人見鹿太郎

《人見鹿太郎》公同組長・衛生組長 聚樂廻西町北部【京都市公同組長・衛生組長名鑑】昭和8年

【京都市公同組長・衛生組長名鑑】昭和8年
出版者   市民風景社
出版年月日 昭和8
p3【京都市公同組長・衛生組長名鑑】昭和8年
〔画像〕p3【京都市公同組長・衛生組長名鑑】昭和8年

  朱雀學區
 町  名   公同組長  衛生組長
聚樂廻西町北部 人見鹿太郞 同 上

昭和八年 十月二十八日印刷
昭和八年十一月  一日發行
京都市 公同組長 衛生組長 名鑑
定價  金壹圓貳拾錢
編輯發行兼 田中義一
印刷人   京都市中京區御池通烏丸東入
印刷所   株式會社 文化時報社印刷部
      京都市下京區猪熊通梅小路上
發行所   市民風景社
      京都市中京區御池通烏丸東入
      電話本局二八三〇番
      振替大阪四八一五九番
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《人見鹿太郎》大阪英語学校 下等第一級【[大阪英語学校]第十学年第一期校表 明治11年9月-11年12月】

【[大阪英語学校]第十学年第一期校表 明治11年9月-11年12月】
出版者   大阪英語学校
出版年月日 明11.10
p1【[大阪英語学校]第十学年第一期校表】
〔画像〕p1【[大阪英語学校]第十学年第一期校表】

   第三章 生徒現籔 明治十一年九月一日調査
  下等第一級
武田 梅吉 兵庫  上月  潔 三重  大澤貫之助 大坂
川口 彌三 兵庫  三崎豐四郎 兵庫  人見鹿太郞 京都
生駒 與輔 大坂  大久保鋭太郎 茨城 林 藤三郎 長崎
横田 富正 東京  横瀬守太郎 長崎  柏谷 彌平 大坂
笠野吉次郎 長崎  森 義之助 京都  岩原 澤之 石川
  計 十五人
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《人見鹿太郎》東京下谷區御徒町・京都下立賣千本西入【松廬漫筆】昭和7年

【松廬漫筆】昭和7年
著者    徳江亥之助 著
出版者   徳江亥之助
出版年月日 昭和7
p2【松廬漫筆】昭和7年
〔画像〕p2【松廬漫筆】昭和7年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1056841/1/2

   人見氏と湯屋
茲に帝國憲法の發布を記念するに當り、
私は一人の友人に就き述べてみたいのである。
憲法發布の頃私は、
京都府下丹波の人、
人見鹿太郞氏と共に、
東京下谷區御徒町なる或る茶店の二階に寓し、
實に貧しい憐れな書生生活をしてをつた。
貧書生ながらも私は彼と共に、
空前な斯の大典を奉祝し、
始めて立憲國民としての
聖恩を領土するに至つたのである。

此日たまたま雪降り滿都一面の銀世界、
こゝに突如として要路の新知識、
新人材森大臣の血潮が、
紅點々として白雪に灑がれしは、
今に忘れぬ痛恨事である。

※森大臣
森有礼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
しかし明治22年(1889年)2月11日の
大日本帝国憲法発布式典の日、
それに参加するため官邸を出た所で
国粋主義者・西野文太郎に短刀で脇腹を刺された。
応急手当を受けるが傷が深く、翌日午前5時に死去[8]。
43歳だった。

人見君は實に温厚篤學の士にして、
疾くより經濟と道德との調和論を主張し、
未だ報德敎の世に廣く知られざる頃、
彼は既に二宮翁の人格と、
其の主張とに敬服し、
あらゆる翁の遺著を渉獵したものであつた。

其後彼は京都に歸つて成功せられた。
今現に京都下立賣千本西入に於て、
他の人々からは彼の姓に因つて
人見町と呼ばるゝ一市街が設けられ、
彼は此の町の大屋樣であり支配者であり、
そして慈悲深い旦那はんとして、
多籔の人より尊敬せられてをる。

