ウィード先生《J. A. Weed》

《須知農林学校》校長 高橋長八【自治産業発達誌】昭和15年(1940)

【自治産業発達誌】昭和15年(1940)
出版者   国際通信社
出版年月日 昭和15
京都、船井、高原村
京都府立 須知農林學校
本校の歷史は甚だ古く、
明治九年十月
米人ゼームス・オースタイン・ウヰードを
主任とした
京都府農牧學校を濫觴とし、
駒場及び札幌と共に
日本農業敎育史上最も有名である。
而して開校以來六十年の間、
地方開發の中心的存在として
重要なる役割を果たして來た。

本校の所在地蒲生野は廣茫にして高燥
自然に惠まれた理想的農林學校である。
水田六町歩、桑園一反歩、山林十町歩、
外に生徒の勞力によつて
開墾せられた二町半歩があり、
生徒一人當り六畝歩にして、
新時代に即應した
眞の農林敎育を行ふ方針を以て、
學校長以下十七名の職員が
三學年百六十名の生徒の訓育指導に
日夜並々ならぬ努力を盡してゐる。
猶現在一千一百名に餘る
本校の卒業生が農林業界に在つて、
斯界の中心的人物として、
業界の啓發及び指導に盡瘁してをり、
國家社會の爲多大の貢献をしてゐる。
p147【自治産業発達誌】昭和15年(1940)
p147【自治産業発達誌】昭和15年(1940)
校長 從五位勳六等
高橋長八
氏は明治二十三年二月十九日
青森縣に生れた。
大正五年駒場の農大を卒業し、
福岡縣農事試驗場に勤め、
土地調査に從事する事五年、
後茨城縣に轉じ、
又京都農林學校に十年間の久しい間
主席敎諭を勤め、
明治十二年十二月
本校の校長に就任した。

氏は人格高潔にして圓滿な性質は、
威有つて然も溫にして、
部下職員及び生徒の尊敬淺からず、
名校長と稱揚されてゐる。
多年農林敎育に盡力せられた功により
從五位勳六等を賜つた。
p148【自治産業発達誌】昭和15年(1940)
p148【自治産業発達誌】昭和15年(1940)
昭和十五年五月二十五日印刷
昭和十五年五月三十一日發行 非賣品
著作兼 株式會社 國際通信社
發行兼 佐藤 公彦
印刷人 東京市本郷區駒込富士前町一
印刷所 株式會社 國際通信社印刷部
    東京市本郷區駒込富士前町一
發行所 株式會社 國際通信社
    東京市本郷區駒込富士前町一
    振替口座東京三四四七〇番

【官報 1937年12月29日】昭和12年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 昭和12年
公立實業學校長兼
公立實業學校敎諭
《高橋長八》
京都府立須知農學校長兼
京都府立須知農學校敎諭ニ補ス
p24【官報 1937年12月29日】昭和12年
p24【官報 1937年12月29日】昭和12年

【東京帝国大学一覧 從大正2年 至大正3年】
著者    東京帝国大学 編
出版者   東京帝国大学
出版年月日 大正3
  第七 農科大學
 農藝化學科
  第一學年
高橋長八 青森平

【東京帝国大学一覧 從大正5年 至大正6年】
著者    東京帝国大学 編
出版者   東京帝国大学
出版年月日 大正6
 農藝化學科
大正五年七月卒業
高橋長八 靑森
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【中里町誌】昭和40年(1965)
出版者   中里町
出版年月日 1965
3 高橋長八
出身地 大字豊島 明治二三年生
知 名 農学者、産業技師
現住地 大字豊島
氏は明治四十二年
県立第四中学校(木造)を卒業、
仙台二高を経て
東京帝大農科農芸化学科を卒業(大正五年)
同大学副手、同講師、
福岡県農業試験場技師、
茨城県産業技師、
同農事試験場長等の官職に就き
昭和十八年三月本職をやめ
同年鐘ケ渕紡績会社に迎えられたが
二十年退社して帰郷
自適の生活を送っている。
p568【中里町誌】昭和40年(1965)
p568【中里町誌】昭和40年(1965)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2990325/1/568
昭和四十年一月 二十日印刷
昭和四十年一月三十一日発行
    中里町誌 全
編 纂 成田末五郎
発 行 中里町
発行所 中里町役場
    北津軽郡中里町大字中里
    電話(代表)一四一番
印刷所 小野印刷
    弘前市富田町五二
    電話(2)七四七一~三番
https://dl.ndl.go.jp/pid/2990325/1/604
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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富山大学都市デザイン学部〔地球システム科学科〕令和4年度の1~3年生の成績優秀者

