資料:柴田和志

日本国家主義団体-右翼団体の現勢力「京都府」昭和三十八年現在【大右翼史 増補】1974

【大右翼史 増補】1974
著者    荒原朴水 著
出版者   大日本一誠会出版局
出版年月日 [1974]
 時世に媚びず
 俗に流れず
 権に屈せず
 利に走らず
 虚名を追わず
 悪名を甘受し
 起つては斬奸の剣を振ひ
 漂々孤高の祖国愛に生きるもの
 これを真の右翼と云ふ

 三浦義一先生と御色紙
 p4【大右翼史 増補】1974
〔画像〕p4【大右翼史 増補】1974
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/4

 第八項 日本国家主義団体-右翼団体の現勢力
     国家主義団体(順序不同)
    (昭和三十八年現在)
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/447
京都府
 団体名       主宰者
国民運動社(死亡) 柴田金三郎
    京都市伏見区深草東藪ノ内四六
日本国策研究会   中川  祐
    京都市上京区室町通武者小路上ル
立憲民主党     市村平太郎
    京都市中京区四条大宮西入ル更雀寺
救国時報      川添 正人
    京都市深草十九軒五五一ノ一七
抗共民主同盟    水田 昇三
    京都府久世郡宇治郷東内
日本国民党     宮崎  修
    京都市左京区吉田橘町三〇
革新同盟      林  友一
    京都市中京区金座夷川上ル
国民会議同志会   大野 熊雄
    京都市中京区金座通リ森川上ル
民族運動社     加藤 矩敏
    京都市東山区福稲高原町五
日本新生会     松川 武市
    京都市下京区仏光寺猪熊西入ル西田町
民族青年隊     藤田 昌治
    京都市東山区福稲高原町五
生産党京都中京支部 瀬川幸之助
    京都市中京区三条通大宮東入姉小路九一
生産党京都北支部  小泉 勝則
生産党京都右京支部 藤井 勝利
生産党京都伏見支部 藤岡 次郎
生産党京都中京支部 下田 正人
生産党京都東山支部 柴田賢二郎
生産党京都左京支部 三木未太郎
生産党京都左京支部 溝口 藤吉
生産党京都上京支部 木島 末二
生産党京都上京支部 井上 政一
生産党京都左京支部 居場金次郎
生産党京都東山支部 山川 清治
 p455【大右翼史 増補】1974
〔画像〕p455【大右翼史 増補】1974
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/455

 p456【大右翼史 増補】1974
〔画像〕p456【大右翼史 増補】1974
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/456
著 者 荒原 朴水
    東京都板橋区常盤台四ノ七ノ十二
    電話(九三三)三〇四五番
発行人 万年 東一
    高橋 金治
    東京都千代田区内神田三ノ三ノ二
       互光ビル二階
    電話(二五二)五六一二番
発行所 大日本一誠会出版局
印刷所 セイユウ写真印刷株式会社
    東京都豊島区巣鴨三ノ五ノ十八
    電話(九一七)一三一一番
定 價 五萬圓
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/946
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“あれが村八分のチャー坊と冨士夫よ”【ワイルド・サイドを歩け】1987

【ワイルド・サイドを歩け】1987
著者    鳥井賀句 著
出版者   講談社
出版年月日 1987.2
 p3【ワイルド・サイドを歩け】1987
〔画像〕p3【ワイルド・サイドを歩け】1987
https://dl.ndl.go.jp/pid/12434238/1/3

 危険なロックン・ローラー  村八分
僕が奴ら”村八分“のメンバーの姿を初めて目にしたのは
確か京都のロック喫茶”ダムハウス“でだったと思う。

当時高校3年か浪人をしていたはずの僕は、
京都に行くと必ず”ダムハウス“に行っていた。

その店は昔、
僕の大阪にあった実家の向かい側に住んでいた
僕よりひとつ歳上のヒロ子から教えてもらったのだ。

彼女とはお互いにロック好きということで、
よく家に遊びに行ってはレコードの貸し借りをしていた。

彼女はジェファーソン・エアプレインと
マザーズ・オブ・インヴェンションや
アル・クーパーなどの
アメリカのニュー・ロックが好きで、
僕はストーンズやジョン・メイオール、
ブラインド・フェイスなどにイカれていた。

ヒロ子はちょっと
グレース・スリックに似た美人だった。

彼女は浪人をしている僕より
一足先に同志社大学に現役で入ってしまった。

大学に入ってから彼女はより深くロックに
のめり込んでいくようになり、
京都の女子寮に下宿しながら
夜は”ダムハウス“に入りびたり、
大学の男友だちと
ジェファーソン・エアプレインもどきの
バンドを結成して、
リード・ヴォーカルをやるようになっていた。

自分より一足先に”自由の身“となった
彼女が羨ましくもあり、
また密かに彼女に惚れていた僕は、
ヒマを見つけては京都に行き、
“ダムハウス”で彼女を待っていた。
1971年(昭和46)頃のことだ。

