【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

《西田喜美子》大連市光風臺一八九:夫君は西田善藏氏:同文書院商科出身【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

《西田喜美子》大連市光風臺一八九:
夫君は西田善藏氏:同文書院商科出身
大連古河電氣工業會社支店長
【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年
 日本婦德の鑑刊行に就て   p6-7/506
 昭和六年十二月十五日
 東京婦人新聞社々長 藤廣憲藏
 凡 例           p7-8/506
昭和大典記念 日本婦德の鑑  p8-12/506
 目 次
《西田喜美子》        p394/506
 大連市光風臺一八九
明治二十九十月、
故渡邊己之次郎氏の長女として
大阪市東區櫻の宮に生る、
大阪府立大手前高等女學校を卒業し、
夕陽丘高等女學校補習科に入り同校を卒業、
西田善藏氏に嫁す、
夫君は同文書院商科出身にて目下
大連古河電氣工業會社支店長を勤む、
夫人は大連に居住以前は英領香港、
上海北京を巡り海外生活を續けて今日に至る、
幼少より母堂の感化を受け、
信仰心厚く、
日本基督敎會々員として
敎會のためにも大に力を注ぐ、
常に不滿を去り、
感謝の生活を捧げ、
家庭極めて圓滿
萬事に理解ある同情深き婦人として評判よし、
二女あり、
共に大連嶺前小學校に在學中なり、
夫人は二兒の將來に就ても大に考慮し、
よりよき感化を與へんものと
敎養にも福心の注意を拂へり。
續篇第五篇 現代婦人錄    p251/506
(記事内容は豫約當時調査現在とす。)
(索引巻末に附す。)
現代婦人錄索引        p492-504/506
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《西山雅子》夫君西山茂氏は京都帝國大學出身・旅順民政署長【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

《西山雅子》夫君西山茂氏は
京都帝國大學出身・旅順民政署長
【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年
 日本婦德の鑑刊行に就て   p6-7/506
 昭和六年十二月十五日
 東京婦人新聞社々長 藤廣憲藏
 凡 例           p7-8/506
昭和大典記念 日本婦德の鑑  p8-12/506
 目 次
《西山 雅子》        p394/506
 旅順市學臺三
明治十八年十一月、
故田尻常太郎氏の次女として
福岡縣山門郡大和村に生る、
福岡縣立柳川高等女學校卒業後、
日本女子大學家政科に學び、
同校を卒業、
長崎縣島原女子技藝學校に二ケ年、
筑後浮羽高等女學校に一ケ年就職後結婚す、
夫君西山茂氏は京都帝國大學出身にて目下
旅順民政署長を勤む、
夫人は在滿二十年に近く
當地の生活にも充分馴れて親しみを持つ、
唯だ子供の保健上適地には非らざるも
幸に二男二女何れも頑健にて、
夫人は健康には頗る注意を拂ふ、
長女は旅順高女卒業後
奉天醫大助手宮本田守氏に嫁し一家を成す、
長男は旅順第一中學に、
次男次女は何れも旅順第一小學校に通學中なり、
夫人は同情深き親切の婦人、
趣味として手藝、殊に刺繍に長ず。
續篇第五篇 現代婦人錄    p251/506
(記事内容は豫約當時調査現在とす。)
(索引巻末に附す。)
現代婦人錄索引        p492-504/506
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《西山文子》夫君西山左内氏は東京帝大を卒業・關東廰財務部長【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

