松村久之助(勝部本右衛門四男)

《長瀬健四郎(塗屋)》下郡:文政10年(1827)2月~安政(1855)2年2月 【横田町誌】1968

《長瀬健四郎(塗屋)》
下郡:文政10年(1827)2月~安政(1855)2年2月
【横田町誌】1968
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年11月10日 05:22
[除籍謄本]平成18年1月10日発行
《戸主:松村康重・島根縣簸川郡直江村大字直江六拾番屋敷》
島根縣簸川郡直江村大字直江六拾番屋敷
前戸主 亡養父 松村康重
戸 主 松村康重 亡康重 養子
    弘化元年九月拾九日生 ※1844年10月30日
    仁多郡三澤町 長瀬健四郎 二男 入籍ス
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【横田町誌】1968
著者    横田町誌編纂委員会 編
出版者   横田町誌編纂委員会
出版年月日 1968
    第三章
   第一節 村と町と土地
 一 郡役人と村の旧家
郡役人と村役人
郡奉行のもとには郡役人があり、
下郡は郡内行政一般にあたり、
与頭はその補佐役でそれぞれの組
(郡内を一〇数ケ町村を一組として)
の責任者として事務を分掌した。
下郡は一人、予頭は二名のちには三名置かれた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2991755/1/132
 表2-3-1 下郡・与頭表
年号の右横は任命の月( )内は村と屋号

天明5(1785)-7年(1787) 寛政1(1789)-4年(1792)
与頭 長瀬祐右衛門(祐左衛門)(三沢塗屋)

寛政10年(1798)2月 享和1年(1801)
下郡 長瀬祐左衛門(塗屋)

文化12年(1815) 文政4年(1821)
与頭 長瀬助六(塗屋)

文政10年(1827)2月 文政12年(1829)
下郡 長瀬健四郎(塗屋)
p133-1【横田町誌】1968
〔画像〕p133-1【横田町誌】1968

文政10年(1827)2月 文政12年(1829)
嘉永2年(1849)(次頁)
下郡 長瀬健四郎(塗屋)
 p133-2【横田町誌】1968〔画像〕p133-2【横田町誌】1968
https://dl.ndl.go.jp/pid/2991755/1/133

天保5-8年 嘉永2年
下郡 長瀬健四郎(塗屋)

天保5(1834)-8年(1837)
与頭 長瀬丈四郎(長瀬健四郎)(塗屋)

安政2年(1855)
与頭 長瀬祐助(塗屋店)

明治9年(1876)
与頭 長瀬左五郎(上阿井三沢屋)

郡村役人共に官選で、
与頭以下は下郡の推挙によって藩が決定し、
郡奉行・代官の名で辞令書が渡された。
人物、家格、持高、年令を考慮して任命した。
奉職年限はなく、
長いものでは幕末の長瀬健四郎の下郡のみで
二七年間というものもあった。
※文政10年(1827)2月~安政(1855)2年2月迄
p134【横田町誌】1968
〔画像〕p134【横田町誌】1968
https://dl.ndl.go.jp/pid/2991755/1/134
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《桃裕行》松江藩の洋學と洋醫學【日本医史学雑誌 (1303)】1942-05

《桃裕行》松江藩の洋學と洋醫學
【日本医史学雑誌 (1303)】1942-05

【日本医史学雑誌 (1303)】1942-05
出版者   日本医史学会
出版年月日 1942-05
松江藩の洋學と洋醫學(上)
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【日本医史学雑誌 (1304)】1942-06
出版者   日本医史学会
出版年月日 1942-06
松江藩の洋學と洋醫學(中)
 桃 裕行
  二 國許に於る洋學
江戸藩邸の洋學先づ起つて、
國許に採用される順序がとられた。
文久二年八月、※1862年8月
桃好裕(稱 文之助、字 君綽、號 節山)
(天保三年(1832)生、明治八年(1875)歿)
の上書中に、
 ―略―
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【日本医史学雑誌  (1305)】1942-07
出版者   日本医史学会
出版年月日 1942-07
松江藩の洋學と洋醫學(下)
 桃 裕行
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【島根儒林伝】昭和15年
著者    谷口廻瀾 著
出版者   谷口廻瀾先生還暦記念刊行会
出版年月日 昭和15
 桃 白鹿  附 桃西河
https://dl.ndl.go.jp/pid/1047283/1/47
 桃 節山 墓表
諱 好裕 字 君 綽 號 節山
其祖 白鹿先生
累 四世 
君 娶 酒井氏 二男二女
嗣子 卽 硯太郎
https://dl.ndl.go.jp/pid/1047283/1/218
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桃 裕行先生を送る〔含 桃裕行先生略歴・主要著述目録〕立正大学文学部論叢

