資料:柴田和志

《柴田金三郎》満洲事変と師団・右翼団体の戦争宣伝【京都地方労働運動史】1959

【京都地方労働運動史】1959
著者    渡部徹 編著
出版者   京都地方労働運動史編纂会
出版年月日 1959
 p3【京都地方労働運動史】1959
〔画像〕p3【京都地方労働運動史】1959
https://dl.ndl.go.jp/pid/3029459/1/3
   Ⅰ 満洲事変と師団・右翼団体の戦争宣伝
府会議員選挙戦最中の
昭和六年九月一八日
柳条溝事件をきっかけに、
満洲事変が勃発した。
 ―略―
右翼団体も、
愛国勤労党京都支部(福島佐太郎)・
興国青年同盟は一〇月二三日
内閣・軍部に
「満洲撤兵絶対反対・満洲の軍事的管理断行・
 国内売国奴の膺懲的掃滅」を要請し
(日出新聞、一〇・二五)、
かつてのアナーキスト柴田金三郎は
事変に感奮したと称して
一〇月二六日神州報国会を結成、
満洲軍慰問活動を行うとして時流に投じた。

また一二月一日には
笹川良平(笹川良一)の国粋大衆党が京都支部を設置した。
p515 【京都地方労働運動史】1959
〔画像〕p515 【京都地方労働運動史】1959
https://dl.ndl.go.jp/pid/3029459/1/515
一九五九年一二月一六日 印刷
一九五九年一二月二一日 発行
 京都地方労働運動史
  定価二、五〇〇円
編著者 渡部  徹
発行者 朝田善之助
印刷所 明文舎印刷株式会社
    京都市上京区今小路御前西入
製本所 株式会社 兼文堂製本所
    新生製本株式会社
発行所 京都地方労働史編纂会
    京都市左京区吉田牛ノ宮町
    京都大学人文科学研究所分館内
発売元 三月書房
    京都市中京区寺町二条上
    (振替六九六六)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3029459/1/814
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《柴田金三郎》日本勤労党・京都青年同盟の創立【京都地方労働運動史】1959

【京都地方労働運動史】1959
著者    渡部徹 編著
出版者   京都地方労働運動史編纂会
出版年月日 1959
 p3【京都地方労働運動史】1959
〔画像〕p3【京都地方労働運動史】1959
https://dl.ndl.go.jp/pid/3029459/1/3
  二 右翼団体の再編成
   Ⅰ 国粋会の解体と立憲国粋党の結成

   Ⅱ 日本勤労党・京都青年同盟の創立
ついで(昭和2年)八月二八日、
三条青年会館で日本勤労党が結成された。

参加団体は
洛陽自治青年同盟・仁和革新団・建築青年同盟・
共助会・義勇青年同盟・印刷工有志・
京都運搬労働者組合・露店組合有志で、
アナーキストくずれと
バクチ打ちの親方が中核をなしていた。

印刷工の柴田金三郎も顔をならべていた。
「日出新聞」(昭和二・八・二八)によれば、
その綱領と政策はつぎのとおりであった。
p255 【京都地方労働運動史】1959
〔画像〕p255 【京都地方労働運動史】1959
https://dl.ndl.go.jp/pid/3029459/1/255
一九五九年一二月一六日 印刷
一九五九年一二月二一日 発行
 京都地方労働運動史
  定価二、五〇〇円
編著者 渡部  徹
発行者 朝田善之助
印刷所 明文舎印刷株式会社
    京都市上京区今小路御前西入
製本所 株式会社 兼文堂製本所
    新生製本株式会社
発行所 京都地方労働史編纂会
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発売元 三月書房
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《柴田金三郎》京都印刷工組合とアナーキズム【京都地方労働運動史】1959

