モルガンお雪

《加藤てる》ウタの養女『モルガンお雪の姪』【モルガンお雪 (集英社文庫)】1984

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年07月23日06:52
[思い出の写真帖]072〔坂本恭啓社長:古希・昭和43年〕
 bb172bca
※前列右端:加藤てる
 前列中央:坂本恭啓
 後列左端:小野一雄
坂本工業(株)社員等
古希 昭和43年(1968)
坂本恭啓:明治31年(1898)1月6日生
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
      近代 日本人の肖像
      モルガン ユキ
生没年   明治14年8月7日 〜 昭和38年5月18日
      (1881年8月7日 〜 1963年5月18日)
出身地   京都府
職業・身分 その他
別称    加藤(旧姓)、ユキ、モルガンお雪(別名)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【モルガンお雪 (集英社文庫)】1984
著者    小坂井澄 著
出版者   集英社
出版年月日 1984
 p2【モルガンお雪 (集英社文庫)】1984
〔画像〕p2【モルガンお雪 (集英社文庫)】1984
https://dl.ndl.go.jp/pid/12188655/1/2

長女 ウタ 芸妓 明治16年(16歳)祇園新地
二女 スミ 芸妓
三女 ナヲ 祇園川端のお茶屋の仲居
四女 ユキ モルガンお雪

加藤ユキ、
明治十四年(1881)十一月(7日)
出生と戸籍にはあるが、
実際には同年(明治14年)八月七日に生まれた。
当時は届け出が遅れるのが普通で、
女の子だけに少しでも遅くという配慮が、
よけいにそうさせたのであろう。
父は加藤平助(天保二年(1831)生れ)、
母はコー(天保八年(1837)生れ)。
ユキはその末っ子である。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12188655/1/12

ウタは女ながらも大黒柱という自覚と責任感から、
体一つを元手に懸命に働いた。
母親のコトに似て、
男まさりで通っていた。
稼ぎを貯え、自前になり、
ついに祇園新橋にお茶屋と芸者置屋兼業の
加藤楼を開業するにいたったのは、
明治三十三年(1900)、三十三歳のときである。

さいわい加藤楼は八十年来健在で、
橋の畔で現在も営業を続け、
新橋の主とも呼ばれている。
当主はウタの養女『てる』さんである。
『てる』さんは、
ふとユキをしのばせるなめらかな京言葉で、
昔を語ってくれた。
「おかあはんがここを買(こ)うたのは、
 ちょうど私の生まれた
 明治二十九年(1896)やそうです。
 まだガス灯のころで、
 私の記憶でも、
 夜になると寂しいというより、
 こわいくらい暗うおした。
 母は自前になってから、
 末吉町に家を構えて祖母を引き取り、
 ユキおばさんもそこから芸妓に出ました。
 そして自分は、
 芸妓はいつまでもしてるもんやないというて、
 お金を溜めてこの店を始めはったんどす。
 後援者の人たちからだいぶん借金して、
 当時のお金で八十円、百円と返したはりましたえ」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12188655/1/14

祇園の芸妓時代は「胡弓のユキ」と呼ばれていた
 p15【モルガンお雪 (集英社文庫)】1984
〔画像〕p15【モルガンお雪 (集英社文庫)】1984
https://dl.ndl.go.jp/pid/12188655/1/15

川上俊介とユキとの出会いは、
これより三年ほどさかのぼる春のことである。
東京の某官庁(※文部省)の属官であった俊介は、
公用で京都にきて、 ※明治31年前後
一夜、円山公園の平野家で開かれた宴席に招かれ、
その席に祇園新地の芸妓舞妓数名とともにはべったのが、
ユキであった。

俊介は、熊本の五高を出ただけで、
大学へは進めなかった失意の男である。
鹿児島県の士族だが、
学業を放擲しなければ
ならないほどの差し迫った事情が、
家にあったのであろう。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12188655/1/21

