近藤一之進・近藤環・近藤亮太郎

《近藤 環 近藤亮太郎》《内牧長左衛門 内牧治太郎》【丹波基督教会史】昭和9年

《近藤 環   近藤亮太郎》
《内牧長左衛門 内牧治太郎》
【丹波基督教会史】昭和9年

【丹波基督教会史】昭和9年
著者    丹波基督教会 編
出版者   丹波基督教会
出版年月日 昭和9

明治二十三年一月十二日
檜山村 近藤環氏 母きし女 永眠葬式を行ふ
説敎者留岡幸助師
https://dl.ndl.go.jp/pid/1212304/1/36

明治二十三年十二月二十五日
水呑村 辻原佐太郎氏 芦田こと子と結婚式を舉ぐ
https://dl.ndl.go.jp/pid/1212304/1/40

明治二十四年三月二日
實勢村 篠塚格之進氏宅にて説敎會を開く
辯士留岡・村上兩師
https://dl.ndl.go.jp/pid/1212304/1/41

明治二十五年十一月十七日
檜山 近藤亮太郎氏、山村小千代女と結婚式を舉ぐ
司式松井、村上兩師
https://dl.ndl.go.jp/pid/1212304/1/46

明治二十七年三月四日
近藤亮太郎氏、岡山敎會より轉入
https://dl.ndl.go.jp/pid/1212304/1/50

明治二十七年四月十六日
祝文祝辭 近藤亮太郎
https://dl.ndl.go.jp/pid/1212304/1/51

明治二十八年十月十三日
報告 近藤亮太郎
https://dl.ndl.go.jp/pid/1212304/1/54

明治三十年五月二日
轉入會者
伏原みつ、内牧長左衛門、内牧いま、内牧とし
内牧孟諸氏
https://dl.ndl.go.jp/pid/1212304/1/57

明治三十一年九月十七日
鶴岡村 内牧長左衛門氏永眠
https://dl.ndl.go.jp/pid/1212304/1/62

明治三十一年(1898)
十二月八日
近藤亮太郎氏永眠、十一日葬儀執行
司會 谷主任執事、説敎 村上假牧師
履歷 内牧治太郎
https://dl.ndl.go.jp/pid/1212304/1/63

明治三十二年三月十二日
周旋委員長 辻原光治氏
https://dl.ndl.go.jp/pid/1212304/1/63

明治三十二年十月二十五日
辻原琴子 洛陽敎會へ轉會
https://dl.ndl.go.jp/pid/1212304/1/65

明治三十九年三月二十三日
檜山 近藤環氏(求道者)送葬式執行
https://dl.ndl.go.jp/pid/1212304/1/78
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《近藤環》明治三十九年三月二十五日死亡
【官報 1906年04月12日】明治39年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 明治39年
株式會社變更  p17/30
株式會社檜山銀行 登記事項中左ノ通變更セリ
一 取締役 近藤環ハ明治三十九年三月二十五日死亡
右 明治三十九年四月七日登記
  園部區裁判所檜山出張所
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年01月21日 06:00
《近藤亮太郎》第三高等中學校(岡山)醫學部
・明治25年11月卒業【第三高等学校一覧】
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《近藤亮太郎》船井郡檜山村字橋爪【大日本医会報告 第6回】明治32年

《近藤亮太郎》船井郡檜山村字橋爪
【大日本医会報告 第6回】明治32年

【大日本医会報告 第6回】明治32年
出版者   大日本医会
出版年月日 明27-32
明治三十一年 大日本醫會第六回報告
大日本醫會會員名簿  p88/148
 東京府  三百二十三名
 京都府  二百四十二名 p91-92/148
船井郡檜山村字橋爪 近藤亮太郎
p92【大日本医会報告 第6回】明治32年
〔画像〕p92【大日本医会報告 第6回】明治32年

【帝国医籍宝鑑】明治31年8月
著者    山口力之助 編
出版者   南江堂
出版年月日 明31.8
 〇開業醫 京都 p81/427
倉田健治郎 京都市上京區西洞院魚棚下ル
近藤亮太郎 京都市下京區御幸町錦小路上ル
p81【帝国医籍宝鑑】明治31年8月
〔画像〕p81【帝国医籍宝鑑】明治31年8月
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獨り遺憾なるは近藤亮太郞君である。發蒙館に遊び頭腦明晰…【庭訓録】昭和17年