【京都地方労働運動史】1959
著者    渡部徹 編著
出版者   京都地方労働運動史編纂会
出版年月日 1959
 p3【京都地方労働運動史】1959
〔画像〕p3【京都地方労働運動史】1959
https://dl.ndl.go.jp/pid/3029459/1/3
  第六章 運動再興の兆し
   一 共産主義思想の進出と
     京都の共産党
   Ⅰ アナ・ボルの対立
https://dl.ndl.go.jp/pid/3029459/1/120
   Ⅱ 京都印刷工組合とアナーキズム
印友会は大正一一年四月
総同盟と思想的にはっきり対立することになったが、
しかしこのとき組織的には印友会もガタガタで、
かつての長老森田・上原らは姿を消してしまっていた。

そこで西川金次郎らは、
信友会等の全国の印刷工組合と提携し、
アナの立場をはっきりさせた
新組合を創立すべしと主張し、
大正一一年五月
京都印刷工組合を結成した。

この組合は会長に日出新聞社植字工で
アナーキスト藤本岩夫をあげたのをはじめ、
西川・野村伴・福島佐太郎ら
アナーキストが完全に指導権を握っていた。

それ故この組合は
「関西労働組合同盟」に所属する一方、
信友会等とも密接に連絡をとり、
翌大正一二年五月、
それらとともに
「印刷工連合」を結成するのである。

もちろん組合としても、
別にみるように大正一一年一一月
日出新聞社争議で大いに気勢をあげるが、
それ以上に、
この組合は京都における
アナーキズム運動の拠点として、
特異な役割を果したのである。

とくに、
この組合の基幹分子福島・野村らは、
組合創立前後より、
アナーキスト柴田金三郎・笹井末次郎らとともに、
印刷工組合会長藤本岩夫の住む
上の下立売千本辺の人見温泉にたむろして、
恰も一城を形成している如くであった。

このうち柴田金三郎は、
昭和に入ると神州報国会なる右翼団体をつくり、
ストライキ破りを専門とするようになるが、
彼はもともと
「雷団」という不良少年グループの団長で、
たまたま警察の留置場で
アナーキストの警官を恐れぬ
ヒロイックな態度に感心し、
このグループに接近して来たのであった。

しかし別段思想的にそれほど影響を受けた
というわけではなく、
またグループの方でも
彼はビラまきなどに便利だというので
利用するという程度であった。

また笹井は千本の大親分荒寅の息子で、
これまたデカダンスな生活と
ヒロイズムに陶酔して加わってきた。

この外
永田雅一(現大映社長)や国島泰次郎も出入し、
上田蟻善も表面にはでなかったが、
この仲間の面倒をよくみていたという。
(西川金次郎・高地伝次郎談)
p121【京都地方労働運動史】1959
〔画像〕p121【京都地方労働運動史】1959
https://dl.ndl.go.jp/pid/3029459/1/121
一九五九年一二月一六日 印刷
一九五九年一二月二一日 発行
 京都地方労働運動史
  定価二、五〇〇円
編著者 渡部  徹
発行者 朝田善之助
印刷所 明文舎印刷株式会社
    京都市上京区今小路御前西入
製本所 株式会社 兼文堂製本所
    新生製本株式会社
発行所 京都地方労働史編纂会
    京都市左京区吉田牛ノ宮町
    京都大学人文科学研究所分館内
発売元 三月書房
    京都市中京区寺町二条上
    (振替六九六六)
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年02月26日07:50
《チャー坊の父・柴田金三郎氏》
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
チャー坊の父・金三郎は三重県の、
母・“つぎ”は京都の出身です。
 ―略―
父は初めアナーキスト(無政府主義者)
だったらしいのです。
ところが、
ご存じのように弾圧が非常に厳しくて
常に特高に追われている状態で生活していたのが、
あるとき昭和の初めぐらいに転向して、
内田良平に師事した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[民族運動社]主幹 加藤 昭(別名 加藤矩敏)国民運動社 柴田金三郎門下【大右翼史 増補】1974

