三浦環

《土倉 麻》我が陸上女子代表の精鋭:ロサンゼルス【オリムピツク大写真帖 第十回】昭和7年

【オリムピツク大写真帖 第十回】昭和7年
著者    帝国公民教育協会 編
出版者   帝国公民教育協会
出版年月日 昭和7
  我が陸上女子代表の精鋭
1 眞保 正子選手
2 中西 みち選手
3 土倉  麻選手
4 柴田 タカ選手
5 渡邊すみ子選手
6 村岡 美枝選手
7 石津 光惠選手
8 相良 八重選手
9 廣橋百合子選手
 p127【オリムピツク大写真帖 第十回】昭和7年
p127【オリムピツク大写真帖 第十回】昭和7年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1688823/1/127
昭和七年九月二十五日印刷
昭和七年十月 七 日發行 定價金八圓
編輯兼發行者 澤本 健三
印刷者    酒井  巖
印刷者    堀部  鎭
發行所    社團法人 帝國公民敎育協會
       東京市麴町區文部省構内
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整版印刷   酒井印刷所
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オフセツト  服部印刷所
       東京市麻布區竹谷町
解説印刷   堀部英文堂
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製  本   勝井製本所
       東京市京橋區槇町
用  紙   富士製紙株式會社熊野工場
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《土倉麻子=田島直人夫人》《横田みさを=竹岡信幸夫人》石田博英【東京オリンピック (26)】1964-06

【東京オリンピック (26)】1964-06
出版者   オリンピック東京大会組織委員会
出版年月日 1964-06
 p1【東京オリンピック (26)】1964-06
p1【東京オリンピック (26)】1964-06
https://dl.ndl.go.jp/pid/1860461/1/1
多くの名選手を友人に
私は京都の当時の
師範学校付属小学校の卒業であるが、
ロスアンゼルスには、
この小学校卒業生が2人も参加した。
陸上100メートルの土倉麻子君と、
背泳の横田みさを君である。
今となっては年が知れて、
2人には迷惑かも知れないが、
土倉麻子君は私の同級生、
横田みさを君は2級下であった。
ともに予選で惜しくも敗れたが、
2人とも素晴らしい美人であった。
そして当然のようにロマンスが生れ、
土倉君は三段跳のチャンピオン
田島直人氏の夫人となって、
2男2女の母である。

はじめの労働大臣のとき、
炭坑労働者をドイツに派遣したが、
田島夫妻はその責任者として約3年滞独し、
私も訪れて一緒にライン河畔をドライブした。
何しろベルリン大会の優勝者であるから大変な人気で、
これがずいぶん仕事に役立った。

その美貌と優秀な容姿がかわれて、
その後宝塚少女歌劇段に招かれ、
ダンス専科で活躍したが、
いまは音楽家竹岡信幸氏の夫人で
2男の母である。

この2人の学友とは今でも交遊をつづけている。
(筆者は衆議院議員)
 p6【東京オリンピック (26)】1964-06
p6【東京オリンピック (26)】1964-06
https://dl.ndl.go.jp/pid/1860461/1/6
発行所
東京都港区赤坂1の1(旧赤坂離宮)
電話 東京402局 1964(代)
オリンピック東京大会組織委員会
発行・編集者 与謝野 秀
昭和39年6月25日発行
https://dl.ndl.go.jp/pid/1860461/1/12
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《三浦環》私の日記から③【慰問之栞】昭和16年(1941.3)

【慰問之栞】昭和16年(1941.3)
出版者   陸軍恤兵部
出版年月日 1941.3
 p10【慰問之栞】昭和16年(1941.3)
p10【慰問之栞】昭和16年(1941.3)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906754/1/10
   私の日記から 三浦環③
  十二月二十七日
  ※昭和15年(1940)12月27日
今日はがつかりした。
お醫者樣が御診察の時に、
私の腹部は盲腸の所にシコリが出來てゐて、
これが膿をもつてゐるから、
まだ暫らくは氷で冷して
安靜にしておかなくてはならぬ。
お正月は病院で寝たまゝに迎へるのだとの事。

