看護婦

大阪緒方産科院開院式及卒業式【中外医事新報 (582)】明治37年

大阪緒方産科院開院式及卒業式【中外医事新報 (582)】明治37年

【中外医事新報 (582)】明治37年
著者    日本医史学会 [編]
出版者   日本医史学会
出版年月日 1904-06
 〇大阪緒方産科院開院式及卒業式 p41/49
六月一日
大阪市東區今橋三丁目
緒方婦人科病院に開かれたり
産科院は六百坪餘を有する
婦人科病院の一部にして
六十坪の三階建洋館なり、
階下は臨床講義室一ケ所、
書齋一ケ所、診察所一ケ所、浴室一ケ所、
化粧室一ケ所、便所二ケ所と院長控宅とす、
二階は悉く特等病室にして
中央に廊下を設く、
三階は中央に廊下ありて
左右は産科院用の倉庫とす、
屋室は物干場並に運動場にして、
屋上は眺望臺を造り
避雷針を設置せり
地下室は一ケ所とす
産科院は一昨年
ドクトル緒方正淸氏獨立
婦人科病院を設置
以來日毎に患者は增加し
爲に婦人科患者並に産科患者を
同時に収容するの弊害を感じ
茲に於て卒先獨逸國の例に傚ひ
本邦に在りては未だ各私立病院に設備なき
分科的治療の方針を執り
昨年工を起し本日に至り落成せりと
而して各室ともに設備上の如きは
最も善美を盡し防腐上皆な獨逸式に依り
完全せりと云ふ

第十九回助産婦の卒業式は
開院式と同時に臨床講義室に於て舉行し
式後、院長講師及び卒業生一同
前庭にて撮影す
次て正午より産科院の縱覽を有志者に許せしが
三時前後の如きは朝來の曇天も霽れ渡り
西風和暢晴衣の袂を振り榮え
西より東南より北に紅塵萬丈の往來織るが如き
門前忽ち市を爲し
院内は實に立錐の餘地もなき有樣にて
官吏紳士紳商醫士助産婦等
無量八百名と註されたり、
尚ほ今回の卒業生は四十名にして
初回より合計五百七十九名なり
p41【中外医事新報 (582)】明治37年
〔画像〕p41【中外医事新報 (582)】明治37年
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《川村もと子・日本赤十字社看護婦》佛國より名譽金牌を受く【中外医事新報 (573)】明治37年

《川村もと子・日本赤十字社看護婦》
 佛國より名譽金牌を受く
【中外医事新報 (573)】明治37年

【中外医事新報 (573)】明治37年(1904)
著者    日本医史学会 [編]
出版者   日本医史学会
出版年月日 1904-02
 〇看護婦佛國より名譽金牌を受く p45/53
日本赤十字社看護婦
川村もと子は
北淸事變の際
廣島に在りて
佛國傷病兵の救護に從事せし廉を以て
曩に同國大統領より
「オフシエーダカデミー」
なる紀章を贈與されたるが、
今回重ねて名譽金牌を我が外務省を經て
同人に賜與されたりと云ふが、
同牌は危險なる場合に在て
獻身的仁愛事業に從事したるものにあらざれば
賜與されざるものゝ由にて
純金七匁餘ありて
精妙なる彫刻を施し餘程貴重なるものなりと云ふ
p45【中外医事新報 (573)】明治37年(1904)
〔画像〕p45【中外医事新報 (573)】明治37年(1904)
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[日本赤十字社]準備看護人卒業式 第一回(明治30年)~第四回(明治32年)【官報】

[日本赤十字社]準備看護人卒業式
 第一回(明治30年)~第四回(明治32年)【官報】

<第一回19名>明治30年(1897)
【官報. 1897年10月27日】明治30年
〇日本赤十字社錄事  p5/9
 準備看護人卒業式
 本月十八日 日本赤十字社教成準備看護人
 第一回卒業生徒十九人ニ對シ
 卒業式ヲ擧行セリ
  ―略―
  卒業生徒ノ人名左ノ如シ
東京府士族  淸水  耕一
大阪府平民  桃原 慶治郎
島根縣平民  河上 啓四郎
東京府士族  瀨利 銀次郎
長野縣平民  小林 延太郎
愛媛縣平民  鈴木  昌暢
茨城縣士族  磯部   浩
栃木縣平民  原   源司
大分縣士族  岡田  猪吉
山梨縣平民  志村  嘉雄
東京府平民  鳥塚  政吉
石川縣士族  田中 松太郎
東京府士族  湯川 臨太郎
山口縣平民  石山 八十吉
東京府平民  松田  小吉
千葉縣士族  駒留 錫次郎
巖手縣平民  小泉安左衞門
福井縣平民  齋藤  定吉
富山縣平民  桃井 霓太郎?

