◆[土耳古(トルコ)俘虜解放]

[平明丸事件顛末]大正10年(1921)4月5日~10月19日

[平明丸事件顛末]大正10年(1921)4月5日~10月19日

    第七、 平明丸事件顚末  p1/12
〔画像〕B13081281100-01

   平明丸事件顚末       p2/12
一、本事件ノ發端
  勝田汽船會社汽船平明丸ハ帝國政府ノ命ヲ承ケ
  西比利亞(シベリア)ニ在リタル土耳古(トルコ)俘虜等
  千十三名(非戰闘員、婦人小兒ヲ含ム)ヲ搭載シ
  君府(コンスタンチノープル)ニ向ケ航行中
  大正十年(1921)四月五日地中海ニ於テ
  希臘(ギリシャ)海軍ノ爲停船ヲ命セラレ
  「ミテイレーン」島ニ右俘虜ヲ上陸セシムヘキコトヲ
  要求セラレタルカ同船乘組ノ帝國監督將校
  之ニ應セサリシ爲
  「ピレウス」港ニ拉致抑留セラレタリ
二、希臘(ギリシャ)政府ニ對スル第一次交渉
  右希臘(ギリシャ)政府ノ措置ハ
  希(ギリシャ)土(トルコ)兩國間ニ
  交戰狀態ノ存在スルコトヲ理由トスル處
  希臘(ギリシャ)及「アンゴラ」政府間ニハ
  大正八年(1919)十月以來事實上
〔画像〕B13081281100-02

  ノ交戰狀態存シ居タルモ   p3/12
  「アンゴラ」政府ハ土耳古(トルコ)ノ
  地方的事實上ノ政府タルニ止マリ
  從テ之ヲ希(ギリシャ)土(トルコ)兩國間ノ戰爭ト目スルコトハ
  少クトモ疑義アルノミナラス
  元來土耳古(トルコ)俘虜ノ君府(コンスタンチノープル)輸送ハ
  英國政府數次ノ委囑ニ基キ人道的見地ヨリ
  帝國政府ニ於テ種々ノ困難ヲ排シ之ヲ引受ケ
  土(トルコ)國有志家ノ醵金四萬八千磅(ポンド)及
  我國自ラ負擔シタル金五萬七千圓ヲ以テ
  勝田汽船會社ヲシテ輸送ノ任ニ當ラシメタルモノニシテ
  素ヨリ希臘(ギリシャ)及「アンゴラ」政府間ノ關係ニ
  干渉スルノ意志ニ出テタルニアラサルヲ以テ
  帝國政府ハ直ニ希臘(ギリシャ)政府ニ對シ
  平明丸及搭載俘虜ノ無條件解放ヲ要求シタルカ
  希臘(ギリシャ)政府ハ日本政府カ英國政府同意ノ下ニ
  當該俘虜カ抑留場所ヨリ逃亡スルコトヲ
  事實上不可能ナラシムルニ十分ナル保障ヲ與フル條件ニ
〔画像〕B13081281100-03

  テ君府(コンスタンチノープル)ニ  p4/12
  上陸セシムルコトニ同意スル旨竝
  同政府ノ所見ニ依レハ右目的ヲ達スル最良ノ手段ハ
  俘虜ヲ君府(コンスタンチノープル)ニ抑留シ
  戰闘終熄ニ至ル迄
  之ヲ同盟側軍事官憲ノ監督下ニ置クニ在ルヘキ旨ヲ
  回答シ來レリ
  仍テ帝國政府ハ英(イギリス)佛(フランス)伊(イタリア)
  三國政府ニ對シ在君府(コンスタンチノープル)軍憲ニ於テ
  土耳古(トルコ)俘虜ノ監視ニ協力スル樣取計方ヲ
  依頼シタルモ
  君府(コンスタンチノープル)ニ於ケル
  俘虜監視ハ事實上ノ困難アリシ爲
  三國共我依賴ニ應スルニ至ラサリキ
三、希臘(ギリシャ)政府ニ對スル第二次交渉
  然ルニ會々在君府(コンスタンチノープル)日本高級委員ハ
  勃爾牙利(ブルガリア)船「キリロス」號カ
  曾テ勃(ブルガリア)國ニ土耳古(トルコ)人百五十九名
  (大部分ハ「アドリアノーブル」ニ於ケル・・・・・・ノ
   敗軍ニシテ國境ヲ超エテ勃爾牙利(ブルガリア)ニ入リシモノ)
  ヲ乘セ君府(コンスタンチノープル)ニ向ケ航行中
  大正十年(1921)四月十八日黑海
〔画像〕B13081281100-04

  ・・・・・・沖ニ於テ希臘(ギリシャ)水雷艇ノ爲 p5/12
  「イスミツド」ニ一致抑留セラレタルカ
  其後無條件ニテ解放セラルルコトトナリタル旨ヲ聞込ミ
  其ノ例ニ倣ヒ在君府(コンスタンチノープル)休戰委員ヲシテ
  平明丸搭乘土耳古(トルコ)俘虜ニ對シ
  君府(コンスタンチノープル)歸還許可書ヲ發セシメ
  希臘(ギリシャ)高級委員ヲ經テ同國政府ニ對シ
  平明丸ノ無條件解放方ヲ交渉シタルカ
  希臘(ギリシャ)政府ハ「キリロス」號搭乘
  土耳古(トルコ)人ノ解放ヲ命シタルハ
  其ノ人員僅ニ百五十九名ニ過キサルト
  其ノ皆非戰闘員ナルトニ因ル旨並希臘(ギリシャ)政府ハ
  平明丸ノ卽時出帆及搭乘非戰闘員ノ
  希臘(ギリシャ)出發ヲ許可スヘキモ
  土耳古(トルコ)俘虜ニ付テハ
  抑留ノ已ムナキ旨回答シ來レリ
四、希臘(ギリシャ)政府ニ對スル第三次交渉
  然レトモ「キリロス」號搭乘ノ土耳古(トルコ)人中ニハ
  「アドリアノーブル」
〔画像〕B13081281100-05

  解隊軍人ヲ含ミ   p6/12
  從テ平明丸及「キリロス」號ノ二事件ハ
  全然同一條件ノ下ニ在ルモノト認メラレタルヲ以テ
  我高級委員ヲシテ希臘(ギリシャ)政府ニ對シ重ネテ
  平明丸及土耳古(トルコ)俘虜ノ無條件解放ヲ交渉セシムルト
  同時ニ右交渉ノ決着ヲ容易ナラシムル爲
  在伊(イタリア)帝國大使ヲシテ
  本件ニ關スル希臘(ギリシャ)政府トノ交渉落着ニ至ル迄
  兎モ角平明丸カ伊(イタリア)國ノ一港ニ入港スルコトヲ
  許容スル樣
  伊(イタリア)政府ニ交渉セシメタリ
  在君府(コンスタンチノープル)
  英(イギリス)佛(フランス)伊(イタリア)三國
  高級委員モ右希臘(ギリシャ)政府ニ對スル我要求ヲ支持シ
  希臘(ギリシャ)高級委員ニ對シ
  土耳古(トルコ)俘虜ノ無條件釋放ヲ求ムル所アリタルカ
  希臘(ギリシャ)政府ハ前記「キリロス」號ニ對スル
  約束スラ實行ヲ肯セス
  我要求ニ對シテ容易ニ同意スルノ模樣ナキノミナラス
  一方伊太利(イタリア)
〔画像〕B13081281100-06