でも今日からスープ、片栗、
オモユが許され果物の汁などを
いたゞける事になつた。
私のお腹の上には澤山ガーゼのぬれたのと
氷嚢がのつてゐる。
これが良い心持とは情けない事だ。

皇軍慰問に行つた一行は、
私の他に七人ゐたが、
皆病氣になつて
私一人はピンピンしてゐたので、
皆の病氣になるのを不思議にも思ひ
不甲斐なくも思つてゐたのだ。
つい二十二日の夜も、
私は音樂會に出て唱つてピンピンしてゐたのに。
何といふことであらう。

  十二月二十八日
  ※昭和15年(1940)12月28日
今日は本當ならば私の家に
女芝居の坂東勝次一座が來る筈だつた。
私の母が八十三の年を越しますお祝ひと、
私が皇軍慰問で
無事にかへつて來た事を兼ねての催しである。
先代萩の飯焚の處と、
加賀見山のお初の忠義のところを
全體で五幕にしてやる豫定で、
學園の生徒達も來る筈だつた。

昨年催した時傷病兵の御方々をお呼びしたが、
いづれは此の芝居を戰地にも持つて行つて、
見せてあげたらお喜びであらうなどとも考へてゐた。
けれども私が此のやうな有樣なので
それはやめになつた。

此の病院に入院してゐた可愛いお孃ちゃん二人が、
お手製の美しい千代紙で作つた藥玉を二ツ、
私の所へ持つて來てくれた。

私の部屋は花だらけ。
梅と福壽草、小松などの取り合せた鉢植はとても可愛い。
これは學園の生徒がくれたのだ。

皆が
『やはり皇軍慰問の過勞で病氣になられたのでせう』
と申される。
私はそれを聞くのがつらくてたまらない。
だつて私はまだまだ出來るなら、
方々へ兵隊さんの居られるところに
お見舞に行きたいのですもの。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906754/1/141
私が皇軍慰問をして一番嬉しかつたのは、
自分の獨唱が濟んで、
最後に兵隊さん達が一同で
愛國行進曲を唱つて下さつたことだつた。

あゝ‼
なつかしい、あの大きな勇ましいお聲、
天をも地をも轟かせるあの聲。

私は今これを書きながら、
あの兵隊さんの忠義のかたまりのやうな
お聲を此の身一杯に感じる。

私の眼は涙にぬれて、
枕の上にはポトポトと
小さな涙の音さへたててゐる。
私はあの時、
此の腕を大きく振つて、
身にはお蝶夫人の衣裳をつけながら、
力の限り無心に指揮をしてゐたのだ。

萬歳々々とお互ひに叫んだ。
有難う有難うと兵隊さんが申された。
環さん環さんと呼んでゐた人もあつた。
自分の持合せの慰問袋の罐詰やハンケチ、
お菓子など取り揃へて、
私の所へお禮に持つて來て下さる方もあつた。

私は又きつと全快して慰問に行き度いのです。
兵隊さんたちが懐かしいのです。
『きつと行きます』
と私は心中云ひつヾけて居る。
(昭和十五年十二月二十八日
 東京麴町 九段坂病院
 三號室のベッドの上で)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906754/1/142
慰問之栞  (非賣品)
(陣中倶樂部 特別號)
昭和十六年三月一日印刷
昭和十六年三月十日發行
發行者 陸軍恤兵部
    東京市麴町區永田町
編輯兼 株式會社 大日本雄辯會講談社
印刷者 東京市小石川區音羽町三丁目十九番地
印刷所 凸版印刷株式會社
    東京市下谷區二長町一番地
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《三浦環》私の日記から②【慰問之栞】昭和16年(1941.3)

【慰問之栞】昭和16年(1941.3)
出版者   陸軍恤兵部
出版年月日 1941.3
 p9【慰問之栞】昭和16年(1941.3)
p9【慰問之栞】昭和16年(1941.3)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906754/1/9
   私の日記から 三浦環②
  十二月二十六日
  ※昭和15年(1940)12月26日
今日は好いお天氣。
朝から學園の子供達が見舞に來た。
藤原さんが驚いて電話をかけて來た。
藤原義江
私の母は八十三歳だが、
今朝家からお砂糖だの紅茶など持つて
婆(ばあ)やと二人で來てくれた。