【大右翼史 増補】1974
著者    荒原朴水 著
出版者   大日本一誠会出版局
出版年月日 [1974]
 p3【大右翼史 増補】1974
〔画像〕p3【大右翼史 増補】1974
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/3
  二一八  民族運動社
結成年月日  昭和三十年八月頃
事務所所在地 京都市東山区福稲高原町五
主要役員
 主 幹   加藤  昭
      (別名 加藤矩敏)
 組 織   下部組織数 なし
 機関誌紙  なし
 塾・道場、青年隊等 なし
 目 的
「民族自立の精神に徹し、
 一切の不正不義を排除し、
 世界の恒久平和と日本民族の完全独立、
 共同福祉、国民の自由と人権の守護、
 愛と正義に基づく政治の実現、
 能率的経済社会の建設、
 国民生活の安定などを期す」
と標榜している。
 性 格
国民運動社
柴田金三郎門下であった加藤昭が、
独立して結成した団体である。
同人はさらに自己の門下をそれぞれ
民族青年隊、洛誠会、敷島同志会として
独立させている。
活動時には三団体から動員することが多い。
 p821【大右翼史 増補】1974
〔画像〕p821【大右翼史 増補】1974
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/821
 主要活動
主幹 加藤昭は、
三曜会の一員として
昭和三十九年六月
大丸京都店における
中国経済貿易展に対する抗議活動、
同年八月
原水禁世界大会反対運動、
昭和四十一年六月
日教組大会反対活動を行なったが、
昭和四十一年十月十二日
名古屋地裁において恐喝罪により
懲役二年六カ月、
同年一一月二十六日
京都地裁において暴行傷害罪により
懲役八カ月の判決を受け、
同年十二月から京都刑務所にて服役した。
最近では、
昭和四十六年七月の日教組大会反対運動に参加したほか
みるべき活動はない。
 主要関係団体
傘下に民族青年隊、洛誠会、敷島同志会がある。
 p822【大右翼史 増補】1974
〔画像〕p822【大右翼史 増補】1974
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/822
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[救国青年隊]隊長 鈴木棟夫:国民運動社主 柴田金三郎が在京都任俠団体関係者をもって組織【大右翼史 増補】1974

【大右翼史 増補】1974
著者    荒原朴水 著
出版者   大日本一誠会出版局
出版年月日 [1974]
 p3【大右翼史 増補】1974
〔画像〕p3【大右翼史 増補】1974
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/3
  二九 救国青年隊
結成年月日  昭和二十八年七月十二日
事務所所在地 京都市伏見区深草一九軒町
主要役員
 隊 長   鈴木 棟夫
 組 織   下部組織数 なし
 機関誌紙  なし
 塾・道場、青年隊等 なし
 目 的
「天皇を日本民族の統帥者と仰ぎ、
 反共救国運動を展開し、
 共産革命を防止するために
 非日本的反動勢力たる
 日本共産党の撲滅を期す」
ことを標榜している。
 性 格
国民運動社主
柴田金三郎(昭和四十一年死亡)が、
同社の青年隊として
在京都任俠団体関係者をもって組織し、
さらに昭和三十七年四月
博徒 寺村組組員を主力として
再編した団体である。
 主要活動
昭和四十二年九月
「隊結成一五周年記念会」を開催し、
昭和四十四年六月
日教組大会反対活動に参加したほか
みるべき活動はない。
 主要関係団体 なし
 p794-2【大右翼史 増補】1974
〔画像〕p794-2【大右翼史 増補】1974
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/798
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[救国時報社]主幹 川添嘉久(別名 川添正人)国民運動社主 柴田金三郎門下【大右翼史 増補】1974