  政府亦自國ノ一港ニ平明丸ヲ入港セシムルコトヲ p7/12
  躊躇スルノ色アリタリ
五、聯盟理事會行動
  然ルニ本件交渉モ意外ニ長引キ
  船主ノ損失俘虜ノ衞生狀態等ニ顧ミ
  急速解決ヲ必要トスル事情アリタルヲ以テ
  在佛(フランス)石井大使ノ稟議ニ基キ
  右聯合國高級委員及
  在君府(コンスタンチノープル)帝國高級委員ノ
  對希臘(ギリシャ)交渉ヲ側面ヨリ援助スル意味ヲ以テ
  國際聯盟理事會ノ行動ヲ要求スルニ決シタルカ
  同理事會ハ萬國赤十字中央局ノ申出ニ依リ
  六月二十七日「ナンセン」博士ニ託スルニ
  理事會ノ名ニ於テ希臘(ギリシャ)政府ニ向ヒ
  第一 平明丸ニアル負傷看護婦其ノ他
     赤十字關係一切ノ人員ノ放免
  第二 其ノ他人員ヲ中立國ニ上陸セシムルコト
  若シ此ノ點實行不能ノ
〔画像〕B13081281100-07

  場合ニハ  p8/12
  「ミテイレーン」島ノ一點ニ上陸セシメ
  此ノ地點ヲ中立地帶ト認メ
  俘虜ハ「ナンセン」博士ノ指定スル人ノ監督ニ
  委スルコトニ付
  交渉セシムルコトヲ決議セリ
  「ナンセン」博士ハ其ノ代表者ヲ「アデン」ニ派シ
  希臘(ギリシャ)政府ト交渉ノ結果
  希臘(ギリシャ)政府ハ土耳古(トルコ)俘虜中
  戰闘參加可能者ト不可能者トヲ區別シ
  不可能者ハ婦人小兒ト共ニ
  希臘(ギリシャ)船ヲ以テ直ニ
  君府(コンスタンチノープル)ニ歸還セシメ
  可能者ハ希(ギリシャ)土(トルコ)間ノ戰闘終熄迄
  中立國乃至中立地帶ニ抑留スルコトヲ承諾セシメ
  八月六日不具者婦人共三百九十二名ハ
  君府(コンスタンチノープル)ニ到着セリ
  一方健康ナル俘虜ハ之ヲ伊(イタリア)國ニ収容スルノ意嚮ニテ
  國際聯盟側及帝國政府ヨリ同國政府ニ交渉スル所アリタルカ
  伊(イタリア)國側ニ於テハ
  俘虜収容ニ付テハ承諾シタルモ
  之ニ伴フ費用一箇月七十萬「リラ」
〔画像〕B13081281100-08

  費用一箇月七十萬「リラ」ハ果シテ土耳古(トルコ)ニ於テ
  負擔ノ責ヲ果シ得ヘキヤ否ヤヲ懸念シ
  土耳古(トルコ)不支拂ノ場合ニ付
  聯盟理事會ニ於テ責任引受ノ保障ヲ與ヘムコトヲ希望シ
  逡巡容易ニ決セス
  其ノ間平明丸船長ハ遂ニ病死シ
  他ノ船員中ニモ數名ノ病人發生スル等
  同船乘組員ノ衞生狀態不良トナリ
  此ノ上本件ノ解決遲延スルニ於テハ
  或ハ同船ニ於テ土耳古(トルコ)俘虜ヲ伊(イタリア)國ニ
  輸送シ得サルコトトナルヤモ計リ難キ處アリタルヲ以テ
  帝國政府ハ土耳古(トルコ)政府ニ懇談ノ上
  前記費用ノ前拂ヲ承諾セシメタリ
  然レトモ伊(イタリア)國政府ハ依然トシテ
  費用ニ關シ確實ナル保障ヲ得ムコトヲ希望シ
  「ナンセン」博士個人ノ保障若ハ財政上極メテ信用シ難キ
  土耳古(トルコ)政府ノ聲明ノミニテハ滿足セス
  只管國際聯盟ノ保障ヲ得ムコトヲ主張シタルヲ以テ
  帝國政府ハ國際聯盟
〔画像〕B13081281100-09

  ヲシテ   p10/12
  土耳古(トルコ)ノ支拂ヲ保障セシムル樣取計方
  石井大使ニ訓令スルト共ニ
  土耳古(トルコ)政府ヲシテ右前拂ヲ實行セシムル樣
  同政府ニ説示方
  内田公使ニ訓令スル等
  本事件ノ迅速解決ニ極力盡瘁スル所アリタルカ
  十月六日ニ至リ
  伊(イタリア)國政府ハ在伊(イタリア)帝國大使ニ對シ
  十月十日以後何時ニテモ「サルジニア」ノ「アシナラ」ニ
  平明丸回航方差支ナキ旨ヲ告ケタリ
六、事件落着
  茲ニ於テ平明丸ハ十月十二日「ピレウス」港ヲ發シ
  「アシナラ」ニ至リ俘虜陸揚ヲ了シ
  次テ十九日「チユニス」ニ向ケ出發シ
  茲ニ事件發生以來七箇月ニ亘レル
  本件ハ無事解決ヲ告ケタリ
七、船主ニ對スル損害賠償
〔画像〕B13081281100-10

  勝田汽船會社ハ本事件ノ爲
  二十五萬千六百八十八圓十錢 [251,688.10] ※下記に詳細画像あり
  ニ上ル損害ヲ被リタル旨ヲ述ベ
  政府ノ賠償ヲ請願シタルニ依リ
  閣議ニ於テ同會所(會社)ノ立場ヲ諒トシ
  右金額ヲ交付スルコトトナレリ
〔画像〕B13081281100-11
    ※裏表紙
〔画像〕B13081281100-12
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レファレンスコード  B13081281100
件名 7、平明丸事件顛末
外務省外交史料館 議会調書 欧米局第四十五議会用 最近外交経過
[規模]12
組織歴 外務省
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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欧州戦争関係在西比利亜敵国俘虜関係雑件 第五巻
   大正十年十二月二十七日 勝田汽船太田氏持参 p69/103
  平明丸希臘(ギリシャ)抑留ニ因ル損害計算書
   但シ大正十年(1921)四月五日本船於
     ミチレニ島拿捕ノ日ヨリ
     大正十年(1921)十月十七日
     俘虜揚陸地アシナラ島到着日ニ至ル
     壹百九拾五日ヨリ
     拿捕地ヨリ君府ニ至ル航程壹日ヲ差引ケル
     壹百九拾四日分
一 金貳拾五萬壹千六百八拾八圓拾錢也 [251,688.10] 
    内 譯
    -略-
B07090956000-069
〔画像〕B07090956000-069