都市デザイン学部単年度成績優秀者表彰を行いました。
令和4年度の1~3年生の成績優秀者に
学部長表彰を行いました。
各学科において、
学科長から各受賞学生に表彰状と副賞を授与しました。
〔地球システム科学科〕
 honors-student-award_r4_202208_image001
2023.08.24 教育・学修活動
富山大学都市デザイン学部
〒930-8555 富山県富山市五福3190
TEL.076-445-6918

富山大学都市デザイン学部
こんな夢を実現したい人のための学科です。
・地球の成り立ちや、
 自然・環境などに興味がある。
・地球や地域の自然についての
 未解明の問題に挑戦したい。
・地球や地域の自然についての
 知識や視点を将来の職業に活かしたい。
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京都府船井郡京丹波町豊田下川原166-1
本校は、明治9年にアメリカ人 
ジェームス・オースチン・ウィード氏を主任教員に迎え、
京都府農牧学校として創設されました。
  blog[小野一雄のルーツ]改訂版
日本の3大農業教育の発祥地の一つと言われています。
昭和23年に京都府立須知高等学校となりました。
 海抜約180mの位置にあり、
146,890㎡という広大な校地に緑があふれ、
ポニーや山羊・羊が放牧されるなど、
豊かな自然環境に恵まれた高校です。

京都府立須知高等学校 進路指導部

京都府立須知高等学校 進路指導部
富山大学(2名)

京都府立須知高等学校 進路指導部
早稲田大学
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年07月17日 05:45
早稲田大学女子ホッケー部2023年度チーム体制
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
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「幻の写真家 チャールズ・ウィード 知られざる幕末日本の風景」横浜開港資料館

「幻の写真家 チャールズ・ウィード 
 知られざる幕末日本の風景」
 横浜開港資料館

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2022年05月19日 05:35
【ウィードの年譜】ウィード先生
《J. A. Weed》James Austin Weed:
京都府立須知高等学校2022年3月18日発行
この年譜のウィードの兄は
チャールズ・リアンダー・ウィードといって
来日したこともある著名なカメラマンです(※)。
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神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙
タウンニュース
中区・西区版掲載号:2023年1月26日号
横浜開港資料館
幻の写真家 28作品初公開
幕末維新期の風景 展示
 横浜開港資料館で1月28日(土)から、特別展
「幻の写真家 チャールズ・ウィード
  知られざる幕末日本の風景」が開かれる。
明治維新の直前1867年から68年に来日した
米国のプロカメラマン、
チャールズ・リアンダー・ウィード
(1824〜1903)が撮影した
幕末維新期の横浜や江戸、長崎の
風景写真28枚が初公開される。
 ―略―
 特別展は3月12日(日)まで。
開館時間は午前9時30分から午後5時
(券売は4時30分)まで。月曜休館。
観覧料は一般500円、
小中学生と市内在住の65歳以上は250円。
毎週土曜日は高校生以下が無料。
(問)横浜開港資料館【電話】045・201・2100
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明治の三大農学校の一つ 京都農牧学校跡(丹波町)【丹波風物誌】昭和57年(1982)

明治の三大農学校の一つ 京都農牧学校跡(丹波町)
【丹波風物誌】昭和57年(1982)

【丹波風物誌】昭和57年(1982)
国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
湯浅貞夫 著 (文理閣, 1982)  

 明治の三大農学校の一つ
   京都農牧学校跡(丹波町)

