山﨑眞宏議員
9月議会(令和7年第3回定例会)は、
8月29日(金)から9月22日(月)まで開かれました。
山﨑まさひろ 議員活動の一環として、
一般質問の一部を報告させて頂きます。
【こども ファースト】
【京丹波町病院 医師確保は】
【生産者 ファースト】
【なぜ? 専門職員がいないの】
【企業版ふるさと納税】
山﨑眞宏
最後に、4年間、ありがとうございました。
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京都新聞 DIGITAL
過疎地医療支えるには「総合医であること求められる」
人口減進む地域の病院長が力説
2025年10月13日 7:00
京都府京丹波町の地域医療を担っている
国保京丹波町病院の垣田秀治院長(66)が町役場で講演し、
人口減少が進む中での同病院の役割などについて語った。
垣田院長は、前身の瑞穂病院から36年余りにわたり
同町で医師として勤務。
若手医師の育成にも力を注いでいる。
講演で垣田院長は、
京丹波病院は
「かかりつけ医の立場で、
町民の健康を支える存在だ」と説明。
地域で快適に生活するために、
医療を含めた労働や住環境の整備が不可欠とした。
人口減少が進む今後10年の町の医療について、
在宅での医療や介護を受ける患者の需要は依然高く、
急性期の医療ニーズが変化するなどと見通しを示し、
「少ない医師の数で町の医療提供体制を維持するためには、
常勤医は(幅広く患者を診察する)
総合医であることが求められる」と訴えた。
講演会は、
同町が町合併20周年事業に位置づけて4日に開催し、
約80人が参加した。
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京丹波 議会だより 第89号
[令和7年8月14日]
発行 京都府京丹波町議会
山﨑眞宏議員
小規模校教育と地域の取り組みへの評価は
【提言】小規模特認校の研究を。
〔画像〕議会だより京丹波 令和7年8月第89号p9
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[文部科学省]
◎学校選択制等について
[文部科学省]
◎公立小学校・中学校における学校選択制等についての事例集
1事例
1. 学校選択制
〔自由選択制〕
〔ブロック選択制・隣接区域選択制〕
〔特認校制〕
(7) 特色ある教育を希望して学校選択する学区外通学(新潟県長岡市)
(8) 通学区域の弾力化-全市域選択制-(愛媛県松山市)
〔特定地域選択制〕
[文部科学省]
1.学校選択制[特認校制]
(7) 特色ある教育を希望して学校選択する学区外通学(新潟県長岡市)
《特色ある教育活動》
マンツーマンに近い少人数授業
少人数を生かした授業を行い、
一人一人に基礎・基本の確かな定着を図り、
学力の一層の向上を目指す。
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◎小規模校との違いについて
【参考資料】小規模特認校のメリット・デメリット(例)
※大阪府八尾市 八尾市立小中学校適正規模等審議会資料より抜粋
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平成28年8月15日
教委告示第2号
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綾部市
小規模特認校制度について(令和7年5月更新)
令和8年度から「小規模特認校制度」が始まります。
小規模特認校制度とは?
小規模特認校で学ぶ良さは?
就学条件は?