 右之通リ御請求申上候間何卒御詮議ノ上
 御支拂被下度候也
  大正拾年(1921)拾貳月廿四日
     神戸市仲町貳拾七番
      太洋汽船株式會社
      專務取締役
      社   長 勝田銀次郎
陸軍省經理局長 田中政明殿
B07090956000-070
〔画像〕B07090956000-070

  平明丸希臘(ギリシャ)抑留ニ因ル損害計算書 p94/103
   但シ大正十年(1921)四月五日本船於
     ミチレニ島拿捕ノ日ヨリ
     大正十年(1921)十月十七日
     俘虜揚陸地アシナラ島到着日ニ至ル
     壹百九拾五日ヨリ
     拿捕地ヨリ君府ニ至ル航程壹日ヲ差引ケル
     壹百九拾四日分
一 金貳拾五萬壹千六百八拾八圓拾錢也 [251,688.10] 
    内 譯
    -略-
B07090956000-094
〔画像〕B07090956000-094

  -略-
 右之通リ御請求申上候間何卒御詮議ノ上
 御支拂被下度候也
  大正拾年(1921)拾貳月貳拾四日
     神戸市仲町貳拾七番
      太洋汽船株式會社
      專務取締役
      社   長 勝田銀次郎
陸軍省經理局長 田中政明殿
B07090956000-095
〔画像〕B07090956000-095
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レファレンスコード B07090956000
件名 分割2
外務省外交史料館 戦前期外務省記録 5門 軍事 2類 戦争
8項 俘虜、非戦闘員、傷病者、救護
欧州戦争関係在西比利亜敵国俘虜関係雑件 第五巻
[規模]103
作成年月日 大正10年9月9日~大正12年11月8日
作成者   内田大臣//逓信次官//落合大使
組織歴   外務省
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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《勝田銀次郎:勝田汽船社長》明治25年卒業 中学部【青山学院一覧. 大正14・15年度】

《勝田銀次郎:勝田汽船社長》
明治25年卒業 中学部【青山学院一覧. 大正14・15年度】

【青山学院一覧. 大正14・15年度】
  評議員會(五十音順)      p12/111
   名譽評議員
子  爵    後藤 新平
        江口 定條
農學博士    佐藤 昌介
法學博士 男爵 阪谷 芳郎
子  爵    澁澤 榮一
工學博士    團  琢磨
法學博士    高田早苗
農學・法學博士 新渡戸稻造
男  爵    中島久萬吉
        服部金太郎
伯  爵    廣澤金次郎
男  爵    森村 開作
   評 議 員
岡田 哲藏   岡田 文次
黑川新次郎   勝田銀次郎
古在 由直   國澤新兵衞
 農學博士    工學博士
關根 要八   淸水 釘吉
中西 淸一   千葉 鑛藏
平田 平三   長尾 牛平
間島 弟彦   藤原 俊雄
内田 定槌   米山 梅吉
   財政顧問
米山 梅吉   國澤新兵衞
   靑山學院沿革略        p13/111
一 同年同月(大正5年7月)
  校友 勝田銀次郎氏
  高等學部校舎ヲ新築シテ寄附スベキコト
  (此新築費金參拾萬圓)及ビ
  院長館新築費トシテ
  金壹萬圓ヲ寄附スベキコトヲ約シ、
  大正六年(1917)一月 校舎設計成リ、廿一日起工、
         八月三日 監督エウルチ氏定礎式ヲ行フ。
一 大正五年(1916)七月 院長館竣工。
一 大正七年(1918)十一月 高等學部校舎(勝田館)竣工。
         十六日 落成式ヲ擧グ。
  靑山學院校友會役員       p67/111
評議員 勝田銀次郎
  卒業生名簿(大正十五年十月調) p67/111
  ◎中學部 (×印ハ死亡者)   p84/111
〇明治二十五年  p85/111
 勝田銀次郎
大正十五年十一月二十一日印刷
大正十五年十一月二十三日發行 (非賣品)
編輯兼 阿部 義宗
發行人 東京府豐多摩郡澁谷町靑山七丁目 靑山學院
印刷人 平田 長明
    東京市芝區田町五丁目一番地
印刷所 太洋社印刷所
    東京市芝區田町一番地
發行所 靑山學院
    東京府豐多摩郡澁谷町七ノ一
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
勝田館
青山学院青山キャンパス内の勝田ホール碑
1916年、勝田は青山学院の高等学部校舎と院長館の建設費を
全額負担することを表明した。
高等学部校舎は勝田銀次郎の名にちなんで
「勝田館(ホール)」と命名された[24]。
設 計:辰野金吾、片岡安
起 工:1917年1月  ※大正6年
竣 工:1918年11月   ※大正7年
総工費:25万円
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《勝田銀次郎》勝田汽船社長【財界楽屋新人と旧人】大正13年