その夜その店に、
ドカドカと人相の良くない長髪の男たちが入ってきた。

デーンとテーブルに足を投げ出し
何やらマスターとブツブツ喋っていた。

“あれが村八分のチャー坊と冨士夫よ”
ヒロ子がそっと耳元に囁いた。

僕にはあの時初めて観た、
彼らの姿が今も鮮明にまぶたの奥に焼きついている。

本物のアンファン・テリブル、
不良少年の臭いがした。

当時の僕らみたいに学生やりながらロック、
長髪でイキがってる奴等にはない、
何か得体のしれない悪意と孤立感を漂わせていた。

そんな彼らに対する想いは、
実際の彼らのステージを体験することで
より鮮明なものとなっていった。

京都円山音楽堂、京大西部講堂、慶応大学三田祭……
その他にも何度か村八分が出演するという
噂を聴きつけて出かけていったが、
彼らは出演しなかった。

ある時はヴォーカルのチャー坊が
“今日の客はアホばっかりや”と吐き捨てて、
1曲で帰ってしまったとか、
PAが気にくわないとアンプを蹴っとばし、
ギャラを放り投げて帰っていったとか、
彼らに対する逸話、
伝説の類(たぐい)には事欠かない。

村八分は1970年(昭和45)に京都で結成された。

当時の村八分のステージで鮮明に覚えているのは、
ニューヨーク・ドールズまがいのドギツイ化粧、
やはりヴォーカルのチャー坊の挑発的で攻撃的、
意味不明の投げやりなヴォーカル、
そして後方で黙々とギターを弾き続けている
山口冨士夫のギターが弾き出す、
圧倒的なリズム感と、
ソリッドかつスリリングなフレーズだった。

“チャー坊はいつもクスリを決めて歌ってるんだぜ”、
“冨士夫には1/4黒人の血が入ってるんだ”
https://dl.ndl.go.jp/pid/12434238/1/96

等の噂は幾つも耳にしたが、
その真相はともかく、
やはり村八分は他の日本のロック・バンドとは
はっきりと一線を画した位置に立っていた。

それはロックを演奏するという行為以前に、
自らの存在そのものがロックであるという
彼らの妥協のなさと、
現実のしがらみやへつらいなど
意にも介さないという徹底した孤立無援の
アウトサイダーとしての姿勢であったのだと思う。

72年(昭和47)1月号の
「ニューミュージック・マガジン」に
当時の彼らへの短いインタビューが載っている。

青木真(ベース)、
カント(ドラムス)、
山口冨士夫(ギター)、
柴田和志(ヴォーカル)、
浅田哲(ギター)の5人の
村八分のポートレートはまるで
ストーンズの『ビッグ・ヒッツ』の
裏ジャケットの写真のように
凶々しい目付きをしている。

「俺たちの演奏を聴ける奴がどこにいる!?
 いないじゃないか」
当時の青木真(現青木真一)の発言だ。

その時、彼らはこうも語っている。
「俺たちは村八分の演奏を満足に聴けないような
 日本の奴らを軽蔑している。
 だが日本を軽蔑している日本人をもっと軽蔑している。
 俺たちは日本人だ。
 だからこそイギリスに行くんだ。
 日本人として行くんだ」と。

73年(昭和48)に入る頃には
日本のロック・ジャーナリズムでも
ぼちぼち
“日本のローリング・ストーンズ”という
“村八分伝説”が囁かれるようになっていた。

当然レコード会社の中にも彼らの存在に注目し、
彼らのレコードを出そうとした人達がいた。

その橋渡し的存在となったのが
あの加藤和彦であったというのは興味深い。

京都出身の加藤はチャー坊とは昔から
旧知の関係にあったらしい。

フォーク・クルセダーズ、
ソロでも東芝と付き合いの深かった彼は
東芝EMIで当時
T・レックスや
シルバーヘッドを担当していた
敏腕ディレクターの石坂敬一氏にハナシを持ち込み、
村八分のライヴを観て関心を持った
石坂氏は彼らと何度か交渉を持ち、
村八分のデビュー・アルバムは
ロンドン・レコーディングで
東芝から発売になるという噂が拡まった。

が結局、村八分の最初で最後の
デビュー・アルバムは73年6月25日、
2枚組のライヴ・アルバムとして
エレック・レコードから発売された。

吉田拓郎や泉谷しげる、ケメ……といった
フォーク系の会社であったエレックから
村八分が出たというのも面白いが、
当時エレックは例のフォーク・ブームで金があり、
また社長の浅沼勇氏も加藤和彦とは
親しい間柄にあったというのが理由のようだ。

とにかくこのエレックから
村八分がデビューするにあたり、
破格の契約金が支払われたというのが
もっぱらの噂だった。

レコード発売後、
以前からアムステルダムに行くと
発言していたチャー坊は、
アムスに行ったのかどうか知らないが、
アメリカに渡った。

余談だが、
69年(昭和44)にも渡米したチャー坊はオルタモントの
ローリング・ストーンズのコンサートに行ったらしい。

69年(昭和44)のストーンズ全米ツアーを収録したライヴ盤
『ゲット・ヤー・ヤ・ヤズ・アウト』の
「ミッドナイト・ランブラー」の途中で、
日本語で“カッコイイ!?”と叫んでいるのは
実はチャー坊だ……というハナシは
村八分ファンの間ではマコトしやかに語りつがれている。

エレックから発売された
73年(昭和44)5月のライヴ時のメンバーは、
チャー坊(ヴォーカル)、
山口冨士夫(ギター)、
ヨーチャン(ギター)、
エーイチ(ベース)、
シゲト(ドラムス)である。

このライヴ盤は
エレック・レコードが倒産してからは
“幻の名盤”として、
最近までマニア向け中古レコード店で
サンハウスのデビュー・アルバムなどと共に
15,000円~20,000円の高値を呼んでいた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12434238/1/97