・市内に在住し、市内の小学校に就学している、
又は就学する予定の児童であること。
・保護者の責任と費用負担において通学させること。
・児童の保護者は、通学する小規模特認校の
学校行事等に協力すること。
・原則として卒業まで就学すること。
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【官報 1900年01月04日】明治33年
著者 大蔵省印刷局 [編]
出版者 日本マイクロ写真
出版年月日 明治33年
一 商號 岩内運送合名會社
一 本店 京都府船井郡高原村字富田八十三番戸ノ一號
一 目的 諸物資運送諸物品賣買
一 設立ノ年月日 明治三十二年十二月十九日
一 代表社員ノ氏名 岩内修治郎
一 社員ノ氏名住所出資ノ種類及價格
一 金四百圓 京都府船井郡高原村字富田百十五番戸
岩内修治郎
一 金四百圓 京都府船井郡高原村字富田六十八番戸ノ内一號
吉田吉之助
一 金四百圓 京都府船井郡高原村字富田八十三番戸ノ内一號
田中 茂吉
一 存立ノ時期 明治三十二年十二月十九日ヨリ
明治四十七年十二月十八日マテ
滿十五箇年
右明治三十二年十二月二十六日登記濟
園部區裁判所檜山出張所
一 三丹馬車運送株式會社ハ
明治三十二年十二月十五日
淸算結了ス 宮津區裁判所
【官報 1902年02月25日】明治35年
著者 大蔵省印刷局 [編]
出版者 日本マイクロ写真
出版年月日 明治35年
岩內運送合名會社ハ
明治三十五年二月九日
總社員ノ同意ニ因リ解散ス
一 淸算人ノ氏名住所
京都府船井郡高原村字富田六十八番戸一號
吉田吉之助
右明治三十五年二月十九日登記
園部區裁判所檜山出張所
【官報 1902年05月23日】明治35年
著者 大蔵省印刷局 [編]
出版者 日本マイクロ写真
出版年月日 明治35年
合名會社淸算結了
岩內運送合名會社
登記事項中左ノ如ク追加ス
一 淸算結了ノ年月日
明治三十五年五月十日
右明治三十五年五月十六日登記
園部區裁判所檜山出張所
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【日本全国諸会社役員録 明治29年】
著者 商業興信所 編
出版者 商業興信所
出版年月日 明治29
京都鐵道株式會社
上京區間之町通押小路北入
設 立 明治二十八年十二月
資本金 五百拾萬圓
一 株 五拾圓
拂込高 百貳拾七萬五千圓
社 長 小室 信夫
東京、本所、小梅
取締役 田中源太郎
南桑田郡龜岡町
仝 濱岡 光哲
上京、新町丸太町北入
仝 中村 榮助
下京、五條橋東二丁目
仝 有嶋 武
東京、赤坂、赤坂氷川町
監査役 今村淸之助
東京、芝、三田田町、七
仝 田中市兵衛
大阪、西、靭北、一
仝 山中利右衛門
上京、三條高倉西入
支配人 伴 直之助
東京、深川、福住町
副支配人 田村 武治
兼倉庫課長 下京、小川蛸藥師北入
庶務課長 多田 郁夫
會計課長 熊谷仙太郎
園部運送合資會社
船井郡園部町
設 立 明治二十七年一月
營業ノ目的 諸物貨運送
資本金 壹千圓
業務擔當 西田佐代吉
社員社長 船井郡園部町
事務員 人見謹一郎
中山 庄助
和知運送合資會社
船井郡上和知村
設 立 明治二十七年八月
營業ノ目的 諸物貨運送爲替及貸金
資本金 參千圓
社 長 西田佐代吉 船井郡園部町
取締役 荒井宇之助 船井郡須知村
仝 山本 喜藏 船井郡上和知村
仝 平井數之助 北桑田郡平屋村
仝 前林 源八 船井郡上和知村
臨時監査役 山口 榮藏 船井郡上和知村
事務員 堀 伊助
山口榮之助
野間彌左衞門
須知運輸合資會社
船井郡須知村
設 立 明治二十七年三月
營業ノ目的 諸物貨運送
資本金 貳千壹百圓
業務擔當社員 荒井卯之助
仝 淸水常次郎
船井郡須知村居住
北船運送合資會社
船井郡上和知村
設 立 明治二十八年四月
營業ノ目的 諸物貨運送荷爲替及貸金
資本金 壹千四百圓
業務擔當社員 志賀彌之助
北桑田郡大野村
下粟野運送合資會社
船井郡上和知村
設立 明治二十九年一月
營業ノ目的 諸物貨運送及預リ並ニ捲リ
爲替貸金等
資本金 千五百圓
業務擔當社員社 長 江本善九郎
業務擔當社員取締役 川邊 庄吉
仝 榎本 國吉
仝 江本惣九郎