《勝田銀次郎》勝田汽船社長【財界楽屋新人と旧人】大正13年

【財界楽屋新人と旧人】大正13年
勝田汽船社長 勝田銀次郎  p127-128/165
 昔は一分間に何萬圓と儲けた彼
  今は貧乏して達者になつた彼
◇近頃さる男が、餘り肥りもしない勝田に遭つて
 「だいぶ肥りましたね」といつたら
 「貧乏すると達者になるわい」と笑つた、
 船成金一方の旗頭に推された
 多額納税議員勝田銀次郎が
 「貧乏」を口にする時代となつたのだから、
 一時飛ぶ鳥を落とした大成金の彼も
 槿花一朝の夢に興味を感じてゐるのであらう。
◇歐洲戰時強氣一天張りで鮮かな成功ぶりを見せ、
 又強氣一天張で美事還元された彼は
 「道樂や女で失敗つたのではない、
  船で儲けて船で損をしたのだ、
  顧みて何等疚しいことはなく
  思ひ殘すこともない」と、
 さる人に胸中を截ち割つて述懐したさうだ、
 彼の船舶主義は一本調子の強氣で成功もし失敗もしたが、
 子供を造ることに怠慢な彼は、近來政治趣味に復活し、
 段々政治道樂に没頭してゆく
 國民黨に五萬金を呉れてやつたのはその皮切りであつた。
◇明治六年松山で生れた彼は碧梧桐や虚子と同窓ださうだが、
 「海運」と「政治」で占領されてしまつた
 彼の胸中は文學を容れる餘地がない、
 「彼が本を讀むやうだつたら面白いがな」
 といつた男がある。
◇日淸役を終つた翌春、今の靑山學院を出た彼は
 「之からは貿易だ」と感じて、
 長崎で就職口が得られず、
 大阪に舞戻つて餘り人の知らない貿易商
 吉田利平商店に住込んだものだ、
 折角彼が目序傳をかきだした
 その吉田商店は失敗の揚句閉店したし、
 彼が明治三十三年に二百圓の端た金を握つて
 貧弱な勝田商會を起すまでには、
 神戸足立商會で十五圓許りの月給でコキ使はれ、
 苦い經驗をなめた。
◇其から大正元年に積年の望を達して
 一隻の船主(御代丸)となるまでには、
 日露戰に遭遇したのみならず、
 四十一、二年の海運大不況に揉まれ、
 この間北淸定期線を開いたり、
 浦鹽(ウラジオストク)に配船したり、
 農業獎勵の餘波をうけた
 大連豆粕の輸入をやつたりしてゐた、
 彼が莫逆の友として海運界きつての罵倒家
 上西龜之助を見出したのはこの間のことであつた、
 彼が古船一隻を以て船主の列に加はつた時の喜悦は、
 その後思ひがけぬ歐州戰爭に見舞はれて
 百萬長者から千萬長者に登りあがつた時に
 十倍したものであつたらしい。
◇彼は破裂した世界戰爭に悲觀が行渡つてゐた時、
 大正四年の準備として思ひきつて六隻をチヤーターした、
 之が幸運の芽をふいて四年には
 海福丸、永代丸、井手丸、興安丸の四隻を
 百十四萬圓で買とり、
 五年には海永丸、海祥丸の新造船を注文した、
 ところが更に久原の日本汽船が大阪鐵工所に注文した
 大型貨物船八隻六萬七千九百八十八噸を
 四千七百五十九萬千六百圓(噸七百圓)で買収して、
 さすがに肝ツ玉の膨れてゐた海運界をアツといはせた、
 今となつては之も夢物語りだが、
 彼が「一分間に何萬圓を儲けてゐる」と
 物好きに算盤を彈かせたのもこの時だつたツけ。
◇彼の骨組はやせてはゐるが、
 肝ツ玉はかなり据つてゐる、
 海運界の盛時肥大漢の上西龜之助が却て
 近海小型船主たることに滿足し、
 やせた彼が遠洋大型船主として
 突貫又突貫したのは面白いコントラストであつた。
◇彼の性行は直接的、進取的だ、隨つて單調子だ、
 術策と表裏とが尠い、
 かくと信じたことは容易に直言し斷行もする、
 彼が商賣上にもこの直線主義を改めなかつたことは、
 餘り策略がないと笑はれるが、
 自信をまげない勇氣は買つてやらねばなるまい、
 日本汽船との一束的大買船が、
 米鐵の輸出禁止で受渡が遲延したとき、
 慣例では破断の外ないのを船價改訂値で、
 全部受とりを承諾したのは、
 一片の侠氣に負ふ處とせられて居る。
◇彼は母校の靑山學院に約二十萬圓を寄附した、 ※別稿に記載
 貧乏だといはれる犬養木堂の政治的操守に共鳴して
 五萬圓をポケツトから攫みだした、
 苦學生に對する獎學資金だの、
 一萬二萬の端た口だのを合すると
 五十萬圓もなげだしたゞらうが、
 山下の如く内田の如く交換的ではない、
 木堂の貧乏黨に無條件の寄附をするよりは、
 政友會か憲政會を喜ばした方が實際的だと
 知らぬほど野暮でもあるまいが、
 彼には之ができないのである、
 たゞ或程度まで淸濁併呑の政治趣味に目醒めてきた彼が、
 直線的美質をどこまで維持し得るかは今後の問題である。
◇大正六年初めて神戸市會に出で、
 翌年貴族院議員に當選した、
 彼は「一年間かゝつたら政治の驅引が分つた」といつた、
 治政の形勢を彼はこの黨アレはこの派と算盤を彈き、
 其歸結を盤上に明示するの手腕は鮮やかものだ、
 勝田汽船は銀行のつツかい棒で、
 ヤツと支へられてゐるが、
 彼は今神戸市會議長として切廻してゐる、
 その市會に議長横暴の問題があつたとき、
 「議長はどこでも横暴だ」と笑つてゐたのは、
 彼の議長ぶりが貴族院における
 德川公の議長ぶりに接近してきたといふ
 會心の笑であつたかも知れぬ。
◇彼は踊りの二三手を知つて居る。
 雨しよぼは素人の域を摩するに十分。
大正十三年三月 七日印刷
大正十三年三月十五日發行  定價壹圓八拾錢
編纂者 平栗 要三
發行者 茅原  茂
    東京市本郷區弓町一ノ二五
印刷者 佐藤  磨
    東京市神田區松下町七
發行所 日本評論社
    東京市本郷區弓町一丁目二十五番地
    振替 東京九五七八番
    電話小石川一九七一番
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《勝田銀次郎》勝田汽船 太洋汽船(平明丸)【神戸市会社名鑑. 大正12年】

《勝田銀次郎》勝田汽船 太洋汽船(平明丸)
【神戸市会社名鑑. 大正12年】

【官報. 1919年10月01日】大正8年
◎逓信省告示第千二百六十六號  p2/22
本月六日ヨリ左記電信取扱所ヲ設置シ
無線電報ニ限リ之ヲ取扱フ
  大正八年十月一日 逓信大臣 野田卯太郎
名 稱 平明丸無線電信取扱所
位 置 太洋汽船株式會社 所屬汽船 平明丸
定繋港 神 戸

【神戸市会社名鑑. 大正12年】
勝田汽船株式會社  p60/252
所 在 仲町二七
目 的 海運業
代表者 勝田銀次郎
電 話 三宮五〇一番
勝田汽船株式會社  p157/252
所 在 仲町二七
電 話 三宮五〇一番
設 立 大正五年八月
資本金 19,000,000
拂込金   4,750,000
出張所 東京市京橋區銀座四丁目一五
    英國倫敦
目 的 海運業
取締役 勝田銀次郎
同   村田彌太郎
同   靑木 音松
同   門司宗太郎
監査役 中西  德
同   小田 半平

勝田埋築株式會社  p157/252
所 在 仲町二七
電 話 三宮五〇一番
設 立 大正七年三月
資本金 1,000,000
拂込金 1,000,000
出張所 廣島縣糸崎町
目 的 土地ノ埋築、營造物ノ建設請負賣買
取締役社長 勝田銀次郎
常務取締役 竿田 秀靜
取 締 役 中西  淸
同     萬代 顯男
監 査 役 村田彌太郎
同     靑木 音松
太洋汽船株式會社  p179/252
所 在 仲町二七
電 話 三宮五〇一番
設 立 大正八年一月
資本金 10,000,000
拂込金   5,000,000
目 的 海運業
取締役 勝田銀次郎
同   村田彌太郎
同   靑木 音松
監査役 小田 半平
同   萬代 顯男

【議会制度七十年史. 第11】1962
勝田銀次郎  p96/314
  兵庫県第一区選出 立憲政友会
明治6年10月生
兵庫県出身
明治27年東京英和学校高等科修
神戸市議会員、同参事会員、同議長、神戸市長となる、
また戦時船舶管理局評議員、神戸商工会議所議員、
勝田汽船、神戸商船、勝田埋築、太洋汽船各(株)社長、
日本船主協会理事、国際協会神戸支部長となる
当選一回(17)・(貴)(多額)
昭和27年4月24日死去
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《平明丸 陽光丸》太洋汽船 勝田汽船【日本貨物船明細書】大正9年