80年(昭和55)頃、パンク・ブームのさ中、
“元祖パンク”として
この村八分のライヴを再発しようとした
大手レコード会社のディレクターがいたが
“村八分”というバンド名自体が
レコ倫に引っかかるとかで没になったらしい。

それがおよそ12年を経た今になって
ヴィヴィド・サウンドから再発売されることになり、
それでこんな原稿を書いている次第なのだが、
とにかくこれを機会に“幻”の村八分の音に
若い読者も是非触れて欲しいものだと思う。

その後の村八分のことをかけ足で書いておこう。

結局レコード・デビューはしたものの、
その後目立った活動は行われないまま、
いつしか村八分は解散してしまうわけである。

翌年(1974昭和49)に
山口冨士夫は先のエレック・レコードから、
ソロ・アルバム『ひまつぶし』を発表している。

これは冨士夫のヴォーカルとギターにベースとドラム、
それに女性コーラスを加えた
実にシンプルな編成で録音されたものだが、
山口冨士夫というひとりの
“さすらいのロッカー”としての心情が
とてもよく表れている作品だ。

キース・リチャーズやジョニー・サンダースにも
共通するルースでニヒルな冨士夫の歌いっぷりが素敵だ。

このアルバムも是非再発売してもらいたいものだ。
(現在ヴィヴィドより再発売されている)

その後チャー坊や冨士夫はドラッグ問題で
パクられたりしたらしい。

77年(昭和52)には現ピンク・クラウドの加部正義らと
リゾートというグループを結成したが
これも短命に終わっている。

77年(昭和52)1月28日
“新宿ロフト”のリゾートのライヴでは
「ムスタング・サリー」や
「スロー・ダウン」といった
R&Bのスタンダードを演奏している。

翌78年(昭和53)には冨士夫&フレンズとして
福生の”エレクトリック・ウズ“あたりで、
ストーンズの「ギミー・シェルター」
などを演奏していた。

79年(昭和54)7月15日、
70年代最後の夏に村八分は突如再結成され、
古巣の京大西部講堂で行われた
“西部宵々山”というコンサートに出演する。

チャー坊のヴォーカルに冨士夫のギター、
その他のメンバー名は不明だが、
ここでの彼らは過去のレパートリーから
ブルースぽいスロー・ナンバーを中心に
1時間あまり演奏したが、
改めて”再結成“をした意味は
その演奏の中にはなかった。

そして案の定、
この再結成ライヴはこれっきりのものであった。

一方村八分オリジナル・ベーシストの
青木真一は76年(昭和51)頃から東京で、
ヴォーカルのケンゴと共にスピードという、
イギー・ポップ&ストゥジスを彷彿とさせる
パンク・バンドのギタリストとして活躍し、
79年~80年の東京ロッカーズ全盛期には、
ミスター・カイトやミラーズと共に
精力的なライヴを展開していた。

スピードには一時、
後のEDPSのボーイとバニラも在籍していた。

スピードはシティロッカーから1枚アルバムを発表し、
81年(昭和56)末に解散。

青木真一はフルーズに参加。

80年(昭和55)に入ると
山口冨士夫はあの伝説のバンド、
裸のラリーズ
(メンバーのひとりに
 「よど号」ハイジャック犯がいた)
にギターで参加し、
1年あまり活動を共にする。

元々ラリーズが1967年(昭和42)に
京都で結成された時には、
冨士夫や青木真一もメンバーだったという。

ブルースや黒人音楽に根ざしている冨士夫だが、
このラリーズではかなりメタリックな
ギター・プレイを行なっていた。

しばらく沈黙を続けていた
冨士夫が帰ってきたのは83年(昭和58)。

テレグラフ・レコードから
『RIDE ON』の4曲入りのレコードを発表する。
 p35【Indies  世界自主制作レコードカタログ】1986
〔画像〕p35【Indies  世界自主制作レコードカタログ】1986

冨士夫のギター&ヴォーカルに、
フールズをやめた青木真一のギター、
元京都のトゥー・マッチのメンバーで
外道でも活躍した青木まさゆきのベース、
同じく元トゥ・マッチのドラマー小林秀也という編成で、
当初は山口冨士夫グループの名で、
都内のライヴ・ハウスを中心に精力的にライヴを行い、
84年(昭和59)には
バンド名を“タンブリングス”に改めている。

オリジナル曲に「ツイスト&シャウト」、
「イフ・ユー・ニード・ミー」
などのR&Bナンバーも交えながら
https://dl.ndl.go.jp/pid/12434238/1/98

強力にロールする冨士夫の歌とギターは、
そこいらのチンピラ・ロッカーには
ちょっと出せない強烈な存在感がある。

その昔、
村八分とキャロルのジョイント・コンサートが企画され、
直前になってキャロル側がキャンセルしてきたとか、
あの鮎川誠が冨士夫をメンバーに誘ったとか、
村八分や冨士夫に関する伝説や逸話はまだまだ沢山ある。

あのGSのダイナマイツのギタリストとして
このロックの世界に足を踏み入れた冨士夫だが、
ただ上手にメジャーのレールの上に
乗っかっていくことを良しとはせずに、
ある意味で非常に不器用に
自分のポリシーを貫き通そうとしている。