仝 川邊長三郎
右上和知村居住
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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須知運輸合資會社
設立 明治27年3月
解散 明治38年3月
【官報 1905年04月07日】明治38年
著者 大蔵省印刷局 [編]
出版者 日本マイクロ写真
出版年月日 明治38年
會社解散
須知運輸合資會社ハ
明治三十八年三月二十四日
總社員ノ同意ニ依リ解散セリ
一 淸算人ノ住所氏名
船井郡須知町字須知百十七番戸
淸水常次郎
右明治三十八年三月二十九日登記
園部區裁判所檜山出張所
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【日本全国諸会社役員録 明治30年】
著者 商業興信所 編
出版者 商業興信所
出版年月日 [明治30]
三丹馬車運送株式會社
京都府與謝郡宮津町
設 立 明治二十九年五月
營業ノ目的 人乘馬車運轉貨幣及貨物運送
受托賣買貨物藏預リ
資本金 八萬圓
一 株 貳拾圓
拂込高 貳萬圓
社 長 殿村五兵衞
取締役兼支配人 澤田 和平
取締役 小室縫之助
取締役 南波庄兵衞
右宮津町居住
取締役兼支配人 井垣 義直 中郡峯山町
取締役兼支配人 井垣 義直 中郡峯山町
監査役 八木 榮造 與謝郡宮津町
監査役 石田與兵衞 中郡峯山町
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【官報 1900年01月04日】明治33年
著者 大蔵省印刷局 [編]
出版者 日本マイクロ写真
出版年月日 明治33年
一 三丹馬車運送株式會社ハ
明治三十二年十二月十五日
淸算結了ス 宮津區裁判所
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【新修亀岡市史 資料編 第3巻 /付録】2000年
著者 亀岡市史編さん委員会 編
出版者 亀岡市
出版年月日 2000.11.
https://dl.ndl.go.jp/pid/13130622/1/1
交通の発達
京都・宮津間縦貫道の完成
一八七六年(明治九)八月、
丹波国天田郡と丹後国が京都府の管轄に入ると、
京都市中と丹波・丹後を結ぶ車道開設が
要請されるようになった。
人力車や乗合馬車など物資輸送のための
陸上交通機関が発達してきたことにもよるのだろう。
この一大縦貫道路京都・宮津間車道開鑿工事は、
一八八一年(明治十四)に起工され、
一八八九年(明治二十二)に完成した。
松風洞(丹波老ノ坂トンネル)の完成を
明確に示す史料は残念ながら見つかっていないが、
さまざまな史料から判断するとおそらく、
一八八三年(明治十六)には
竣工していたのではないかと思われる。
この車道開鑿工事の完成で、
宮津町沢田和平氏が三丹馬車と称し、
一八九一年(明治二十四)七月十日から
京都・宮津間に乗合馬車を走らせた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13130622/1/15
新修亀岡市史 資料編 第三巻 付録
グラフかめおか20世紀
平成12年11月3日発行
発 行 京都府亀岡市
京都府亀岡市安町野々神8番地
印刷・製本 河北印刷株式会社
京都市南区唐橋門脇町28
https://dl.ndl.go.jp/pid/13130622/1/67
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【官報 1900年01月04日】明治33年
著者 大蔵省印刷局 [編]
出版者 日本マイクロ写真
出版年月日 明治33年
一 三丹馬車運送株式會社ハ
明治三十二年十二月十五日
淸算結了ス 宮津區裁判所
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【三和町史 下巻(通史編)】1996
著者 三和町史編さん委員会 編
出版者 三和町
出版年月日 1996.3
https://dl.ndl.go.jp/pid/13219747/1/4