獨り遺憾なるは近藤亮太郞君である。
發蒙館に遊び頭腦明晰…【庭訓録】昭和17年

【庭訓録】昭和17年
著者    井上活泉 著
出版者   井上善吉
出版年月日 昭和17
獨り遺憾なるは近藤亮太郞君である。
君も亦、發蒙館に遊び頭腦明晰、
篤實溫厚の君子人として、
深く尊重せられ、
岡山醫專を了へ、
將に刀圭界に活躍せんとするの矢先き、
早逝されたのは惜しい。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1024292/1/228
昭和十七年五月十五日印刷
昭和十七年五月二十日發行 (非賣品)
著者兼發行者 井上 善吉
       京都市上京區小山堀池町三九
印 刷 者  橋本岩太郎
       京都市上京區上椹木町千本東入
印 刷 所  眞美印刷所
       京都市上京區上椹木町千本東入
發 行 所  井上 善吉
       京都市上京區小山堀池町三九
https://dl.ndl.go.jp/pid/1024292/1/250
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[發蒙館]
【現代船井郡人物史】大正5年
出版者   三丹新報社
出版年月日 大正5
   船井郡の學者
 故 井上半介翁
   船井郡新庄村
 翁は堰水と號し
天保十三年九月九日 ※1842年10月12日
船井郡新庄村字船枝に呱々の聲を舉ぐ、
 -略-
茲に於て獨力[發蒙館]なるものを起し
進んで靑年子弟の敎養に資せり
來るもの常に三四十名、
遠きは郡外の村邑京洛の地よりするものありき、
 -略-

【船井郡誌】大正4年
著者    船井郡教育会 編
出版者   船井郡教育会
出版年月日 大正4
發蒙館は元治元年二月 ※1864年3月
井上半介の創立する所なり
半介識見高邁、
夙に泰西の新智識を鼓吹するの必要を認め、
句讀筆道を授くるの傍、
盛に西洋の文物を村民に紹介し、
國家制度變革の過渡期に於て
啓蒙誘掖に勉めたり。
されば生徒の數は必ずしも多からず、
二十名乃至五十名に過ぎざりしも、
其事業永く繼續し、
明治二十一年(1888)に至るまで
私立學校として存續せしを以て
村民一般其惠澤を受け德化頗る盛なりき。
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《近藤亮太郎》第三高等中學校(岡山)醫學部・明治25年11月卒業【第三高等学校一覧】

《近藤亮太郎》第三高等中學校(岡山)醫學部
・明治25年11月卒業【第三高等学校一覧】

《近藤亮太郎》
生  明治初年
歿  明治31年(1898)12月8日
祖父 近藤一之進
祖母 近藤きし ※下記
養父 近藤 環
   生:天保14年3月13日 ※1843年4月12日
   歿:明治39年3月25日 ※1906年3月25日
養母 近藤春野 内牧長左衛門 次女
実父 内牧?  ※調査要:小野一雄
実母
子  近藤敏雄
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第三高等中學校(岡山) 醫學部
   明治21年(1888)9月 第一年級 ※記録なし
入学 明治22年(1889)9月 第二年級 ※下記:第二條参照
   明治23年(1890)9月 第三年級
   明治24年(1891)9月 第四年級
卒業 明治25年(1892)11月17日卒業式
結婚 明治25年(1892)11月17日結婚式 ※下記
   檜山 近藤亮太郎氏、山村小千代女と結婚式を舉ぐ
永眠 明治31年(1898)12月8日     ※下記
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【第三高等学校一覧 明治19-22年】
出版者   第三高等学校
出版年月日 明20-大1
[第三高等中學校一覽]起 明治 二十年九月
           止 明治二十一年八月
[第三高等中學校一覽]始 明治二十一年九月
           終 明治二十二年八月
〇明治二十一年
 四月一日醫學部ヲ開設ス
 其生徒ハ舊同校生徒及府縣舊醫學校生徒ヲ以テ編制セリ
 同月九日其授業ヲ始ム
規則
本科一年級若クハ
醫科第一年級ニ入ル者ハ滿十七歳以上アルヘシ
  第四章 入學 入學試業 退學
第一條 生徒募集ハ毎年一回九月ニ於テス
    但時宜ニ由リ臨時ニ入學ヲ許スコトアルヘシ
第二條 醫科第一年級ニ入ルヘキ者ハ高等中學校豫科又ハ
    尋常中學校卒業ノ者若クハ試業ノ上
    之ニ等シキ學力アリト認ムル者トシ
    其第二年級以上ハ之ニ準シ試業ヲ行ヒ
    其級ノ課程ヲ脩メ得ヘキ學力アリト認ムル者トス
 醫科第一年級百貳拾人  p146-149/171
※近藤亮太郎:記載なし