桃 裕行先生を送る〔含 桃裕行先生略歴・主要著述目録〕
立正大学文学部論叢

桃 裕行先生を送る
  高島正人
明治四十三年十月十四日生
父 桃 敏行
母   きん
桃家の元祖 桃 東園
東園の養子 桃 白鹿
二代      西河
三代      黄園
四代      翠庵
五代      節山(文之助)
六代      敏行
七代      裕行
※クイックで自動的にダウンロードします。
高島 正人
アイテムタイプ 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper
言語      日本語
著者      高島 正人
雑誌名     立正大学文学部論叢
号       70
ページ     3 - 7
発行年     1981-09
ISSN      0485215X
書誌レコードID AN10342358
著者版フラグ  publisher
出版者     立正大学文学部
資源タイプ   Article
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立正大学学術機関リポジトリ
立正大学文学部論叢
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《勝部姓関連》【松江藩の郷校について】新史料「郷校取調巡郷日記十五」(桃文之助)を中心として 磯部武雄

《勝部姓関連》【松江藩の郷校について】
新史料「郷校取調巡郷日記十五」
(桃文之助)を中心として 磯部武雄
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《勝部姓関連》
勝部本右衛門 出雲郡坂田村
勝部本右衛門 弟  善四郎
勝部本右衛門 忰  豊太郎   十六才
勝部本右衛門 二男 本次郎   十一才
江角柳四郎  大庄屋
勝部繁左衛門 中庄屋
勝部 甚七  中庄屋
勝部又一郎  中原村 甚七 忰
       二等学生
勝間 芳丸  学頭村元神職
       三等学生
飯塚 文庵  西学大得業生
黒田 龍二  西学大得業生
勝部 陸市  勝部寛三郎 忰  十四才
       神門郡見久村
僧  慈恭  鐸道 弟子    十三才
       黒目村喜見寺
荒木 和市  私塾 金築勇 門人 七才
黒目 亀市  中原村医師亮庭忰 十五才
多久良 造           十五才

勝部 さた  今市町 正三郎娘 p13/22
       私塾 正三郎門人 十二才
※年齢:明治五年正月現在
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松江藩の郷校について
 新史料「郷校取調巡郷日記十五」
 (桃文之助)を中心として
  磯部武雄
  〔一〕 p2/22
本史料「郷校取調巡郷日記」
(以下「本史料」という)の
全文紹介に先だち、
若干の解題を付しておきたい。
学制公布(明治五年八月)の年の一月、
島根県(明治四年十一月十五日、
松江県・広瀬県・母里県・隠岐を合併成立、
隠岐は同年十二月更に分離し鳥取県へ合併)は、
郷校取調べのため修道館教授らを派遣したが、
この時の一人である
南学大教授《桃文之助》が巡郷の様子を詳しく
記録したものが「本史料」である。
《桃文之助》は、名は好裕、字は君綽、
号は節山(又は脩斉)、通称は文之助といった。
天保三年(一八三二)十一月三十日に
出雲國松江藩の侍医《杉貞庵》の次男として生まれ、
十八才の時、
松江藩の儒者《桃翠庵》の養子となり、
のち藩校修道館の助教から教授となった。
廃藩置県後も島根県に出仕して、
教員伝習校(のちの島根県師範学校)の
教師兼監事となるなど晩年まで教育に関係し、
明治八年(一八七五)十一月十三日、
四十三才で没している。
 ―略―
「本史料」によれば、巡郷者は、
南学大教授《桃文之助》の外に、
学校懸権大属《小川操一郎》、
同懸附属《森城四郎》、
西学少教授《田代嚮平》らの計四名である。

巡郷は、  p2/22
明治五年正月二十二日より
同年二月九日までの
都合十七日間にわったっているが、
この間、森城四郎以外の三人は
それぞれ従僕一人を同伴させている。
「郷校取調巡郷日記十五」(桃文之助)_p2-0
〔画像〕「郷校取調巡郷日記十五」(桃文之助)_p2-0