2 運輸
阪鶴鉄道
https://dl.ndl.go.jp/pid/13219747/1/104
京鶴鉄道
https://dl.ndl.go.jp/pid/13219747/1/105
京都—宮津間乗合馬車
京都—宮津間の三〇余里にわたる車道開設工事が完成し、
明治二十四年四月各地で開通式がおこなわれたが、
同年(明治24)七月十日から
京都—宮津間に乗合馬車が通じるようになり、
菟原に乗継所が設けられた。
新聞記事は次のように開通を報じている。
京都宮津間馬車全通
京都より宮津に達する車道開通したるにより、
宮津町字小川の沢田和平氏は此程より
宮津園部間に乗合馬車を開業したるが、
今度進んで園部京都間に及ぼし、
来る十日より京都宮津間を全通する筈にて
出張店を下京区七条通大宮西入泉月樓に設け、
一昨日午後沿道の有志者二十余名を
同出張店に招待し開業式を挙げたり、
両地間の発着時間は
午前五時京都を発し午前十一時園部に着、
同(午前十一時)十分にて福知山行の馬車に乗り、
同(午後五時)福知山に着、
翌日午前五時同所(福知山)発宮津行の馬車に乗れば
午前十一時三十分に宮津に着すべく
又午前五時宮津発の馬車に乗れば
正午十二時福知山に着し、
同時同所を発する車に乗換へ
午後六時園部に着
翌日午前五時同地を発し
同十一時京都に着する都合なり、
又宮津福知山間・福知山園部間及び
園部京都間は毎日一回づつの往復
(発車は往復共午前五時にて
午後六時乃至六時三十分に帰着す)
賃銭は宮津福知山間四十八銭、
福知山園部間四十七銭、
園部京都間三十一銭、
京都宮津間一円二十六銭にして
栗田・由良・大川・高津江・河守・天津・生野・菟原・
大久保・桧山・須知・八木・亀岡・沓掛・
https://dl.ndl.go.jp/pid/13219747/1/106
樫原の各地に乗次所を設くる由
(『日出』『中外電報』明治二十四・七・八)
乗合馬車は同時に小荷物の運搬も兼業し、
京都から峰山・舞鶴・宮津行は翌日配達。
福知山以東は即日配達。
また、宮津から園部・亀岡・京都などは
翌日配達であった
(『中外電報』明治二十四・七・十一)。
もっとも乗合馬車の事故も多かった。
明治二十四年八月十七日
乙訓郡塚原—葛野郡樫原間の事故で乗員二人が即死し、
明治二十五年九月十一日には上六人部村生野駅で
宮津行の馬車が転覆し乗員三人が怪我、
二頭の馬も足を折った
(『中外電報』明治二十五・九・十四)。
明治二十八年十二月には老ノ坂で転落。
乗客六人が重軽傷を負った
(『日出』明治二十八・十二・二十四)。
また、明治三十一年二月八日にも三丹馬車が
老ノ坂谷川に転落し重軽傷八人をだした
(『日出』明治三十一・二・十一)。
三丹馬車は明治二十六年六月十五日から
宮津の沢田広栄堂馬車部が宮津本店と
京都七条大宮西入同支店との間に
即日発着の馬車を往復させた
(『日出』明治二十六・六・八)。
一番車 午前四時京都発、
午前八時園部着、
午後二時三十分福知山着、
午後七時三十分宮津着
二番車 午前六時京都発、
午前十一時園部着、
午後五時三十分福知山着、
午後一時三十分京都発、
午後六時園部着
賃 金 京都園部間三十一銭、
京都福知山間九十八銭、
京都宮津間一円四十八銭
京都—宮津間の馬車は時間が一定しているので
乗りおくれたりして不便なこともあったが、
人力車に比して賃銭が安く乗客が多いので
馬車増発の必要あり
(『日出』明治二十五・二・二十八)
とあるように利用がすすんだ。
明治二十七年正月には三丹馬車宮津本店・
同京都支店では写真39のように増発している
(『日出』明治二十七・一・一)。
なお、人力車は明治四十二年当時、
福知山広小路から菟原下まで六五銭、
川合垰まで五七銭、
大原まで六七銭、
桧山まで一円一九銭が標準賃金であった
(『天田郡案内と事蹟一班』)。
◎京都宮津間 馬車發車時間改正
晴雨を論ぜず 一日も休まず
三丹馬車宮津本店
京都七條通 大宮西ヘ入
仝京都支店
写真39 京都—宮津間馬車発車時間
改正(『日出』明治27.1.1)
〔画像〕p107【三和町史 下巻(通史編)】1996
https://dl.ndl.go.jp/pid/13219747/1/107