いろいろな美しいお花の中に、
宇野千代さんから下さつた薔薇は、
特別に眞赤で、
未だ蕾ばかり。
とても可愛らしい。

私は本年中には退院は出來さうもない。
たゞベッドに寝ながら考へてゐる。
と何時も思ひは戰地の兵隊さんの事ばかり。
私は病院でお正月を迎へるけれど、
何不自由のない此のお部屋。
病の痛みの外には、
何の恐ろしいものもないのに、
戰地にお働きの皆さまは、
ほんとに片時も
油斷の出來ぬお正月をなさるのだ。
兵隊さんがたの事を想ふと、
私はいつも眼が熱くなる。

その頃の思ひ出――

櫻井大佐殿が、
朝私の食事をしてゐる所へ來られて、
『オイ唱うてくれ』と仰しやつた。

其の時大佐殿を見上げたら、
私のお腹のやうな大きなお腹をつき出して
にこにこして居られたけれど、
作戰御出發の前の五分間をさいて、
私の聲を聞きに來られたとの事なので、
私は嬉しさのあまり一生懸命に
愛國行進曲を唱うた。
歌の進むにつれて大佐殿は泣いてしまはれた。
『もう一度唱うてくれ』
との御命令。
私もやつぱり泣いてしまつて、
泣きながらもう一度繰返して唱つてあげた。
『よく唱うてくれた。有難う。
 どうか其熱意ある歌を、
 一人でも多くの兵隊に聞かせてくれ。
 自分は大君の御爲には命はいらぬ。
 妻も子もいらぬ。』
と言はれた。

大佐殿は部下の少尉殿に手傳つて貰つて、
其暇にすつかり服をお着けになり、
白い手袋をはめて自動車に乘られた。
あれから飛行機で戰地にゆかれたのだ。
私は見送りながら、
あゝこれでこそ我が國は萬々歳だと思つた。

成田中佐殿はよく達磨樣の繪をお書き遊ばした。
私共一行が汽車の事故で夜中まで目的地につかれず、
やつと宿についたら、
其の達磨樣を畫いた軸物が書けてあつたので、
なんとなくほつとして救はれた氣持がした。

林田部隊長殿にお目にかかつた時は
あたかも生きたお芝居の英雄のやうに思つた。
丁度〇〇に行つて歸られたところであつた。
『軍人は一に戰死、二に暗殺、
 三に頓死、四は疊の上だ』
と仰しやつて居られた。
お鬚が立派で、お顔が眞黑で、テカテカで、
生き生きとして居られた。
『向ふの橋まで昨夜敵が來ましたが、
 機關銃でパンパンやつたら逃げました』
との事。
『エツ、では私の慰問會はどうか
 晝間にして下さいませね』
とお願ひした。
夜は電氣
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906754/1/140
などないので眞暗なのだ。
三四百人も死骸が浮いて居たと云ふお池からは、
夜は燐が燃えてゐた。
お便所に行く時が恐ろしかつた。

その翌朝。
皆樣はお馬に乘られて
私達を見送つて下さつた。

護衞の兵隊さん達の乘つて居られる船で河を下つた。
見送りに來て下さつた馬上の將校たちは、
岸に沿つてトツトツと船と竝んで歩かれた。
とても勇ましいお姿であつた。
私達はハンケチを船から振り振り、
サヨーナラー サヨーナラー
御機嫌ようと申した。
あの時も私達の船は匪賊におそはれずに、
無事に次の土地についたのだつた。