【第三高等学校一覧 明治22-25年】
出版者   第三高等学校
出版年月日 明20-大1
[第三高等中學校一覽]始 明治二十二年九月
           終 明治二十三年八月
規則
本科一年級若クハ
醫科第一年級ニ入ル者ハ滿十七歳以上アルヘシ
  第四章 入學 入學試業 退學
第一條 生徒募集ハ毎年一回九月ニ於テス
    但時宜ニ由リ臨時ニ入學ヲ許スコトアルヘシ
第二條 醫科第一年級ニ入ルヘキ者ハ高等中學校豫科又ハ
    尋常中學校卒業ノ者若クハ試業ノ上
    之ニ等シキ學力アリト認ムル者トシ
    其第二年級以上ハ之ニ準シ試業ヲ行ヒ
    其級ノ課程ヲ脩メ得ヘキ學力アリト認ムル者トス
  醫學部ノ部        p36/243
第三高等中學校醫學部ハ舊岡山城西丸卽
岡山縣岡山區、内山下ニ在リ
 醫科第二年級六拾三人   p54/243
       内 區域内五拾六人 士族 拾九人
         區域外  七人 平民四拾四人
近藤亮太郎  京都 平民

[第三高等中學校一覽]始 明治二十三年九月
           終 明治二十四年八月
 醫科第三年級五拾壹人   p131-132/243
       内 區域内四拾八人 士族 拾五人
         區域外  參人 平民參拾六人
近藤亮太郎  京都 平民

[第三高等中學校一覽]自 明治廿四年九月
           至 明治廿五年八月
 醫科第四年級四拾八人   p212/243
       内 區域内四拾四人 士族 拾貳人
         區域外  四人 平民三拾六人
近藤亮太郎  京都 平民

【第三高等学校一覧 明治25-27年】
出版者   第三高等学校
出版年月日 明20-大1
[第三高等中學校一覽]自 明治廿五年九月
           至 明治廿六年八月
醫科卒業試問受驗生七拾四人  p66-67/246
       内 區域内六拾六人 士族貳拾壹人
         區域外  八人 平民五拾參人
近藤亮太郎  京都 平民

[第三高等中學校一覽]自 明治廿六年九月
           至 明治廿七年八月
  〇卒業生     p203/246
 醫學部醫科卒業生  p207/246
明治廿五年十一月醫科卒業生 五拾四人 p210/246
開業 近藤亮太郎 京都 平民
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【丹波基督教会史】昭和9年
著者    丹波基督教会 編
出版者   丹波基督教会
出版年月日 昭和9
明治二十三年(1890) p36/116
一月十二日
檜山村 近藤環氏 母きし女 永眠葬式を行ふ
説敎者 留岡幸助師
https://dl.ndl.go.jp/pid/1212304/1/36
明治二十五年(1892) p46/116
十一月十七日
檜山 近藤亮太郎氏、山村小千代女と結婚式を舉ぐ
https://dl.ndl.go.jp/pid/1212304/1/46
明治三十一年(1898)
十二月八日
近藤亮太郎氏永眠、十一日葬儀執行。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1212304/1/63
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 丹波育児院
 ~辻原光治とその周辺の人々~ 第17回
 近藤亮太郎
クローバー・サービス理事長(山下幾雄)
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NPO法人クローバー・サービス
法人名   特定非営利活動法人 クローバー・サービス
所在地   京都府船井郡京丹波町橋爪桧山53
電話番号  0771-88-5014
FAX番号   0771-88-5017
代表者   理事長 山下 幾雄
設立年月日 1999年12月27日
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《近藤亮太郎》第三高等中學校醫學部(岡山)第五回卒業證書授與式・明治25年11月17日