さて、「本史料」での  p3/22
巡郷の行程をまとめてみると
以下の表のようになる。
試業日   明治五年正月廿四日
郡 名   出雲
南学教導所 三歩一村 黒田龍二宅続
西学教導所 中州村 常勝寺
試業場所  坂田村 勝部本右衛門宅
付 記   平田より坂田まで一里計
「郷校取調巡郷日記十五」(桃文之助)_p3-1
〔画像〕「郷校取調巡郷日記十五」(桃文之助)_p3-1

一 右試撿終りしハ暮六時頃なりけるか p11/22
  それゟ石橋屋弥八か心配にて酒肴を供須
  尚晩飯をも差出へしと申せしかとも辞して発す
  時ニ六半時頃なり
  郡吏得業生なとの心配にて
  三人とも馬ニ乗て発し
  出雲郡坂田村 勝部本右衛門 方江着須
    平田ゟ坂田迠一里計
  此時 本右衛門 忰 豊太郎
  西学 大得業生 飯塚文庵 及 黒田龍二
  途中まて迎ニ出ル 着後
  大庄屋 江角柳四郎
  中庄屋 勝部繁左衛門 弟 善四郎 儀 挨拶ニ出る
  本右衛門ハ松江 江 参り留守なる由

一 晝前頃ゟ試撿を始むる如例
  大中庄屋 柳四郎 繁左衛門 及
  中庄屋 勝部甚七も出席
  八前頃迠ニ素讀相済 而 午飯を喫し
  八半時頃ゟ講尺を始め
  暮六前頃済
  それゟ規則を談する事如例終而如左
  (頭書)
  「詩歌之題楯縫同様これを命ス」
   五經明讀   五貫文
    神門郡見久村 寛三郎 忰
       勝部陸市  十四才
       ―略―
   四書明讀   三貫文
    坂田村 本右衛門 二男
       勝部本次郎 十一才
   四書明讀   三貫文
    黒目村 喜見寺 鐸道 弟子
       僧  慈恭 十三才
   商買往来暗記 弐貫文
       荒木和市   七才
       私塾 金築勇 門人
       ―略―
   四書五經素讀 終而孟子講尺
          五〆文
    坂田村 本右衛門 忰
       勝部豊太郎 十六才
       ―略―
「郷校取調巡郷日記十五」(桃文之助)_p11-1
〔画像〕「郷校取調巡郷日記十五」(桃文之助)_p11-1

   四書五經素讀 終而孟子講尺  p12/22
          五〆文
    中原村 医師 亮庭 忰
       黒目亀市  十五才
   四書五經素讀 終而孟子講尺
          五〆文
       多久良 造 十五才
       ―略―

  右終而拙者ゟ左之通申渡ス
     中原村 甚七 忰
       勝部又一郎
    右二等学生申付@事
     壬申正月廿四日 南學

     学頭村 元神職
       勝間芳丸
    右三等学生申付@事
  西学ニ而 二等学二人 賞六人
  右何も終れるハ六半時頃也
「郷校取調巡郷日記十五」(桃文之助)_p12-1
〔画像〕「郷校取調巡郷日記十五」(桃文之助)_p12-1
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年11月07日 05:56
[勝部本右衛門:七代~十代]
八代 本右衛門 勝部景浜 ※①
   生:文政6年(1823)
   歿:明治14年(1881)5月11日 59歳
   父 七代 本右衛門 勝部栄忠

九代 本右衛門
   勝部豊太郎 十六才(明治5年1872)
   八代 本右衛門 長男
   生:安政2年(1856)?
   歿:

   勝部本次郎 十一才(明治5年1872)
   八代 本右衛門 二男
   生:万延1年(1861)?
   歿:

   七代 本右衛門 四男の子
   松村久之助:松村康重(松村仙造の父)の養嗣子
   明治2年7月16日生 ※1869年8月23日
   妻 トシ
   明治五年拾月拾壹日生 ※1872年11月10日
   父 松村康重
   母 亡 トク
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島根県の大地主調【新修島根県史 史料篇 第5 (近代 中)】1966