【大右翼史 増補】1974
著者    荒原朴水 著
出版者   大日本一誠会出版局
出版年月日 [1974]
 p3【大右翼史 増補】1974
〔画像〕p3【大右翼史 増補】1974
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/3
  二八 救国時報社
結成年月日  昭和三十五年十一月一日
事務所所在地 京都市伏見区桃山町三河五八の一〇
主要役員
 主 幹   川添 嘉久
      (別名 川添正人)
 情宣部長  西田 栄吉
 組 織   下部組織数 なし
 機関誌紙 「救国時報」
      (不定期刊紙 約一、〇〇〇部)
 塾・道場、青年隊等 なし
 目 的
「天皇を日本民族の統帥者と仰ぎ、
 反共救国運動を展開し、
 共産革命を防止するために
 非日本的反動勢力たる
 日本共産党の撲滅を期す」
ことを標榜している。
 性 格
博徒中島会の一員であった
川添嘉久が前国民運動社主
柴田金三郎門下に入り、
柴田の指導で結成した団体である。
 主要活動
機関誌「救国時報」で、
中国、日共、公明党等を批判するなど
文書による反共活動を行なっているほか、
昭和四十六年
日教組大会反対活動に参加した。
 主要関係団体
全愛会議、全京都愛国運動協議会に
主幹 川添嘉久が加盟。
 p794-1【大右翼史 増補】1974
〔画像〕p794-1【大右翼史 増補】1974
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/798
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《柴田和志》チャー坊は裏のスターだった:鈴木創士[ジュリーがいた:沢田研二、56年の光芒]島﨑今日子

 ジュリーがいた-表紙
〔画像〕ジュリーがいた-表紙

その頃、木村は京都大学の西部講堂で
ロックコンサート「MOJO WEST」を
スタートさせようとしていた。
中井は、そこをPYGのデビューの場にしたいと言った。

「あの頃の西部講堂は、
 ヘルメットやゲバ棒、火炎瓶が転がり、
 バリケードで覆われた京大の象徴だった。
 そこにPYGを出すというんやから、
 やっぱり、中井さんは並のマネージャーじゃなかった。
 おかげで僕は、反体制を標榜する京都の学生たちから
 『商業主義ナベプロの回し者だ』
 と批判されるんやけど」

全共闘運動は撤退期に入っていたが、
京大では「過激派」による抵抗と闘争が激化していた。

伝説的な演劇やコンサートが開催された
場所として知られる西部講堂のシンボルは、
大屋根の赤い三つの星であった。
この星は、七二年五月にテルアビブ空港を襲撃した
三人のために描かれたという説がある。

生き残ってイスラエルの軍事裁判にかけられた
岡本公三以外の二人、
死亡した奥平剛士と安田安之は
京大工学部の学生だった。

PYGが西部講堂に立ったのは、
京大周辺に常時パトカーが止まっていた時代である。

七一年三月二十日、
京大西部講堂で開かれた
「第一回MOJO WEST」は
二つの伝説的バンドが登場したコンサートとして
ロックファンに長く記憶されている。

ひとつはPYGであり、もうひとつは、
木村が一時、プロデュースした村八分である。

日本語でロックをやるという試みが
同時多発的に生まれた時期で、
村八分もそうした先駆的存在、
コマーシャリズムに乗ることに
徹底的に抵抗した
アンダーグランドのバンドであった。

四九年生まれの
元ダイナマイツの天才ギタリスト、
山口冨士夫と、
腰まで髪を伸ばした
五〇年京都生まれのヴォーカル、
チャー坊、柴田和志が中心で、
マニアックなファンを集めた。

「目がジュリーに似てる」
と自称していた五二年生まれの作家、
中島らもも村八分のために
西部講堂に足を運んでいる。

中島はもういないので、
彼の盟友、五四年生まれの作家、
鈴木創士が語る。

「チャー坊の髪の毛の長さに、
 らもは憧れていました。
 ドロップアウトした時間そのものだから。
 みんな、吸血鬼みたいなメイクして、
 山口冨士夫のギターはめちゃくちゃうまかった。
 コンサートは野次る客席の新左翼と
 すぐに乱闘になるので、
 まだ子どもだった僕らはびっくりしてた。
 PYGの時は見ていないけれど、
 ジュリーが表のスターだとすれば、
 チャー坊は裏のスターだった。
 僕らはどちらも好きだったね。
 二人ともロックだったし、
 カッコよかったもん。
 今にして思うと、
 遠いところにいたように見えた二人だけど、
 実際には近いところにいたんだよね」

