松栢

《三沢牧場 八雲町鷲ノ巣》牧場主 三沢道男(先代 三沢正男) 【八雲町史】昭和32年

《三沢牧場 八雲町鷲ノ巣》
牧場主 三沢道男(先代 三沢正男) 
【八雲町史】昭和32年

【八雲町史】昭和32年(1957)
出版者   八雲町
出版年月日 1957
三沢牧場  p173-174/444
昭和十三年十一月、
八雲町字鷲ノ巣において
=太平農事株式会社=発足、
三沢正男牧場長として
多数の乳牛飼育と候補種牝牛の育成、
数十町歩にわたる飼料作物の栽培など
年歳その経営を合理化し、
昭和二十八年六月三沢牧場と改称して今日に至つている。
現在乳牛頭数五十頭、飼料など耕作面積三十八町歩、
一カ年生産乳量四百六十石の成績を挙げている。
牧場主は三沢道男
(先代三沢正男については
 第九節“酪農家の海外視察参照”)である。
三沢牧場
https://dl.ndl.go.jp/pid/2997499/1/174

   第九節 酪農家の海外視察  p175-176/444
 (1)三沢正男
昭和十三年十一月、
大平農事株式会社八雲牧場長として
十勝郡下音更村から
八雲町鷲ノ巣に居を移してから、
町会議員をはじめ各種団体の役員として
自治・産業・教育などに、
また昭和二十二年以来道議会議員として
本道の総合開発に寄与し、
とくに酪農の振興発展に力を傾け
北海道ホルスタイン協会長、
北海道ホルスタイン農業協同組合専務理事、
北海道農業改良普及協会長、
渡島地区農業委員会代表委員、
北海道農業会議員などの要職に在つた。

昭和二十七年七月二日出発
日本代表としてデンマークで開会の
『萬国酪農会議』に出席、
ついでデンマーク・ドイツ・ベルギー・
オランダ・スイス・フランス・
アメリカ・カナダの諸国を視察して
同年十一月帰朝

爾来八雲の高度集約酪農の推進に
多くの貢献を続けられたのであるが、
昭和二十九年九月二十六日、
公務上京の途次、
十五号台風のため乗船中の
洞爺丸遭難により不帰の客となつたことは
痛惜に堪えない。
カルフオルニヤ州ピコペレシー牧場にて
カルフオルニヤ州ピコペレシー牧場にて
https://dl.ndl.go.jp/pid/2997499/1/176
八雲町史  〔非売品〕
昭和三十二年十一月三十日印刷
昭和三十二年十二月 一日発行
編集兼 八雲町長
発行者 田仲孝一
参 与 八雲町史編纂委員会
印 刷 中西写真製版印刷株式会社
発行所 八雲町役場
    北海道山越郡八雲町
https://dl.ndl.go.jp/pid/2997499/1/441
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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北海道の歴史・開拓の人と物語
   北海道開拓倶楽部
デンマーク人ジャーナリスト八雲を訪ねる
「オホーツクの幻夢」の第3回で取り上げた
ドイツ人のフリードリヒ ・コッホ一家に
興味を持ったといいます。
というのもコッホ一家の次女ヘルタさんは、
北海道滞在中に知り合った日本人青年と結婚して
北海道に残ったらからです。
このことについて詳しく聞きたいとのでした.

三澤道男さんは昭和11(1936)年に
三澤正男さんとヘルタさんの長男として音更町に生まれ、
両親とともに昭和13(1938)年に八雲町に移りました。
86歳ながら老いを少しも感じさせず、
積極的に取材に応じてくださいました。
三澤道男さん
三澤道男さんは昭和29(1954)年の洞爺丸台風で
父正男さんを失うと三澤農場を継ぎ、
昭和58(1983)年からは
北海道議会議員を2期務めています。
北海道の戦後酪農会の生き字引ともいうべき方で、
きわめつけの秘話を次々とお話しされました。
2022/07/25
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今津洪岳【碧巌集講義】第1巻~第3巻:三上照夫【松栢】

今津洪岳【碧巌集講義】第1巻~第3巻:三上照夫【松栢】

【碧巌集講義.  第1巻】
タイトル  碧巌集講義.  第1巻
著者    今津洪岳 著
出版者   無我山房
出版年月日 大正2

【碧巌集講義.  第2巻】
タイトル  碧巌集講義.  第2巻
著者    今津洪岳 著
出版者   無我山房
出版年月日 大正2
【碧巌集講義.  第3巻】
タイトル   碧巌集講義.  第3巻
著者     今津洪岳 著
出版者    無我山房
出版年月日  大正2
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2020年12月14日
【松栢】[再刊第一号]昭和33年~【松栢】[記念特集号]昭和36年
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[アインシュタインの訪日とハーン体験]金子 務(大阪府立大学教授)