《平明丸 陽光丸》太洋汽船 勝田汽船【日本貨物船明細書】大正9年

【日本貨物船明細書】大正8年
 第四 日本貨物船々主一覽表  p204/212
氏  名 隻 數  總噸數  重量噸數
勝田汽船  10  39,997   60,150
太洋汽船   2  10,344   15,750
勝田汽船            p187/212
海永丸  海祥丸  神武丸  井手丸  西海丸
東山丸  海福丸  興安丸  永代丸  正知丸
TOTAL  10
太洋汽船            p200/212
陽明丸  仁昌丸
TOTAL   2

【日本貨物船明細書】大正9年
  第壹 貨物船明細表索引  p6/190
平明丸 HEIMEI 12頁    p10/190
平明丸 重量噸 6671   p43-44/190
    長サ345.0 幅50.0 深サ28.0
    船主 太洋汽船 置籍地 (三津ケ濱)
  第  參    p163/190
 船主手持船一覽表
勝田汽船株式會社  p169/190
海久丸  海永丸  海祥丸  海安丸  神武丸
西海丸  興安丸  東山丸  海福丸  永代丸
正和丸
TOTAL 11
太洋汽船株式會社  p179/190
陽明丸  陽南丸
陽光丸  平南丸
平明丸  平仁丸  仁昌丸
TOTAL  7
   第 四   p183/190
 日本貨物船々主一覽表
氏  名 隻 數  總噸數  重量噸數
勝田汽船  11  49,468   75,178
太洋汽船   7  37,748   57,138
大正九年九月廿五日印刷
大正九年九月廿七日發行
編纂兼 市橋 俊夫
發行者 神戸市海岸通三番
    三井物産會社船舶部
發行所 三井物産會社船舶部
    神戸市海岸通三番
印刷者 中村三一郎
    大阪市西區江戸堀下通三丁目二十五番
印刷所 三交堂印刷所
    大阪市西區江戸堀下通三丁目二十五番
發賣所 海事彙報社
    大阪市北區西梅田町三百九拾三番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《平明丸船長 田村一得 大正10年9月3日死亡》[土耳古(トルコ)俘虜解放ニ関スル件]第五巻②(分割2)

《平明丸船長 田村一得 大正10年9月3日死亡》
[土耳古(トルコ)俘虜解放ニ関スル件]
欧州戦争関係在西比利亜敵国俘虜関係雑件 第五巻②(分割2)
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※大正10年(1921)9月13日  p5/103
電送第3385號
大正10年9月13日午後5時40分發
     内田大臣
  在土(トルコ)内田公使
第参一號
貴電第八一號ニ関シ
本月三日平明丸船長ハ病氣ニテ遂ニ死亡スルニ至リタル
※9月3日
 -略-
 B07090956000-005
〔画像〕B07090956000-005

※大正10年(1921)9月27日  p18/103
大正十年九月二十七日
  故平明丸船長田村一得氏ノ家計狀態
   -略-
〔画像〕B07090956000-018

※大正10年(1921)9月26日  p19/103
廣島縣佐伯郡河内村大字上河内七拾番屋敷
前戸主 養父 田村 常吉
戸 主    田村 雛次
       安政4年(1857)8月8日生
妻      田村 ユミ
       安政4年(1857)9月4日生
長 男    田村 政一
       明治9年(1876)10月20日生
弐 男    田村 一得
       明治21年(1888)10月25日生
       吉田ハルミ 婚姻 大正7年(1918)8月5日
婦      田村リヨウ
       長男 政一 妻
       明治9年(1876)11月12日生
孫      田村チヨコ
       長男 政一 長女
       明治35年(1902)3月22日生
婦      田村ハルミ
       弐男 一得 妻
       明治31年(1898)4月11日生
       田村一得 婚姻 大正7年(1918)8月5日
 右謄本ハ戸籍ノ原本ト相違ナキコトヲ認證ス
  大正拾年九月弐拾参日
   廣島縣佐伯郡河内村長 藤本倉太郎
〔画像〕B07090956000-019

※大正10年(1921)9月13日  p20/103
原 籍    廣島縣佐伯郡河内村大字上河内七〇番屋敷
現住所    同 原 籍
姓 名    田村 一得
生年月    明治貳拾壹年拾月廿五日生
修業場所   山口縣立大島商船學校
英語ノ能否  英語
免状種類   甲種壹等運轉士
試驗及第年月 大正六年八月四日
免状種類   甲種船長
試驗及第年月 大正九年二月廿三日
     乘船履歷
 船  名     噸  數  職 名    船 主
帆船 山口丸   三二三、二六 修業生   大島商船學校
   乘船年月 明治四四年四月 下船年月  明治四五年七月
帆船 山口丸   三二三、二六 修業生   大島商船學校
   乘船年月 大正三年四月  下船年月  大正三年五月
汽船 南海丸   四九七、八七 修業生   明治海運株式會社
   乘船年月 大正元年八月  下船年月  大正三年四月
汽船 西海丸  三七五〇、〇五 參等運轉士 明治海運株式會社
   乘船年月 大正三年十二月 下船年月  大正四年十二月
汽船 西海丸  三二〇八、五四 貳等運轉士 成瀨 正行
   乘船年月 大正四年十二月 下船年月  大正六年二月
汽船 西海丸  三二〇八、五四 貳等運轉士 勝田銀次郎
   乘船年月 大正六年十月  下船年月  大正七年四月
汽船 西海丸  三二〇八、五四 貳等運轉士 勝田銀次郎
   乘船年月 大正七年四月  下船年月  大正八年九月
汽船 正和丸  一三一五、〇八 船  長  勝田汽船株式會社
   乘船年月 大正九年三月  下船年月  大正九年七月
汽船 興安丸  三三九九、〇〇 船  長  勝田汽船株式會社
   乘船年月 大正九年七月  下船年月  大正十年一月
汽船 平明丸  六六七一、〇〇 船  長  太洋汽船株式會社
   乘船年月 大正十年一月  下船年月 
 右之通リ相違無之候也   右 田村一得
〔画像〕B07090956000-020

※大正10年(1921)10月3日  p27/103
 故平明丸船長田村一得遺族ニ弔慰金贈與ノ件
故平明丸船長田村一得ハ曩ニ陸軍省ノ命ニ依リ
在西比利亜(シベリア)土耳古(トルコ)俘虜ヲ君府ニ輸送中
希臘(ギリシャ)海軍ノ爲
仝舩ノ希臘(ギリシャ)「ピレウス」港ニ拉致抑留セラルルニ遭ヒ
仝港ニ於テ鋭意舩内ノ秩序維持ニ努メ
事件ノ解決ヲ俟チツツアリタルカ
不幸病患ノ冒ス所トナリ終ニ
本年(大正10年)八月三日死亡セル者ナリ
      ※九月三日
右ハ上述ノ通職務執行中病死セル者ニシテ
〔画像〕B07090956000-027

※大正10年(1921)10月3日  p28/103
事情憐憫察スヘキモノアルヲ以テ
其遺族ニ對シ特ニ外務大臣ノ名ニ於テ
弔慰金千円也ヲ贈與セラルルコトト致シタル
〔画像〕B07090956000-028