《西山文子》夫君西山左内氏は
東京帝大を卒業・關東廰財務部長
【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年
 日本婦德の鑑刊行に就て   p6-7/506
 昭和六年十二月十五日
 東京婦人新聞社々長 藤廣憲藏
 凡 例           p7-8/506
昭和大典記念 日本婦德の鑑  p8-12/506
 目 次
《西山 文子》        p394/506
 旅順市高碕町六
明治二十三年十一月、
故西山省吾氏の長女として
仙臺市北一番町に生る、
東京府立第三高等女學校を卒業し、
十八歳にして夫君を迎へて結婚す、
夫君西山左内氏は群馬縣狩野淸八氏の四男にして、
東京帝大を卒業し、目下
關東廰財務部長を勤む、
夫人は大正十年旅順に渡り
爾來東京との間を往來し、
末子のみ當地に住し、
他は東京に在り、
優しき中に理性の閃めきを見せたる美しき美人、
大連の生活には安易なるも ※大連⇒旅順
無刺戟にて精神的に退歩するを嘆ず、
長女は不幸早世す、
長男俊三氏は東商大に
次女は東京聖心女子學院に、
三女は同小學部に在學中たり、
謡曲、小鼓、大鼓をよくし、
圓滿なる家庭を營む、
篤志看護婦々人會評議員兼幹事を勤む、
令妹は朝鮮總督府遞信局長
山本犀藏氏夫人なり。
續篇第五篇 現代婦人錄    p251/506
(記事内容は豫約當時調査現在とす。)
(索引巻末に附す。)
現代婦人錄索引        p492-504/506
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《西田すゞ子》東京双葉高等女學校を卒業【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

《西田すゞ子》東京双葉高等女學校を卒業
【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年
 日本婦德の鑑刊行に就て   p6-7/506
 昭和六年十二月十五日
 東京婦人新聞社々長 藤廣憲藏
 凡 例           p7-8/506
昭和大典記念 日本婦德の鑑  p8-12/506
 目 次
《西田すゞ子》        p393/506
 大連市柳町三
明治三十年四月、
故阿部三次郎氏の長女として
東京市本郷區駒込淺嘉町に生る、
三重縣阿山郡新居村はその原籍地なり、
東京双葉高等女學校を卒業し、
二十一歳にして西田猪之助氏に嫁ぐ、
夫君は長崎高商出身にて、目下
南滿洲鐵道株式會社
總務部文査課監査役を勤む、※文査課:文書課
夫人は東京に生れ東京に育ちたる
純江戸つ子にて、
大正九年渡連したるも、
東京の生活により多くの關心を持ち、
當地に於ては交際場裡にも出席すること稀なり、
夫君との間に三男あり、
家政を治むる傍ら、
三兒の敎養を唯一の責任とし、
樂しみとなす、
柔和にして愛くるしき小柄の婦人なり、
長男宏氏、次男文武氏
何れも南山麓小學校に在校中、
三男榮氏は南山麓幼稚園に通ふ、
趣味として諸藝に通ずるも
たづさはる餘暇なし。
續篇第五篇 現代婦人錄    p251/506
(記事内容は豫約當時調査現在とす。)
(索引巻末に附す。)
現代婦人錄索引        p492-504/506
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《柳瀨千代子》奈良女子師範附屬高女卒業後、日本女子大學卒業【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

《柳瀨千代子》奈良女子師範附屬高女卒業後、
日本女子大學卒業【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年
 日本婦德の鑑刊行に就て   p6-7/506
 昭和六年十二月十五日
 東京婦人新聞社々長 藤廣憲藏
 凡 例           p7-8/506
昭和大典記念 日本婦德の鑑  p8-12/506
 目 次
《柳瀨千代子》        p393/506
 撫順市東一番町二〇
明治二十七年五月
樋口義雄氏の長女として
奈良縣郡山町に生る、
東京府下豐多摩郡杉並町はその原籍地なり、
奈良女子師範附屬高女卒業後、
日本女子大學に入り、
同校卒業後、
柳瀨渡氏に嫁ぐ、
夫君は永年滿鐵病院に勤務、
退職後内科專門醫として
現住地に開業信望厚し、
夫人は大正六年結婚と同時に當地に來たり、
一時奉天に居住し、
醫院開業と共に再び撫順に來たる、
夫君との間に三男一女あり、
長男長女は何れも小學校在學中なり
夫人は撫順を以て生活の地にして
子女敎育の地に非らずとなし、
小學卒業後の敎育に就て
深甚の考慮を拂ひつゝあり、
明朗快活の氣質にて、
その素養よりしても亦交際上手の點から見るも
撫順婦人界の第一人者なり、
音樂、長唄に趣味を有す。
續篇第五篇 現代婦人錄    p251/506
(記事内容は豫約當時調査現在とす。)
(索引巻末に附す。)
現代婦人錄索引        p492-504/506
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《山上みさ子》夫君山上吉藏氏は早稻田大學出身・撫順窯業會社々長等【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