筒井部隊長殿にお目にかかつた時は、
御自分のお部屋を一行にお貸し下さつた。
兵隊さんのお手製のお料理、
とてもおいしかつた。

其の夜は月夜で、
トーチカから敵の居ると言ふ所を見た時は、
胸がドキドキした。

部隊長殿が
『好く第一線まで行つて下さつた』
とお褒め下さつた。
また丸山部隊長殿から
名譽なる感謝狀を戴いたのもあの時だつた。
それは私の一生のお寶となつた。

それから土戸隊長殿の御自慢のいかめしい城門。
あの門の所で、
『今聞える砲聲はどこかなあ』
と双眼鏡を取り上げて見て居られたが、
其の側には辨慶のやうな髭むしやの
伍長さんも居られた。
私は敵の彈でも來やしないかと云ふおそれよりも、
此の勇ましい軍人のお姿に見入つてしまつたのだつた。

オリンピック三段跳
世界第一位選手の田島直人さんも
此處の兵隊であつた。

阿部中尉殿は柔道六段とか、
好いお體格、併も立派なお人格。
私が梯子段から滑つた時には
田島さんが受止めて
阿部さんがエキホスを船まで
わざわざ持つて來て下さつた。

漢口の三谷洋食喫茶店の主人は
もと兵隊さんだつたとか
私のマネージャー井上の親友で、
井上元佶
とても一行の者を親切にして下さつた。
あのお店で御馳走になつてゐるとき
お船で御一緒であつた
中村少尉殿がお茶を飲みに上官と一緒に來られた。
お氣の毒にも中村少尉殿は
それから一週間もたゝぬうちに
戰死せられた。

あゝ‼
多くの尊い英靈、
生々しく眞赤に血ぬられた靑い顔、
手、服はズタズタに破れ、
御足は片方だけになつてゐられる方もある。
私はトラツクに横たはつたお亡骸の
御前に幾度か跪づいた事だらう。

此の仇はきつと御戰友がとつて下さいます。
――と手を合せた。
そして思はず聲をたてゝしまつた。
『私の此の合掌はあなたがたのお母樣の
 御手むけでございます』
と申し上げて、
泣いて泣いて泣きくづれたのだつた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906754/1/141
慰問之栞  (非賣品)
(陣中倶樂部 特別號)
昭和十六年三月一日印刷
昭和十六年三月十日發行
發行者 陸軍恤兵部
    東京市麴町區永田町
編輯兼 株式會社 大日本雄辯會講談社
印刷者 東京市小石川區音羽町三丁目十九番地
印刷所 凸版印刷株式會社
    東京市下谷區二長町一番地
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《三浦環》私の日記から①【慰問之栞】昭和16年(1941.3)

【慰問之栞】昭和16年(1941.3)
出版者   陸軍恤兵部
出版年月日 1941.3
 p2【慰問之栞】昭和16年(1941.3)
p2【慰問之栞】昭和16年(1941.3)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906754/1/2
   私の日記から 三浦環①
  十二月二十四日
  ※昭和15年(1940)12月24日
紀元二千六百年も終りに近い師走の夕方。
私は東京の住居に近い、
靖國神社のお側にある九段坂病院に、
昨日から入院した。
私が病氣なんてほんとに珍らしい。

實は昨日、
急に腹部に云ふに云はれぬ痛みを感じたので、
三浦謹之助先生に御診察を受けると
之は盲腸炎との事で、
早速此處に入院した。
腹部を氷で冷したら、
痛みは不思議になくなったのでもう安心。
手術はしない事にした。
かうして病院に居ると、
先日御慰問に參つた時、
あの鮮血したゝる體を擔架に乘せられて、
兵舎に歸へつて來られた
お方々の事が思ひ出される。
あの方々のうちには、
手おくれで出血の爲に
死なれた方もありはしないかと、
つくづく思はれて來る。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906754/1/139
自分がこんなに容々(やすやす)と入院出來て、
病院で何不自由なしにしてゐるのが
濟まないやうな氣がする。
たゞ私はあと一週間ぐらゐは安靜にして
居ねばならぬので、
退院は未だ出來ない。
腹部を手術されては、
大きなお腹(なか)だから
ひよつと勝手が違つて、
もしもお醫者樣が切りそこなふと
いけないと思つて、
手術だけはやめることにした。