※大正10年(1921)10月4日  p29/103
   受領證
一 金壹千圓也
  右ハ汽船平明丸船長 故 田村一得 死去ニ對シ
  外務大臣閣下ヨリ御弔慰ノ御思召ヲ以テ
  御下附相成 正ニ受領仕候
  右御弔慰金ハ早速御厚志ヲ享ケテ
  本人遺族ニ傳達可致候也
   大正拾年拾月四日
   外務省歐米局 御中
      東京市京橋區銀座四丁目十五番地
        勝田滊船株式會社出張所
            主任 太田千吉
〔画像〕B07090956000-029

※大正10年(1921)10月  p46-52/103
  大正十年十月調
 平明丸事件顛末
   外務省歐米局第二課
  平明丸事件顛末
   -略-
〔画像〕B07090956000-046

※大正10年(1921)10月  p50/103
 -略-
八月六日不具者婦人共三百九十二名ヲ國際聯盟委員ニ
(うち希臘(ギリシャ)人八名ハ希臘ニ)引渡シ
希臘船ニテ君府ニ出發セシメ
同船ハ十一日君府ニ到着セリ
超エテ八月十九日伊(イタリア)國外務大臣ハ
在伊(イタリア)帝國大使ニ對シ伊(イタリア)國ハ
俘虜収容ヲ引受ケタルモ
之ニ伴フ費用一箇月七十萬「リラ」ニ關シ
萬一土耳古(トルコ)ニ於テ負擔ノ責ヲ果シ能ハサル場合ニハ
 -略-
我方カ最初ヨリ一ニ土耳古(トルコ)俘虜ノ幸福ヲ願念シ
人道的ノ立場ヨリ決行セル本件輸送問題カ
其ノ解決ノ曙光ヲ見ルニ當リテ
費用問題ノ爲又@行惱ノ狀態トナリシヲ遺憾トシ
殊ニ九月三日平明丸船長ハ遂ニ病氣ニテ死亡シ
船員中ニモ數名ノ病人發生シタル趣ニテ
此ノ上本件ノ解決
 B07090956000-050
〔画像〕B07090956000-050

※大正10年(1921)10月  p52/103
超エテ十月十八日
平明丸ハ新船長岩石氏指揮ノ下ニ無事
「アシナラ」ニ到着シ
曩ニ在伊(イタリア)帝國大使館ヨリ
特ニ之カ爲ニ派遣セラレタル
陸軍武官及書記生ニ迎ヘラレ
俘虜陸揚ヲ了シ
次テ十九日「チユニス」ニ向ケ出發セリ
〔画像〕B07090956000-052

※大正10年(1921)11月7日  p55/103
コンスタンチノープル發 大正十年十一月七日後六・三〇
本省        着 大正十年十一月八日後二・二五
  内田外務大臣  内田公使
第一〇二號
土耳古(トルコ)政府ハ十一月五日附 書面ヲ以テ
平明丸搭乘 土耳古(トルコ)俘虜ニ対スル
日本政府ノ好意ヲ謝スルト共ニ
同船船長ノ死去ニ対シ
其ノ弔慰ヲ同人遺族ニ傳ヘラレタキ旨ヲ申越セリ
 B07090956000-055
〔画像〕B07090956000-055

※大正11年(1921)1月11日  p71/103
    御 請 書
一 金 壹千圓
   但 元 平明丸船長 故 田村一得 弔慰金
右弔慰金下賜相成難有謹テ拜受仕候也
  大正十一年一月拾壱日
   廣島縣佐伯郡河内村大字上河内七拾番屋敷
     故 田村一得 實父 代理 田村政一
     仝       妻    田村春美
  外務省御中
[欄外] 大正十一年一月十四日 太田氏ヨリ接受
〔画像〕B07090956000-071
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
レファレンスコード B07090956000
件名 分割2
外務省外交史料館 戦前期外務省記録 5門 軍事 2類 戦争
8項 俘虜、非戦闘員、傷病者、救護
欧州戦争関係在西比利亜敵国俘虜関係雑件 第五巻
[規模]103
作成年月日 大正10年9月9日~大正12年11月8日
作成者   内田大臣//逓信次官//落合大使
組織歴   外務省
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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《平明丸 田村一得船長ノ葬儀 大正10年9月4日》[土耳古(トルコ)俘虜解放ニ関スル件]第五巻①(分割1)

《平明丸 田村一得船長ノ葬儀 大正10年9月4日》
[土耳古(トルコ)俘虜解放ニ関スル件]
欧州戦争関係在西比利亜敵国俘虜関係雑件 第五巻①(分割1)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
レファレンスコード B07090955800
件名 表紙
外務省外交史料館 戦前期外務省記録 5門 軍事 2類 戦争
8項 俘虜、非戦闘員、傷病者、救護
欧州戦争関係在西比利亜敵国俘虜関係雑件 第五巻
[規模]1
作成年月日 大正10年7月
組織歴   外務省
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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※大正10年(1921)9月3日  p89/101
 電送第7131號 ※外務省からトルコ
大正十年九月三日 午后四時四〇分發
   内田大臣
 在土(トルコ)内田公使
第二九號
 -略-
最近「ピレウス」ヨリノ電報ニ據レハ
平明丸船長ハ病氣ノ爲入院シ
船員中ニモ數名ノ病人発生シタル趣ニテ
 -略-
 B07090955900-089
〔画像〕B07090955900-89

※大正10年(1921)8月3日  p95/101
   九月六日 陸軍省ヨリ電報
  在「ピレウス」監督将校来電
   大正十年九月四日午後發
八月三日平明丸船長盲腸炎ニテ@死ス
※九月三日
後任来着前
伊太利(イタリア)ニ出帆スル際ハ
希臘(ギリシャ)ヨリ船長ヲ貸スコトニ協議成レリ
 B07090955900-095
〔画像〕B07090955900-95

※大正10年(1921)9月5日  p98/101
田村船長ノ葬儀ハ九月四日最モ荘厳ニ執行サレタリ
新船長ヲ能フ限リ迅速ニ送ラレヨ
万一伊太利(イタリア)政府ヨリノ指図ガ
船長来着以前ニ来ラバ
ギリシャ政府ヨリ正式ノ船長ノ補給ヲ受クル事ヲ得
国際聯盟委員ハ九月貳日速カニ
最後ノ解決ヲナス可ク
伊太利(イタリア)ニ趣ケリ
故ニ我々ハ数日中ニハ何等カノ@@ヲ受ク可シ
  平明丸
 B07090955900-098
〔画像〕B07090955900-98
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
レファレンスコード B07090955900
件名 分割1
外務省外交史料館 戦前期外務省記録 5門 軍事 2類 戦争
8項 俘虜、非戦闘員、傷病者、救護
欧州戦争関係在西比利亜敵国俘虜関係雑件 第五巻
[規模]101
作成年月日 大正10年7月1日~大正10年9月10日
作成者   埴原次官//陸軍次官尾野実信//在本邦西国公使
組織歴   外務省
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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[土耳古(トルコ)俘虜陸揚の件]陸軍省宛 発信者 巴里 津村諭吉中佐 大正10年10月6日