日本のロックやロッカー達の多くが
次第に安全で軟弱な道へと流されていった中で、
村八分、そして山口冨士夫は、
本物のアンファン・テリブルとして、
危険なロックン・ロール・ライフを
生きぬいていったのだ。
(「MUSIC STEADY」1984・12)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12434238/1/99
定 価 九八〇円
昭和六十二年二月十日 第一刷発行
著 者 鳥井賀句
発行者 野間惟道
発行所 株式会社 講談社
    〒一一二
    東京都文京区音羽2-12-21
    電話 東京(03)945-1111(大代表)
編 集 株式会社 講談社出版研究所
    代表 長谷川喜市
    〒一一二
    東京都文京区小日向4-6-19
    共立会館
    電話 東京(03)943-2613
印刷所 豊国印刷株式会社
カバー 千代田オフセット株式会社
製本所 株式会社 堅省堂
https://dl.ndl.go.jp/pid/12434238/1/122
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《吉村法俊》昭和維新連盟の関東本部長・ペンネームを新宮地義輝【特殊株主及び全国専門紙・雑誌紳士録 昭和46年度版】

【特殊株主及び全国専門紙・雑誌紳士録 昭和46年度版】
著者    経営者団体会議 編
出版者   [経営者団体会議]
出版年月日 [1970]
 【特殊株主・雑誌紳士録 昭和46年度版】p1
〔画像〕【特殊株主・雑誌紳士録 昭和46年度版】p1
https://dl.ndl.go.jp/pid/11936997/1/1
《吉村法俊》
③ 昭和維新連盟 民政特報社 全アジア青年同盟
➃ 東京都中央区日本橋小舟町1~3 山粉ビル
⑥ 維新シリーズ 民生維新 民生特報
右翼。昭和維新連盟の関東本部長。
ペンネームを新宮地義輝という
 【特殊株主・雑誌紳士録 昭和46年度版】p216
〔画像〕【特殊株主・雑誌紳士録 昭和46年度版】p216
https://dl.ndl.go.jp/pid/11936997/1/216
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
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《YouTubeコメント欄より》村八分BOX -LIMITED EDITION Trailer

村八分BOX -LIMITED EDITION Trailer
Good Lovin'
261,278 回視聴  2014/10/07
2005年リリース『村八分 BOX -LIMITED EDITION』
(限定盤/店頭在庫のみ)発売時の告知用トレーラー。
本編には隠し映像として
1972年三田祭ライブのカラー映像を収録しています。
(フォトギャラリーにランダムで表示される
 アイコンから観れます)
 村八分BOX -LIMITED EDITION Trailer-3
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年02月23日15:38
[大好きな人です:ちえ(千恵)]
<チャー坊(“村八分”)の生と死>《中編》
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 村八分BOX -LIMITED EDITION Trailer-2
104 件のコメント
@吉田弘-q8k 1 年前
貴重な映像ありがとう、
危険な香りと匂い
そんな時代が懐かしい

@エルビス赤木 2 か月前(編集済み)
日比谷野音の100円コーサート行ってるよ…
エルヴィスからロックにハマリ
野音から再びロックにハマった…
内田裕也さんの声と村八分さんが最高だった…
そして何ヵ月後忘れちゃったけどハッピーエンドだなあ…

@TOM-kp6br 1 年前
かっけえ!京都の誇り

@しん-m7k 2 年前
京都が生んだ最高のバンド!!
チャー坊最高ダゼ!

@マコマコ-r2k 3 年前
チャー坊動いてる️
貴重過ぎてヤバい️

@wojtegpe2405 4 年前
Man, this is like Japanese The Stooges or MC5.  Love it!

@mega-yz6dm 1 年前
チャー坊カッコイイなぁ

@まくべろくろう 1 年前
この時代は規制がないから
演奏する側も受ける側も垂れ流し

@タクヤ0069 7 年前
これが噂に聞いてた村八分か!
アップに感謝

@トモ-t1o 4 年前
テレビ放映された
あのスタジオ動画がなんで出てこないのかな。
鼻からちょうちん、逃げろの2曲やった。
冨士夫は透明ギター。
スタジオに来てた加藤和彦も映ってた。
まだビデオが一般家庭に普及してない時代だったけど、
たしかこの動画を録画するため
ビデオデッキを買ったって人が
ニューミュージックマガジンにいたね。

@kinsan59 6 年前
雨の中の日比谷音楽堂のチャー坊、最高!
2:22のギターの山口富士夫の陶酔しきった笑み、最高!
やっぱり、村八分は、
71年、72年のパフォーマンスが最高だと思ふ。

@三戸快-r5x 9 年前
富士夫のギターはヤッパ飛び抜けてるなぁ。

@金子安男-m2g 1 年前
もう最高ですよ!

@水まんじゅう-f3w 5 年前
かっこいいなあ!