昭和40年に建てられたユキの墓
 p146【モルガンお雪 (集英社文庫)】1984
〔画像〕p146【モルガンお雪 (集英社文庫)】1984

付記
ユキの墓は遺族の強い希望により、
昭和五十八年(1983)五月十八日、
逝去二十年の命日に、
※昭和38年(1963)5月18日没
同じ大北山のカトリック墓地だが、
新しい場所に改葬され、
墓碑もつくり直された。
黒い石を横たえた墓である。
 CIMG5694-180315-20
※撮影:平成30年(2018/03/15)小野喜代子
〔画像〕CIMG5694-180315-20

なお、
姪の加藤てるさんは、
※明治29年(1896)生
昭和五十二年(1977)、
八十一歳の高齢で亡くなった。
ベルサイユのマリー・ビュレット夫人も、
すでに他界されている。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12188655/1/146
集英社文庫 モルガンお雪 360円
昭和59年7月25日 第1刷
著 者 小坂井 澄
発行者 堀内末男
発行所 株式会社 集英社
    東京都千代田区一ツ橋2-5-10 〒101
    電話 東京(238)2842(編集)
         (230)6171(販売)
印 刷 凸版印刷株式会社
https://dl.ndl.go.jp/pid/12188655/1/150
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【モルガンお雪四万円】明治35年
著者    鶴浦 著
出版者   駸々堂
出版年月日 明35.8
その翌日おゆきは
實の姉に當る
新橋貸座敷 加藤樓の女將おうた
末吉町の小方業 加藤おすみ
西陣の帶地商 福田某の妻おなを
の三人を訪ね廻りて
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年03月17日09:36
[墓参り 衣笠墓苑]
テレジア
ユキ モルガン
1881年(明治14年)11月7日生
1904年(明治37年)ジョージデニソン
           モルガンと結婚
1963年(昭和38年)5月18日帰天
 a12a8ccd
 8ce24dc3
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《伊勢俊介・川上俊介》京都帝國大學 書記 伊勢俊介【職員録 明治30年現在(甲)】京都帝國大學 書記 川上俊介【職員録 明治32年現在(甲)】

【芸妓からアメリカの大富豪の妻へ】
モルガンお雪 ~明治のシンデレラの生涯
しかし当時、お雪には京都帝国大学の学生、
川上俊介という恋人がいたため、
モルガンからの求婚を断った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
《伊勢俊介・川上俊介》
【第五高等学校一覧 明治39,41年】伊勢俊介 明治28年7月卒業
【職員録 明治30年現在(甲)】伊勢俊介 京都帝國大學 書記
【職員録 明治32年現在(甲)】川上俊介 京都帝國大學 書記

《伊勢俊介》
第五高等学校 法科 明治28年(1895)7月卒業
【第五高等学校一覧 明治39,41年】
  第四回(明治二十八年七月)卒業七十人
 第一部法科二十六人
法 伊勢俊介 鹿兒島士
p171【第五高等学校一覧 明治39,41年】
〔画像〕p171【第五高等学校一覧 明治39,41年】
https://dl.ndl.go.jp/pid/812894/1/171

【官報 1895年07月08日】明治28年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 明治28年
〇第五高等學校卒業證書授與式
  卒業生氏名
 第一部法科
鹿兒島縣士族 伊勢俊介
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
《川上俊介・伊勢俊介》
東京帝国大学 入学の記録は無い
【官報 1895年11月12日】明治28年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 明治28年
〇學生入學宣誓式
 帝國大學ニ於テ去月三十日例ニ依リ
 學生入學宣誓式ヲ行事ヘリ
 其學生ノ氏名ハ左ノ如シ(文部省)
大學院(三十二人)
法科大學(百五十人)
※川上俊介・伊勢俊介:記載無し

