年(1899)1月~明治39年(1906) 8月
[清末中国における東本願寺の東文学堂]劉建雲

10_0123_0143.pdf - 岡山大学学術成果リポジトリ
ousar.lib.okayama-u.ac.jp › files › public
岡山大学大学院文化科学科紀要第10号(2000.11)

            劉 建 雲

 1. 杭州日文学堂  p5-7/21
 杭州日文学堂は、
東本願寺が光緒25年(1899)1月20日 ※明治32年(1899)
杭州忠清巷に開設したものである。
堂長は「連枝」慧日院の「侍読」に選ばれた
帝国大学出身の文学士伊藤賢道であった。
 ―略―
 開学の際、生徒は約60人ほど集まったようだが、
前3ヶ月の生徒名は日文は22人、
英文は16人の記録しか残されていない。
後に生徒が更に増えたということで、
堂長の伊藤賢道は遠路就学生の便利を図るため、
1ヶ月後の4月1日、更に上城保安橋というところで
「東亜学堂」という同種の学校を開いた。
ここにも入学者が多く、
一時寄宿生6名、通学生50名の規模に達したという。
 ―略―

 1900年(明治33年)春、  p6/21
現地の林大令・李修士という両人物の寄付金300圓によって
化学機械や薬品を購入し、
4月に校舎を銀銅橋畔に移して、化学会や日英語実演会が開かれた。
後に医務室まで設けられたが、それは長く続かず、
しかも6月には義和団事件のために学堂は閉鎖し、
伊藤らは上海へ引き上げることになった。

 学堂が再開したのは同年(明治33年)11月のことであるが、
伊藤らは地方官を歴訪したり再開の広告を出したりして
1ヶ月の日数を費やした。
 ―略―

 1904年(明治37年)初め、  p7/21
東本願寺より補助金の中止が知らされ、
これをきっかけに杭州日文学堂堂長伊藤賢道の行動は、
中国人に対する教育事業から清国寺産の収奪へと変質していく。
1906年(明治39年)8月、
伊藤は「当地方の安寧を妨害」する者として、
杭州駐在領事より国外退去処分を受け、
該学堂も終焉を迎えるのである。

杭州日文学堂は7年半、
金陵文学堂は10年近くも存続した。 p10/21

 1906年(明治39年)8月13日、  p15/21
紹興府における伊藤等の「惑衆斂銭」の行為で
浙江洋務局の強い抗議文に接した杭州駐在領事は、
「我布教事業カ斯カル人物ノ手ニ委シアルハ不都合ナル」
と判断し、上海総領事と協議の上、
伊藤に対して向かう3年間の在留禁止を申渡し退去を命じた。
こうして、杭州日文学堂も自ら閉鎖されたのである。
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浙江省杭州府[日文學堂]伊藤賢道氏[政教時報]第六十二號明治34年9月1日発兌

浙江省杭州府[日文學堂]伊藤賢道氏
[政教時報]第六十二號明治34年9月1日発兌

[政教時報]第六十二號 ※明治34年9月1日発兌
明治三十一年十二月二十六日 遞信省第三種郵便物認可
第六十二號、毎月二回(一日、十五日)發行
明治三十四年九月一日發兌

發行所 大日本佛敎徒同盟會 出版部  p2/11
    東京市本郷森川町一番地
明治三十四年八月卅一日印刷
明治三十四年九月 一日發行
發行兼編輯人 百目木智璉
印 刷 人  淸水 朝太郎

   伊藤賢道氏  p5/11
豫ねて大谷派より淸國布敎の爲め、
派遣せられたる文學士伊藤賢道氏は
頃日歸朝して上京中なり、
氏は明治三十一年彼國に渡り
浙江省杭州府に於て日文學堂を始め、
今や專ら彼國子弟の育英に從事し
傍ら布敎に盡力しつゝあり、
今回は種々の用向を負びて一先歸朝せられしも、
右の要件調ひ次第本月末には神戸港を發し
再び彼國に渡航せん決心なりと、
因にいふ過日
氏の舊友は水神の植半樓に相會して舊情を温めしと、
 p5[政教時報]第62號
〔画像〕p5[政教時報]第62號
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[日文學堂 伊藤賢道校長]杭州記事 南清地方旅行日誌《福島安正少将》明治34年9月

[日文學堂 伊藤賢道校長]杭州記事 南清地方旅行日誌
福島安正少将》明治34年9月

報告第六号
  杭州記事
(明治34年)
九月十四日午後五時 上海解纜

仝 十五日午後十時三十分 杭州城外々国居留地ノ拱震橋ニ達ス
此間百四十海里 浙江巡撫 任道鎔
洋務局 総弁 武備学堂 総弁等ヲ派シテ 下官等ヲ迎フ
時既ニ城門関鎖ノ後ナルヲ以テ
兼テ準備シアリタル工程局内ニ投宿シ
頗ル歓待ヲ受ケタリ