島根県の大地主調【新修島根県史 史料篇 第5 (近代 中)】1966


【新修島根県史 史料篇 第5 (近代 中)】
出版者   島根県
出版年月日 1966
43 島根県の大地主調  p337-344/403
「富豪人名 明治十三年十月調査
 島根県管内地価壱万円以上所有者取調表」
   東京都豊島区巣鴨七ノ一八三四
   石山昭次郎所蔵
https://dl.ndl.go.jp/pid/2992231/1/337

 (伯耆国、因幡国は省略)
 総計 弐百八拾五人
    内
    八拾八人 出雲国
    三拾八人 石見国
    九拾六人 伯耆国
    六拾三人 因幡国
 明治十三年十月
https://dl.ndl.go.jp/pid/2992231/1/340

明治二十三年
「県郡制施行方取調書類」
 (郡制施行方取調についての
  各郡長からの答申書中の
  各郡別地価壱万円以上の大地主名)
 松江市
 島根郡
 秋鹿郡
 意宇郡
 能義郡
https://dl.ndl.go.jp/pid/2992231/1/340

 仁多郡
 大原郡
 飯石郡
 出雲郡
 楯縫郡
 神門郡
https://dl.ndl.go.jp/pid/2992231/1/341

 邇摩郡
 安濃郡
 邑智郡
 那賀郡
 美濃郡
 鹿足郡
https://dl.ndl.go.jp/pid/2992231/1/342

「島根県長者地価見立鑑」
 平田市野石谷町
 原運一所蔵
 (地価壱万円以上地主)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2992231/1/343

 簸川郡出東村 勝部本右衛門
https://dl.ndl.go.jp/pid/2992231/1/344
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《勝部又市郎・又一郎》才太郎、岡崎国臣、勝部本右エ門の三男四女【松江大橋物語 増補版】1975

《勝部又市郎・又一郎》
才太郎、岡崎国臣、勝部本右エ門の三男四女
【松江大橋物語 増補版】1975

【松江大橋物語 増補版】昭和50年(1975)
著者    内田兼四郎 編
出版者   [内田兼四郎]
出版年月日 1975.8
木村常蔵の弟 又市郎は久木赤井原勝部家に入り、
その子に才太郎、岡崎国臣、勝部本右エ門の
三男と四女がある。
常蔵氏の血縁関係にもあたる
大東の木村小左エ門等があった。
p65【松江大橋物語 増補版】1975
〔画像〕p65【松江大橋物語 増補版】1975
https://dl.ndl.go.jp/pid/9574567/1/65
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年12月16日 05:00
勝部本右衞門(十代):岡崎國臣の弟
【人材・島根:県人名鑑】昭和13年
勝部本右衞門 簸川 出東 p101/263
 松陽新報社 副社長
 松江市殿町
 (電話 平田一三〇)
明治廿二年七月
名家 勝部又一郎の四男 ※①四男⇒三男?
岡崎國臣の弟として生れ、
先代本右衞門の養子となり、
大正二年家督を嗣ぐ。
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勝部家の墓碑 簸川郡斐川町 坂田墓地【出雲の石造美術 続】昭和61年(1966)

勝部家の墓碑 簸川郡斐川町 坂田墓地
【出雲の石造美術 続】昭和61年(1966)
 現戸主 第十一代 尚芳氏

【出雲の石造美術 続】昭和61年(1966)
著者    伊藤菊之輔 著
出版者   伊藤菊之輔
出版年月日 1966
  勝部家の墓碑 簸川郡斐川町  p51/101
 坂田墓地には角型墓碑凡そ五三基、五輪塔二基、
宝篋印塔一基及び石龕入二基、供養塔二基で
ほとんど花崗岩製である。
もっともこれは相分家三軒の混交墓地である。
 現戸主第十一代尚芳氏の元祖は、
顧山宗鑑居士といい、
明暦二(一五六五)に歿しているが、
その際角型碑を用いたため、
以下子孫概ねこれに準じている。
中に池大雅の揮毫にかかる墓碑がある。
勝部家第四代の碑で碑は正面に、
徳林院宝山宗珠居士、
向って右側に伝記を、
左側に宝暦十三年癸未七月廿八日と刻し、
   ※1763年9月5日
謹言な楷書で筆致さえ、
大雅の面目躍如たる大文字である。
 勝部家は、代代本右衛門と称し、
下郡役を勤め帯刀を免された。
元和年間に ※元和元年(1615)
今の地に家居して開墾事業に従事し、
二代目の時既に郡中第一の高持となった。
藩主のお成りはしばしばで、
不昧公は七日七夜も滞留したほどだった。
文人墨客の来遊も多く、
遺品を蔵して有名である。 p52/101
p51【出雲の石造美術 続】昭和61年(1966)
〔画像〕p51【出雲の石造美術 続】昭和61年(1966)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2512336/1/51
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斐川町坂田の勝部宅【法政地理 (14)】昭和61年(1986)