【東京帝国大学一覧 明治27-28年】
 第二 法科大學學生及生徒
※川上俊介・伊勢俊介:記載無し

【東京帝国大学一覧 明治28-29年】
 第二 法科大學學生及生徒
※川上俊介・伊勢俊介:記載無し
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
《伊勢俊介》
文部省 秘書官 明治29・30年
【職員録 明治29年現在(甲)】1896
[文部省]
◎大臣官房
〇秘書課 秘書官 屬
 伊勢俊介

【文部省職員録 明治30年5月】1897
[文部省]
◎大臣官房
〇秘書課 秘書官 屬
 伊勢俊介 鹿兒島縣 士族
 神田區錦町三、二一 井上方
 p5【文部省職員録 明治30年5月】1897
〔画像〕p5【文部省職員録 明治30年5月】1897
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
《伊勢俊介・川上俊介》
京都帝国大学 書記 明治30・32年
【職員録 明治30年現在(甲)】1897
〇京都帝國大學
書記 伊勢俊介
 p245【職員録 明治30年現在(甲)】1897
〔画像〕p245【職員録 明治30年現在(甲)】1897

【職員録 明治32年現在(甲)】1899
〇京都帝國大學
書記 川上俊介
 p266【職員録 明治32年現在(甲)】1899
〔画像〕p266【職員録 明治32年現在(甲)】1899
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
《川上俊介》
京都帝国大学 法科 政治学科
明治32年入学 明治36年卒業
【京都帝国大学一覧 明治30-33年】
 第二 法科大學學生及生徒
政治學科 明治三十二年(1899)入學
川上俊介 鹿兒島
【京都帝国大学一覧 明治33-35年】
 第二 法科大學學生及生徒
政治學科 明治三十二年(1899)入學
川上俊介 鹿兒島
【京都帝国大学一覧 従明治34年至明治35年】
 第二 法科大學學生及生徒
政治學科 明治三十二年(1899)入學
川上俊介 鹿兒島

【京都帝国大学一覧 明治43-44年】
  〇卒業生姓名
   法學士 政治學科
明治三十六年(1903)七月卒業
川上俊介 鹿兒島
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《川上俊介》大正11年2月9日歿【類聚伝記大日本史 第十二卷】昭和11年

【芸妓からアメリカの大富豪の妻へ】
モルガンお雪 ~明治のシンデレラの生涯
しかし当時、お雪には京都帝国大学の学生、
川上俊介という恋人がいたため、
モルガンからの求婚を断った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【類聚伝記大日本史 第十二卷】昭和11年
著者    雄山閣 編
出版者   雄山閣
出版年月日 昭和11
《川上俊介》
鹿兒島縣の人、明治三年十二月生る。
      ※1871年2月1日
明治二十八年(1895)
東京帝國大學法科に入りしも半途退學。
後ち京都帝國大學法科に入學、
明治三十六年(1903)卒業後
浪速銀行に入り縱横の奇才を發揮し、
關西銀行界に活躍す。
後ち東京瓦斯電氣會社の常務取締役、
朝日興業、帝國製糖等の重役として
實業界に重きをなす。
大正十一年(1922)二月九日歿す、
享年五十五年。※55⇒51
 p142【類聚伝記大日本史 第十二卷】昭和11年
〔画像〕p142【類聚伝記大日本史 第十二卷】昭和11年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1879883/1/142
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《川上俊介》鹿兒島縣士族 川上親郷の二男【人事興信録 5版】大正7年(1918)