山口らが参加する前の出来事だが、
村八分の母体となった
裸のラリーズの初期のメンバーのひとりは七〇年三月、
よど号をハイジャックして北朝鮮に渡っていた。

頭脳警察が、
赤軍派の上野勝輝が書いた
「世界革命戦争宣言」をシャウトして
新左翼のアイドルになるのもこの頃だ。

六ページに亘り当日の模様を
イラスト入りでルポしていた。

そこでは沢田や萩原のファンを
異物として描写してあり、
PYGが野次られる様子もあったが、
総じて好意的な評価だった。

タンクトップにストライプのパンタロン姿の
ジュリーが座り込んでカンカラを叩き、
上半身裸のショーケンがマラカスでリズムをとり、
二人の間で井上堯之がギターを弾くイラストが載っていた。
ジュリーがいたp126-127
〔画像〕ジュリーがいたp126-127

山口冨士夫も、自著でその日のことを書いている。
〈岸部のベースはいい音出してたなあ、
 井上堯之とか大野さんはもちろんよ。
 それで、
 客席の後ろ半分はド汚い村八分を見に来た客。
 若い女の子たちはジュリーやショーケン見て
 キャーキャー言うんだけど、
 PYGの演奏が始まると、
 後ろからは罵声なんだよね〉

〈でもそのジュリーを、
 まるで美空ひばりでも見るような感じで、
 チャー坊は惚れ惚れして見てたけどね〉
(『村八分』)

木村はステージに出て、
「PYGかて、音楽やってんねん。
 聴いたらんかい!」
と怒鳴った。

「よく覚えてないけれど、
 その類のことは言ったのかな。
 音楽を放って殴り合いしていたから。
 あの時代、
 ことに西部講堂は野次ってるやつの方がカッコよくて、
 PYGは標的になりやすかった。
 もうひとつは、
 沢田とショーケンのファンが牽制しあって、
 中に入らずに表にいた人たちもいたわけ。
 だからほとんどが村八分のファンだった。
 そうしたことは全国を回った時にも起こって、
 PYGは全国ツアーが成り立たなかったんやね」
  ―略―
一年たたずに形骸化したPYGに対して、
村八分は七三年五月に
西部講堂で開いたコンサートを収録した
「ライブ」を出した後、解散。
その後何度か再結成の動きはあったものの、
PYGと同じステージに立ってからの
約二年が実質の活動期間であった。

九四年、チャー坊はオーバードーズにより死去。

二〇一三年、喧嘩を止めに入った
山口冨士夫は路上で頭を打って亡くなった。

ドラッグバンドだった村八分だが、
その理由を山口はこう書いた。
当時のミュージシャンの言である。
〈オレたちがドラッグに魅力を感じたのは、
 やっぱりいつもストリートにいられる、
 路上にいられる、
 要するに社会の枠からはみ出ること。
 そこに魅力があった〉
(『村八分』)
ジュリーがいたp128-129
〔画像〕ジュリーがいたp128-129

本書は「週刊文春」
二〇二一年四月十五日号から
二〇二三年一月二十六日号まで掲載した
「ジュリーがいた」に、
新たな取材と大幅な加筆をしたものです。

島﨑今日子(しまざき・きょうこ)
1954年、京都市生まれ。
ノンフィクションライター。
著書に、『森瑤子の帽子』
『安井かずみがいた時代』
『この国で女であるということ』
『だからここにいる』などがある。

ジュリーがいた
沢田研二、56年の光芒
2023年6月10日 第1刷発行
2023年7月5日 第3刷発行
著 者 島﨑今日子
発行者 大松芳男
発行所 株式会社 文藝春秋
    〒102-8008
    東京都千代田区紀尾井町3-23
    電話 03-3265-1211
印 刷 図書印刷株式会社
製 本 図書印刷株式会社
組 版 株式会社 明昌堂
ジュリーがいた-奥付
〔画像〕ジュリーがいた-奥付
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《高間明子》チャー坊と小野さんが御一緒のとき…なつかしく思い出します2024/11/15