[土耳古(トルコ)俘虜陸揚の件]
陸軍省宛 発信者 巴里 津村諭吉中佐 
大正10年(1921)10月6日

西第一二七五号 其三四  第四号
  電報訳 十月六日午後五時三〇分発
        八日午後四時三七分着
陸軍省宛 発信者 巴里(パリ) 津村中佐 
イタリア公使ヨリ
十月十日頃「サルヂニア」「アシナラ」港ニ
着ク如ク行クヘキ旨通牒アリ、
新船長 十一日 此ノ地ニ着ク故
十二日「アシナラ」ニ向ケ出帆ノ予定
十八日頃着ク筈
〔画像〕C07060623000-1

羅馬(ローマ)発 大正十年十月六日後七、四〇  p2-3/7
本省    着       八日前五、二五
   内田外務大臣 落合大使
第二八七号
六日 外務省欧米局長ニ平明丸事件ノ成行ヲ問ヒタル処
其答ニ両三日以前愈々 土(トルコ)国俘虜ヲ引受ケル事ニ決シ
「サルジニア」ノasinaraナル 所ニ
本月十日以後ナラバ 何時ニテモ到着ノ予定ニテ
俘虜搭載回航差支無キ旨
平明丸指揮官 伝達方
在希臘(ギリシャ)イタリア公使ニ電訓シ
又右ノ要領ヲ在土(トルコ)伊(イタリア)国大使ニ
電報セリト答ヘタリ
当館ヨリ陸軍武官及井上書記生到着地ニ赴ク
〔画像〕C07060623000-2

英(イギリス)、仏(フランス)、    p3/7
土(トルコ)、聯盟、全権ニ転電セリ
〔画像〕C07060623000-3

秘 大正十年十月八日發  p4-5/7
      内田大臣
 在伊(イタリア)
  落合大使
第一〇七號
貴電第二八七號ニ關シ
貴官ハ伊(イタリア)國政府當局ニ對シ
其ノ好意ヲ謝スルト同時ニ
平明丸ハ十一日「ピレウス」着ノ筈ナル
岩石船長 着任次第「アシナラ」ヘ廻航スル筈ナルカ
曩ニ本邦ヘノ輸送ヲ約シタル貨物積取ノ爲
二十二三日頃
〔画像〕C07060623000-4

迄ニハ「チユニス」ヘ到着スルヲ要スル次第ニ付
「アシナラ」到着ノ上ハ直ニ
土耳古(トルコ)俘虜ノ陸揚ヲ了ヘテ出港シ得ル樣
伊(イタリア)國側ト打合セ置カレタシ
英(イギリス)、佛(フランス)、土(トルコ)及
在「ジユネーヴ」石井大使ヘ轉電アリタシ
〔画像〕C07060623000-5

秘 大正十年十月五日発電  p6/7
      内田大臣
 在「ジユネーヴ」
  石井大使
第一四〇號
往電第一三四號ニ關シテハ
貴官ニ於テ折角御配慮中ノコトト思考スル處
在伊(イタリア)大使來電第二八三號(一)ノ次第モアルニ付
至急然ルヘク御取計アリタシ
英(イギリス)佛(フランス)
伊(イタリア)土(トルコ)ヘ轉電アリタシ
〔画像〕C07060623000-6
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
レファレンスコード C07060623000
件名 土耳古俘虜陸揚の件
防衛省防衛研究所 陸軍省大日記 西密受・西受大日記
西受大日記 西受大日記 西受大日記補遺 自大正7年至大正12年
[規模]7
作成年月日 大正10年10月6日~大正10年10月8日
作成者 巴里津村中佐//羅馬落合大使//
    内田大臣//浦潮派遣軍参謀長
組織歴 陸軍省//陸軍//外務省
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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[土耳古(トルコ)俘虜解放ニ関スル件]欧州戦争関係在西比利亜敵国俘虜関係雑件 第四巻⑤(分割5)

[土耳古(トルコ)俘虜解放ニ関スル件]
欧州戦争関係在西比利亜敵国俘虜関係雑件 第四巻⑤(分割5)
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※大正10年(1921)4月28日  p21-23/86
 大正拾年四月貳拾八日 ピレウス港
     平明丸船長 田村一得
拜 啓
本船四月五日午前八時多島海中ミチレニ島近傍航行ノ際
希(ギリシャ)國驅逐艦接近シ來リ
最初萬國信號ニテ汝ノ國旗ヲ示セノ信號ヲ掲ゲシヲ以テ
直ニ日本國旗ヲ示セシニ引キ續キ
吾レニ從航セヨトノ信號ヲ掲ケシヲ以テ
何處ニ行クカヲ信號セシ處
今少シク島影ニ行クトノ信號ナリキ
當時北風稍強クシテ到底其ノ位置ニテハ臨檢六ケ敷キガ故ニ
島影ニテ臨檢セントスルモノト想像シツヽ
ヤガテ風波比較的靜カナル島ノ南側ニ到着ノ上
船ヲ止メテ一靑年士官本船ニ來リ
希(ギリシャ)國政府ノ命ニ依リ
平明丸船内ノ土耳其(トルコ)人全部ヲ
ミチレニ港ニテ土耳其(トルコ)政府ニ引キ渡セトノコトニ
津村少佐ハ斷然之ヲ拒絶セシ上
種々談判ヲ試ミタリシガ
當時ノ希(ギリシャ)國ト土耳其(トルコ)國トノ
交戰狀態ヲモ詳ニセザル吾々ノ事トテ
如何トモスルコトヲ能ハズ
驅逐艦ノ命ズル儘ニミチレニ港(不開港場)ニ向ヒ
仝日午後六時投錨セリ
此ノ問題ガ國際公法上
希(ギリシャ)國ガ正當ナルヤ否ヤ多少疑ヒアルベキモ
兎ニ角此ノ事件ニ關スル全責任ハ希(ギリシャ)國ニ在リト云ヘル
驅逐艦長ノ書面ヲ受領シ
爾來俘虜ノ食料及乘組員ノ食料ヲ希(ギリシャ)國政府ヨリ仰ギ
一週間ヲ該港ニ碇泊セリ
其ノ間本船ヨリ本社宛電信ヲ驅逐艦ニ托シ發信セシモ
將タシテ到着セシヤ否ヤ不明ナルモ
實ニ案外ニ通信方法ニ苦シミ
斯ク延引致候次第左樣御承知願上候
一週間ノ後壹百九拾哩(マイル)ヲ距ル軍港ニ移サレ
翌拾三日當ピレウス港ニ來リ候
然ル處當港ニテ陽明丸ト邂逅シ
茅原船長ヨリロンドン
〔画像〕B07090955600-21