【芸妓からアメリカの大富豪の妻へ】
モルガンお雪 ~明治のシンデレラの生涯
しかし当時、お雪には京都帝国大学の学生、
川上俊介という恋人がいたため、
モルガンからの求婚を断った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【人事興信録 5版】大正7年
著者    人事興信所 編
出版者   人事興信所
出版年月日 大正7
《川上俊介》
 株式會社常盤商會 取締役
 東京瓦斯電氣工業株式會社 取締役
 朝日興業株式會社 取締役
 大阪舎密工業株式會社 監査役
 帝國製糖株式會社 監査役
 鹿兒島縣士族
 妻  豐子 明治一四年(1881)一一月生
       鹿兒島士族 川上左七郎 二女
 男  幸吉 明治三九年(1906) 六月生
 兄  修吉 慶應 二年 五月生 ※1866年6月
 兄妻 ムメ 明治 三年一一月生 ※1870年12月
       兄修吉妻 有川矢九郎 三女
君は鹿兒島縣士族 川上親郷の二男にして
明治三年十二月十二日を以て生れ
※1871年2月1日
明治四十二年(1909)八月家督を相續す
先是
明治三十六年(1903)京都帝國大學法科大學を卒業し
株式會社浪速銀行に入り
明治三十八年(1905)歐米に航し在留三年
先進文明國の銀行事業を視察し
明治四十一年(1908)歸朝
浪速銀行に復職し
明治四十二年(1909)東京支店長に舉けられしも
後之れを辭し
現時前記諸會社の重役として令名あり
曾て臺灣赤糖株式會社監査役を兼ねしことあり
家族は尚
二男 俊高 明治四一年(1908) 九月生
長女 孝子 明治四二年(1909)一〇月生
甥  誠夫 明治三四年(1901) 八月生
      兄 修吉 長男
甥  早太 明治三七年(1904) 一月生
      兄 修吉 二男
(東京、麻布、櫻田町七一)
(電話 長 芝四七三七)
 p477【人事興信録 5版】大正7年
〔画像〕p477【人事興信録 5版】大正7年
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【官報 1922年05月08日】大正11年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 大正11年(1922)
◎東京ワセリン工業株式會社(變更)
一 取締役左記ノ者ハ大正十年十二月二十六日各重任
  川上 俊介  東京市麻布區櫻田町七十一番地
  二宮 榮忠  東京市赤坂區靑山高樹町二十番地
  瀨島猪之熊  東京市麴町區飯田町五丁目十二番地
  伊藤柳次郎  東京府北豐島郡日暮里町五百七十九番地
一 會社ヲ代表スヘキ取締役左記ノ者ハ同日重任ス
  會社ヲ代表スヘキ取締役 川上俊介
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《川上俊介》明治3年12月12日生【日本有名誌:即位記念】大正3年(1914)

【芸妓からアメリカの大富豪の妻へ】
モルガンお雪 ~明治のシンデレラの生涯
しかし当時、お雪には京都帝国大学の学生、
川上俊介という恋人がいたため、
モルガンからの求婚を断った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【日本有名誌:即位記念】1914
著者    杉謙二 編
出版者   杉謙二
出版年月日 1914
《川上俊介君》
君は鹿兒島の人
川上親郷氏の次男なり
明治三年十二月十二日を以て生る
※1871年2月1日
初め熊本高等學校に學び後、
東京帝國大學に入り ※記録無し
故ありて半途退學し
職を文部省に奉ず
明治三十年(1897)
京都帝國大學の創立せらるゝや
大學書記として赴任せしが
翌年冬
辭して大阪の鹿島屋に入り
外國貿易の業に從ふ
明治三十二年(1899)
京都帝國大學法科に入り
明治三十六年(1903)卒業し
直に浪速銀行大阪支店に入り
縦横の手腕を揮ひ
關西銀行界の俊才を以て稱せらる
明治三十八年(1905)
米國及び英京ロンドンに漫遊し
具に先進國銀行界の眞相を觀察し
明治四十一年(1908)
歸朝再び浪速銀行に入り
明治四十二年(1909)
抜擢して東京支店長に舉げられ
中央財界に於ける同行の代表者として雄飛せり
 p496【日本有名誌:即位記念】1914
〔画像〕p496【日本有名誌:即位記念】1914
https://dl.ndl.go.jp/pid/3440526/1/496
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

衣笠墓苑 法面崩落(写真3枚)令和3年(2021)8月11日

衣笠墓苑 法面崩落(写真3枚)令和3年(2021)8月11日

mail 2021/08/13(金)11:33
一昨日(令和3年(2021)8月11日)、
墓参に行ってきました。
奥の方が、こんなになっていました。
法面崩落です。
               小野雄二