十六日午前八時三十分 橋ヲ坐シテ 齊藤大尉ニ導カレ
十時十五分 大尉ノ官舎ニ到着セリ
午後三時 巡撫ニ會見シ
後チ 布政使 按察司 塩運使 海関道ヲ訪問セリ

十七日午前八時三十分 布政使 誠勲署理 按察司 許貞幹等ノ
来訪ヲ受ケ
九時 巡撫モ亦タ答禮トシテ来リ
十時ヨリ武備学堂 并ニ 武備小隊ノ兵舎ヲ巡覧シ
十二時 皋園ニ赴テ 巡撫ヨリ鄭重ナル午餐ノ饗応ヲ受ク
午後二時 日文学堂ヲ覧
三時ヨリ城外羅営(地名)ニ赴キ武備小隊ノ練兵ヲ観タリ

十八日午前九時 再ヒ巡撫ヲ訪問シ談話三時間ニ爲リ
十二時辞シテ領事館ニ赴キ 午餐ノ饗応ヲ受ケタリ
巡撫 布政使 按察司 洋務総弁等モ亦タ皆ナ招ニ応シテ來テ
食事未タ終ラサルモ 時已ニ三時ニ達スルヲ以テ辞シテ橋ニ坐シ
四時十五分 拱震橋ニ戻リ
五時解纜
C13032445200-1
〔画像〕C13032445200-1

蘇州ニ向ヒテ
   巡撫 任道鎔
河道総督トシテ永ク河南ニ駐箚シ
僅カニ 二ヶ月前 撰抜セラレテ此地ニ来リシ人ナリ
河道総督ハ他ノ総督巡撫ト異ナリ
政略ニ関係スルヿナク
随テ外国人ニ接スルノ機會ナキヨリ
假令 敏腕@@ノ人ト雖モ
世ニ其名ヲ知ラルヽヿ 稀ナリ
任道鎔ハ齡 已ニ八十ニ近キモ
体裁健全精神確実ニシテ
能ク大勢ニ通シ 練兵練将育英等ノ如キハ
冨国強兵ノ基礎 民心開發ノ根本ナリトシ
最モ急務ト爲スノ人ナリ
故ニ下官ノ論スル所
一々深ク其心ニ軼セシモノヽ如ク
且ツ近来續發スル所ノ上諭ニ對シ
欣然トシテ之カ實行ニ当ルノ勇氣アルヲ見タリ
風采ハ能ク劉坤一ニ以テ 其着実ニシテ毅然タル様子
言動ノ間ニ現ハルヽヲ覺ヘ
淸國大官中 稀ニ見ル所ノ人物トス
我軍 北清ニ據ル動作ニ付テハ熱誠ヲ以テ感謝ノ意ヲ表シ
同文同種ノ我国ニ信頼スルノ意 極テ厚シ
此巡撫ニシテ数年此地ニ在ラハ軍事ニ教育ニ政治ニ
共ニ大ニ見ル可キモノアラン
其他幕僚中 別ニ記スベキノ人物アルヲ見ス
唯ニ東文譯官ニ張其@ナル者アリ
嘗テ本邦ニ在リシヿ 十七年
最モ能ク高等ノ日本語ニ通シ
日本音ノ漢語ヲ混文セシ
如何ニ繁雑ナル談話ト雖モ明了ニ
C13032445200-2
〔画像〕C13032445200-2

通譯スルヿヲ得テ遺憾ナシ
清国人中 未タ嘗テ斯ノ如キ良訳官ヲ見シヿナシ
且ツ英敏ニシテ温順 大ニ用ユベキ者トス

   日文學堂
東本願寺ノ建設ニ係リ 文學士 伊藤賢道校長トシテ
苦心経営忍耐勉励ノ結果 漸次ニ地方官民ノ信用ヲ博シ来リ
學ブ者四十人 班ヲ分テ 何級トナシ
常ニ資金ノ不足ヲ訴ジ 経理 頗ル困難ナルニモ関セス
教育上ノ設備 能ク整頓シ 日尚ホ浅キモ
已ニ著シキ成績ヲ見ルニ至レリ
目下 此学校ヲ出テシ者ニテ
武備學堂ノ譯官ニ擧ケラシ者三名(各月十八両)
他ノ教習トナリシ者一名
之カ爲メ在校ノ生徒ニ数層ノ奮發力ヲ興ジ
益々学校ノ進歩ヲ見ルニ至ラシトス
校内伊藤ノ他 本願寺ノ派遣ニ係ル教員尚ホ三名アリ
教育上 頗ル繁忙ナルニモ関セズ
伊藤 及 他ノ二名ハ 武備學堂ニ来リテ
普通學ノ教育ニ尽力シ居レリ