斐川町坂田の勝部宅【法政地理 (14)】昭和61年(1986)

【法政地理 (14)】昭和61年(1986)
著者    法政大学地理学会 編
出版者   法政大学地理学会
出版年月日 1986-03
 第11図 斐川町坂田の勝部宅平面略図と
     風向風速計設置位置
p14-1【法政地理 (14)】1986
〔画像〕p14-1【法政地理 (14)】1986

斐川町坂田の勝部宅(第1図・K)である
p14-2【法政地理 (14)】1986
〔画像〕p14-2【法政地理 (14)】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/7928474/1/14

【島根県の地質】昭和60年(1985)
著者    島根県地質図説明書編集委員会 編
出版者   島根県
出版年月日 1985.8
8) 鷺(さぎ)鉱山
  ―略―
その後、慶應元年(1865)8月、
出雲郡坂田村(現簸川郡斐川町坂田)の
勝部本右衛門が松江藩の命令で採掘を始め、
  ―略―
p249【島根県の地質】昭和60年(1985)
〔画像〕p249【島根県の地質】昭和60年(1985)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9672977/1/249
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坂田勝部家[勝部本右衛門 初代から十一代]島根県簸川郡斐川町坂田

坂田勝部家[勝部本右衛門 初代から十一代]
島根県簸川郡斐川町坂田
島根県出雲市斐川町坂田(現)

『初代』
顧山宗鑑居士 明暦二年(1656)歿
勝部家の墓碑p51
【出雲の石造美術 続】
https://dl.ndl.go.jp/pid/2512336/1/51

『二代』 @@

『三代』 @@

『四代』<実勝>
雲州勝部家と大雅p8
四代 本右衛門 実勝の墓碑銘
寶曆十三年癸未七月廿八日歿
※1763年9月5日
宝暦五年(1755):76歳
【Museum (117)】1960
https://dl.ndl.go.jp/pid/4429506/1/8

『五代』<朝矩>
《勝部朝矩》カツベ トモノリ
(1738—1808)
出雲の豪農。
元文三年(1738)生る。
字は友直、通稱は善藏また本右衞門。
榮忠の祖父に當り、大庄屋を勤む。
京都二條家の門に歌道を學びこれを能くした。
文化五年(1808)歿、年七十一。
(勝部家錄)
【大人名事典 第2巻】1953
https://dl.ndl.go.jp/pid/2998402/1/43

『六代』<尚賢>
尚賢 善藏 號 樂只亭
安永8年(1779)生 42歳歿 ※風外禪師と同年生
文政3年8月3日(1820年9月9日)歿
【風外】p45
https://dl.ndl.go.jp/pid/9852901/1/45

『七代』<栄忠>
《勝部榮忠》カツベ ヒデタダ
(1796—1886)
幕末明治初期の歌人。
寛政八年(1796)生る。
出雲の豪農。
名は興雅、通稱 本右衞門、乃和庵と號す。
和歌を吉田芳章に、禪を風外に、
茶道を湖側庵に學ぶ。
また書畫の造詣深く、雅客常にその門に集る。
明治十九年(1886)歿、年九十一。
(三田)
【大人名事典 第2巻】1953
https://dl.ndl.go.jp/pid/2998402/1/43
『七代』<栄忠>
榮忠、字 本右衞門、小字 仙太郎、乃和庵 其號
六世 善藏 尚賢君 長子也
母 木佐氏
寛政八年丙辰九月九日(1796年10月9日)生
明治十九年(1886)丙戌二月十八日終
享年九十有一   p49
初妻 木佐氏卒後 森脇氏
生 十男三女   p50
先代尚賢が、三兒をp52
【風外】p49-52
https://dl.ndl.go.jp/pid/9852901/1/49