《山上みさ子》夫君山上吉藏氏は早稻田大學出身・
撫順窯業會社々長・撫順南滿火鑛品會社々長
【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年
 日本婦德の鑑刊行に就て   p6-7/506
 昭和六年十二月十五日
 東京婦人新聞社々長 藤廣憲藏
 凡 例           p7-8/506
昭和大典記念 日本婦德の鑑  p8-12/506
 目 次
《山上 みさ子》        p393/506
 撫順市東七條通五四
明治十八年五月
故上村淸常氏の六女として
三重縣津市綿内町に生る、
鹿兒島縣姶良郡加治木町はその原籍地なり、
三重縣立高等女學校に入り、
中途にて退學し、
山上吉藏氏に嫁ぐ、
夫君は早稻田大學出身にて目下
撫順窯業會社々長、
撫順南滿火鑛品會社々長の職に在り、
夫人は明治四十年渡滿し、
一年後撫順に移り、
爾來二十餘年同地に生活して
第二の故郷の觀あり、
周圍の環境は子供の敎育には
餘りに適當の箇所とは云ひ得ず、
言語、風俗何れも良からざるも
夫君の事業上、
内地にも引返す譯には行かず、
夫人細心の注意を要する處なり、
長男は天津鮮銀に勤務し同地に居住、
長女は撫順高女を卒業し
家庭に在りて實務修業、
次女、三女何れも高女在校中なり、
末子は目下撫順永安幼稚園に通ふ。
續篇第五篇 現代婦人錄    p251/506
(記事内容は豫約當時調査現在とす。)
(索引巻末に附す。)
現代婦人錄索引        p492-504/506
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《山本秀子》夫君山本豐吉氏は日本大學出身・正隆銀行支配人【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

《山本秀子》夫君山本豐吉氏は
日本大學出身・正隆銀行支配人
【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年
 日本婦德の鑑刊行に就て   p6-7/506
 昭和六年十二月十五日
 東京婦人新聞社々長 藤廣憲藏
 凡 例           p7-8/506
昭和大典記念 日本婦德の鑑  p8-12/506
 目 次
《山本 秀子》        p393/506
 大連市山城町二
明治二十九年一月
故高橋慶三郎氏の長女として
東京日本橋三丁目に生る、
夫君山本豐吉氏は日本大學出身にて、
目下正隆銀行支配人を勤む、
夫人は大連に來りて數年、
從來は夫君安田銀行勤務のため
主として東京府附近にありしも、
正隆銀行に轉じ、
茲に初めて海外生活を營む、
住み馴れて見れば
大連も亦安易なる生活を送るを得て、
永住亦苦しからずとなす
大連禮讃者の一人なり、
夫君との間に三男三女ありしも
長女、次男の二兒は不幸にして早世す、
長男榮一氏は大廣場小學校に通學中なり、
夫人は乳少なく、
子供の養育に一層苦心し、
殆んどその方に沒頭の姿なり、
多くの趣味を有するも
之れがため果たす機會更に無し、
夫人令兄は東京居住、
安田銀行勤務高橋亮氏なり。
續篇第五篇 現代婦人錄    p251/506
(記事内容は豫約當時調査現在とす。)
(索引巻末に附す。)
現代婦人錄索引        p492-504/506
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《安岡繁代》夫君は京都帝大出身・關東廰高等法院検察官長【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