   武備小隊ノ練兵
城外羅木営ニ於テ之ヲ施行シ 密集運動ヨリ散解運動ヲ演シ
銃槍突貫ヲ以テ演習ヲ終レリ
小隊長以下 下士ハ悉ク 武備學堂ノ生徒ニシテ
我カ歩兵曹長 林中隊ノ指揮ヲ執レリ
巡撫ハ高齢ナルニ拘ハラス奮テ此ノ演習ニ臨ミ
最モ熱心ニ其運動ヲ観タリ
巡撫
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〔画像〕C13032445200-3

已ニ斯ノ如シ
故ニ布政史以下 杭州城内ニ在ル文武官吏 擧テ臨場シ
新中軍中營 護軍左營 同右營 撫轅親兵營
撫轅左營 同衛隊營等ヨリ
多数ノ兵ヲ出タレテ 此演習ヲ参観セシメタリ
巡撫 大ニ喜テ 曰ク此武備小隊ハ実ニ浙江ノ根本タリ
之ヲ基本トシ益々其数ヲ増加スルノ希望ナリト述ベ
言ヲ極テ 我 齊藤大尉等一同ノ勞ヲ謝シタリ
此日ノ演習 僅カニ百数十名ヨリ成ル
一中隊ニ過キザリシト雖モ
衆目之ニ注キ意外ノ好結果ナリシハ
欣敷次第ナリ
浙江ヨリ我国ニ派遣シアル所ノ三學生
卒業ノ上 帰来スルニ至ラバ
重ク之ヲ任用スルヿヲ 明言セリ

   武官派遣
巡撫ハ大ニ時事ニ激發スル所アリ
此際有力ナル武官二三名ヲ本邦ニ派遣シテ
充分ノ研究ヲ爲サシムルヿニ決セリ
齊藤大尉ハ巡撫ノ依頼ニ因リ
多分同行スルニ至ラン

   一般ノ感情
此地方一般ノ人士モ深ク我軍隊ノ行動ニ感激シ
悦ンテ我カ人士ニ接スルノ風アリ
故ニ彼等ヲ誘導開發シテ
前途ニ對スル大目的ヲ進ルト同時ニ益々
我利権ヲ扶植スヘキ
実ニ逸ス可ラサルノ好時機ナリ
C13032445200-4
〔画像〕C13032445200-4

   日本居留地
拱震橋ニ接スルヲ各国居留地トシ
河ニ添テ之ヲ隣スルヲ我居留地トス
各国居留地ハ善良ノ通路ヲ築設シ
大家高楼 處々ニ建築セラルヽヲ見ルモ
我居留地ハ依然タル旧時ノ有様ニシテ
徒ニ荒艸ノ蔓延ニ委シ
通路モナク家屋モナク 實ニ憐ムベキ有様ニシテ
一目我国ノ無氣力ヲ現ハスヿ
実ニ遺憾ノ至ナリ
右及報告@也
明治三十四年 九月廿二日  蘇州ニ於テ
              福嶋少将
参謀総長 大山 巖殿
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〔画像〕C13032445200-5
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レファレンスコード C13032445200
件名 報告第6号 杭州記事
   防衛省防衛研究所 陸軍一般史料
   支那 参考資料
   南清地方旅行日誌 明治34年8月
【 画像数 】5
作成年月日 明治34年9月22日
作成者   福嶋少将 ※福島安正
組織歴   陸軍省
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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[淸國杭州在留本邦人ノ數]明治31年12月(1898)末調~明治34年(1901)12月末調【官報】

[淸國杭州在留本邦人ノ數]
明治31年12月(1898)末調~明治34年(1901)12月末調【官報】

【官報. 1899年01月26日】明治32年
   〇公使館及領事館報告  p6/9
〇在杭州本邦人數
 昨三十一年十二月末調 ※明治31年(1898)12月末調
 淸國杭州在留本邦人ノ數ハ
 男二十八人、女二人、合計三十人ナリ(外務省)
〇在重慶本邦人數
 昨三十一年十二月末調 ※明治31年(1898)12月末調
 淸國重慶在留本邦人ノ數ハ
 男七人、女三人、合計十人ナリ(外務省)

【官報. 1899年07月22日】明治32年
   〇公使館及領事館報告  p6/18
〇在杭州本邦人數
 去月末調 ※明治32年(1899)6月末調
 淸國杭州在留本邦人ノ數ハ
 男二十七人、女一人、合計二十八人ナリ(外務省)