1-小野家の墓
〔画像)1-小野家の墓

2-モルガンお雪の墓
〔画像)2-モルガンお雪の墓

3-法面崩落
〔画像)3-法面崩落
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年03月17日
小野又一 納骨 昭和47年(1972) 衣笠墓苑
〔写真4葉)昭和47年(1972)当時の法面
小野又一 大正5年(1916)7月11日 生
父    昭和47年(1972)1月31日 歿 56歳
シスター・メリーキャサリン
(当時 ノートルダム女学院中・高校長)
皆福芳江 2001年(平成13年)1月31日 帰天
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年03月17日
[墓参り 衣笠墓苑]
昨日(平成24年(2012)3月15日)、
墓参りに行きました。
テレジア ユキ モルガン(墓)
1881年(明治14年)11月7日生
1904年(明治37年)ジョージデニソン
           モルガンと結婚
1963年(昭和38年)5月18日帰天
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《加藤ウタ:モルガンお雪の長姉》橋本町【京都市及接続町村地籍図. 第2 附録】大正1年

《加藤ウタ:モルガンお雪の長姉》橋本町
【京都市及接続町村地籍図. 第2 附録】大正1年

【京都市及接続町村地籍図. 第2 附録】
目 次 p3/252
元組名 元十五組 p4/252
所 在 八坂新地大和大路二丁目
町 名 橋本町
地圖頁 五五
附錄頁 二〇六
「下京區元第十五組」 p117/252
 新橋通リ大和大路東入二丁目
橋本町
三八二 宅地 一四・二八  中西芳次郎
三八三 宅地 三五・五八  中西芳次郎
三八四 宅地 四九・二三  中西芳次郎
三八五 宅地 四二・七〇  菱田太郎
三八六 宅地 七〇・五九  中西芳次郎
三八七 宅地 四二・二五 《加藤ウタ》
三八八 宅地 六一・九八  龜山 常
三八九 宅地 五八・九六  太田ミヨ 辨財天町
―略―
  京都地籍圖第二編
大正元年八月二十八日印刷
大正元年八月三十一日發行
編纂者 稻津近太郎
發行者 能勢健治
    大阪市南區大寶寺町中ノ町四十番地
發行者 川村秀三郎
    京都市下京區河原町通大黑町四十番地一
印刷者 中西勝太郎
    京都市上京區下立賣通小川東入
    西大路町百四十六番地
印刷所 中西印刷合名會社
    右同所
發行所 京都地籍圖編纂所
    京都市下京區河原町通大黑町
    電話 中四一三〇番

【京都市及接続町村地籍図. 第2】大正1年
(元十五組ノ内) p57/155
橋本町    祇園町北側(中部)
富永町(東部) 林下町(西部) 淸本町
〔橋本町〕 
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
〔加藤てる〕[モルガンお雪の姪]『私の見た人』吉屋信子
『私の見た人』吉屋信子[モルガンお雪] p40-43
 うわさの女
 ―略―
祇園の加藤楼(彼女の長姉経営)で会見ときまって、
花束を抱えてカメランマン氏と同行、
そこの二階座敷で待つと、
ほどなくふすまが少し開きかけたが、
たちまちピシャリと閉ざされてしんかんとした。
やがて彼女のめいの〔おてる〕さんが
〔写真〕
※〔加藤てる〕昭和43年(1968)頃
 撮影場所 京都市北区出雲路俵町4
      坂本恭啓 邸
気の毒そうに出て来て、
「写真の人が来やはりましてはな、
 会えまへん。
 写真撮られるの
 しんどい言やはりますが」
……万事休してカメラ氏を階下に追放、
私ひとりになると彼女が現れてくれた。
パリジェンヌ好みの黒い服の姿に銀髪、
ふちなし眼鏡、
顔立ちはかつて京美人のおもかげが残っていた。
 ―略―
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[思い出の写真帖]071〔坂本恭啓社長・還暦記念〕
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[思い出の写真帖]072〔坂本恭啓社長:古希・昭和43年〕
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
お茶屋 かとう
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
京おんなぼちぼち日記
[祇園 かとう]
2014-03-02 18:34:00
祇園のお茶屋かとうさんの
120年祝宴
祇園甲部の手打ち式は、
慶事の時に披露される格調の高い伝統芸
揃いの黒紋付きの衣装で拍子木を
打ち鳴らしながらの登場から始まり約15分
一生に一度の貴重な体験をさせて頂けました
4代目の女将から5代目の女将へと...
また遊びに行きます
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