《近藤亮太郎》第三高等中學校醫學部(岡山)
 第五回卒業證書授與式・明治25年11月17日

【官報 1892年11月25日】明治25年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 明治25年
 〇卒業證書授與式  p3/11
第三高等中學校醫學部ニ於テ
本月十七日
第五回卒業證書授與式ヲ擧行セリ
  醫科卒業生
京都府平民  近藤亮太郎
p3【官報 1892年11月25日】明治25年
〔画像〕p3【官報 1892年11月25日】明治25年
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《近藤一進(惟和)・山内競(定矢)》【研医会図書館蔵書目録 第3輯 上巻】1966

《近藤一進(惟和)・山内競(定矢)》
【研医会図書館蔵書目録 第3輯 上巻】1966

【研医会図書館蔵書目録 第3輯 上巻】1966
出版者   研医会図書館
出版年月日 1966
和蘭薬性辨 初篇
近藤一進(惟和)・山内競(定矢)等校,
文政5(1822)新宮凉庭序・同8(1825)刊
鼓岡館蔵版・文集堂発兌
p40【研医会図書館蔵書目録 第3輯 上巻】1966
〔画像〕p40【研医会図書館蔵書目録 第3輯 上巻】1966
https://dl.ndl.go.jp/pid/1382568/1/40

《近藤一進、山内競》
【医譚 = History of medicine : 
journal of the Kansai Branch of the Japan Society 
of Medical History (14)(31)】1957-03
著者    日本医史学会関西支部 編
出版者   日本医史学会関西支部
出版年月日 1957-03
 宗吉に蘭學を学んだもの、
 -略-
近藤一進、山内競
p11【医譚 =(14)(31)】1957-03
〔画像〕p11【医譚 =(14)(31)】1957-03
https://dl.ndl.go.jp/pid/3384008/1/11
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年02月03日 10:03
《明治初年・現 京丹波町の寺子屋》
【日本教育史資料】[第8冊]
「旧 瑞穂町」p112/380
名 称    -    -   龍壽堂   -
学 科   読・算  読書 読・算・諸禮 読・算
旧管轄   小堀領  嶋領   綾部領  嶋領
所在地   質美村  粟野村  三宮村  保井谷村
開 業    -    -    -   -
廃 業   明治4年 明治5年 明治維新 明治1年
教 師   男1   男1   男1   男1
生徒男   18   10   40   15
生徒女    2    5   10    5
調査年代  明治4年 明治1年 明治1年 明治1年
身 分   僧    僧    神官   農
習字師氏名 福本千柄 @@富山 大槻官治 山内喜六
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《近藤一進・丹波檜山》《山内競・丹波の保井谷》【芸備医事 第34年(10)(397)】1929

《近藤一進・丹波檜山》《山内競・丹波の保井谷》
【芸備医事 第34年(10)(397)】1929

【芸備医事 第34年(10)(397)】1929
出版者   芸備医学会
出版年月日 1929-10
   史  談
  關西蘭學の開祖 橋本宗吉と我竹原 p6-/18
          醫學博士 呉 秀三
[橋本宗吉]
名を直政(初)・鄭(後)と云ひ、字は伯敏。
伯軒・曇齋 又は絲漢堂と號し、
宗吉とは其通稱なり。
寶曆十三年大坂の北堀江にて生る。
 -略-
https://dl.ndl.go.jp/pid/1475019/1/6