夢を見た事のない私が、
かうして病院に居ると
大聲で獨唱をしてゐる所ばかり夢に見る。

今日はもう物が食べたくて
お饅頭の夢を見てしまつた。

何時か上海から南京へと汽車で參つた時に、
匪賊が鐵道を破壊したので、
私共は夜中の十二時まで飲まず食べずだつた。
持ち合せのパンや菓子は、
その朝、
鐵道守備の兵隊さん達に皆差上げたので
もう何もない。
一同の者の中には
『皆の顔がパンに見える』
なんて云つてゐた人もあつた。
あの時は、
私はそれどころか恐ろしかつた。
支那人がやつて來たら、
どうしようと考へてゐた。
けれど、
兵隊さん方に護られて
何の支障もなく旅をつゞけた。
ほんとに私は今更ながら、
兵隊さんにお禮を申し上げたい。

(昭和15年)九月二十日に東京を出發して、
(昭和15年)十一月十九日歸京するまで、
私は自分も兵隊さんになつた
やうなつもりであつた。
とてもとても愉快であつた。
ローソクの火のついてゐる
宿舎に泊らせていたゞいた時は、
兵隊さん達のお目が
惡くなるだらうと思つたりした。

晝間〇〇の野外で私が唱うた時には、
汚い樣子をした支那人達が、
ウヂヤウヂヤと、
大人も子供も幾千人も、
私の獨唱を聞きに來た。
その夜私が支那の芝居を見に行つたら、
支那人が皆でサンプーカン
サンプーカンと言つて、
手をたゝいて
私に木戸のお金を拂はせなかつた。
サンプーカンと云ふのは、
三浦環の事ださうだ。
あの時私はとても嬉しかつた。
たつた一度の獨唱で
こんなに親しむ事が出來るなら、
いつそ私は重慶まで行つて、
毎日音樂會でも出來たらならば、
きつと蒋介石の宋美齡も
自然に靡くのではないかしらと思つた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906754/1/140
慰問之栞  (非賣品)
(陣中倶樂部 特別號)
昭和十六年三月一日印刷
昭和十六年三月十日發行
發行者 陸軍恤兵部
    東京市麴町區永田町
編輯兼 株式會社 大日本雄辯會講談社
印刷者 東京市小石川區音羽町三丁目十九番地
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《石丸五郎》日本コロンビア蓄音機(株)新京支店長【大衆人事録 第14版】昭和18年

【大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇】昭和18年
著者    帝国秘密探偵社 編
出版者   帝国秘密探偵社
出版年月日 昭和18(1943)
《石丸五郎》正八 陸軍少尉
 日本蓄音機商會(株)新京支店長
 日本コロンビア蓄音機(株)新京支店長
 新京特別市中央通四〇ノ二
 電話三ノ五八九七
【閲歷】愛媛縣
明治卅年(1897)二月十八日生る
大正十一年(1922)早大商科卒業
三ツ引商事勤務を經て
昭和四年(1929)現社入社
名古屋・大連・奉天
各支店歷勤
昭和十四年(1939)現職
宗敎 眞言宗
趣味 運動・打球
【家庭】
妻  琴 子 明治四〇年(1907)
       末吉 長女 愛知縣立專門卒
長男 哲 郎 昭和一五年(1940)
長女 伊都子 昭和 八年(1933)
p451【大衆人事録 第14版・満支篇】昭和18年
p451【大衆人事録 第14版・満支篇】昭和18年
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【早稲田大学校友会会員名簿 [昭和10年用]】
出版者   早稲田大学校友会
出版年月日 1934.12
《石丸五郎》大正11年 大 商 愛媛
勤務先 日本コロンビア蓄音機會社 大連支店
    大連市山縣通
住 所 日本コロンビア蓄音機會社 大連支店
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【早慶紳士録:職域別 昭和25年度版】
著者    早慶出版会 編
出版者   早慶出版会
出版年月日 1949
《石丸五郎》
早稲田ラグビーOBクラブ參與
通商産業省(早稲田・大正一一年)
東京大田区馬込東四ノ七〇
https://dl.ndl.go.jp/pid/1160891/1/109
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《小野田康一》早稲田ラグビーOBクラブ【早慶紳士録:職域別 昭和25年度版】