<第一回乙組5名>明治31年(1898)
【官報. 1898年03月25日】明治31年
〇日本赤十字社錄事  p3/9
 準備看護人卒業式
 日本赤十字社ニ係ル
 第一回準備看護人乙組五人ハ
 今回其修業ヲ了リタルニ依リ
 本月二十二日同社ニ於テ卒業式ヲ擧行セリ
  ―略―
  卒業生徒ノ族籍、氏名左ノ如シ(宮内省)
愛知縣平民  櫻木 琴太郎
三重縣平民  山本 惣三郎
東京府平民  川澄 奥次郎
福井縣平民  藤堂 芳太郎
新潟縣平民  廣川  茂作

<第二回19名>明治31年(1898)
【官報. 1898年09月26日】明治31年
〇日本赤十字社錄事  p3/9
 準備看護人卒業式
 日本赤十字社本社ノ養成ニ係ル
 第二回募集準備看護人生徒十九人ハ
 所定ノ學術全科ヲ修了シタルヲ以テ
 本月二十日卒業式ヲ施工シ
 準備看護人辭令書ヲ授與セリ
 其卒業生徒人名左ノ如シ(宮内省)
靜岡縣平民  永井  勤一
福島縣平民  高城  隆三
福島縣平民  三本  榮春
靑森縣士族  工藤阿佐五郎
山梨縣平民  山田 定太郎
岐阜縣平民  景山 銕治郎
神奈川縣平民 小島 卯三郎
長野縣士族  岡部  學三
埼玉縣平民  野口 豐三郎
神奈川縣平民 柴田  松稠
新潟縣平民  湯本 順之助
山梨縣平民  鹽野  美好
山形縣士族  加藤  幸作
福島縣平民  圓谷  龍平
長崎縣士族  齋藤  政夫
福島縣士族  今野  良作
秋田縣平民  秋山  源治
三重縣平民  平岡  太膳
靜岡縣士族  神谷  精一

<第三回>官報に記載なし

<第四回5名>明治32年(1899)
【官報. 1899年08月28日】明治32年
〇日本赤十字社錄事  p2/10
 準備看護人卒業式
 日本赤十字社ニ於テ本月二十一日
 第四回募集準備看護人五人ニ對シ
 卒業式ヲ擧行シ
 準備看護人辭令ヲ交付セリ
 其人名左ノ如シ(宮内省)
長野縣平民  新井  善一
東京府士族  森  滋太郎
東京府平民  木村  眞吉
東京府平民  稻毛 槌五郎
長野縣平民  五味  秀藏
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[日本赤十字社病院]第十三回(明治32年)第十四回(明治33年)募集看護婦 各支部選出生徒卒業式【官報】

[日本赤十字社病院]第十三回(明治32年)第十四回(明治33年)
募集看護婦 各支部選出生徒卒業式【官報】

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[日本赤十字社病院]第一回(10名)第二回(9名)
看護婦生徒卒業證書授與式:明治25年(1892)5月30日
【官報. 1892年06月04日】

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[日本赤十字社病院]第三回(明治28年)~第九回(明治30年)
卒業看護婦氏名【官報】
【官報. 1898年11月15日】明治31年
〇日本赤十字社錄事  p3/7
看護婦生徒卒業証書授與式 明治31年(1898)11月10日
第十回 第十一回 卒業式
※氏名記載なし
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第十二回:官報に記載なし
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<第十三回>明治23年(1899)
【官報. 1899年11月01日】明治32年
〇日本赤十字社錄事  p4-5/14
看護婦卒業式 明治32年(1899)10月28日
第十三回募集同社準備看護婦十六人及
各支部選出ノ模範生徒十六人ノ卒業式
   卒業者
名古屋  石川 セウ   廣 島  二宮マサノ
本 社  森山 コウ   本 社  岩本 フジ
福 岡  眞藤ムメノ
愛 媛  關家ジユン   栃 木  中島 トミ
本 社  等々力イク   本 社  湯淺 ムメ
三 重  桑名 マキ
埼 玉  須藤 シゲ   本 社  石川 タキ
本 社  由良 ジウ   本 社  坂本 ヒデ
本 社  安岡 貞枝
和歌山  藤直マスノ   本 社  田中 タネ
佐 賀  小柳 ツレ   本 社  高辻 トキ
山 梨  河野クワエ   鹿兒島  久木山タカ
三 重  森田 イツ   岡 山  吉田 ミツ
本 社  原田 モト   本 社  鈴木 テル
長 崎  玉林 アキ   本 社  桂 イクヨ
茨 城  小池 クニ   本 社  村松 フサ
本 社  石原 靜惠   本 社  石川 シヅ
山 形  中島 フジ