及本社ヘ通信セラレシト聞キシ次第ニ候
當地ニテハ左程變化モ無
之徒ラニ日本政府ノ命令ヲ待ツコト
今日迄既ニ貳拾參日間
壹千人ヲ押シ込ミシ平明丸ハ實ニ悲惨ナルモノニ有之
彼等ノ衞生狀態心理狀態モ餘リ良好ナラズ
津村少佐殿初メ一同案ジツヽ有之候
然シ今日迄ニハ發狂婦人一名
毒藥自殺未遂者一名位ノモノニ御座候得共
今後事件ノ解決ニ尚ホ一ケ月モ要スルト假定セバ
不祥事ノ發生ヲ防グ手段モ無キ
現狀聊カ心細キ次第ナルモ
何トカ都合シテ彼等俘虜ノ慰安ニ力(ツト)ムル考ヘニ御座候
但シ本船乘組員ハ全部元氣盛ンニシテ
何時懸命スル點無之御安心被下度候
當地ニ於テモ一切ノ食料(俘虜ニ對シ)及ビ乘組員ノ分モ
政府ヨリ支給ヲ受ケツツ有之候
目下ノ模樣ニテハ日本政府ノ要求ハ土耳其(トルコ)人ハ
既ニ浦鹽(ウラジオストク)ニ於テ
開放(解放)サレタル俘虜ナルヲ以テ
當然君府ニ上陸スベキモノナリトノコト又
東京日本政府ハ此ノ事件ヲ駐英日本大使ニ托シ在リ
倫敦(ロンドン)ニ於テ希(ギリシャ)國大使ト談判中
約一週間前ノ伊丹少將(ロンドン在)ヨリ
津村少佐宛電信ニテハ
土耳其(トルコ)人ヲ君府ニ上陸セシムルコトニ就キ
希(ギリシャ)國政府ノ承諾ヲ得タルモ
君府上陸ノ上聯合國管理ノ下ニ置キ
彼等俘虜あんごら政府ノ下ニ走リ
けまる將軍ノ旗下ニテ
希(ギリシャ)國軍ニ抗スルガ如キコト無キコヨヲ
保證セヨトノ條件付キナル旨ナリシモ
其ノ翌々日ノ電信ニテハ俘虜ヲ君府ニ上陸セシメ
聯合國管理ノ下ニ置ク件ハ尚ホ種々ノ事情ノ爲メニ
未ダ決定セズ多少時日ヲ要スベキ見込ナリトノコトニテ
其後ハ何等ノ情報ニ接セズ
其レヨリ後監督將校ト小生ト
アテネ市ノ海軍省ヲ
〔画像〕B07090955600-22

訪ネ
直接海軍大臣ニ面會シテ事件進捗ノ程度ヲ尋ネシ處
未ダ決定ニ至ラズ
君府ニ上陸セシムルコトニツキ
條件就キノ承諾ヲ輿ヘタルコトナシトノコトニテ
爾來徒ラニ日子ヲ過シ居候
〔画像〕B07090955600-23
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レファレンスコード B07090955600
件名 分割5
外務省外交史料館 戦前期外務省記録 5門 軍事2類 戦争
8項 俘虜、非戦闘員、傷病者、救護
欧州戦争関係在西比利亜敵国俘虜関係雑件 第四巻
[規模]86
作成年月日 大正10年6月19日~大正11年11月30日
作成者   内田大臣//内田外務大臣//在仏臨時代理大使松田道一
組織歴   外務省
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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[土耳古(トルコ)俘虜解放ニ関スル件]欧州戦争関係在西比利亜敵国俘虜関係雑件 第四巻④(分割4)

[土耳古(トルコ)俘虜解放ニ関スル件]
欧州戦争関係在西比利亜敵国俘虜関係雑件 第四巻④(分割4)
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※大正10年(1921)5月29日  p51/97
「譯 文」
   五月廿九日午後二時五十分發信
   六月 三日午後五時十七分受信
 ピリウス港ニテ
  平明丸船長發
尚ホ倫敦(ロンドン)ニ於テ
日本及希臘(ギリシャ)ノ大使ガ交渉中ナルモ
事件非常ニ複雜セル爲メ
何時而シテ如何ニ解決出來ル哉不明ナリ
詳細ハ陸軍省ニ尋ネラレタシ」
五月十八日以來毎日五噸宛
希臘(ギリシャ)ノ政府ヨリ
焚料炭ノ供給ヲ受ケツヽアリ
〔画像〕B07090955500-51

※大正10年(1921)6月10日   p74/97
   倫敦(ロンドン)發 大正十年六月
   本省     着 大正十年六月十日 后九・五〇
   内田外務大臣  林 大使
第七一一號
平明丸ノ件ニ関シ在當地勝田汽船會社代表者ヨリ、
同船々長ノ通信ニ依レバ其後
搭乗俘虜数名ノ外 船員中ニモ發狂者ヲ生ジ
船内ノ取締及衞生状態ニ付
前途不安ニ堪ヘザル趣ニ付
一日モ速カニ本件解決アリタキ㫖
再三陳情願出タリ
君府、伊太利(イタリア)ヘ轉電セリ
〔画像〕B07090955500-74

※大正10年(1921)6月12日   p84/97
        東京市京橋區銀座四丁目十五番地
            勝田滊船株式會社出張所
本社宛
 ペリウスユテ平明丸船長發
   月  日午後十一時    發
  六月十二日午前 八時三十二分着
倫敦(ロンドン)及君府ヨリノ通信ニ依レバ
解決ガ尚ホ長引ク事ハ明白トナレリ」
氣候ハ漸次暑クナリツヽ有リテ
衞生狀態ハ頗ル憂フ可キ狀態ニ在リ
貴方ニ於テ日本政府ヲ通ジテ能フ限リ迅速
?(電文原語不明)ニ本船解放方ノ努力ヲ願フ」
本船宛書狀?(私信ノ事ナランモ電文原語不明)
送ラレ度シ
   六月十五日 太田主任持参
〔画像〕B07090955500-84

※大正10年(1921)6月12日   p86/97
   汽船平明丸希臘(ギリシャ)政府ヨリ
   焚料炭補給ヲ受ケツヽアル理由
本船往航用トシテ常備炭庫ニ八百二十九噸
並ニ第二番艙ニ九百四十噸積附ケ居タル燃料炭
計一千七百六十九噸ハ既ニ消費セルモノト認メラル
本船復航用トシテ
第一、五、六番艙ニ積込アル石炭二千六十四噸ハ
俘虜乘船ノ儘抑留セラレツヽアル爲メ
常備炭庫ニ繰リ入レヽコト不可能ナルヲ以テ
不得巳日々ノ炊事用並ニ點燈用等トシテ
希(ギリシャ)國政府ヨリ一日五噸宛ノ割合ヲ以テ
補給ヲ仰ギ居ルコトヽ推察致候
        東京市京橋區銀座四丁目十五番地
            勝田滊船株式會社出張所(太田・印)
〔画像〕B07090955500-86
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レファレンスコード B07090955500
件名 分割4
外務省外交史料館 戦前期外務省記録 5門 軍事 2類 戦争
8項 俘虜、非戦闘員、傷病者、救護
欧州戦争関係在西比利亜敵国俘虜関係雑件 第四巻
[規模]97
作成年月日 大正10年3月11日~大正11年7月8日
作成者   在墺臨時代理公使井田守三//埴原外務次官//内田大臣
組織歴   外務省
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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