@kinsan59 6 年前(編集済み)
まず、貴重な映像をアップしてくださった方に
感謝申し上げます。
私は、先輩に、『あ!!』の歌詞を紹介して頂き、
とても興味をもち、
CDをAMAZONで購入に、
歌詞以外にも、そのぶっとくて、シンプルで、
そして、そのリフに惹かれ、
サウンドにも惹かれたもの知らずです。
今まで、
なんでこんなすごいバンドを知らなかったのだろうか、
と不思議に思っております。
私は、このバンドは、やはり伝説のバンドで、
邦楽ロックの王道をゆく、
ぶっとい幹ではないだろうか、
と感じております。
とにかく衝撃を受けております。
私の今まで好きだったサザンオールスターズ?
ぶっとびました!
世で騒がれているMr.Childrenなどの
恋愛をテーマにしているバンドなどが、
この村八分の存在を知ってから、
とてもちゃらく感じました。
現在、村八分ライブ という
CDを聴きこんでいる次第です。
長文、失礼いたします

@mapjamaica777 2 年前(編集済み)
チャー坊大好き

@yomu4789 9 年前
すごいの一言…
日本にこんな最古でロックしてるバンドがいるとは

@koke-tm6bg 3 年前
亡くなるちょっと前に
確か90年代初頭
冨士夫抜きで村八分再結成した頃に
磔磔の近くで
チャー坊と会った事がある…
あの時は
何かキメテたのか
目がオドオドして
情緒不安定な感じやったなぁ…

@shunkato6726 4 年前
裸の街のスライドギターがたまらん

@user-ee1qn8lu4e 4 年前
当時の日本のバンドじゃ
一番正統なロックバンドやってたんじゃない?
アングラって言われてるけど、
サウンドで言えば白人ブルースの系統だし
恋愛系の歌詞だったら普通に売れてたと思う
まぁアングラだったからこそ伝説になったわけだけど…

@maco14maco 7 年前
日本の「ニューヨーク・ドールズ」
富士夫はジョニーサンダース

@dischargedarrowgetback4322 4 年前
ベルボトム時代のロックが一番かっこいい

@steerpike50 2 年前
Cool

@タクヤ0069 7 年前
すごい!

@ナカムラミツノリ 4 年前
危険な香り。がプンプン

@zenhippie2011 1 年前(編集済み)
1:58 うわっ、ガン決まりやんけwww

@user-nemusugizzz 8 か月前
映像残ってんのやばい

@シュレック-q9r 6 年前
日本にもプロトパンクのバンドがいたんですね!

@ブリーデンラインバック 5 年前
この時代にこのスタイル(音楽・ファッション)は
絶対狂人視されたはず。
同時期の学生運動家なんて
相手にならない活動家ですよ村八分は。

@右脳警察-i9o 9 年前
青木さんのご冥福をお祈りいたします。

@satanssurfmusic1975 2 年前
おはようございます我が家の家宝でございます

@yottodesu8723 3 年前(編集済み)
ギタリストのCharが、
セックス・ピストルズを初めて聞いて、
「これ、村八分じゃん。」と言ったのは、有名。

@masahitotsuji1975 2 か月前
「裸の街」のところで
ユカリ殿がDrumPlayをしているの拝めますね?

@marina-7207 4 年前
戦後26年かあ。。。

@林の中の象 4 年前
ビートルズの前にプレスリーがいたように、
矢沢永吉の前には、村八分があった。

@wajink8354 8 年前
鮎川もいいよ!

@yangzhe9759 7 年前
David Bowie!

@佳代-g9k 2 年前
4:25からの曲名教えてください。

@湊小政 6 年前
みんな死んでもうたなぁ・・・。

@marimon2313 4 年前
裸の街かっけぇ

@とん-l5f 9 年前
知らなんだぁ~

@2001lextalionis 3 年前
The Stranglers brought me here

@kahncho9213 6 年前
0:14
小島よしおのダンスネタは
このような動きをモデルに作られたのかな

@ナオキ-w2i 4 年前
2019年11月23日現在42歳のヲッサンですw
これさぁ・・・・・
わざと白黒にしているんだろ?ってガチで思って見てたわw

@パンこう 5 年前
ファッション……
イカれてますね

@beerlove4933 4 年前
シーンで許されるのって、
どうしてもアートって呼ばれるものになっちゃうんだけど。
普通に見ていて、格好いい!って言う人もいれば、
? ってなる人もいるのかな。
個人的には薬に頼らず、
持って生まれたままの感受性で
表現してほしいなーって思います。

@チャンネル安藤翼 4 年前
Japanese stones!

@関直道-o8m 5 年前
みのから

@うんこよしだ 5 年前
私も結婚したかった…宮本浩次のような人と。

@swingingswinging7315 3 週間前
まるでストーンズ。

@castroganga 9 年前
村八分VS日章旗!

@hiroshimatsushima3634 5 年前
やさぐれてるなぁ~(^^)ロックだよ

@ブレードベイ-b4f 6 年前
コメント数14…クレイジー!

@創価学会と公明党は集団 3 年前
村八分ってMC5より古いんだっけ?

@41727241 2 年前
正しく日本のcreamです。

@安藤実-d9i 9 年前
で、明日草臥れてアナログって…

@meguo4383 5 年前
富士夫がキースでチャー坊がミック。
みんな逝ってしまった。
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山口二矢烈士供述調書と資料PDF:右翼民族派資料館2009/09/18

【吉村法俊・妻 邦代(柴田和志の姉)】
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年02月27日14:21
邦代さんの夫・吉村法俊〔のりとし〕氏
<チャー坊(“村八分”)の生と死>《第7回》

昭和35 年(1960)2 月
右から、吉村法俊氏、赤尾敏氏、
山口二矢烈士、中村芳彦氏、岡田尚平氏。
 吉村法俊・赤尾敏・山口二矢烈士・中村芳彦・岡田尚平






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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2024年04月28日08:20
《柴田金三郎・吉村法俊》「烈士山口二矢君国民慰霊祭」
昭和35年12月15日開催【大右翼史 増補】[1974]
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《柴田金三郎・吉村法俊》「烈士山口二矢君国民慰霊祭」昭和35年12月15日開催【大右翼史 増補】[1974]