天保七年の五月朔日同所に於て
病によりて死亡し、享年は七十四にして
 -略-
https://dl.ndl.go.jp/pid/1475019/1/8

門人には前に記せる
藤田顕藏・橋本季齋・務中修平・中環の外に、
花野井有年・政田義彦?・中喜久太・平田政則・田宮宣哉・
大高宗肅 字 之@、大阪の人
近藤一進 中齋と號し、丹波檜山の人
柴岡孝柔 備前の藩醫なり
米野準則 豐後の人
濱口 融 彦人と稱す、肥後八代の人
倉茂 軌 字は文伯、攝津の人
山内 競 發齋と號す、丹波の保井谷の人
天野 蓬 左近と稱す、安藝奥海田の人
靑山 靜 秀平と稱す、丹波龜山の人
三宅高經 速水と稱す、阿波中の島の人、
     醫學博士 三宅速君の祖先なり
豐田 堅 幹林臺と號す、周防の岩國の人なり
高市 彬 立助と號す、阿波西原の人
大藏永常 等あり
 -略-
p19【芸備医事 第34年(10)(397)】1929
〔画像〕p19【芸備医事 第34年(10)(397)】1929
https://dl.ndl.go.jp/pid/1475019/1/9

【日本医史学会関西支部 編】1961
出版者   日本医史学会関西支部
出版年月日 1961-11
  中川修亭 安永二(一七七三)~嘉永三(一八五〇)
随鷗塾での同門関係の藤林普山が訳した
「和蘭薬性弁」の参校者として、
新宮凉庭、近藤一之進、山内競と名を並べているのである。
近藤、山内の両者は曇斎・橋本宗吉の門人である。
https://dl.ndl.go.jp/pid/3384018/1/15
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《丹波檜山の近藤一之進》新宮凉庭先生事略【医文学 7(3)(68)】1931-03

《丹波檜山の近藤一之進》新宮凉庭先生事略
【医文学 7(3)(68)】1931-03

【医文学 7(3)(68)】1931-03
出版者   医文学社
出版年月日 1931-03
 新宮凉庭先生事略   p26-29/38
    菅 竹 浦
https://dl.ndl.go.jp/pid/1886920/1/26
  五、崎陽遊學  p29/38
 此年、丹波檜山の近藤一之進といふ人の宅で、
先生は偶然にも宇田川玄隨の譯書内科撰要を手にし、
書中の黄疸篇を一見し、
其論理の甚だしく詳悉明確なるに感歎し、
茲にゆくりなく和蘭醫學の必修すべきを悟り、
萬難を排し、
長崎に遊學することの急要なるを思立たれた。
p29【医文学 7(3)(68)】1931-03
〔画像〕p29【医文学 7(3)(68)】1931-03
https://dl.ndl.go.jp/pid/1886920/1/29
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【朽木昌綱公】昭和13年
著者    京都府立福知山中学校 編
出版者   京都府立福知山中学校
出版年月日 昭13
 福知山藩士ではないが、  p34/57
縁故あるものには新宮涼庭がある。
 -略-
二十一歳の時偶々
丹波檜山の近藤一之進宅
宇田川槐園の内科撰要黄疸篇を一見し、
その病理を論ずること詳悉明確なるに感歎して、
こゝに始めて和蘭醫學を修めむと、
奮を發して遂に長崎に赴き、
とゞまること凡そ八年、
蘭醫ヘールケ及びバライに敎を受け、
歸國後京都に開業し蘭方の大家として名を當代に馳せた。
p35【朽木昌綱公】昭和13年
〔画像〕p35【朽木昌綱公】昭和13年
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【庵我村誌】昭和11年
著者    四方源太郎 [編]
出版者   庵我村
出版年月日 昭和11
  (別  紙) p27/86
柴田一九郎 船井郡檜山代官 近藤一之進 受印
p27【庵我村誌】昭和11年
〔画像〕p27【庵我村誌】昭和11年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1104167/1/27
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《近藤 環》近藤一之進の長男【京都府議会歴代議員録】昭和36年(1961)

《近藤 環》近藤一之進の長男
【京都府議会歴代議員録】昭和36年(1961)

【京都府議会歴代議員録】昭和36年(1961)
著者    京都府議会事務局 編
出版者   京都府議会
出版年月日 1961.12

 近藤 環  p452-453/656
  船井郡檜山村字橋爪七十二番戸
 天保十四年三月十三日、 ※1843年4月12日
近藤一之進の長男として、同地(旧橋爪村)に生れた。
当家の初代近藤環太は、奥州会津藩より京都に出、
のち大名又は旗本に仕えていたといわれる。
代々医を業とし、かたわら代官柴田家の重役をつとめた。