 夕立がサーッと通り過ぎていった。
ポプラの喬木が太陽に光っている。
池には水蓮の丸い葉が、いっぱいに浮かんでいる。
白樺の幹を切って二本足にした金属板には
「京都府農牧学校跡」とかかれている。
これは、京都府知事であった蜷川虎三氏の筆になるものである。
 明治九年(一八七六)、政府から派遣された
京都府知事・槇村正直は、
京都の鴨河東(今の京大病院)に農牧場をつくった。
そしてホルスタイン種などの洋牛を飼い、
西洋式農業の技術をとり入れた。
その後、この牧場は、広大な丹波高原の、
須知・蒲生野に移転した。
 古いチョンマゲを切り落としたばかりのこの地方に、
新式の洋式農業を伝講する京都農牧学校が建った。
 初代の教師は、
米国人のジェームズ・オースチン・ウイドーであった。
畜産、農芸化学、水利、農機具などが教授され
集まった学生たちは、機械を使う新式農業に驚いた。
 ちょうどその頃、日本には三大農学校が創立された。
東京駒場農学校、
そして「ボーイズ・ビー・アンビシャス」で有名な
札幌農学校、
更に須知の京都農牧学校である。
 その後、駒場は、第一高等学校から東大教養部に。
札幌は北海道大学農学部となった。
須知の蒲生野は、
須知農学校から今の須知高等学校となった。
 濃い酸性土壌とひどい水不足、
さらに交通難で、この地方の開発がおくれた。
それの解決のため、
京大の大工原銀太郎博士が土壌改良を行った。
そして蜷川知事の時には国道九号線や、
あとにのこされた課題は、水資源である。
 今、須知高等学校には、ウイドー時代の
「カルチベーター」や「ハロー」など、
百年の歴史をもつ記念すべき農機具が
立派に保存されているのである。
[写真]水蓮の花さく、京都農牧学校の跡
【丹波風物誌】昭和57年(1982)p36
〔画像〕【丹波風物誌】昭和57年(1982)p36
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9576135/36
著者紹介
湯浅貞夫
一九二八年 京都府園部町で生れる
現在 日本共産党京都府委員
   衆議院議員 寺前いわお事務所事務長
主著 『歴史の群像』『いばらの道』
住所 京都府船井郡日吉町字下保野田
   TEL 〇七七一七(二)〇一四六
丹波風物詩
1982年11月30日発行   ¥1,200.
著 者  湯浅 貞夫
発行者  黒川美富子
発行所  図書出版 文理閣
 京都市下京区七条河原町西南角
 TEL 075(351)7553
 ISBN4-89259-056-8
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9576135/88
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大工原 銀太郎(だいくはら ぎんたろう、
1868年1月27日〈慶応4年1月3日〉 –
 1934年〈昭和9年〉3月9日)は、
日本の農学者(農芸化学)。勲等は勲二等。
学位は農学博士(1911年)。
旧姓は鈴木(すずき)。
農事試験場技師、特許局技師、九州帝国大学農学部教授、
九州帝国大学総長、同志社大学総長などを歴任した。

酸性土壌改良の恩人、「ダイクハラ酸度」で有名な大工原銀太郎

京丹波ウイードの森
京都府農牧学校資料館
平成29年12月9日
京都府立須知高校の一室を改装し、
農牧学校時代の資料等を集めた資料館が開館
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ゼー・エー・ウヰード 述 附録 童仙房紀行【西洋農学日講随録. 巻之1】明治8年(1875)

ゼー・エー・ウヰード 述 附録 童仙房紀行
【西洋農学日講随録. 巻之1】明治8年(1875)

【西洋農学日講随録. 巻之1】明治8年(1875)
国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
ゼー・エー・ウヰード 述[他] (京都府勧業場, 1875)  

皇國紀元 二千五百卅五年四月 逐次出版
西洋紀元 千八百七十五年四月 巻數未定
西洋 農學日講隨録
   田代俊二 編輯
京都府勸業場藏版

西洋農學日講隨録
   緒 言
  此書ハ。
  京都府雇入レ農牧教師。
  米利堅國(メリケン)ノ人。
  ゼームス、オースタイン、ウヰード氏ノ
  講述ヲ隨録シタルナリ。
  紀元千八百四十六年ニ上梓シタル。
  米利堅國農學師リチヤールド、ヱル、オーレン氏ノ著ス
  新農學全書ヲ原本トシ。
  教師ノ實檢。
  或ハ目撃スル所ノ論説アオ併セ記ス。
  言ヲ捨テ。
  義ヲ取リ。
  重複ヲ除キ。
  簡便ニ從ヒ。
  專ラ教師示諭ノ㫖ヲ條達シ易
【西洋農学日講随録. 巻之1】明治8年p3
〔画像〕【西洋農学日講随録. 巻之1】明治8年p3
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/838701/3

  カラシム。
  故ニ必シモ原書ノ行文ニ拘ラス。
  又毫モ私意臆説ヲ加ヘス。
一 昨明治七年甲戌四月十四日。
  業ヲ開キ。
  十二月廿二日。
  業ヲ休ム。
  其講述編輯スル所ノ目次左ノ如シ。
   ―略―
【西洋農学日講随録. 巻之1】明治8年p4
〔画像〕【西洋農学日講随録. 巻之1】明治8年p4
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/838701/4