 高間明子:書-1
〔画像〕高間明子:書-1

 高間明子:書-2
〔画像〕高間明子:書-2
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
御沙汰しております
暑い暑い夏でしたが
ご体調いかがでございますか
お伺い申し上げます

気まぐれに買い求めました本に
こんな本はお読みにならないのかとも思いましたが
気分転換にと送附いたします

チャー坊と小野さんが御一緒のとき
お目にかかりました事
なつかしく思い出します

私達バスケ同期は再々寄り合っては
助けられたり 助けられたり で
楽しく仲良く過しております

どうぞお身体おいとい下さいますように
返送にはおよびませんので
よろしきように願います
 高間明子241115
〔画像〕高間明子241115
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2022年08月25日04:35
【三浦卓先生】
《深草中学校バスケットボール部員》昭和30年~41年
昭和35年度
(男)   川口(兄)  柴田次男  細谷(弟)
(女)   倉瀬直子  永井恵子  箕輪    翁
昭和36年度 
(男)   尾崎潔和  大庭憲雄  小野一雄  小坂真一
      駒井貞夫  洲見 薫  長谷川保  宮村一己
(女)   島川久枝  出野美恵子 大橋幸代  平井光代
      吉田正子
昭和37年度
(男)   佐野    浜中昭雄  広田 要
(女)   中村    佐々木明美 坂部清子
昭和38年度 
(男)   大森充久  杉村政夫  中村哲郎  松村憲次
      水谷澄夫  杖野隆英  森 隆夫
(女)   渡辺三千子 村中よし子 岡本初津美
      高間明子  菅原喜美子 金山春子
      川勝久美子 茗原道子  吉田照子
昭和39年度
(男)   青山俊夫  上谷光博  小野雄二  加藤伸二
      武田雅年  石村哲夫
(女)   島川葉子  石田旬子  池田安江  寺坂治子
      瀬戸口徳江 小村広子
昭和40年度 
(男)   柴田和志  島 幸隆  金谷 信  木下
      久保田清  藤沢    田中    南
      山本    山本
(女)   小西左江子
昭和41年度
(男)   吉内 修   堤    田中
(女)   山中優子(松本) 2023/06/06追記
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[篠原会]博徒 中島会(いろは組):全国博徒、的屋、不良等の団体名簿(昭和26年3月31日現在)【任侠百年史】昭和55年(1980)

【任侠百年史】昭和55年(1980)
著者    藤田五郎 著
出版者   笠倉出版社
出版年月日 1980.10

 二代目 会津小鉃 事 上坂卯之松
     京都黑谷ニテ撮影ス
     大正十三年三月十九日
p171【任侠百年史】昭和55年(1980)
〔画像〕p171【任侠百年史】昭和55年(1980)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12099933/1/171

昭和二十六年十一月
 全国博徒、的屋、不良等の団体名簿
(昭和二十六年三月三十一日現在)
 法務省特別審査局
https://dl.ndl.go.jp/pid/12099933/1/172

  近畿支局 京都府
[篠原会]
博徒 中島会(いろは組)
昭和二十二年二月
西陣太秦方面一円(特に西三条一円)
京都市中京区西ノ京中合町
(靴修理業)
篠原梅松(四八)
中京区西ノ京中合町三四
矢野一男(二六)
石田繁春(二九)
中京区西ノ京南原町
中村竹一(三九)
右京区安井馬場町
三宅正一
中京区西ノ京中合町
津村清一 六〇名
p183【任侠百年史】昭和55年(1980)
〔画像〕p183【任侠百年史】昭和55年(1980)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12099933/1/183

[中島組]
博徒 吉村仙助と兄弟分
昭和十三年 東七条一円
京都市下京区東七条川端町七
(前科四)
中島源之助(五八)
七条新地十二軒町(図越組)
図越利一
中京区西ノ京中合町(篠原会)
篠原梅松 五〇名