三和町史 下巻(通史編)
平成8年3月31日発行
編集 三和町史編さん委員会
発行 三和町
京都府天田郡三和町字千束515
印刷 河北印刷株式会社
https://dl.ndl.go.jp/pid/13219747/1/515
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【官報 1900年01月04日】明治33年
著者 大蔵省印刷局 [編]
出版者 日本マイクロ写真
出版年月日 明治33年
一 三丹馬車運送株式會社ハ
明治三十二年十二月十五日
淸算結了ス 宮津區裁判所
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2025年07月20日05:12
明治22年 京都舞鶴鉄道発起人会が開かれ、
園部—須知—和知谷本庄—山家駅が予定されていた
【三和町史 下巻(通史編)】1996
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【三和町史 下巻(通史編)】1996
著者 三和町史編さん委員会 編
出版者 三和町
出版年月日 1996.3
https://dl.ndl.go.jp/pid/13219747/1/4
2 運輸
阪鶴鉄道
https://dl.ndl.go.jp/pid/13219747/1/104
京鶴鉄道
山陰鉄道敷設のため
明治二十六年七月設立された京都鉄道会社は、
明治二十八年十一月に京都—福知山—和田山間、
綾部から分岐して舞鶴—宮津間および軍港線の免許がおりた。
京都鉄道は明治二十九年四月に京都から起工し、
明治三十年十一月に京都—嵯峨間が、
明治三十二年八月には嵯峨—園部間が開通したが、
莫大な建設費を要するため、
園部以西の未成部分を完成できない状態となった。
そこで、
明治三十三年十一月に
未成部分の免許取り消しを出願するとともに
既成線路の買収を政府に具申した。
これにより京鶴線敷設工事は官営に引き継がれ、
明治四十年八月に鉄道国有法により
京都鉄道は阪鶴鉄道とともに国有化され、
明治四十三年八月に園部—綾部間が開通した。
この過程で須知経由から
殿田経由へと変更になったことにより
三和町域は少なからざる影響をうけることになった。
京鶴線に逃げられた経過をたどってみよう。
「京都舞鶴間鉄道線路実測図并取調書」
(『中外電報』明治二十二・一・三)によると、
京都から舞鶴にいたる鉄道目論見として、
距離六五マイルでコースは
七条停車場—上嵯峨—山本—亀岡—
園部—須知—本庄—山家—味方—舞鶴となっていた。
うち、園部—須知間四マイル、
須知—本庄十一マイルである。
園部から須知にいたる距離四マイルは
「園部川の西岸より直ちに四十分の一
或は六十分の一勾配を付して
観音峠の旧道を沿ひて字大谷の出合所近傍迄は
隧道を要せざるべしと雖ども、
夫より山脈益々峻嶮なるが故に
此所に一の隧道を要す、
此隧道は園部の方よりは四十分の一勾配にて
須知の方よりは略水平に堀込めば最好の位置を得べし、
須知村は園部より高きこと凡
百五十呎(フィート)なるが故に、
園部より上り多くして下り少なく
此隧道は長凡六十鎖(チェーン)
(凡六百五十間余)にして
全線路中の最長隧道なる可し、
此隧道中には海面上凡六百呎(フィート)に
近き高度に達すべく
此迄は全線路中の最高点なるべし、
云々」とある。
また、工事概算三〇〇万円のうち
「観音峠隧道外前後取付凡
一哩(マイル)分二十五万円…」であった。
明治二十二年五月二十四日には
京都舞鶴鉄道発起人会が開かれ、
園部—須知—和知谷本庄—山家駅が予定されていた
(『中外電報』明治二十二・五・二十五)。
「舞鶴軍港発展を予見して舞鶴鉄道の熱は
京阪神播の間に流行すること麻疹熱の如く」とあり、
なかでも福知山ではもっとも鉄道熱が高かった
(『中外電報』明治二十二・五・二十六)。
―略―
鉄道庁仙石技師の路線調査は
明治二十五年八月~九月にかけておこなわれた。
明治二十五年九月十七日には山家村に
船井郡の石原半右衛門代議士・柳島諴天田郡長・
山口俊一・宮崎清風何鹿郡書記・
舞鶴から小西長左衛門・