西洋農學日講隨録 巻之一
  京都府牧畜場農牧教師
    米國人 セー、ヱー、ウヰード氏 講述
  京都府勸業課   東  五一 通辯
  京都府勸業課   田代 俊二 編輯
   農學發端
    ―略―
【西洋農学日講随録. 巻之1】明治8年p7
〔画像〕【西洋農学日講随録. 巻之1】明治8年p7
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/838701/7

附録
   童仙房紀行
  童仙房ハ。
  山城國相樂郡。
  東南ノ隅。
  衆山ノ巓(イタヾキ)ニ在リ。
  京都府廰ヲ距ルヿ十有餘里。
  荒蕪未開ノ地ナリ。
  維新ノ始メ。
  流亡ノ民ヲ植エ。
  有志ノ徒ヲ移シ。
  其地ヲ墾闢セシメ。
  更ニ支廰ヲ置キ。
  專ラ就産ノ方法ヲ勧奨ス。
  明治七年五月。
  農牧教師米國人ウヰード氏ヲシテ其地ヲ實査シ。
  開拓、樹藝、耘培、牧畜等ノ業ヲ説諭セシム。
  其往返途上。
  質問ノ略ヲ記スルヿ
【西洋農学日講随録. 巻之1】明治8年p24
〔画像〕【西洋農学日講随録. 巻之1】明治8年p24
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/838701/24

  左ノ如シ
一 山城國綴喜郡市邉村ニ青谷ト云フ山アリ。
   ―略―
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/838701/25

一 相樂郡木津驛ヨリ北村ノ間ニ鹿瀨山アリ。
   ―略―
一 相樂郡笠置村ヨリ童仙房ノ途上ニ沙山多シ。
   ―略―
一 童仙房ニテ師自ラ岡ニ登リ。
  概觀ス。
   ―略―
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/838701/26

一 童仙房山中ニ粘土多シ。
   ―略―
一 童仙房ニ水田アリ。
   ―略―
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/838701/27

一 師曰。童仙房ハ開墾未タ久シカラス。
   ―略―
一 帰途木津驛ニ至ル。
  茶樹ノ枯萎スルヲ見ル。
  之ヲ養フ術アリヤト問フ。
   ―略―
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/838701/28

京都府 牧畜場改印
明治八年四月刻成
製本所 書林 田中治兵衛
    京都 寺町通四條上ル町
【西洋農学日講随録. 巻之1】明治8年p29
〔画像〕【西洋農学日講随録. 巻之1】明治8年p29
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/838701/29
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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童仙房の歴史
昭和44年4月に、童仙房の人たちが力を合わせて、
童仙房の歴史を「童仙房開拓 百年の歩み」
という小冊子にまとめ上げました。

南山城村の歴史(童仙房)
明治の開拓
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京都府官營「農牧學校」の顚末 京都學藝大學高原農場調【農業發達史調査會資料. 第26号】昭和25年(1950)

京都府官營「農牧學校」の顚末 京都學藝大學高原農場調
【農業發達史調査會資料. 第26号】昭和25年(1950)

  【農業發達史調査會資料. 第26号】昭和25年 [9頁]

【農業發達史調査會資料. 第26号】昭和25年(1950)
国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
(農業發達史調査會, 1950)  

  農業發達史調査會資料
    第26號
京都府官營「農牧學校」の顚末
 京都學藝大學高原農場調
(1) 緒 言            1頁
(2) 創立年月とその異説      1頁
(3) 學校の位置と建物の配置    3頁
(4) 學校組織と生徒規則      4頁
(5) ウイードの人柄について    6頁
(6) 廢校の原因とその後の蒲生野  9頁
(7) 農学校の遺物について     10頁
(8) 結 尾            11頁
昭和25年9月
  農業發達史調査會
  東京都北區西ケ原町
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/1

  まえがき
 本編は京都大学榎本教授の御厚意により、
明治初期に於ける有畜政策と農業教育の濫觴である
農牧学校に関する記録(京都学芸大学高原農場調)を
筆写したものである。
 農牧学校については一般にしられていないが、
明治新政府が行った下総牧畜場、内藤新宿試験場等と
同時代に出現した全国中最初の地方的施設であり、
稀有なものであった。
 この農牧学校は、当時の明治新政府の勧農製作の底を流れていた
大農論的思想を端的に現わしており、
それが設立後三年足らずで廃校の止むなきに至っていることは、
外国農業技術のプリミチーブな直輸入の挫折を示している。
 本会では明治初期における、
外国農学ないし農業技術の影響の究明を志しているが、
その一資料として参考に供する次第である。
 なお農牧学校について解説したものとしては、
津下剛著「近代日本農政史研究」(昭和十八年・光書房刊)がある。
 昭和二十五年九月
       農業発達史調査会
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/2