【大右翼史 増補】[1974]
著者    荒原朴水 著
出版者   大日本一誠会出版局
出版年月日 [1974]
 奸賊、覚悟!烈士山口二矢君、決意の一瞬
 (毎日新聞社写真部提供)―35.10.12―
 p396【大右翼史 増補】[1974]
〔画像〕p396【大右翼史 増補】[1974]
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/396
  第五項 浅沼社会党委員長刺殺事件―
   浅沼稲次郎中共使節団長の暴言問題、
   烈士山口二矢君慰霊祭
 (昭和35年10月)
十二日午後三時すぎ
東京の日比谷公会堂で行われた
三党首大演説会の二番目にたった
浅沼委員長は、
突然演壇にかけ上った若い男に、
長さ三十四センチのわきざしで
左胸部を二ヶ所刺され、
意識を失い、
パトロール・カーで近くの
日比谷病院にかつぎ込まれ
手当を受けたが、
同三時四十分死亡と認定された。
六十一歳。
犯人は現場で丸ノ内署員に逮捕された、
調べでは男は東京都中野区本町通二ノ二四、
陸上自衛隊山口晋平一佐(51)の次男、
全アジア反共青年連盟員
元大日本愛国党員の山口二矢(おとや)
丸の内署で取り調べた後、
身柄を警視庁に移して調べを行い、
同夜十一時すぎ留置した。
(朝日新聞昭和三五年一〇月一三日)
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/395
 三十五年五月二十九日、
赤尾敏との思想的対立から
吉村法俊、中堂利夫と共に脱党し
全アジア自由反米青年連盟を結成した。

取調べの結果、
殺人共犯及び殺人教唆の線は見られず、
山口二矢の単独犯行と断定、
山口二矢は少年法により観護措置により
東京練馬区の東京少年鑑別所に移されたが、
十一月二日、
鰭崎所長が
「非常に重要な人物だから
 警戒は特に厳重にと」
玉井、佐子、須賀の三教宣監視のもとにおいて
七時五十五分、
須賀教宣が点呼で山口を回ってから
八時三十一分までの三十六分間の
無監視のブランク時間に
山口二矢はベッドの反対側の壁に
ハミガキ粉を水でといて、指で、
 天皇陛下万歳
 七生報国
と書きのこし、
シーツをタテ半分に幅二・三センチに裂き、
より合せて長さ約三メートルのひもを作り、
一方のはしを首にまき、
他のはしを高さ約三メートルの天井についている
丸い鉄製の電球カバーにひっかけ、
ベッドにフトンを積み重ねて
飛びおり自殺したのである。

  遺詠(ペン書きのもの)
 国ノ為 神州男子 晴レヤカニ
   ホホエミ行カン 死出ノ旅路ヘ
 筆書きのもの
 千早ぶる 神の御世代 とこしえに
  仕えまつらん 大和男子は
   皇紀二千六百二十年十月四日
   ※昭和35年(1960)10月4日
     山口 二矢
 国の為 たふれし人ぞ あるこそに
  今の若人 育ち来らん
 しきしまの大和男子と生れなば
  進まん道ば 一つなりけり
があった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/396
 断じて許さじ
  浅沼売国訪中団長の言
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/397
かくて
三十五年十二月十五日
「烈士山口二矢君国民慰霊祭」開催する

 烈士、山口二矢君
 国民慰霊祭典
  式次第
     司会 荒原 朴水
一、国歌奉唱
一、皇居遥拝
一、憂国の先歿先覚者竝に殉国の英靈に対し黙禱
一、開会の辞
    国民慰霊祭議長
      佐郷屋 嘉昭氏
一、修祓の儀
一、降神の儀
一、献饌の儀
一、斎主祝詞奏上    遠藤 和泉宮司
一、祭文弔辞の朗読
  日本国粋会     森田 政治氏
            藤田卯一郎氏
  政治結社、松葉会  久野 益義氏(代読)
  興論社       関山 義人氏
  日本義人党、
  日乃丸青年隊    高橋 義人氏
  護国団       竹本 胆人氏
  大日本独立党青年  清水  亘氏
  防共挺身隊     福田  進氏
  関東、関西、
  北海道代表     弘 道 会殿
  関西、中国、
  四国代表      三 曜 会殿
  九州 代表     吉田 柴芳氏
  京都府代表     柴田金三郎氏
           ※柴田和志の父:下記
  アジア自由反共
  青年連盟      吉村 法俊氏
           ※柴田和志の義兄:下記
一、弔辞の披露     山下 幸弘氏
一、琵琶独奏
   作詞演奏     須田 旭鋼氏
一、玉串奉奠
一、賜盃饌の儀
一、撤饌の儀
一、昇神の儀
一、経過報告
  治安確立同志会   高津大太郎氏
一、会計報告
  日乃丸青年隊    高橋 正義氏
一、挨 拶
  国民慰霊祭委員長  小山田剣南氏
一、遺族の挨拶
  厳 父       山口 晋平氏
一、閉 会
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/398
  昭和三十五年十二月十五日
この「烈士山口二矢君国民慰霊祭」の当日
大日本愛国党の赤尾敏は、
日比谷公会堂に出席し来ったが、
不都合の次第ありとして退場を命ぜられ、
又その通知書からもその名を削除されている
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/399
著 者 荒原 朴水
    東京都板橋区常盤台四ノ七ノ十二
    電話(九三三)三〇四五番
発行人 万年 東一
    高橋 金治
    東京都千代田区内神田三ノ三ノ二
    互光ビル二階
    電話(二五二)五六一二番
発行所 大日本一誠会出版局
印刷所 セイユウ写真印刷株式会社
    東京都豊島区巣鴨三ノ五ノ十八
    電話(九一七)一三一一番
定 價 伍萬圓
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/946
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年05月27日05:00
[柴田家之墓]《柴田金三郎・つぎ・次男・和志=チャー坊》
小野雄二:平成30年5月26日
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年02月27日14:21
邦代さんの夫・吉村法俊〔のりとし〕氏
<チャー坊(“村八分”)の生と死>《第7回》
※チャー坊(柴田和志)と一緒に、大阪の家に行き、
 吉村法俊さんに一度だけ会ったことがある。
※チャー坊(柴田和志)の独白
「山口二矢のデスマスクを見て、
 頭がおかしくなった」
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年05月29日04:47
《吉村法俊・山口二矢》大日本愛国党
【右翼左翼】昭和35年(1960)
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《柴田金三郎 神洲報國會長:大日本生産黨加盟》【キネマ週報(110)】昭和7年(1932-05)