『八代』<景浜(其峰)>
《勝部景濱》カツベ カゲハマ
(1823—1881)
出雲の豪農。文政六年(1823)生る。
字は芳光、通稱は本右衞門。
榮忠の男、家を繼いで大庄屋を勤む。
吉田芳章の門に學んで和歌を能くした。
明治十四年(1881)歿、年五十九。
(出雲皇學者歌人學系)
【大人名事典 第2巻】1953
https://dl.ndl.go.jp/pid/2998402/1/43

『九代』 @@

『十代』<本右衛門>
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《勝部本右衛門:當主ニテ十代》
【簸川郡人名辞書】大正5年
 明治22年(1889)生
https://kazuo1947.livedoor.blog/archives/8020200.html

『十一代』<尚芳>
現戸主 第十一代 尚芳氏
勝部家の墓碑p51
【出雲の石造美術 続】1966
https://dl.ndl.go.jp/pid/2512336/1/51
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年11月07日 05:56
[勝部本右衛門:七代~十代]
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《勝部朝矩》《勝部榮忠》《勝部景濱》【大人名事典 第2巻】1953

《勝部朝矩》《勝部榮忠》《勝部景濱》【大人名事典 第2巻】1953

《勝部朝矩》勝部本右衛門 五代
《勝部榮忠》勝部本右衛門 七代
《勝部景濱》勝部本右衛門 八代

【大人名事典 第2巻】1953
著者    平凡社 編
出版者   平凡社
出版年月日 1953
《勝部朝矩》カツベ トモノリ
(1738—1808)
出雲の豪農。
元文三年生る。
字は友直、通稱は善藏また本右衞門。
榮忠の祖父に當り、大庄屋を勤む。
京都二條家の門に歌道を學びこれを能くした。
文化五年歿、年七十一。
(勝部家錄)

《勝部榮忠》カツベ ヒデタダ
(1796—1886)
幕末明治初期の歌人。
寛政八年生る。
出雲の豪農。
名は興雅、通稱 本右衞門、乃和庵と號す。
和歌を吉田芳章に、禪を風外に、
茶道を湖側庵に學ぶ。
また書畫の造詣深く、雅客常にその門に集る。
明治十九年歿、年九十一。
(三田)

《勝部景濱》カツベ カゲハマ
(1823—1881)
出雲の豪農。文政六年生る。
字は芳光、通稱は本右衞門。
榮忠の男、家を繼いで大庄屋を勤む。
吉田芳章の門に學んで和歌を能くした。
明治十四年歿、年五十九。
(出雲皇學者歌人學系)
p43【大人名事典 第2巻】1953
〔画像〕p43【大人名事典 第2巻】1953
https://dl.ndl.go.jp/pid/2998402/1/43

【大人名事典 第1・2巻】1957
著者    平凡社 編
出版者   平凡社
出版年月日 1957
※上記と同一
《勝部朝矩》カツベ トモノリ
(1738—1808)
《勝部榮忠》カツベ ヒデタダ
(1796—1886)
《勝部景濱》カツベ カゲハマ
(1823—1881)
p369【大人名事典 第1・2巻】1957
〔画像〕p369【大人名事典 第1・2巻】1957
https://dl.ndl.go.jp/pid/2971390/1/369

【新撰大人名辞典 第2巻】昭和12-16
著者    平凡社 編
出版者   平凡社
出版年月日 昭和12-16
※上記と同一:年代は皇紀で記載
p48【新撰大人名辞典 第2巻】昭和12-16
〔画像〕p48【新撰大人名辞典 第2巻】昭和12-16
https://dl.ndl.go.jp/pid/1123781/1/48

【大辞典 第5・6巻 (オシーカロン)】1953
著者    平凡社 編
出版者   平凡社
出版年月日 1953
《勝部朝矩》カツベ トモノリ
《勝部榮忠》カツベ ヒデタダ
p487【大辞典 第5・6巻 (オシーカロン)】1953
〔画像〕p487【大辞典 第5・6巻 (オシーカロン)】1953
https://dl.ndl.go.jp/pid/2475030/1/487
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年11月07日 05:56
[勝部本右衛門:七代~十代]
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