   目  次
(1) 緒 言            1
(2) 創立年月とその異説      1
(3) 學校の位置と建物の配置    3
(4) 學校組織と生徒規則      4
(5) ウイードの人柄について    6
(6) 廢校の原因とその後の蒲生野  9
(7) 農学校の遺物について     10
(8) 結 尾            11

(1) 緒 言
 明治九年創立せられた京都府農牧学校は、
現在の駒場・札幌と共に
我国農業教育沿革史上不滅の足跡であるが、
僅か三年足らずして廃校せられた事と、
当時の史料文献の散逸とによって顧みられなくなり、
遂に農牧学校は名実共に斯界から没してしまったのである。
然るに近年実業教育の濫觴の一つであり、
又農業教育沿革史上重要なものとして注目して居る。

〔榎本註〕靑年師範で書いたので教育と云う事に偏している。
当時農牧学校の農場であった
由緒ある京都府立須知農林学校に奉職するものとして、
この尊い郷土の誇りを紹介する、
大口厚顔を辞せず京都府誌に散見せられるものと、
京都府文書課保存の古文書中に発見せられたものと、
現在存命の農牧学校当時の使丁 牧夫等について聽き正し、
整理考証したものを未完乍ら草することにした。

(2) 創立年月とその異説
   ―略―
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/3

   ―略―
(3) 學校の位置と建物の配置
   ―略―
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/4

   ―略―
(4) 學校組織と生徒規則
 学校組織については、次の農牧学校授業生徒規則を見れば、
大体如何なるものであったかは十分伺われる。
其中特に注意すべきは科の分け方で
即ち現業技術と学問講義になっている事で
従って修業年限も現業技術の方は一ケ年半、
学問講義は三ケ年となって、
当時に於ては進歩したやり方の様に思われる。
   職員組織
 主任講師  ゼームス・オースタイン・ウイード
 通  訳  野見織之助  ※能美織之助:下記
 実習教員  一ノ瀨、金重、水島、大島、林
 事  務  大中
 農  夫  北村助三郎、田端才治郎、吉田甚吉(死亡)
 小使兼農夫 岡本房次郎、田端辰之助(死亡)
 授業については、
主任講師ウイードが原書を以って農学を講義すれば、
これを直ちに野見通訳によって訳されたりと伝えらる。
当時の生徒の語学による苦辛は想像以上であったと思われる。
因に生徒の林田弥寿夫氏は ※林田弥寿夫:下記
当時外人によりて
たゝきこまれたる発音に依って老年に至るも会話については、
靑少年に対し屢々注意せられたりという。
 当時の開墾実習については所謂米国の大農式農具を用い
即ち洋牛八頭十頭十二頭を以て開墾し、
其の廻り方の掛声はホーラントシーラントと云い
実に今日に於て見得べからざる盛況なりしという。
 当時の生徒は約四十名で
管内に於て相当勧農思想に意を用いた
裕福な家庭の子弟が大部分占めていたのである。
生徒は全部寄宿舎に収容し、
登校には、初め袴を穿ちたというも、
後には髪を分け、洋服を着し、靴を履き、登校したと伝えらる。
この点から見れば、
ウイードの感化を受けた事は勿論であるが、
当時この丹波にも早や
欧米文化が正に謳歌されつゝあった事が出来る。
  農牧学校規則
   ―略―
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/5

   ―略―
(5) ウイードの人柄について
 明治十一年から十二年にかゝる
外国人傭継届の古文書から考えて見ると
ウイードが農牧学校の主任として赴任したのは
四十八才の男盛りであった。
当時の農牧学校の小使兼農夫であった
故田端辰之助氏の談に依れば
堂々たる体躯と非常な磊落な性格の持主で
趣味としては狩獵で常に洋犬を連れ
二連発銃を肩にして散歩し
特に鳥射には実に妙を得ていたと云われている。
満期解職後は船井郡園部町常盤橋詰に寓居して居た
と伝えられているが
これは地方人の口伝に依るもので
信ずるに足らないものである。