[図越組]
博徒 中島組舎弟
昭和二十年十月 七条新地及東七条一円
京都市下京区上ノ口通菊岡町三六九
図越利一(四二)
下京区幸町通七條上ル
吉村長
東高瀬上ノ口下ル
星野利一 二〇名
p184【任侠百年史】昭和55年(1980)
〔画像〕p184【任侠百年史】昭和55年(1980)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12099933/1/184
任侠百年史
定価 35,000円
昭和55年10月1日 発行
著 者 藤田五郎
発行者 笠倉操六
発行所 株式会社 笠倉出版社
    東京都千代田区三崎町3-10-15
    郵便番号(101)
    電話03(263)6282(代)
印刷所 凸版印刷株式会社
製本所 株式会社 三森製本所
https://dl.ndl.go.jp/pid/12099933/1/448
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年02月28日 07:24
《柴田金三郎(父):柴田つぎ(母)》
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
洛西ニュータウンのマンションで、
お母さん(柴田つぎ)の話。
※お父さん(柴田金三郎)が元気な頃、
 向日町競輪場で、騒ぎがあった。
 誰かが、「柴金」が来てると叫び、一騒動、
 一件落着と云っても二日かかった。
 お父さんが、新聞紙で包まれた束を、
 紐にぶら下げて帰って来た。
 中を開けると、百円札が一杯、入っていた。
 お父さんは、その時、初めて向日町競輪場に行った。
 その後、そのお金は、全部、競輪に使った。
この話は、お母さんから、私が直接、聞きました。
 お父さんの歿後何年も送られていた。
※お母さん(柴田つぎ)の葬儀
 (伏見区向島庚申町・昭和58年(1983)4月)に、
 篠原組の供花があり、若い衆が数人、参列していた。
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[国民運動社]主幹 柴田次男(別名 柴田顕正):柴田金三郎(父)が結成した団体【大右翼史 増補】1974

【大右翼史 増補】1974
著者    荒原朴水 著
出版者   大日本一誠会出版局
出版年月日 [1974]
 p3【大右翼史 増補】1974
〔画像〕p3【大右翼史 増補】1974
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/3
  五七 国民運動社
結成年月日 昭和二十六年七月
事務所所在地 京都市伏見区向島庚申町八九
       柴田方
主要役員
 主 幹   柴田 次男
      (別名 柴田顕正)
 組 織   下部組織数 なし
 機関誌紙 「国民運動」(休刊中)
 塾・道場、青年隊等 なし
 目 的
国体維持と反共を標榜し、
天皇元首、再軍備を内容とする
憲法改正を主張している。
 性 格
前主幹 柴田金三郎が結成した団体で、
博徒中島会との関係が深い。
昭和四十一年一月 同人の死後、
その子 次男が継承したが、
現在は同人の一人一党となっている。
 主要活動
昭和四十三年五月二十八日、
柴田次男は、
右翼運動等に熱意がないとして
「今後二、三年は運動しない」と表明し、
その後は活動がない。
 主要関係団体
主幹 柴田次男が三曜会に加盟しているほか、
傘下に民族運動社、救国時報社、
救国青年隊がある。
 p798【大右翼史 増補】1974
〔画像〕p798【大右翼史 増補】1974
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年02月26日07:50
《チャー坊の父・柴田金三郎氏》
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
チャー坊より五歳程年上の次男氏は、
早逝された父君の跡を継ぎ、
〔職業としての右翼〕の道へと選択の余地なく
進まざるを得なかったという。

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年05月27日05:00
[柴田家之墓]《柴田金三郎・つぎ・次男・和志=チャー坊》
小野雄二:平成30年5月26日
   平成二十八年十月六日
俗名 柴田次男 納骨
   行年 七十一歳
釋 浄 剛
昭和41年1月22日歿 俗名 金三郎 行年 63才
釋 尼 妙 春
昭和58年4月14日歿 俗名 つぎ  行年 73才
春光院法音日和居士
平成6年4月25日歿  俗名 和志 行年 43才
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