【官報. 1900年11月21日】明治33年
   〇公使館及領事館報告  p6/13
〇在杭州本邦人數
 去月末調 ※明治33年(1900)10月末調
 淸國杭州在留本邦人ノ數ハ
 男二十五人、女五人、合計三十人ナリ(外務省)
〇在蘇州本邦人戸口數
 去月末調 ※明治33年(1900)10月末調
 淸國蘇州在留本邦人ノ數ハ
 男十四人、女五人、合計十九人ナリ
 戸數七、之ヲ前月ニ比スルニ戸口共ニ增減ナシ(外務省)

【官報. 1900年12月20日】明治33年
   〇公使館及領事館報告  p5/13
〇在杭州本邦人數
 去月末調 ※明治33年(1900)11月末調
 淸國杭州在留本邦人ノ數ハ
 男二十八人、女五人、合計三十三人、
 之ヲ前月ニ比スレハ人口三ヲ增セリ(外務省)

【官報. 1901年05月01日】明治34年
   〇公使館及領事館報告  p8/17
〇在杭州本邦人數
 本年三月末調 ※明治34年(1901)3月末調
 淸國杭州在留本邦人ノ數ハ
 男二十五人、女七人、合計三十二人ナリ(外務省)

【官報. 1901年07月30日】明治34年
   〇公使館及領事館報告  p2/14
〇在杭州本邦人數
 去月末調 ※明治34年(1901)6月末調
 淸國杭州在留本邦人ノ數ハ
 男二十七人、女八人、合計三十五人ナリ(外務省)

【官報. 1901年10月29日】明治34年
   〇公使館及領事館報告  p7/13
〇在杭州本邦人數
 去月末調 ※明治34年(1901)9月末調
 淸國杭州在留本邦人ノ數ハ
 男二十五人、女九人、合計三十四人ナリ(外務省)

【官報. 1902年01月29日】明治35年
   〇公使館及領事館報告  p20/38
〇在杭州本邦人數
 昨三十四年十二月末調 ※明治34年(1901)12月末調
 淸國杭州在留本邦人ノ數ハ
 男二十七人、女十一人、合計三十八人ナリ(外務省)

【官報. 1909年09月27日】明治42年
   〇在外公館報告     p7/13
〇杭州猩紅熱流行
 杭州ニ於ケル猩紅熱流行ノニ付キ
 在同地領事館事務代理外務書記生池部政次ヨリ
 本月十三日附ヲ以テ左ノ如ク報告アリ(外務省)
  本年初夏以來當地方ノ天候ハ頗ル不調ナリシヲ以テ
  或ハ夏季中惡疫ノ流行ヲ見ルコトアルヘシトテ
  警戒怠ラサリシニ少數ノ下痢症アリシニミニテ
  格別ノコトナカリシカ
  本月初旬ヨリ稍々猩紅熱流行ノ兆アリ
  十日ニ至リ俄然陸軍小學堂ニ該症ニテ
  學生二人、醫官一人ノ死亡ヲ見
  次テ二十餘人ニ傳染シ
  旬日ヲ出テスシテ全學生ノ過半五十餘人ハ
  之ニ冒サレサル者ナキニ至リ恐慌ノ極
  學堂ハ終ニ一時閉鎖スルニ至レリ
  又市中ニ於テハ同患者ハ餘リ見受ケサルモ
  白痢ノ流行ハ甚タ猛烈ニテ
  平素身體ノ虚弱ナル者ハ往々死亡スト云フ
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[杭州管内 醫師]明治30年・明治40年・大正4年【在支那本邦人進勢概覧】大正4年

[杭州管内 醫師]明治30年・明治40年・大正4年
【在支那本邦人進勢概覧】大正4年

【在支那本邦人進勢概覧】大正4年(1915)
  〇杭州管内   p200/254
   (大正四年十月十日附在杭州帝國領事館報告)
 第一 管内全體及各主要都市ニ於ケル
    本邦人ノ男女及職業別ニ依ル人口竝戸數
   管内在留本邦人男女職業別戸口對照表(杭州)
 醫 師      戸數  男  女  計
明治三十年十二月末  〇  〇  〇  〇
明治四十年十二月末  一  〇  一  一 ※今村ケイ
大正 四年 六月末  〇  〇  〇  〇
※醫師のみ記載
大正四年十二月七日印刷
大正四年十二月十日發行
    外務省通商局
印刷者 東京市京橋區柳町四番地
    瀨味 健二
印刷所 東京市京橋區柳町四番地
    瀨味印刷所
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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