因にウイードの蒲生野に着任するや地方人は
ウイードの肉食するを奇として且之を悪嫌い した為、
ウイードの食用牛の屠殺場を現須知町町葬場に定めたという。
これ地方人が牛墓場と伝うる所以である。

 ウイードは農牧学校主任講師として奉職中の一ケ月の給料は
日本金貨二百円であったことは、
今日から見て当時の雇人一日の給料十五錢に比し
(当時米一升八錢)
外国人に対して如何に優遇していたか窺われる。

 ウイードの傭継の事
 京都簿第二百八十四号
    外国人傭継届
     米利堅人 ヂエームス・オースタイン・ウイード
          当 寅五十才
一 農牧教師
一 給  料 一ケ月ニ付 日本金貨二百円
一 雇継期間 明治十一年即洋暦千八百七十八年五月一日ヨリ
       十二年即チ洋暦千八百七十九年四月三十日迄
       約一ケ年
一 結約所  京都府下
一 住 所  京都府下丹波船井郡第三区蒲生野村
  ―略―
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/6

 京都府ト ウイード氏トノ條約
  ―略―
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/7

(6) 廃校の原因とその後の蒲生野
   ―略―
(7) 農学校の遺物について
   ―略―
(8) 結 尾 
   ―略―
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/8

 裏表紙
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/9
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2022年03月28日
[京都府立農牧學校]〔1/2〕明治9年11月
【実業教育五十年史】昭和11年

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2022年03月29日
[京都府立農牧學校]〔2/2〕明治9年11月
【実業教育五十年史】昭和11年

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2022年04月02日
《能美織之助》英學校・牧畜場・蒲生野農學校
【京都府教育史 上】昭和15年

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2022年05月18日
丹波國[蒲生野農牧学校]能美織之助・水島 義:
明治9年11月[官職進退 明09-0017]京都学・歴彩館

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2022年05月07日
《林田彌壽夫》農牧学校1期生(明治9年入学11年卒業) 
【現代加佐郡人物史】大正6年
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[農牧學校 米人ゼームス・ヲスタイン・ウヰード]<丹波誌巻七:船井郡下巻236頁>大正13年

[農牧學校 米人ゼームス・ヲスタイン・ウヰード]
<丹波誌巻七:船井郡下巻236頁>大正13年

<丹波誌巻七:船井郡下巻236頁>

 丹波誌巻七:船井郡下巻236頁_01
〔画像〕丹波誌巻七:船井郡下巻236頁_01

〇北村先生編 丹波誌 一部拾五巻 p2/236
 先生に請ひて二部を淨寫し
 京都帝國大學圖書舘と
 京都府立圖書舘に各一部を寄託す
 大正拾四年七月一日
  北村龍象先生喜壽會
 (北村先生喜壽會結末報告書を添附す)
 丹波誌巻七:船井郡下巻236頁_02
〔画像〕丹波誌巻七:船井郡下巻236頁_02

蒲生野 p38/236
明治五年ニ 知事 長谷信篤 大参事 槙村正直ハ
大藏省ノ訓示ニ原ヅキ 全國ニ率先シテ
牧場ヲ此處ニ設ケ
ブラオン種ノ牝牡牛 二十八頭ヲ米國ヨリ購入シ
槙村正直ガ知事トナルヤ
農牧學校ヲ此處ニ設ケ
米人《ゼームス・ヲスタイン・ウヰード》
ナルモノヲ聘シテ教師トシ
弘ク學生ヲ募集シ畜産繁殖搾乳開墾ノ教授セシメ
 丹波誌巻七:船井郡下巻236頁_38
〔画像〕丹波誌巻七:船井郡下巻236頁_38

