村八分の結成から解散、メンバーのその後
《前田栄達》[レコード・コレクターズ]2001年2月1日発行
[レコード・コレクターズ 2月号]2001年2月1日発行
ローリング・ストーンズ―オルタモントの悲劇
映画「ギミー・シェルター」に見る60年代のアメリカ
▼村八分―魔性の歌を聞かせた日本初の”ロック・バンド“の貴重音源
〔画像〕1[レコード・コレクターズ 2月号]2001年
レコード・コレクターズ FEB.,2001/Vol.20,No.2
CONTENTS
村八分
70 新発掘ライヴもやっぱりすごかった。
その妖気に包まれた全音源を再考する 行川和彦
74 村八分の結成から解散、メンバーのその後 前田栄達
〔画像〕2-目次-a
村八分の結成から解散、メンバーのその後 p74-75
前田栄達
チャー坊、本名柴田和志は50年
政治活動家の次男坊として京都に生まれた。
バンド結成前、絵画やハプニング、
文学に傾倒していたチャー坊は69年、
アメリカに渡りオルタモントで
ローリング・ストーンズのステージを観て衝撃を受ける。
翌70年、彼はアメリカから京都に帰る途中、
東京で山口冨士夫に出会う。
この巡り合わせがすべての始まりだった。
冨士夫は49年、
東京で外国の軍人と日本人の母の間に生まれ、
少年時代を孤児として過ごした。
65年に瀬川洋らと“ザ・モンスターズ”を結成。
バンドは67年のレコード・デビューとともに
“ザ・ダイナマイツ”に改名し69年まで活動していた。
チャー坊と出会った冨士夫は旧友の青木真一と共に京都に移住。
最初の1年間ほどはチャー坊(ヴォーカル)、
冨士夫(ギター)、青木(ベース)に、
染谷青や恒田義美、コージら冨士夫の音楽仲間や、
チャー坊が渡米前から親交のあった裸のラリーズの水谷孝らが
流動的なメンバーで活動、
名前も“山口フジオとそのグループ”“裸のラリーズ”など、
はっきりとしなかった。
71年初頭、グラスプレインというバンドで活動していた
17歳のドラマー上原裕、
フォーク・クルセダーズのはしだのりひこの従兄弟で
チャー坊とは幼なじみの浅田哲(リズム・ギター)が加わり
村八分を結成、
同年3月20日、
京大西部講堂で行われたイヴェント“MOJO WEST“で名乗をあげる。
その後、9月頃まで全国各地のコンサート、
日比谷野音でのイヴェントなど精力的に出演。
『草臥れて』収録音源はこの時期の録音だ。
この頃はまだ
ローリング・ストーンズの影響下にある感じの曲が多いが、
『ライブ』収録の「あわれみ(ぐにゃぐにゃ)」
「機関車25(どこへ行く)」などもこの“第1期”の後半、
すでに完成していたという。
▼
冨士夫がインタヴューで
「一番凄いのはストーンズと村八分だ」などと発言し、
口コミや音楽誌で村八分の名が広がり始めた矢先の71年秋、
ドラッグによるメンバーの相次ぐ逮捕などで
メンバー間の関係も悪化し、
村八分の演奏面を冨士夫と共に支えていた上原が脱退する。
残ったメンバーはより芸術家気質の人間を選ぶようになり、
上原の後任は初めてドラムを叩くカントになった。
当時の音楽誌のコンサート情報を見ると
タイトなスケジュールが入っており、
音楽畑出身のジレンマは相当なものだったろう。
72年初頭に青木真一が、春頃までにはカントも脱退。
バンドは休止期間に入る。
その頃京都では“富士オデッセイ”や“TOO MUCH”を企画した
木村英輝率いるMOJO WESTが
定期的に自主コンサートを開いており、
バックアップ・マネージメントという役割で
村八分に深く関わってくる。
そして青木の後任としてベースに加藤義明が加入。
彼はチャー坊や浅田の旧友で、
それまではギターの弾き語りなどで
カントリー&ウェスタンやブルースを演奏しており、
ベースは初めての経験だった。
同じ頃、サンフランシスコでのチャー坊の親友、
村瀬シゲトがチャー坊の要請で帰国しドラマーとして加入。
彼もドラムは初めてだった。
この時期の5人がバンドとして最もバランスがとれ、
人間関係も充実していたようだ。
もっとも、ドラッグによる
パラノイアは相変わらずだったようだが。
この時期、「鼻からちょうちん」「逃げろ」
「ねたのよい」「夢うつつ」などの代表曲が、
ディスコティック“ガロ”での
連日のステージにより完成されていく。
72年8月27日、第3期=黄金期のメンバーによる
デビュー・コンサート、
円山野外音楽堂での“村八分No.1コンサート”が
MOJO WESTのプロデユースにより開催された。
そして再び精力的にコンサート、学園祭に出演、
九州にまで遠征している。
『LIVE72~三田祭』はこの時期の音源である。
同年11月11日の京都会館のコンサートで、
当時東芝のディレクターだった石坂敬一氏が
契約のため接触しているが、
諸々の理由により実現しなかったようだ。
そして、73年1月6、7日の京大西部講堂での
2日間連続単独コンサートで、
グループとしてあらゆる意味でのピークを迎える。
その後、2月4日に
フジテレビ「リブヤング/話題の村八分」に生出演、
「鼻からちょうちん」「にげろ」の2曲を演奏した。
しかしこの後、浅田が脱退。