《安岡繁代》夫君は京都帝大出身・關東廰高等法院検察官長
【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年
 日本婦德の鑑刊行に就て   p6-7/506
 昭和六年十二月十五日
 東京婦人新聞社々長 藤廣憲藏
 凡 例           p7-8/506
昭和大典記念 日本婦德の鑑  p8-12/506
 目 次
《安岡 繁代》        p393/506
 旅順市一戸町二
明治十七年三月、
故寺田正意氏の次女として
高知縣高知市北新町に生る、
縣立第一高等女學校を卒業し、
二十一歳にして安岡靜四郎氏に嫁ぐ、
夫君は京都帝大出身にて
夙に關東廰高等法院に勤め
目下検察官長の重職に在り
二十有餘年の高等法院生活に
半島に於て誰知らぬ者なき知名の士たり、
夫人は明治四十二年旅順に來たり今日に至る、
溫良、謙遜にして同情深き婦人、
家庭は極めて圓滿にして、
夫君との間に三男二女あり、
夫人は子女の敎養に細心の注意を拂ひ、
殆んど之れに歿頭し
敢えて他の趣味にたづさはることなく、
此の心遣ひを唯一の慰藉となす、
長女は旅順高女卒業後
滿鐵社員上野氏に嫁ぎ
長男は京都帝大
次男は慶應、
三男は高知高等、
次女は旅順高女に在學中なり。
續篇第五篇 現代婦人錄    p251/506
(記事内容は豫約當時調査現在とす。)
(索引巻末に附す。)
現代婦人錄索引        p492-504/506
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《山葉美佐子》夫君山葉龜五郎氏は山葉洋行大連支店取締役【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

《山葉美佐子》
夫君 山葉龜五郎氏は
山葉洋行大連支店取締役
【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年
 日本婦德の鑑刊行に就て   p6-7/506
 昭和六年十二月十五日
 東京婦人新聞社々長 藤廣憲藏
 凡 例           p7-8/506
昭和大典記念 日本婦德の鑑  p8-12/506
 目 次
《山葉美佐子》        p393/506
 大連市信濃町五六
明治十八年五月
故靑山久嗣氏の次女として
東京市四谷區内藤新宿に生る、
靜岡縣濱松市はその原籍地なり、
東京府立第一高等女學校を卒業し、
二十二歳にして山葉龜五郎氏に嫁ぐ、
夫君は山葉洋行大連支店取締役を勤む、
夫人は大正十四年初めて大連に來たり
爾來今日に及ぶ、
流石に實業家の夫人らしく
應接振りにも如才なきを示す、
夫君との間に唯一子あるのみ、
夫人は極めて母性愛に強く、
一人子の將來に就ても種々心をくばり、
神明高等女學校卒業後、
東京女子大學に入り、
目下同大學在校中なり、
一人子を遠く内地遊學せしめることの
子煩惱の夫人に取つて
如何に心配なるかは言葉の外なるも
敢て之れをなす處に我子の將來を思ふ
夫人の一面を窺知し得る、
趣味として音樂琴に長ず。
續篇第五篇 現代婦人錄    p251/506
(記事内容は豫約當時調査現在とす。)
(索引巻末に附す。)
現代婦人錄索引        p492-504/506
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《保田八千代》長女は彌生高女:大連市楓町【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

《保田八千代》長女は彌生高女:大連市楓町
【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年
 日本婦德の鑑刊行に就て   p6-7/506
 昭和六年十二月十五日
 東京婦人新聞社々長 藤廣憲藏
 凡 例           p7-8/506
昭和大典記念 日本婦德の鑑  p8-12/506
 目 次
《保田八千代》        p392/506
 大連市楓町三八
明治二十五年八月
故平塚金吾氏の長女として
長野縣東筑摩郡廣立村に生る、
長野縣立松本高等女學校を卒業し、
大正三年初めて滿洲の地を踏み、
奉天に至り保田文雄氏と當地に於て婚す、
夫君は拓殖大學出身にて目下
油脂工業株式會社專務取締役を勤む、
夫人は次で大連に移る、
夫君滿鐵本社に勤務したるが爲めなり、
滿鐵を退き日淸油房に入り
大正八年倫敦に轉勤に際しては
夫人は十一年彼地に至り、
大正十四年大連に歸へり、
一時内地に居住し、
昭和四年三度大連に來たり今日に及ぶ、
各地に轉々し、見聞博く、
淡泊にして無邪氣なり
夫君との間に一男三女あり
長女は彌生高女に
次女・三女は何れも南山麓小學校に
長男は幼稚園にあり、
洋裁、手藝に趣味を有す。
續篇第五篇 現代婦人錄    p251/506
(記事内容は豫約當時調査現在とす。)
(索引巻末に附す。)
現代婦人錄索引        p492-504/506
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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