[思い出の写真帖]072〔坂本恭啓社長:古希・昭和43年〕

[思い出の写真帖]072〔坂本恭啓社長:古希・昭和43年〕
坂本恭啓社長古希

※前列右端:加藤てる

 前列中央:坂本恭啓

 後列左端:小野一雄

坂本工業(株)社員等

古希 昭和43年(1968)

坂本恭啓:明治31年(1898)1月6日生

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
〔加藤てる〕[モルガンお雪の姪]『私の見た人』吉屋信子
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2660423.html
[思い出の写真帖]071〔坂本恭啓社長・還暦記念〕
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/4892032.html
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[思い出の写真帖]071〔坂本恭啓社長・還暦記念〕

[思い出の写真帖]071〔坂本恭啓社長・還暦記念〕
1-坂本恭啓社長還暦
2-坂本恭啓社長還暦
昭和三十四年(1959)一月六日
坂本恭啓 還暦記念
明治31年(1898)1月6日生
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[思い出の写真帖]028
〔坂本電器:林譲治・小野又一〕
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/4411976.html
[思い出の写真帖]038
〔ホテル東園:坂本恭啓社長〕
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/4460342.html
[思い出の写真帖]053
〔坂本恭啓邸:北区出雲路俵町4・昭和22年〕
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/4568690.html
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

〔加藤てる〕[モルガンお雪の姪]『私の見た人』吉屋信子

『私の見た人』吉屋信子
[モルガンお雪] p40-43
 うわさの女
 ―略―
祇園の加藤楼(彼女の長姉経営)で会見ときまって、
花束を抱えてカメランマン氏と同行、
そこの二階座敷で待つと、
ほどなくふすまが少し開きかけたが、
たちまちピシャリと閉ざされてしんかんとした。

やがて彼女のめいの〔おてる〕さんが
〔加藤てる〕
※〔加藤てる〕昭和43年(1968)頃
 撮影場所 京都市北区出雲路俵町4
      坂本恭啓 邸

気の毒そうに出て来て、
「写真の人が来やはりましてはな、
 会えまへん。
 写真撮られるの
 しんどい言やはりますが」

……万事休してカメラ氏を階下に追放、
私ひとりになると彼女が現れてくれた。
パリジェンヌ好みの黒い服の姿に銀髪、
ふちなし眼鏡、
顔立ちはかつて京美人のおもかげが残っていた。
 ―略―
追記 「うわさの女」を執筆、
   掲載が三月二十一日(昭和三十八年)
   その二カ月後の五月十九日の新聞夕刊は、
   モルガン・ユキさんの逝去を伝えた。
   数奇なる経歴を持つ彼女は
   紫野門前町の棲居でそのながかりし
   老後の余生を終わったのだった。

2010年9月7日印刷
2010年9月17日発行
発行所 株式会社みすず書房
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改定版
2012年03月17日(土)
[墓参り 衣笠墓苑]
テレジア
ユキ モルガン
1881年(明治14年)11月7日生
1904年(明治37年)ジョージデニソン
          モルガンと結婚
1963年(昭和38年)5月18日帰天
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2176731.html

記事検索
カテゴリー
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新コメント
アーカイブ
  • ライブドアブログ