<第十四回>明治33年(1900)
【官報. 1900年05月12日】明治33年
〇日本赤十字社錄事  p4/9
 看護婦卒業式
去月三十日午前十時
日本赤十字病院ニ於テ第十四回募集
同社準備看護婦十三人及
支部選出生徒二十三人ノ卒業式ヲ擧行セリ
當日同社
篤志看護婦會幹事長 彰仁親王妃賴子殿下、
同 幹事副長 載仁親王妃智惠子殿下、
同 依仁親王妃周子殿下、
同 博恭王妃經子殿下
御臨場
花房副社長、橘 本病院長、其他準備主管、
同社幹事、準備委員、病院幹事、篤志看護婦人會幹事、
準備看護婦養成係員及看護婦養成委員等出席
先ツ病院長 卒業證書ヲ授與シ了テ
幹事長殿下ノ御諭旨、花房副社長ノ諭告、
卒業生總代ノ答辭
橋本病院長ノ諭告等アリテ
同十一時式ヲ畢レリ
殿下ノ御諭旨竝ニ卒業者左ノ如シ(宮内省)
   御諭旨
   ―略―
   卒業者
本 社  西野 ノブ   宮 城  岩崎 タリ
本 社  奥野 ムメ   本 社  森山 ミツ
本 社  瀧澤 リク   埼 玉  大亦 タカ
本 社  高木 ムメ   本 社  鈴置 ケイ
靜 岡  荻田 レツ
山 口  枝原 ツル   本 社  池田 チエ
本 社  齊藤 エイ   埼 玉  大竹 ハル
名古屋  山田 タカ   本 社  友成 トミ
靜 岡  瀧  モク   靜 岡  藤谷 テイ
本 社  西方 テツ
本 社  中村 イマ   宮 城  金須カメヨ
埼 玉  牧野 コウ   埼 玉  野澤 ツル
佐 賀  鶴  ムラ   長 野  林  トミ
靜 岡  杉江 ヒデ   山 形  石川 トモ
神奈川  磯部 クニ
島 根  間瀨 ユキ   本 社  立花 ミネ
埼 玉  野澤 ハツ   本 社  南 キヤウ
栃 木  水野 ツネ   奈 良  丸橋 イソ
大 分  久保木ハル   神奈川  鈴木 ワカ
山 口  善谷 フサ
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[日本赤十字社病院]第三回(明治28年)~第九回(明治30年)卒業看護婦氏名【官報】

[日本赤十字社病院]第三回(明治28年)~第九回(明治30年)
卒業看護婦氏名【官報】

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[日本赤十字社病院]第一回(10名)第二回(9名)
看護婦生徒卒業證書授與式:明治25年(1892)5月30日
【官報. 1892年06月04日】

【官報. 1894年04月24日】明治27年
〇日本赤十字社錄事  p6/9
看護婦生徒解放式
本月十五日午前十時 澁谷村 日本赤十字社病院ニ於テ
第二回募集看護婦生徒ノ内四名ノ解放式ヲ擧行セリ
 ―略―
當日解放ノ看護婦ハ左ノ如シ
西澤 ミネ  今井 ワカ
淺井 ウメ  神藤 タイ

看護婦生徒學科及第及入學
第五回募集看護婦生徒七名
今般所定ノ學期全科試驗ヲ了ヘ
孰モ好成績ヲ以テ及第シタルニ依リ
本月十六日ヨリ後學年ニ移リ病院看護ノ實務ニ服セシム
且ツ第八回ノ募集ニ應シ入學試驗ニ及第シタル者十名
同日ヨリ入學セシメタリ(以上宮内省)

【官報. 1895年12月13日】明治28年
〇日本赤十字社錄事  p14/17
看護婦生徒卒業証書授與式 明治28年(1895)12月4日
準備醫員
太田 三郎  島田 吉俊  岡崎 秀民
宮田 是志  岡田  直
第三回卒業看護婦(9名)
加藤 トシ  堀越 タカ  山田 ヒサ
田村 ムメ  婦士 マツ
伊藤 キン  三木  勇  高木 トヨ
大塚 マモル
第四回卒業看護婦(6名)
篠原 イマ  河合 キン  服部 ヤス
佐藤  梢  三木 玉香  田中 ヱツ