[アインシュタインの訪日とハーン体験]金子 務(大阪府立大学教授)

[アインシュタインの訪日とハーン体験]
 金子 務(大阪府立大学教授)

 ハーンが来日して横浜に上陸するのは
一八九〇年(明治二十三)四月、
そして亡くなる一九〇四年(明治三十七)まで
十四年間を日本で過ごした。

ハーン来日から三十二年後、
アインシュタインが神戸に上陸したのは、
秋も深い一九二二年(大正一一)十一月十七日のことであった。
そして、門司から離日する十二月二十九日までの四十三日間、
日本各地にアインシュタイン・ブームを巻き起こした。

 上陸当時、ハーンがカウボーイ・ハットのような
カーキ色のソフト姿でダボダボの上下服、
両手にスーツケースと鞄という
ひっそりとした姿であったのにくらべ、
アインシュタインは黒いソフトに黒羅紗の背広姿を
茶褐色の霜降りコートに包んで、
悠然とパイプをくゆらしていたのは、
季節の違いばかりではあるまい。

改造社が、バートランド・ラッセル、サンガー夫人についで
三番目の賓客として当時の金で二万円という礼金
(往復旅費、滞在費を含む)で招待したのだし、
すでに当時のアインシュタインは、
理論物理学者として世界的なポップスターとして、
人気も抜群であった。
押し寄せる記者団、歓迎団その他、
賑々しい神戸上陸風景であったのである。

 日本郵船北野丸の社交サロンで
開かれた洋上での記者会見で、
日本訪問の目的について尋ねられた
アインシュタインはこう答えている。
p1[アインシュタインの訪日とハーン体験]
〔画像〕p1[アインシュタインの訪日とハーン体験]

 ――それは二つあります。
一つは、ラフカディオ・ハーンなどで読んだ
美しい日本を実際に自分の眼で確かめてみたい――
とくに音楽、美術、建築などをよく見聞きしてみたい――
ということ、
もう一つは、科学の世界的連繋によって
国際関係を一層親善に導くことが
自分の使命であると考えることです。
p2[アインシュタインの訪日とハーン体験]
〔画像〕p2[アインシュタインの訪日とハーン体験]

p3[アインシュタインの訪日とハーン体験]
〔画像〕p3[アインシュタインの訪日とハーン体験]

p4[アインシュタインの訪日とハーン体験]
〔画像〕p4[アインシュタインの訪日とハーン体験]

 これについて、もはやくどくどしい注釈は不要であろう。
ハーンが悪しき欧化によって逞しいが
形の崩れた日本の醜さを見るよりも
失われゆく日本の美しい伝統文化への愛情の眼を向けつつも、
なおつぎのように、日本の西洋文化学容の仕方を
「柔術」にたとえて鼓舞したことが忘れられない。

 近代的な鉄道、航路、電信、電話、郵便局、
 通運会社、大砲、連発銃、大学、専門学校
 そういうものをことごとく持ちながら、
 日本はあいかわらず今日でも、一千年前と同じように、
 東洋風であることに、少しも変りはない。
 自分の国は、昔ながらのままにしておきながら、
 日本は、実に敵の力によって、あたうかぎりの限度まで、
 自国を裨益したのである。
 ……あの驚くべき国技、柔術によって、
 日本は、今日まで自国を守りつづけてきたのだ。
 いや、現在も守りつづけつつあるのである。

 これはハーンの日本文化診断であるし、
ハーンの日本文化への願望ともいえるものだが、
アインシュタインも離日前の朝刊に残したメッセージ
(『大阪朝日新聞』大正十一年十二月二十八日付)にこう記して、
ハーンの心情を共有するのである。

 予が一カ月にあまる日本滞在中にとくに感じた点は、
 地球上にも、まだ日本国民の如く
 かく謙譲にして
 かつ篤実の国民が存在していたことを
 自覚したことである。
 世界各地を歴訪して、
 予にとってまた
 かくの如き純真な心持のよい国民に出会ったことはない。
 また予の接触した日本の建築絵画
 その他の芸術や自然については、
 山水草木がことごとく美しく細かく、
 日本家屋の構造も自然にかない、
 一種独特の価値がある。
 故に予はこの点については、
 日本国民がむしろ欧州に感染をしないことを希望する。
 また福岡では畳の上にも坐って見、
 味噌汁も啜ってみたが、
 その一寸の経験から見て、
 予は日本国民の日本生活を
 直ちに受け入れることの出来た一人であることを自覚した。