私は四年前の秋、
久振りにて彼を訪れ、
彼の事業談や懐舊談に
愉快な一夜を明かしたことがある。

そして彼が成功した事業の動機が頗る面白いのである。
彼は始め京都市外の郡部に僅かな畑地を買入れ、
其の真中に唯一棟の家屋を造り、
遠く取寄せた霧島温泉の湯花にて、
此處に湯屋營業を開いたのである。
當時人は其の無謀を嘲笑したる由。

然るに彼は云ふ、
人は兎角之を賤業視すれども、
凡そ商賣として客を心より悦ばし
嬉々として歸らしむるものは、
蓋し斯業の外にあらず。

入る時の汚垢、
出る時の淸淨
何人か快哉を呼ばざるものあらん、
特に勞働者に於て之を見ると。
何時しか彼の親切心が非常の評判となり、
遠近の浴客常に絶えず、
遂には老病者のために保養院を設け
夫れより之を中心として其の周囲に、
穀屋、雜貨店、靑物店、理髪店、裁縫所、
其他必要品販賣の店舗に充つべき家屋を
漸次に築造して人に貸與し、
そして遂に今日の如く市部に迄
連絡する賑かな一市街が生れたのである。
彼が理想の一部も漸く
こゝに實現されしといふべきである。
(大正九年二月〇日)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1056841/1/47

昭和七年十二月 二十日印刷
昭和七年十二月二十五日發行 非賣品
編輯兼 德江亥之助
發行人 前橋市北曲輪町七四
印刷人 根岸龜壽郎
    前橋市宗甫分甲三〇九
https://dl.ndl.go.jp/pid/1056841/1/133
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《父、人見鹿太郎の思い出》人見道子【父を語る母を語る:キリストに愛された人々 第1集】1979

【父を語る母を語る:
 キリストに愛された人々 第1集 (同信新書 ; 1)】1979
著者    藤尾正人 編
出版者   同信社
出版年月日 1979.10
p1【父を語る母を語る 第1集】1979
〔画像〕p1【父を語る母を語る 第1集】1979
https://dl.ndl.go.jp/pid/12266859/1/1

<人見鹿太郎>
 父、人見鹿太郎の思い出 p38-43/110
   人見道子
父・人見鹿太郎を語るようにすすめられ、
祖父母の隠居所に住みついた私は、
あらためて古い部屋の天井を眺め、
父が主様のみ手に導かれたからこそ、
世の荒波を乗り切り、
孝養をつくし、
子供たちにも信仰を伝えた生活を、
なつかしく思い出しています。

貧相な体躯に小さい顔、
怒った表情を知りませんが、
笑っても口をあけず静かな人でした。

一見小心者のように見えましたが、
たとえ案ずることがあっても
主さまに祈ったあとケロリと高いびき、
まことに太っ腹の父でありました。

   父の生立ち
父の生立ちにつきまして人見の系図を開きました。
信じられない位立派な方々が先祖におられますが、
四十三代目として
現在の亀岡市馬路町で生まれた父は小さくて、
ひ弱かったようです。

農具が重すぎたのか勉学に進み、
北海道へ渡り北大にも学んだ事もあり、
また東京で自炊生活をして勉学した時代もありました。
祖父ゆずりの数学に明るく漢書にもひいでていました。
父の蔭には千代野伯母の献身的努力があります。

いろいろな商売にも手を出し、
お勤めもし、
宇治の茶業組合を創設、
また大日本農会(今の農協の前身)を、
後の東大総長古在氏と共に創設した
陰の人物でもありました。

初代京都府知事板垣氏
(※第3代 北垣国道)とも親交を重ね、
意見をはいていた様子です。
   -略-
https://dl.ndl.go.jp/pid/12266859/1/38