【官報. 1896年10月26日】明治29年
看護婦生徒卒業証書授與式 明治29年(1896)10月18日
第五回看護婦生徒(6名)
周防  長  加藤 マサ  松澤 ヱツ
林   榮  增田 乙喜  大久保 錬
第六回看護婦生徒(7名)
植上 ミツ  原  ヨシ  土田 スヱ
藤野 鶴代  御園 マツ  若山 チウ
加藤 ハマ
第七回看護婦生徒(8名)
高村 マス  九里 トヨ  海津 サト
綿谷 禮利  松居 キト  萩原 タケ
酒井 ヒサ  矢頭 タケ
卒業看護婦適任者(2名)
千種 ヤヲ  服部 タキ
從來病院看護婦ニシテ
卒業者ニ等シキ學術伎倆アル者二人ニ對シ
同社看護婦適任證書ヲ授與セリ

【官報. 1897年07月16日】明治30年
〇日本赤十字社錄事  p5/9
看護婦生徒卒業証書授與式 明治30年(1897)7月11日
第八回卒業者(10名)
野崎  式  中山 春江
坂本  良  坪井  孝
鈴木 クラ  北條 ロク
千合 トモ  岸  マサ
高田 ヤヲ  仁東  愛

【官報. 1897年12月14日】明治30年
〇日本赤十字社錄事  p4/18
看護婦生徒卒業証書授與式 明治30年(1897)12月4日
第九回卒業者(7名)
橋本  治   在田  廷
加藤 テイ   村瀨  久
鈴木 カズ   杉山 カネ
景山 小富

【官報. 1898年11月15日】明治31年
〇日本赤十字社錄事  p3/7
看護婦生徒卒業証書授與式 明治31年(1898)11月10日
第十回 第十一回 卒業式
※氏名記載なし
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[日本赤十字社病院]第一回(10名)第二回(9名)看護婦生徒卒業證書授與式:明治25年5月30日【官報. 1892年06月04日】

[日本赤十字社病院]第一回(10名)第二回(9名)
看護婦生徒卒業證書授與式:明治25年(1892)5月30日
【官報. 1892年06月04日】

【官報. 1892年05月10日】明治25年
〇日本赤十字社錄事  p4/9
本社第二回募集看護婦生徒五人及
京都廣島愛媛等ノ各支部ヨリ選出ノ生徒四人ハ
所定ノ學期ヲ卒ヘ卒業試驗ニ於テ孰モ及第シタルヲ以テ
去月(四月)十六日ヨリ實地看護婦ノ業務ニ服シ
且ツ第四回ノ召募ニ應シ及第シタル者八人ハ
同日ヨリ入學セシメタリ(宮内省)

【官報. 1892年06月04日】明治25年
〇日本赤十字社錄事  p2-3/5
去月三十日午後三時 ※明治25年(1892)5月30日
下澁谷村日本赤十字社病院ニ於テ
第一回 第二回 看護婦生徒十九人ニ卒業證書授與式ヲ擧行セリ
其景況左ノ如シ(宮内省)

去月三十日午後三時 ※明治25年(1892)5月30日
下澁谷村日本赤十字社病院ニ於テ
第一回 第二回 看護婦生徒十九人ニ
卒業證書授與式ヲ擧行セリ
本社篤志看護婦人會幹事長 小松宮妃殿下
同副長 北白川宮妃殿下 華頂宮郁子殿下及
本社監督 石黑軍醫總監 臨場及
前田侯爵夫人、鍋島侯爵夫人、小笠原伯爵夫人、
其外婦人會員ノ參會スル者十數人
本社役員ハ佐野社長 花房副長 鍋島常議員 淸水幹事
橋本病院長及
看護婦養成委員長 三條治子 足立寛 同委員
櫻井子爵夫人 花房夫人 同敎員等
合計六十餘人 式場ニ整列セリ
p2-30【官報. 1892年06月04日】明治25年
〔画像〕p2-30【官報. 1892年06月04日】明治25年