【キネマ週報 = The movie weekly (110)】昭和7年(1932-05)
出版者   キネマ週報社
出版年月日 1932-05
  The Kinema Weekly
  キネマ週報
 水谷八重子「浪子」 特輯号
昭和七年五月二十日・第百十號 定價金十錢
東京・キネマ週報社・發行
p1【キネマ週報(110)】昭和7年(1932-05)
p1【キネマ週報(110)】昭和7年(1932-05)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7965057/1/1
 赤色テロを計劃
  新興キネマ爭議後報
(前號所報)
十二日午後遂に流血の惨事を引き起した
新興キネマ爭議は同日午後一時二十分ごろ
新興キネマ撮影所前の爭議團本部玄關口で、
大日本生産黨加盟の神洲報國會員數名と
爭議團との間に衝突起り
大亂闘勃發の急報に接した太秦署では、

當日恰も松尾神社祭禮執行のため
署員の殆どが警戒に出動してゐたので
日下部署長は殘留署員四名を率ゐて

  【職員録 昭和7年7月1日現在】
   ◎太秦警察署

現場に急行したが手がつけられず、
警察本部から小浦警部補の率ゐる

  【職員録 昭和6年7月1日現在】
   ◎京都府 警察部

非常警備隊三十名の應援を得て鎭壓し
傷ついた神洲報國會員
澤村喜代治、荻田正を
附近の森醫院へ擔ぎ込んで手當を加へたが、
兩名とも竹槍や木片の先に釘をうちつけた
手鈎やうの兇器で亂打され
或は突刺されたもので、
頭部その他數ケ所に重輕傷をうけた。

日下部署長は爭議團が
本式の竹槍などの兇器を多數用意して
赤色テロを計畫してゐた形跡ある以上
事態容易ならずとして總檢束を申渡し、
同午後二時半、竹槍五本、
手鈎その他の兇器を押収し團員五十名のうち
團長大丸巖ほか三十一名を檢束した。
團員中には東京から潜行して來た
全勞系中央一般勞働組合員
松尾宜壽、安正茂も交り、
女子大學出身の臺本部員
尾崎時子ほか一名の婦人も交つてゐた。

事の發端は同日正午過ぎ
神洲報國會長柴田金三郞氏が
爭議の調停に乘出すべく、
前記澤村、荻田ほか一名と共に
新興キネマに立花所長を訪ひ、
一方澤村に對し爭議團本部に掲げてある
スローガンの筆記を命じ澤村が筆記中、
一兩日前から惡化激昂してゐる
爭議團員が澤村に對し
「お前は警察か會社の犬であらう」と毒づき
澤村が
「俺は神洲報國會のものだ。
 模様を見に來たのだ」と應酬し爭論となり
亂闘をはじめ、
澤村の危急を知りて應援にかけつけた
荻田もともに打ちのめされたのである。
本件が單なる傷害事件にをはるか
騒擾罪をも構成するかは
取調べた上でないと決定せぬ模樣である。

 テロの横行で
  新興キネマ爭議は
   終了の形
遂に流血の惨事を惹き起した新興キネマ爭議も
前項の如きテロの實現に依り
當局の嚴重監視となり
事實上爭議は終了した形になつてゐる。
尚此の爭議で同スタヂオ企劃部長大坊氏は
各方面の接衝係となつたが
これが爲め爭議團の誤解を招き
一時は居宅を警戒された程であつた。

 國事多端に 洋畫界更に喘ぐ

 來朝中の チヤプリン

 入江たか子 第一回
 「新女性粧」を
 トーキーに製作

 いよいよ着手した
 ワーナー社
  日本版四種

 マキノ正博日活入社
 第一回作決定
p15-1【キネマ週報(110)】昭和7年(1932-05)
p15-1【キネマ週報(110)】昭和7年(1932-05)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7965057/1/15