<堀米吉・つる>
 われらの国は天にあり 松村貴美枝
   生いたち・結婚
父・堀米吉は万延元年一月二十八日 ※1860年2月19日
大阪の商家に生まれました。
七、八人の兄妹の末っ子として育てられました。
当時はまだ小学校もない時なので
厳父(佐助)の教育を受けましたが、
本人の将来のためと考えて、
十一歳の時に商業見習いのために
丁稚奉公に出されました。
それから七十二歳まで、
大阪商人として終始一貫過ごしました。
父二十三歳、母つる十七歳にて結婚しました。
母つるは慶応二年九月十八日 ※1866年10月26日
大阪の商家に生まれました。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12266859/1/57
   父母 召天
大正十四、五年頃と思いますが、
朝鮮全羅南道務安郡一老面に
京都の人見鹿太郎氏と父と共同にて、
栄和農場を開拓しました。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12266859/1/59
父を語る母を語る―キリストに愛された人々 第1集 
1979年10月21日発行 同信新書1 定価700円
編 集 藤尾正人
発行者 鈴木善七
発行所 同信社
    東京都中野区中野1-45-12 〒164
    電話 03-361-1744
    振替 東京3-19554
印刷所 三栄印刷
https://dl.ndl.go.jp/pid/12266859/1/105
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《人見鹿太郎氏》人見温泉として著名なり【日本国民誌:開国七十年紀念 人物篇】昭和9年

【日本国民誌:開国七十年紀念 人物篇】昭和9年
著者    梶威人 著 [他]
出版者   万朝報社調査部内日本国民誌編纂局
出版年月日 昭和9
p4【日本国民誌:開国七十年紀念 人物篇】昭和9年
〔画像〕p4【日本国民誌:開国七十年紀念 人物篇】昭和9年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1215640/1/4

《人見鹿太郎氏》
 安政六年十月十六日生 ※1859年11月10日
 京都府中京區聚樂廻西町一六五
人見家は府下南桑田郡馬路村に發し
其の以前は楠正成時代より武門として
相継承すと傳ふるも詳記せるものなし
人見姓は埼玉縣人見村より出でたりといふ
明治維新當時は勤王黨として活躍す

當主 人見鹿太郎氏は少時寺子屋にて學び
十七歳の頃大志を抱きて京都に上り
漢學を學び間もなく郷地に歸り

二十五歳の頃北海道に渡り
未開地の開拓に努むること三年
成果を人に譲りて京都に歸り

  blog[小野一雄のルーツ]改訂版
  2012年03月23日16:11
  [小北甚之助]:【移住者成績調査】
  ※B 郷里の友人、「人見鹿太郎」なるものと諮り
  両人の名義にて同年四十五町歩の貸付を受け
三十歳の頃家に傳ふる田畑を金に代え
將來の發展を目睹して現地を買入れ
籔十軒の貸家を建築し
自ら湯屋を開業す
人見温泉として著名なり

又近所に市場を設立する等
先見の明に加ふるに果斷よく之を就して
一躍今日の財を成すに至る

大正十年(1921)頃よりは
朝鮮の未開地九百町歩を買入れ
目下水田となし米作の収穫も大なるものあり

業餘公共に盡すところ多く
村會議員たること長く
現に公同衞生組長としてあり
趣味として文學讀書旅行農事開拓等たり

家庭には糟糠の妻として
貞淑にして賢明を謳はる
タカ子夫人との間に三男あり
共に英明の子弟にて父君を助け
地方開拓等に志し
現に朝鮮の開拓に當る
p451【日本国民誌:開国七十年紀念 人物篇】昭和9年
〔画像〕p451【日本国民誌:開国七十年紀念 人物篇】昭和9年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1215640/1/451
昭和九年五月廿六日 印刷
昭和九年五月卅一日 發行
編纂代表竝 中澤宇三郎
發行人   東京市杉並區馬橋町百六十七番地
著   者 梶  威人
印刷者   中村 光治
      東京市神田區今川小路一丁目六番地
發行所   萬朝報社調査部内
      日本國民誌編纂局
      東京市京橋區銀座二丁目三番地
印刷所   中村印刷所
https://dl.ndl.go.jp/pid/1215640/1/549
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【公娼廃止請願書写】明治23年12月
著者    人見鹿太郎 著
出版者   人見鹿太郎
出版年月日 明23.12
明治廿三年十二月八日印刷並出版(非賣品)
著作兼發行者 人見鹿太郎
       京都市上京區下立賣通千本東入
       田中町四十二番戸
印刷者    山鹿福三郎
       京都市上京區烏丸通三條上ル
       場之町三十三番戸
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《人見止戈三》第13回大会(昭和2年)準決勝戦 平安中対京師範の試合前の挨拶[緑ヶ丘球場]【京都高校野球史】1967