これには諸説あり、
チャー坊と浅田との間に何かやりとりがあったようだが、
真実を知るすべはない。
またこの頃、エレックの浅沼勇氏がチャー坊に接触、
4人になった村八分は
東京のエレック・スタジオで10日間ほど
レコーディングを行なったが、お蔵入りとなっている。
▼
京都に戻り、加藤がギターに替わり、
ベースにはミカゲ・エーイチなる人物が加入。
このメンバーにより5月5日、
京大西部講堂でライヴ・レコーディングを行なうことが決まった。
しかし、村八分にとって決定的な出来事が起こる。
このライヴを最後に冨士夫が脱退することになったのである。
理由は、チャー坊の独善的なやり方に
嫌気が差したということらしいが、
やはり浅田脱退への不満が深く関与しているだろう。
ライヴは予定通り5月5日の午後6時から、
フリー・コンサートという形で行われた。
この後、冨士夫以外のメンバーはサンフランシスコに渡り、
向こうではばらばらになり、
村八分はそのまま自然消滅した。
『ライブ』がリリースされた8月25日、
既に村八分は存在していなかった。
その後、79年にチャー坊、冨士夫、浅田哲に、
元スラッシュの松田幹夫、元だててんりゅうの隣雅夫、
ドラマーに榊原敬吉を迎え再結成、
約1年の間に数回のライヴを行ない
テレビ番組「11PM」に出演したが、
松田の体調不良などの理由により、
解散を余儀なくされた。
▼
チャー坊は70年代末からの長い闘病生活の後、
90年にティアドロップスの京都でのライヴに
飛び入り出演したのを契機に、
同年、冨士夫らオリジナル・メンバーの参加こそなかったものの、
村八分として活動再開。
しかし94年4月、帰らぬ人となった。
浅田哲も、冨士夫、加藤義明とのマリン・バンドで
アコースティック・ブルースを演奏したり、
京都のライヴ・ハウスに時々出演したりしていたが、
98年にブルースハープで冨士夫と共演したのを最後に、
2000年8月、癌のため帰らぬ人となった。
加藤義明は今も全国のライヴ・ハウスで
KYONや下山淳らとブルースを演奏、
96年にはソロ・アルバムも発表した。
村瀬シゲトは再びサンフランシスコで暮らしている。
上原裕はシュガー・ベイブのほかセッション・ドラマーとして活躍、
現在は忌野清志郎らとラフィータフィーで活動中だ。
カントは73年に青木真一、フリクション結成前のレック、
チコヒゲとグループを結成したり、
ヨガの講師をしたのち、現在はフリーペーパーを発行している。
青木真一はスピード、フールズを経てタンブリンズ、
ティアドロップスで冨士夫と共に活動した後、
現在は音楽活動から退いている。
ミカゲ・エーイチは京都を離れスタジオを経営していたらしい。
現在も地域活動のためにベースを弾いているとのことだ。
山口冨士夫は74年にソロ作『ひまつぶし』発表後、
ズーン、ルイズルイス加部とのリゾート、
裸のラリーズ、キズなどを経て、
83年に青木真一、元外道の青木正行、
元トゥーマッチの小林秀弥とタンブリングスを結成。
そして89年、ティアドロップスとして
メジャーのシーンに帰ってきた。
その後、90年代前半に再びソロ活動を始めた矢先に沈黙、
充電期間に入るが、
97年に元ルージュのメンバーと
カウンターカルチャーバンドを率いて復活した。
近年はDJとコラボレートしたりしていたが、
現在再び長い沈黙期間に入った。
駆け足で村八分の活動を振り返ったが、
最高の商業性を持ちながら
最後まで自分達のスタンスで活動できたグループは、
とりわけ日本のロック史上、極めて稀な存在と言えよう。
〔画像〕5-村八分-p74-75
[編集後記] p161
日本で70年代のストーンズのイメージを決定づけたのは、
映画『ギミー・シェルター』だったのではないか?
今回の特集を作りながら、だんだんとそういう気がしてきました。
それも、73年の来日公演が幻に終わったことで
余計にイメージが純化していったような気さえします。
僕自身は70年後半の雰囲気しか知らないのですが、
村八分を聞いたり、関連情報を読んだりしていくと、
当時のストーンズが日本でどう捉えられていたか伝わってきます。
ところで、チャー坊が実際にオルタモントで
ストーンズを見たという話は今回初めて聞きましたが、
ストーンズの当時のライヴ盤(同年11月のNY公演を収録)の
「ミッドナイト・ランブラー」のブレイクのところで
“カッチョイイ!”と叫んでいるのが彼だという噂も、
鳥井賀句さんの取材によれば、かなり信憑性があるそうです。
―略―
(寺田)
レコード・コレクターズ
2月号・2001年2月1日発行
第20巻第3号・通巻224号
編集人=寺田正典
発行人=寺尾裕嗣
株式会社ミュージック・マガジン
〒101-0051 東京都千代田区神田神保町2-5 北沢ビル8階
電話=編集(03)3263・3241 営業(03)3263・3201
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〔画像〕6-編集後記
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