 アインシュタインのこの気持ちには、なんの粉飾もないことは、
帰る船から物理学者のボルン夫妻
その他にあてた絵葉書にも明らかである。
別れを惜しむ榛名丸のアインシュタインの眼には、
はっきり涙が浮かんでいるのを、一葉の写真が見せている。
アインシュタインが短い日本滞在中に見せた
数々の日本への好感は、
もともと強い東洋への共感という下地に、
ハーンの著作が点火し、実見によって強められた。

「死ぬように疲れた」と日記に記す
過酷なスケジュールにもかかわらず、
日本の芸術文化への飽くことのない体験の日々を送った
多くのエピソードが、
今日なお語り伝えられている。

 アインシュタインは残念ながら、
ハーンが愛した出雲地方の日本を見聞する機会はなかった。
仙台から下関まで表日本を見、
わずかに福岡で玄界灘を通して
日本海の荒々しさを想像したにとどまる。
しかし、アインシュタインの柔らかな眼は、
ハーンの日本へのなつかしさの眼とほとんど重なっていた、
といってもよいだろう。
<大正11年17日~12月29日来日>
p5[アインシュタインの訪日とハーン体験]
〔画像〕p5[アインシュタインの訪日とハーン体験]
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2015年03月28日
[アインシュタイン博士]《明楽寺前住職 佐々木雪雄》
『葦原雅亮集』葦原浩二編
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思想戰と文學《中野好夫》「知性」(昭和17年12月号)

思想戰と文學《中野好夫》「知性」(昭和17年12月号)

特輯・再び十二月八日を迎ふ
友邦日本の學生諸君に…林柏生
(昭和17年)十二月號
河出書房
<印>寄贈 18.9.2 帝國圖書館
p1「知性」(昭和17年12月号)
〔画像〕p1「知性」(昭和17年12月号)

思想戰と文學
  中野好夫
p2「知性」(昭和17年12月号)中野好夫
〔画像〕p2「知性」(昭和17年12月号)中野好夫

p3「知性」(昭和17年12月号)中野好夫
〔画像〕p3「知性」(昭和17年12月号)中野好夫

p4「知性」(昭和17年12月号)中野好夫
〔画像〕p4「知性」(昭和17年12月号)中野好夫
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中野好夫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中野 好夫(なかの よしお、
1903年(明治36年)8月2日 - 1985年(昭和60年)2月20日)は、
日本の英文学者、評論家。英米文学翻訳者の泰斗であり、
訳文の闊達さでも知られている。
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武者小路実篤「雑感」草野心平「われら断じて戦ふ」島木健作「十二月八日」「文藝」(昭和17年新年号)

武者小路実篤「雑感」
草野心平「われら断じて戦ふ」
島木健作「十二月八日」
「文藝」(昭和17年新年号)

「文藝」(17年新年号)
武者小路実篤 「雑感」
草野 心平  「われら断じて戦ふ」 (詩)
島木 健作  「十二月八日」    (「戦ひの意志」所収)
伊藤 武雄  「進軍ラツパ」    (「戦ひの意志」所収)
齋藤  史  「みいくさ」     (「戦ひの意志」所収)
 p1-2「文藝」(17年新年号)
〔画像〕p1-2「文藝」(17年新年号)

雜  感  1/2
 武者小路實篤
p2-1「文藝」(17年新年号)武者小路実篤
〔画像〕p2-1「文藝」(17年新年号)武者小路実篤

雜  感  2/2
 武者小路實篤
p2-2「文藝」(17年新年号)武者小路実篤
〔画像〕p2-2「文藝」(17年新年号)武者小路実篤

われら斷じて戰ふ
 草野 心平
p3「文藝」(17年新年号)草野心平
〔画像〕p3「文藝」(17年新年号)草野心平

十二月八日 1/2
 島木 健作
p4-1「文藝」(17年新年号)島木健作
〔画像〕p4-1「文藝」(17年新年号)島木健作

十二月八日 2/2
 島木 健作

進軍ラツパ
 伊藤 武雄

みいくさ
 齋藤  史

   決  議
畏くも宣戰の大詔渙發せられたり。
洵に皇國の隆替、東亞興廢の一大關頭なり。
吾等日本編輯者は謹て 聖旨を奉體し、
聖戰の本義に徹し
誓つて皇軍將兵の忠誠勇武に應へ、
鐵石の意志を以て言論國防體制の完璧を期す
右決議す
  皇紀二千六百一年十二月十二日
         日本編輯者協會
           改 造 社
p4-2「文藝」(17年新年号)島木健作
〔画像〕p4-2「文藝」(17年新年号)島木健作
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清水幾太郎「思想戰のために」火野葦平「雄渾の構想」「文藝」(昭和17年新年号)