【京都高校野球史】1967
著者    京都府高等学校野球連盟 編
出版者   京都府高等学校野球連盟
出版年月日 1967.12
p6【京都高校野球史】1967
〔画像〕p6【京都高校野球史】1967
https://dl.ndl.go.jp/pid/12166782/1/6

…榮光に輝く その日は來た…
綠ケ丘の朝風に若人の雄叫び・
京津大會 けふから始まる
昭和2年7月24日付 朝日新聞より
p51-1【京都高校野球史】1967
〔画像〕p51-1【京都高校野球史】1967
https://dl.ndl.go.jp/pid/12166782/1/51

[緑ヶ丘球場] 昭和2年~昭和6年
大正四年にはじまった大会のグランドは、
爾来ほとんどが
三高校庭(現・京大グランド)であった。
ときには同志社中学グランド、
岡崎グランドの使用もあった。
しかし、
昭和二年に京津線(京阪電車)の山科に
緑ヶ丘球場が新設され、
大会会場は西京極球場のできる
昭和六年の大会まで
ここが若人の球宴の中心の場となった。

第13回大会(昭和2年)準決勝戦
平安中対京師範の試合前の挨拶
球審は右より人見止戈三(故人)、
内藤源次郎、薮内紹智の各氏。
なお京師範のチームの一番端に
氷見一雄氏の姿がある。
p51-2【京都高校野球史】1967
〔画像〕p51-2【京都高校野球史】1967
https://dl.ndl.go.jp/pid/12166782/1/51

京都府高等学校野球史  非売品
昭和42年12月20日 発行
編纂者 代表 理事長 氷見一雄
発行者 京都府高等学校野球連盟
    京都市東山区今熊野池田町12
       大谷高等学校内
       TEL(54)1312~5
印刷所 株式会社吉川印刷工業所
印刷者 吉川健一
    京都市上京区日暮通丸太町角
       TEL(82)1125~7
https://dl.ndl.go.jp/pid/12166782/1/265
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《人見止戈三》人見温泉【大衆人事録 近畿篇】昭和15年

【大衆人事録 近畿篇】昭和15年
著者    帝国秘密探偵社 [編]
出版者   帝国秘密探偵社[ほか]
出版年月日 昭和15
p4【大衆人事録 近畿篇】昭和15年
〔画像〕p4【大衆人事録 近畿篇】昭和15年

《人見止戈三》
 信榮(株)取締役
 榮和農場(株)取締役
 人見溫泉(合資)代表
 下立賣市場主
 地家主
 (税)一七三五
 中京區聚樂廻西町一六五
 電話 西陣六七八
[閲歷]
本府 鹿太郎 長男
明治卅年十一月廿日生る
府立一商業 卒業
宗敎 基督敎
趣味 ハイキング
[家庭]
妻  多美 (明治三八年)
       奈良縣 岡本淸太郎 二女
       平安女學院卒
長男 嗣郎 (大正一五年)
二女 多惠子(昭和三年)
二男 武  (昭和八年)
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【官報 1932年06月30日】昭和7年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 昭和7年
◎合資會社設立
 商號 合資會社 人見溫泉
 本店 京都市中京區聚樂廻西町百六十五番地
 目的 一 溫泉場經營及是ニ附帶スル一切ノ事業
 設立ノ年月日 昭和七年二月二十七日
 社員ノ氏名住所 出資ノ種類及價格責任
  金一万圓 無限 人見止戈三
       京都市中京區聚樂廻西町百六十五番地
  金一万圓 有限 人見 豐
       京都市中京區聚樂廻西町六十番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2024年11月19日05:45
《柴田金三郎》京都印刷工組合とアナーキズム
【京都地方労働運動史】1959
とくに、
この組合の基幹分子福島・野村らは、
組合創立前後より、
アナーキスト柴田金三郎・笹井末次郎らとともに、
印刷工組合会長藤本岩夫の住む
上の下立売千本辺の人見温泉にたむろして、
恰も一城を形成している如くであった。
このうち柴田金三郎は、
昭和に入ると神州報国会なる右翼団体をつくり、
ストライキ破りを専門とするようになるが、
彼はもともと
「雷団」という不良少年グループの団長で、
たまたま警察の留置場で
アナーキストの警官を恐れぬ
ヒロイックな態度に感心し、
このグループに接近して来たのであった。
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