 丹波誌巻七:船井郡下巻236頁_39
〔画像〕丹波誌巻七:船井郡下巻236頁_39

蒲生野  慶蘭野
深志野  合稱シテ
須知乃野ト云フ
 丹波誌巻七:船井郡下巻236頁_40
〔画像〕丹波誌巻七:船井郡下巻236頁_40

明治十二年六月京都牧畜場ニ於ケル
建物器械畜牛ヲ壹萬八千圓テ賣却スルノ悲運ニ接シ
當所農牧事業モ同一蹉跌ニ歸シ
牛畜器械建物ヲモ賣却スルヿトナレリ
槙村正直ハ
學校ノヿ
工商ノヿニ盡力シ
勧業知事ノ綽名ヲサヘ博リシガ
大抵挫折ニ歸シタルハ惜ムベシ
竊ニ疑フ
 ※竊:密かに/人知れず
《ウヰード》ノ如キ實業經驗家ニシテ
先見ノ明ナカリシヿナリ
著者モ其ノ規模ノ大ナルト
 ※著者:北村龍象先生
教師ノ勵精ナルトヲ目@シテ
 ※目@:目賭? 実際に見ること。目撃。
以爲(オモ)ヘラク
 ※以爲:思っているのには、考えていること。
前途有望ノモノニシテ
不毛ノ地無カラシムベシト
而シテ皆齟齬シ
教師ノ鞅々トシテ去リ
 ※教師(ウヰード)ノ鞅々:不満足をいう語。
生徒ノ戀々トシテ散ジタル
孰レモ傷心ノヿニテアリシ
其ノ土地拂下ゲノ手續ハ
京都府ニテ之ヲ爲シ
 丹波誌巻七:船井郡下巻236頁_41
〔画像〕丹波誌巻七:船井郡下巻236頁_41

遂ニハ之ヲ税務署ニ移シ
大抵一段歩 金一圓價格トシ
早キハ五年目ニ
晩キハ二十五年目ニ
納税地トスルノ方針ニテ
土地ノ情况ニテ遲速ヲ定ム
 丹波誌巻七:船井郡下巻236頁_42
〔画像〕丹波誌巻七:船井郡下巻236頁_42
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
『古文書資料置き場』
丹波誌全巻15巻
総論:1巻、亀岡町1巻、南桑田郡2巻、北桑田郡1巻、
船井郡2巻、何鹿郡2巻、天田郡2巻、多紀郡2巻、氷上郡2巻
著者:北村龍象
発行日:大正13年11月1日
寛政年間に福知山藩の古川茂正、
篠山藩の永戸貞が編纂した氷上、天田、多紀の三郡を再編し、
残りの桑田、船井、何鹿の三郡を追加
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《明治初期の京都の語学校関係の資料》

《明治初期の京都の語学校関係の資料》

西蒲原有明様
コメント、有難うございます。
<追記>2022/05/25 13:00

《明治初期の京都の語学校関係の資料》
【山本覚馬】昭和3年
目 次        p8/164
日本最初の小學校   p42/164
中學校創立 英學校  p51/164
獨逸學校 佛語學校  p53/164
女紅場、府立第一高等女學校、 p54/164
遊廓の女紅場
牧畜場、農學校、       p85/164
養蠶場、栽培試驗所
明治九年十月 丹波船井郡須知村蒲生野に
農牧學校をさへ創立し、
米人ウヰードを聘して敎師に任じ、
廣く生徒を募集し、蕃殖、搾乳、
原野開墾等を指導敎授せしめた。
《明治27年 獨逸語の資料》
【独逸読本. 第一】明治27年
 獨逸語學校藏版
 著者 松原善蔵 編
【独逸読本. 第二】明治28年
 獨逸語學校藏版
 著者 松原善蔵 編
【独逸読本. 第三】明治28年
 獨逸語學校藏版
 著者 松原善蔵 編

《明治35年の京都の語学校関係の資料》
【京都遊学案内】明治35年
◎獨逸語學校   p42/64
 下京區堺町通四條北二丁目
◎獨逸語夜學校  p42/64
 河原町荒神口下ル
◎私立英語學校  p43/64
 下京區烏丸四條南入ル

【京都修学案内】明治35年
獨逸語學校  京都市堺町通四條北  p46-47/80
京都英語學校 京都市三條通御幸町西 p51/80
私立英語學館 京都市烏丸四條南   p51/80
  高等學校入學試驗問題      p59/80
  (明治三十四年度)
 〇英文和譯            p61/80
 〇和文歐譯
 〇英文書取
 〇獨文和譯
 〇獨文書取            p62/80
  國民學校編入試驗問題      p63/80
 〇英  文            p64/80
◎英文和譯
◎和文英譯
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
<追記>2022/05/25 13:00
【京都府教育史 上】昭和15年
  第六章 洋學の移入  p200/364
   第一節 歐學舎の敎育制度
そして  p202/364
英學校には東伍市、池田潜藏、能美織之助、山田虎之助。
佛學校には原田輝太郞、廣瀨源八、近藤德太郞、伊藤源一郞。
新英學校には中川義行、有吉初熊、川原乙次郞。
女紅場には薩陲房、平井テルなどいふ秀才が居つた。
   第二節 英女學校と女紅場 p205/364
第六章 私學敎育の狀況/626
第七章 特殊專門敎育/635
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【ウィードの年譜】ウィード先生《J. A. Weed》James Austin Weed:京都府立須知高等学校2022年3月18日発行