 早大のリーグ脱退で
 映畫界は俄然活氣を呈す
p15-2【キネマ週報(110)】昭和7年(1932-05)
p15-2【キネマ週報(110)】昭和7年(1932-05)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7965057/1/15
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【思想研究資料 第二十七輯】昭和8年(1933.4)
出版者   司法省刑事局
出版年月日 1933.4
(2) 勞働爭議日誌(昭和七年一月~六月)
五月一二日(京都)
新興キネマ太秦撮影所ニテハ
從業員解雇問題ニ發端
繋爭中ノ處
大日本生産黨神州報國會員
澤村喜代治カ爭議團事務所ニ赴キ
爭議經過ヲ聽取中一團員カ
「會社ノ犬云々」ト罵倒シタル爲
口論トナリ
居合セタル團員十七、八名ハ
澤村外一名ニ對シ
竹槍其他ヲ以テ
一週間乃至二週間ノ傷害ヲ加ヘタリ。
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《柴田金三郎 神洲報國會幹部》新興キネマ撮影所爭議:昭和7年5月12日【キネマ週報(109)】昭和7年(1932-05)

【キネマ週報 = The movie weekly (109)】昭和7年(1932-05)
出版者   キネマ週報社
出版年月日 1932-05
  The Kinema Weekly
  キネマ週報
 日活爭議の顚末 彦根東吉郎
昭和七年五月十三日・第百九號 定價金十錢
東京・キネマ週報社・發行
p1【キネマ週報(109)】昭和7年(1932-05)
p1【キネマ週報(109)】昭和7年(1932-05)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7965056/1/1
 新興爭議 俄然惡化 堤社長急行
(京都發)
別項新興キネマ撮影所爭議は
其後會社側の態度が煮え切らぬとて
爭議團側極度に惡化し、
十二日日本生産黨京都支部の人々より成る
神洲報國會の幹部柴田金三郞氏が
立花專務を訪問し
居中調停を試むべく懇談中、
爭議團側では他の生産黨員四名と衝突し
竹槍を揮つて突いてかゝり
生産黨は重傷を負ひ、
これが爲め
多數の黨員が急報を聞いて
かけつけたりして
事態頗る惡化した。
一方此の報を受けた堤新興社長は
十二日夜京都へ急行した。
p6【キネマ週報(109)】昭和7年(1932-05)
p6【キネマ週報(109)】昭和7年(1932-05)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7965056/1/6
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《柴田金三郎:救国青年隊》京都市伏見区深草藪の内町四六【内閣官房調査月報 1(8)】昭和31年

【内閣官房調査月報 1(8)】昭和31年(1956-08)
出版者   内閣官房
出版年月日 1956-08
[調査月報]第8号
日中貿易促進運動について
戦後右翼の回顧と展望
出版界と世相-ベストセラーを中心に―
資料 プライス報告(全文)
   アジアにおけるソ連の政治戦略
1956年8月
内閣総理大臣官房調査室
p1【内閣官房調査月報 1(8)】昭和31年(1956-08)
p1【内閣官房調査月報 1(8)】昭和31年(1956-08)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1397488/1/1

 戦後右翼の回顧と展望
https://dl.ndl.go.jp/pid/1397488/1/23
 右翼団体一覧
団体名   救国青年隊
所在地   京都市伏見区深草藪の内町四六
結成年月日 昭和二八年七月一二日
主幹者   柴田金三郎
構成人員  一二
p28【内閣官房調査月報 1(8)】昭和31年(1956-08)
p28【内閣官房調査月報 1(8)】昭和31年(1956-08)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1397488/1/28
 旧軍人関係団体一覧
https://dl.ndl.go.jp/pid/1397488/1/29
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《柴田金三郎:国民運動社》京都市伏見区深草藪の内町四六【右翼運動要覧】昭和39年

【右翼運動要覧】昭和39年(1964)
出版者   日刊労働通信社
出版年月日 1964
◎国民運動社
昭和二十六年八月、
結成された反共団体で傘下に
民俗運動社、民族青年隊がある。
〔主 幹〕柴田金三郎
〔事務所〕京都市伏見区深草藪の内町四六
p61【右翼運動要覧】昭和39年(1964)
p61【右翼運動要覧】昭和39年(1964)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3032328/1/61

 第四 右翼関係主要人物 p78-101/143
https://dl.ndl.go.jp/pid/3032328/1/78
田岡 一雄(たおか かずお)
大正二年、徳島県生れ。
小学校卒と共に沖仲仕となり、
傷害罪で懲役一年、
殺人罪で同八年の刑を受けた。
昭和二十一年、
三代目山口組組長となり、
甲陽運輸産業KK社長に就任、
昭和三十年には神戸芸能KK社長、
三十四年には光祥建設KK社長となる。
昭和三十八年、
民主主義擁護国民会議の田中清玄と共に、
麻薬追放運動を展開している。
現、博徒山口組組長の他、
全国港湾荷役振興会神戸支部長、
麻薬追放国土浄化同盟発起人、
住所=神戸市。

田形 竹尾(たがた たけお)
田中 清玄(たなか せいげん)
滝沢 利量(たきざわ としかず)
竹本 行雄(たけもと ゆきお)
武井 敬三(たけい けいぞう)
p93【右翼運動要覧】昭和39年(1964)
p93【右翼運動要覧】昭和39年(1964)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3032328/1/93
右翼運動要覧
昭和39年12月5日印刷
昭和39年12月10日発行 定価520円
編 者 日刊労働通信社
発行者 徳永 笹市
印刷者 中栄印刷工業株式会社
発行所 株式会社 日刊労働通信社
    東京都港区芝公園(中労委会館)
    電話芝(431)1709振替東京196242
https://dl.ndl.go.jp/pid/3032328/1/140
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