https://dl.ndl.go.jp/pid/13219747/1/105
京都から中村栄助他が仙石技師に面会し、
意見を交換した。
席上同技師は、
鉄道は国家経済に属するものなれば
一は成るべく線路の迂回せざらんことに注意し、
一は物産輸入等より生ずる収益如何に着眼せざるべからず、
然るに此地方の人々が希望する如く
観音峠に線路を敷設するときは
其経費に五十万円を要し
福知山に迂回するに亦五十万を要すれども、
此支出に対する収益の見込なきを以て
京鶴線は先ず保津川山間より鳥羽村に出で
園部の上手より和知黒瀬に入り
和知川の南岸を上原に抜け
綾部を経て舞鶴に出でしむること
最も利益あるべし
との旨をのべたので、
天田郡の有志者は大いに失望して
即日帰郷したとある
(『中外電報』明治二十五・九・二十一)。
―略―
ついで、
明治三十二年九月には
京都鉄道会社から京鶴比較線計画準備のため
立入測量を願い出で、
明治三十二年九月十二日から十二月末までの期間に
船井郡須知村・園部町・桧山村・摩気村・梅田村・竹野村、
天田郡菟原村・細見村・川合村・上六人部村・
下六人部村・雀部村・曽我井村・福知山町で
立入測量がおこなわれた
(『日出』明治三十二・九・十三)。
このあと、
明治三十八年三月には
須知町有志者が須知町通過に設計変更を求め運動するため、
十四日変更請願書を逓信大臣差し出すべく
府庁に進達を願い出たが、
須知を通過すると困難な隧道二カ所あり、
効果があるかわからない、とあった
(『大朝』明治三十八・三・十五)。
綾部—園部間は舞鶴支線として
明治三十九年七月線路の実測をおわって十月に起工した。
福知山鉄道管理局史にも最初の予定では
園部—須知—高原—桧山のコースを
鉄道が通るはずであったが、
須知地区など沿線諸村が反対したこともあり、
府会議員木戸豊吉・郡会議員井尻良造らが
地元を説得し路線変更に成功、
殿田—胡麻—和知を通ることになったと記している。
山陰本線に逃げられた影響は日を追って深刻となり、
たとえば菟原村は
明治三十年ごろ七〇〇戸あったのが、
昭和七年当時は四〇〇戸と減じたのも、
汽車に接する農民との競争に落伍したものとしている
(『菟原村有志から郡部会への陳情書』昭和七・十二)。
京都—宮津間乗合馬車
https://dl.ndl.go.jp/pid/13219747/1/106
https://dl.ndl.go.jp/pid/13219747/1/107
三和町史 下巻(通史編)
平成8年3月31日発行
編集 三和町史編さん委員会
発行 三和町
京都府天田郡三和町字千束515
印刷 河北印刷株式会社
https://dl.ndl.go.jp/pid/13219747/1/515
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【官報 1925年06月11日】大正14年
著者 大蔵省印刷局 [編]
出版者 日本マイクロ写真
出版年月日 大正14年
◎商業登記
〇株式會社
商號 下山實業株式會社
本店 京都府船井郡高原村大字下山小字岸之本二十七番地
目的 一 住宅地及住宅竝ニ之等ニ附屬スル諸經營
二 土地賣買貸借等
三 生産物委托賣買竝ニ共同購入取扱
設立年月日 大正十四年二月二十一日
資本ノ總額 金三万圓
一株ノ金額 金五十圓
各株ニ付拂込ミタル株金額 金十二圓五十錢
公告方法 會社ノ店頭ニ掲載
取締役ノ氏名住所
竹村 正夫 船井郡質美村百三十八番戸
林 兼次 船井郡質美村九十八番戸
大西 藤馬 船井郡質美村百七十一番戸
山根 喜藏 船井郡高原村大字下山小字小畠七十三番地
藤田 源藏 船井郡高原村小畠九十二番戸
監査役ノ氏名住所
三好 彌藏 船井郡質美村二十三番戸
松本常次郎 船井郡高原村大字下山小字中道七十八番地
會社ヲ代表スヘキ取締役 竹村正夫
存立時期 設立ノ日ヨリ滿二十箇年
右大正十四年三月二日登記
園部區裁判所檜山出張所
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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