清水幾太郎「思想戰のために」
火野 葦平「雄渾の構想」
「文 藝」(昭和17年新年号)

「文藝」(17年新年号)
清水 幾太郎 「思想戰のために」 (「戦ひの意志」所収)
津村 秀夫  「映畫政策の必要」 (「戦ひの意志」所収)
火野 葦平  「雄渾の構想」   (「戦ひの意志」所収)
中河 與一  「舊體系の決別」  (「戦ひの意志」所収)

p1-1「文藝」(17年新年号)
〔画像〕p1-1「文藝」(17年新年号)

思想戰のために
  淸水幾太郎

映畫政策の必要
  津村秀夫

雄渾の構想 1/2
  火野葦平
p5-1「文藝」(17年新年号)清水幾太郎・火野葦平
〔画像〕p5-1「文藝」(17年新年号)清水幾太郎・火野葦平

雄渾の構想 2/2
  火野葦平

舊體系との訣別
  中河與一
p5-2「文藝」(17年新年号)火野葦平
〔画像〕p5-2「文藝」(17年新年号)火野葦平
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皇天皇土 飯田蛇笏・戰爭祈願 水原秋櫻子・霜氣 渡邊水巴・國起ちぬ 富安風生「改造」(昭和17年新年号)

皇天皇土 飯田蛇笏・戰爭祈願 水原秋櫻子・
霜  氣 渡邊水巴・國起ちぬ 富安風生
「改造」(昭和17年新年号)

「改造」(17年新年号)
水原 秋桜子 「戦争祈願」(俳句)
飯田 蛇笏  「皇天皇土」(俳句)
渡辺 水邑  「霜  気」(俳句)
※渡辺水巴
富安 風生  「国起ちぬ」(俳句)
p1「改造」(17年新年号)
〔画像〕p1「改造」(17年新年号)

皇天皇土  飯田蛇笏

戰爭祈願  水原秋櫻子

霜  氣  渡邊水巴

國起ちぬ  富安風生
p2「改造」(17年新年号)
〔画像〕p2「改造」(17年新年号)
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アングロ・サクソン國家のたそがれ《宮澤俊義》【改造】新年號[大東亞戰爭]2602

アングロ・サクソン國家のたそがれ《宮澤俊義》
【改造】新年號[大東亞戰爭]2602

【改造】新年號[大東亞戰爭]2602
 昭和十七年一月一日發行
 昭和十六年十二月二十日印刷納本
 第二十四巻 第一號 定價 壹圓
p1【改造】新年號《宮澤俊義》
〔画像〕p1【改造】新年號《宮澤俊義》

アングロ・サクソン國家のたそがれ
         宮澤俊義
 十二月八日。
最近日本でこの日くらゐ全國民を緊張させ、感激させ、
そしてまた歡喜させた日はなからう。
 その朝はラジオを聞かなかつたので、
對米英の開戰はバスの中で會つた同僚からの話ではじめて知つた。
講義がをはるや否や、
ラジオを聞きに食堂へかけつけてみると、
丁度宣戰の大詔の謹讀中で、
同じ思ひでかけつけた多數の同僚が
ラジオに向つて直立してゐた。
「事既ニ此ニ至ル。帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲
蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ。」
アナウンサアの聲がわれわれの肺腑を突いた。
それがをわると東條首相の力強い演説がはじまつた。
 たうとうやりましたな、と誰も彼もが緊張に滿ちた、
しかも明るい笑顔を交した。
來るべきものがつひに來たといふ感じが
梅雨明けのやうな明朗さをもたらしたのである。
この瞬間全國の日本人はその體内に同じ日本人の血が強く
脈打つてゐることを改めてはつきりと意識したに相違ない。
 ―略―
p2【改造】新年號《宮澤俊義》
〔画像〕p2【改造】新年號《宮澤俊義》

p3【改造】新年號《宮澤俊義》
〔画像〕p3【改造】新年號《宮澤俊義》

p4【改造】新年號《宮澤俊義》
〔画像〕p4【改造】新年號《宮澤俊義》
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決戦・憲法・関ヶ原のblog
2018年10月14日
宮沢俊義と「大東亜戦争」⑦ それでも宮沢俊義は戦争を選んだ
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【松栢】[再刊第一号]昭和33年~【松栢】[記念特集号]昭和36年