又 一之進は、
橋本宗吉が『エレクトラ』の著述に従事した際、
その協力者となった人で、
新宮凉庭とも交遊があり、
蘭医として一家をなした。
母は南桑田郡稗田野村の大石良左衛門の女である。

 氏は幼名を博太郎とよび、のち伊織と称した。
少壮のころ篠山藩の儒者
駒沢撫松・渡辺亮太郎に師事して漢学を修め、
また上野盤山にも教えを受けたといわれる。
その後、京都の蘭医新宮凉民(凉庭の養子)、
新宮凉閣の門に入り医学を修得した。
二十四才のとき、
十三代目の家督を相続して名をと改め、
医業のかたわら酒造業を営んだ。

 一方、明治十三年十月加地敬輔の辞任にともなう
府会議員の補欠選挙に当選し(十五年三月辞任)、
十八年十月(田中半之丞の補欠)、
十九年一月(二十年五月辞任)、
二十三年二月と前後四選され、
二十四年十月辞任するまで初期の府会に列した。
その間、明治十四年春には、
郡内の有志とともに船井郡親睦会を組織し、
地方民の啓発につとめた。
p452【京都府議会歴代議員録】昭和36年
〔画像〕p452【京都府議会歴代議員録】昭和36年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1351500/1/452

のちには立憲政友会に籍を置いていた。
他方、明治二十二年四月
檜山村会議員となり(二級、二十八年再選)、
ついで同年五月初代の檜山村長に当選し、
二十六年三月満期退任したが、
その間、村有林の統一ならびに
基本財産の蓄積には大いに尽力し、
村治の基礎をきづいた。
園部税務署管内所得税調査委員、
郡徴兵参事員等を兼ね、
明治二十九年三月
園部町へ移住のため、檜山村会議員を辞した。
  【日本全国諸会社役員録 明治30年】
   園部製絲合資會社
   船井郡園部村
   設 立 明治二十九年六月
   營業ノ目的 生糸製造及生糸賣買
   資本金 七千圓(拂込濟)
   社 長 犬石 藤七 船井郡園部町
   取締役 秋田彌三郎 船井郡園部町
   同   近藤  環 船井郡園部町
   支配人 田中覺太郎 船井郡園部村
   技師長 堀毛 金藏 丹波、多紀郡八上村

 氏は舜琴堂と号して書画を能くし、
謡曲をたしなんだ。
代々神道を奉じていたが、
明治二十二、三年のころ、
父とともに基督教に帰依し、
終生その教えを奉じた。
家庭では、
北桑田郡鶴ケ岡村の
内牧長左衛門次女春野を妻とし、
子女いずれも幼没したため養子を迎えた。
明治三十九年三月二十二日、
檜山村の自宅で死去した。
享年六十四才。
墓所は瑞穂町字橋爪にある。
後継者 近藤敏雄氏(孫)
瑞穂町字橋爪 種類販売業
p453【京都府議会歴代議員録】昭和36年
〔画像〕p453【京都府議会歴代議員録】昭和36年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1351500/1/453
昭和三十六年十二月十五日 印刷
昭和三十六年十二月二十日 発行
    京都府会議員歴代議員録(非売品)
編 者 京都府議会事務局
発行者 京都府議会
    京都市上京区下立売通釜座東入藪ノ内町
印刷所 奥田印刷株式会社
    京都市上京区油小路通下立売下ル
https://dl.ndl.go.jp/pid/1351500/1/652
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年02月03日 10:03
《明治初年・現 京丹波町の寺子屋》
【日本教育史資料】[第8冊]
「旧 瑞穂町」p112-113/380
名 称    -    -    -    -
学 科   読・算  読・算  読・算  読・算
旧管轄   綾部領  水野領   -    -
所在地   質志村  水呑村  井脇村     橋爪村
開 業   文久2年 万延2年  -    -
廃 業   明治5年 慶応2年 明治1年 明治5年
教 師   男1   男1   男1   男1
生徒男   18    5    7   16
生徒女    3    4    2    5
調査年代  明治1年 慶応1年 慶応2年 慶応3年
身 分   僧    農    僧    代官
習字師氏名 山下法山  高見ゆか 野田鶴天 近藤一之進
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