【早慶紳士録:職域別 昭和25年度版】
著者    早慶出版会 編
出版者   早慶出版会
出版年月日 1949
《小野田康一》
早稲田ラグビーOBクラブ
日本電機製造(早稲田・商科・大正一二年)
神奈川縣北鎌倉山ノ内五四九 自宅
p111【早慶紳士録:職域別 昭和25年度版】
p111【早慶紳士録:職域別 昭和25年度版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/1160891/1/111

【日本ラグビー史】昭和39年(1964)
出版者   日本ラグビーフットボール協会
出版年月日 1964
 青山学院
早大O・B・の小野田康一を
コーチに招いてチーム作りに専念し、
翌(大正)14年の春になって学友会の一部に認められた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2505473/1/68
 ◎実業団の草分
その草分とみるべきは、
大正13、14年ごろ
早大出の小野田康一がつくった
東京電気(マツダランプ)、
大町清のつくった愛国生命、
慶応出の北島辰蔵のつくった常盤生命などであろう。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2505473/1/82
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《井上元佶》三浦元佶(三浦環の支配人)【会員名簿】昭和33-40年度版早稲田大学校友会

《井上元佶》三浦元佶(三浦環の支配人)
三浦 環のマネージャー
早稲田大学
昭和13年(1938)卒業
専門部商科(第2部)
ラグビー部OB
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徳富蘇峰記念館
人物名 井上元佶
職 業 三浦環の支配人
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【会員名簿 昭和33年】昭和33年(1958)
出版者   早稲田大学校友会
出版年月日 1958
三浦 元佶 (旧姓 井上)
昭和13年 専 商
親和広告 取締役
品川区小山町六の三九一
三島荘
p556【会員名簿 昭和33年】昭和33年(1958)
p556【会員名簿 昭和33年】昭和33年(1958)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580678/1/556

【会員名簿 昭和36年度版】昭和37年(1962)
出版者   早稲田大学校友会
出版年月日 1962
三浦 元佶
昭和13年 専 商
日本電位療法研究所
鎌倉市山之内九一〇
電話 高野三〇一九
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580865/1/635

【会員名簿 別冊(学科年度別)】昭和38年(1963)
出版者   早稲田大学校友会
出版年月日 1963
専門部商科
https://dl.ndl.go.jp/pid/9544635/1/109
昭和一三年(第一部)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9544635/1/114
昭和一三年(第二部)
三浦 元佶(旧姓井上)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9544635/1/115

【会員名簿 昭和40年度版】昭和41年(1966)
出版者   早稲田大学校友会
出版年月日 1966
昭和13年 専門部商科
  第1部
https://dl.ndl.go.jp/pid/11622692/1/497
  第2部
https://dl.ndl.go.jp/pid/11622692/1/498
昭和13年 専門部商科
三浦 元佶〔井上〕
日本電位療法研究所
鎌倉市山之内910
https://dl.ndl.go.jp/pid/11622692/1/499
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《三浦元佶》三浦環の相続人【著作権者名簿 昭和35年度版】

【著作権者名簿 昭和35年度版】昭和35年(1960)
出版者   著作権資料研究協会
出版年月日 1960
三浦 環  1946年死亡
相続人   三浦元佶
作詞・作曲 品川区小山町6-391
 p240【著作権者名簿 昭和35年度版】
p240【著作権者名簿 昭和35年度版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/3430434/1/240

【信託者名簿】昭和40年(1965)
著者    日本音楽著作権協会資料部 編
出版者   日本音楽著作権協会
出版年月日 1965
三浦 環(1946年死亡) 詞・曲
相続人  三浦元佶
品川区小山町6-391 三島荘
 p103【信託者名簿】昭和40年(1965)
p103【信託者名簿】昭和40年(1965)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2933862/1/103
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《井上元佶》三浦環の養嗣子・遺産贈与証書【一等女性十人の恋】昭和30年(1955)