【松栢】[再刊第一号]昭和33年~【松栢】[記念特集号]昭和36年

【松栢】[再刊第一号]昭和三十三年二月十一日発行
 日本松栢学会 中化神龍師(三上照夫)
S33-1【松栢】[再刊第一号]
〔画像〕S33-1【松栢】[再刊第一号]

【松栢】[第二号]昭和三十三年三月二十日発行
 日本松栢学会 中化神龍師(三上照夫)
S33-2【松栢】[第二号]
〔画像〕S33-2【松栢】[第二号]

【松栢】[記念特集号]昭和三十四年四月二十五日発行
   《二つの日本を一つに》
 日本松栢学会 中化神龍師(三上照夫)
S34【松栢】[記念特集号]
〔画像〕S34【松栢】[記念特集号]

【松栢】[記念特集号]昭和三十五年四月二十五日発行
   『もの申す』
 日本松栢学会 中化神龍師(三上照夫)
S35【松栢】[記念特集号]
〔画像〕S35【松栢】[記念特集号]

【松栢】[記念特集号]昭和三十六年四月二十五日発行
   《怪物社会党内を横行す》
 日本松栢学会 中化神龍師(三上照夫)
S36【松栢】[記念特集号]
〔画像〕S36【松栢】[記念特集号]

【松栢】[記念特集号]昭和三十八年四月二十五日発行
   《憲法問答》
 日本松栢学会 中化神龍師(三上照夫)
S38【松栢】[記念特集号]
〔画像〕S38【松栢】[記念特集号]
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2020年12月13日
【松栢】「松柏会」
天皇奇譚―「昭和天皇の国師」が語った日本の秘話:
高橋五郎2012年3月13日
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【松栢】「松柏会」天皇奇譚―「昭和天皇の国師」が語った日本の秘話:高橋五郎2012年3月13日

【松栢】「松柏会」
天皇奇譚―「昭和天皇の国師」が語った日本の秘話:
高橋五郎2012年3月13日

 天皇奇譚-1-50
〔画像〕天皇奇譚-1-50

戦後、「昭和天皇の国師」を務めた男がいた。
その名は三上照夫。
平成四年にその生涯を閉じるまで、
三上は名だたる政治家や経済人たちの相談役を果たしていた。
※三上照夫先生:平成6年(1994)1月8日歿
 天皇奇譚-2-50
〔画像〕天皇奇譚-2-50

 ●政・財界人が蝟集した「松柏会」の裏側
「松柏会(しょうはく)」
仙台・東京・名古屋・高松などで松柏会の例会があり、
※赤枠部のみ記載:小野一雄
私は東京で開催される会にのみ毎月参加した。
 天皇奇譚-3-60
〔画像〕天皇奇譚-3-60

 領収書:天皇奇譚-60
〔画像〕領収書:天皇奇譚-60
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【松栢】[当来社会の示すもの]
    <第三文化の提唱>
 昭和三十年六月二十八日 発行
         日本松栢学会
    中化神龍師(三上照夫)
 【松栢】<第三文化の提唱>-60
〔画像〕【松栢】<第三文化の提唱>-60
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 日本松栢会(しょうはくかい)
   高松・東京・仙台
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 日本松栢会 高松支部
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『古事記』解説①―師匠の御講義より―
2017/11/10 20:41
[照明]    ※早坂照明
人は何処よりこの世に来て、この世で何を為して、
何処へ去り行くのかが知りたく、
またあの世が有るのか無いのか、
有るならそれはどんな世界でどんな構造に成っているのか。
人の死後の真実の道程はどうなるのか。
自称霊能者の語る内容が千差万別なのは何故で、その原因は何なのか。
御釈迦様は何を語り、キリスト様は何を示したのか。
霊学を学び確認し確信出来たものを綴ってみました。
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2020年11月17日
〔三上照夫先生と小野喜代子〕
別格本山 高雄山 神護寺 平成5年(1993)7月5日
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年07月18日
[思い出の写真帖]065〔三上照夫先生:小野一雄 喜代子〕
三上照夫先生 66歳
昭和3年(1928)4月25日生
平成6年(1994)1月  8日歿
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