橋本病院長 先ツ授與式擧行ノ旨ヲ披露シ
夫ヨリ順次ニ證書ノ授與ヲ執行セリ
畢テ受證者一同 殿下ノ御前ニ整列
殿下ヨリ諭旨ヲ賜ヒ佐野社長之ヲ朗讀シ
更ニ社長ハ生徒將來ノ心得方ニ就キ懇切ナル演述ヲ爲シ
畢テ卒業生總代《皆吉チカ》謝詞ヲ呈ス
午後四時式終リ別室ニ於テ各參會者ニ茶菓ヲ供ス
此際 幹事長殿下ヨリ養成委員長 同委員敎員等ヲ召サレ
特ニ慰勞ノ御詞ヲ賜ハリタリ
當日 幹事長殿下ノ御諭旨、社長演説ノ要旨
生徒總代謝詞及 受證者人名等 左ノ如シ
  卒業生徒人名
 第一回(10名)
皆吉 チカ  貞末 マキ  曾我 鏗爾
大越 タマ  竹中 スヘ
川勝 タメ  靑柳 ナオ  塚本 トミ
太田 ナミ  野村 チヨ
 第二回(9名)
京都支部選出 高木 ハル
       西澤 ミ子
廣島支部選出 川村 モト
       今井 ワカ
愛媛支部選出 俊野 イワ
       市川 ヱイ
       淺井 ウメ
       神藤 タイ
京都支部選出 中村 アイ

  幹事長殿下御諭旨
   ―略―
  社長演説
   ―略―
  生徒總代謝辭
   ―略―
p3-30【官報. 1892年06月04日】明治25年
〔画像〕p3-30【官報. 1892年06月04日】明治25年
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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日本赤十字看護大学 同窓会
同窓会の歴史(1) 創生期
 来たる2015(平成27)年、
日本赤十字社の看護師教育は125周年を迎えます。
そこで、本稿では、看護師教育とともに歩んできた同窓会の歴史、
中でも創生期に焦点をあて、
同窓会の始まりと尽力された先輩の姿を皆さまにご紹介します。
 日本赤十字社の看護婦養成は、
1890(明治23)年4月より現日本赤十字社医療センターの前身である
日本赤十字社病院で開始されました。
第1回入学生は10名で、
当時は1.5年の学業と2年の実習の3.5年課程で、
1.5年の学業を終えた時が卒業でした。
卒業の直前に濃尾地震が発生したため、
第1回生と従来からいた看護婦10名のあわせて20名が
救護活動を行いました。
そして、1892(明治25)年5月には、
第1回生(10名)第2回生(9名)合同の卒業証書授与式が行われ、
赤十字の養成施設から初の看護婦が巣立っていきました。
 1892(明治25)年,養成所1回2回生卒業証書授与式
1892(明治25)年,養成所1回2回生卒業証書授与式,
所蔵:日赤看護大学史料室
 当時、日本赤十字社で養成された看護婦は、
卒業後も20年間は日本赤十字社の召集に応ずる義務があり、
戦時平時を問わず必要があれば
日本赤十字社が行う救護活動に従事していました。
その後、義務年限は、
15年間、12年間、7年間と次第に短縮されていきました。
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日本赤十字看護大学 史料室
2. 濃尾地震における救護
濃尾地震
明治24年10月28日午前6時37分に発生。
轟音とともに激震が起こり、家屋が倒壊し、直後に火災が発生、
市街地の半分が焼失しました。
死因は圧死または梁に敷かれたままの焼死、負傷者の創は
頭部や顔面の裂傷、腰から下の挫傷が多かったといいます。
現地では医療材料の圧倒的な不足と医師らの負傷により病院が機能せず、
押し寄せた患者は病院の外にまで拡がり、
なすすべもなく呻吟する声が響きました。
派遣された救護員
第1回愛知県出張員の編成は医員2名、看護婦4名でした。
岐阜県出張員の編成は被害がさらに甚大との報告を受け、
事務員1名、医員3名、看護婦6名としました。
前年の明治23年より日本赤十字社病院で養成が開始され、
1年半の学業を終えたばかりの本学の第1回生も参加していました。
出発する卒業生に対して佐野常民社長は、
習得した看護法を実地に応用することの他、
「至誠以て救護に従事すべきこと」、
「奮勉以て難苦を堪へきこと」、
「節操以て品行を慎むこと」
の3つの要件を厳守すべきと訓示しています。
負傷兵を敵味方の別なく救護するかのように
貴賎貧富に分かたず懇篤に看護を行うこと、
霜や風雨に冒され、
山野の間に夥多なる患者を救護するのだから
不堯不屈の精神でこれにあたること、
そしてその功績が水の泡にならぬよう品行を保ち、
本社看護婦たる名誉を失墜してはならないと申し添えました。
 青柳ナオ(左)曾我鏗爾(右)
青柳ナオ(左)曾我鏗爾(右)
日本赤十字社病院看護婦養成所第1回生
日本赤十字看護大学所蔵
明治23年に開始された日本赤十字社病院での看護婦養成の第1回生。
濃尾地震当時、1年半の学業を終えて、実務についたばかりであった。
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[日本赤十字社病院]第三回(明治28年)~第九回(明治30年)
卒業看護婦氏名【官報】
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