【一等女性十人の恋】昭和30年(1955)
著者    古谷綱正 著
出版者   東西文明社
出版年月日 1955
 国際的な恋愛行脚・老いぬ蝶々夫人
 三浦 環
https://dl.ndl.go.jp/pid/2972010/1/17
戦争が終りに近づいた昭和十九年の秋、
環は山中湖畔の自宅から上京、
三田の実弟柴田衣千郎宅に移った。

四年前から環のマネージャーをしており、
その最後の愛人といわれている
井上元佶がつきそっていた。

環はここで
「私の成功のためによく犠牲になった弟へ」
という言葉をそえて、
自分の財産目録と正式の贈与證書を衣千郎に与えた。
ところが衣千郎は元佶をきらい
「若い男を同居させるのは世間態が悪い」
といって退去を求めていた。

戦争は環の期待に反して敗戦に終った。
蝶々夫人を封じた誓はもう必要がなくなったが、
https://dl.ndl.go.jp/pid/2972010/1/25
環は再びうたうには、あまりに老いていた。
その頃から下腹部にできた腫瘍が、
だんだん悪化してきた。

衣千郎、元佶の板ばさみに悩んでいた環は、
昭和二十一年、元佶のすすめをいれ、
弟の家を出て元佶の知人である
玉川上野毛の大東学園病院に入院した。
衰弱は日ましに激しく、
十八貫あった身体は半分の九貫になってしまった。

最後の思い出にと、
四月十三日
NHKのマイクを病室に持ちこんで
蝶々夫人をうたった。
看護婦にささえられてベッドにすわり、
もとは手首にくいこんでいた腕輪が、
いまにも抜け落ちそうな手を医師にとられて、
環は最後の思いをこめてうたった。
その声もさすがに低く、
いたいたしかった。

環は五月二十六日に死んだ。
六十三才であった。

六月七日、日比谷公会堂で
盛大な音楽告別式が行われた。
宮中から祭祀料が贈られ、
時の文相田中耕太郎が弔辞を読んだ。

遺体は東大病理学教室で解剖されたが、
その声帯は二十二、三才の
若い女性と変りはなかった。
環の咽喉は、
東大耳鼻科教室に永久に保存されている。

環の波瀾に富んだ生涯は閉じられたが、
その余波はなお尾をひいていた。
衣千郎と元佶の間で遺産争いが起ったのである。
元佶は環の死の直前、
その養嗣子となり三浦姓を名のっていた。
そして衣千郎と同様
正式の遺産贈与証書を持っていた。
しかも三カ月も日付が新しかった。
大東学園病院で書かれたものである。

これに対して衣千郎は
「すでに環が意識不明に陥ってから
 書かせたものだ」
といい、
元佶は
「芸術に理解のない弟をきらって
 臨終直前に変更した」
と主張している。
これは、ついに訴訟沙汰にまで進んだが、
すでにそれは環とは関係ないことである。

昭和二十七年五月二十六日、
環の七回忌に上野寛永寺境内に建てられた
記念碑の除幕式が行われた。

蝶々夫人を記念して、
蝶々に形どった変った記念碑であった。
その碑の前で、
環の形見の衣裳をつけた弟子の小林伸江が
蝶々夫人のアリアをうたった。
その前に供物がならび、
左右にケサをかけた坊さんが
四、五名ひかえていた。
まことに異様な風景であった。

かつて環が、夫の墓石にすがって
哀悼の歌をうたった一場面が、
大げさな芝居といわれたが、
皮肉にもそれと同様のことが、
再現されたのである。
p26【一等女性十人の恋】昭和30年(1955)
p26【一等女性十人の恋】昭和30年(1955)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2972010/1/26
古谷綱正
1912年東京に生まる
京都大学文学部卒業
現在 毎日新聞社論説委員
本稿は、雑誌「人物往来」に
掲載したものである。
一等女性十人の恋
昭和30年3月31日 第一刷発行 ¥120
著 者 古谷 綱正
発行者 小嶺嘉太郎
印刷所 株式会社 上野印刷所
    東京都墨田区緑町1-10
発行所 株式会社 東西文明社
    東京都千代田区丸ノ内2-2 丸ビル
https://dl.ndl.go.jp/pid/2972010/1/103
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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