【ウィードの年譜】ウィード先生《J. A. Weed》James Austin Weed
 京丹波学 第3号
 令和3年度(2021年度)
 総合的な探究の時間 第2学年(普通科)
  2022年3月18日発行
  京都府立須知高等学校

James Austin Weed
BIRTH  JAN 1828 Schoharie County,New York,USA
DEATH  19 JAN 1888 Shanghai,China

【ウィードの年譜】
一八二八年(文政10年) ニューヨーク生まれ
 (生年は国立公文書館所蔵史料の雇用契約届と一致)
兄弟姉妹がいる
 (外交史料館の妹がいることがわかる史料と一致)
一八五〇年(嘉永3年) ウイスコンシンに移住
一八八八年(明治21年) 上海で死去
 (別の外国人人物名鑑という記事でも上海で死亡している)

 この年譜データは、
アメリカで作られた先祖をさかのぼることができる
データベースで表示されたものです。
定説では一八三五年(天保5)生まれですが
このデータベースでは一八三五年で検索しても
ヒットしないようです。
この年譜のウィードが
丹波にいたウィードかどうかの確証は
今のところ得られていません。
ウィスコンシンから上海までの動向が
この年譜からはわからないのです。
この点、
アメリカに追調査のお願いをしているところですが、
今のところ返事がありません。
この年譜のウィードの兄は
チャールズ・リアンダー・ウィードといって  ※下記
来日したこともある著名なカメラマンです(※)。
妹マティルダの夫も長崎で仕事していることが
別の記事でわかりました。
このウィードが来日したかどうかの史料が
まだ見つかっていません。
あと一歩というところまで調べられました。
もちろん、このウィードが丹波のウィードではない
可能性も排除できていませんが…。
※Terry Bennett 『History of Photography in China 1842-1860』で
 紹介されています。
【ウィードの年譜-須知高校】p66
〔画像〕【ウィードの年譜-須知高校】p66
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※チャールズ・リアンダー・ウィード
 開港のひろば  Number 153
編集・発行/横浜開港資料館
発行日/2021年(令和3)12月24日(金)
印 刷/中川印刷株式会社
新発見! 江戸のイギリス公使館の古写真  p4-5/8
 チャールズ・ウィード撮影の高輪接遇所
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丹波國[蒲生野農牧学校]能美織之助・水島 義:明治9年11月[官職進退 明09-0017]京都学・歴彩館

丹波國[蒲生野農牧学校]能美織之助・水島 義:明治9年11月
[官職進退 明09-0017]京都学・歴彩館

明治九年後半年
 官職進退
  簿書掛
明09-0017_0003-20
〔画像〕明09-0017_0003-20

  等外三等出仕
    能美織之助
等外一等出仕申付候事
 明治九年七月二十日
     京都府 (次頁に記載)
明09-0017_0019-20
〔画像〕明09-0017_0019-20

   青森縣士族 水島 義
等外三等出仕申付候事
 明治九年七月二十日
     京都府
明09-0017_0020-20
〔画像〕明09-0017_0020-20

   等外三等出仕
     水島 義
勸業課牧畜掛附属申付候事
明治九年七月廿日 京都府
明09-0017_0021-20
〔画像〕明09-0017_0021-20

  等外一等出仕 能美織之助
  等外三等出仕 水島  義
丹波國蒲生野農牧学校
在勤申付候事
明治九年十一月廿五日 (次頁に記載)
 京都府
明09-0017_0195-20
〔画像〕明09-0017_0195-20

明治九年十一月廿五日
 京都府
明09-0017_0196-20
〔画像〕明09-0017_0196-20
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京都府立 京都学・歴彩館
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2022年05月11日
[農牧教師米人ウヰード関連]複写資料購入:
歴彩館 令和4年5月10日
京都府立 京都学・歴彩館
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2022年05月08日
[青森県 農牧学校貸費生 本多武雄 徴兵免除]明治11年2月
(明治十一年)二月十八日
京都府下丹波國蒲生野農牧学校
米人 ウエード氏ヲ以テ教授候趣ニ付
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京丹波町議会議員 山崎裕二 活動誌 ブログ版
2022-05-11 07:00:00 | 町関連の報道・発信
 昨日の京都新聞に、「須知高前身 蒲生野農学校名の史料」とあります。
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