早稲田ラグビー

《石丸五郎》日本コロンビア蓄音機(株)新京支店長【大衆人事録 第14版】昭和18年

【大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇】昭和18年
著者    帝国秘密探偵社 編
出版者   帝国秘密探偵社
出版年月日 昭和18(1943)
《石丸五郎》正八 陸軍少尉
 日本蓄音機商會(株)新京支店長
 日本コロンビア蓄音機(株)新京支店長
 新京特別市中央通四〇ノ二
 電話三ノ五八九七
【閲歷】愛媛縣
明治卅年(1897)二月十八日生る
大正十一年(1922)早大商科卒業
三ツ引商事勤務を經て
昭和四年(1929)現社入社
名古屋・大連・奉天
各支店歷勤
昭和十四年(1939)現職
宗敎 眞言宗
趣味 運動・打球
【家庭】
妻  琴 子 明治四〇年(1907)
       末吉 長女 愛知縣立專門卒
長男 哲 郎 昭和一五年(1940)
長女 伊都子 昭和 八年(1933)
p451【大衆人事録 第14版・満支篇】昭和18年
p451【大衆人事録 第14版・満支篇】昭和18年
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【早稲田大学校友会会員名簿 [昭和10年用]】
出版者   早稲田大学校友会
出版年月日 1934.12
《石丸五郎》大正11年 大 商 愛媛
勤務先 日本コロンビア蓄音機會社 大連支店
    大連市山縣通
住 所 日本コロンビア蓄音機會社 大連支店
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【早慶紳士録:職域別 昭和25年度版】
著者    早慶出版会 編
出版者   早慶出版会
出版年月日 1949
《石丸五郎》
早稲田ラグビーOBクラブ參與
通商産業省(早稲田・大正一一年)
東京大田区馬込東四ノ七〇
https://dl.ndl.go.jp/pid/1160891/1/109
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《小野田康一》早稲田ラグビーOBクラブ【早慶紳士録:職域別 昭和25年度版】

【早慶紳士録:職域別 昭和25年度版】
著者    早慶出版会 編
出版者   早慶出版会
出版年月日 1949
《小野田康一》
早稲田ラグビーOBクラブ
日本電機製造(早稲田・商科・大正一二年)
神奈川縣北鎌倉山ノ内五四九 自宅
p111【早慶紳士録:職域別 昭和25年度版】
p111【早慶紳士録:職域別 昭和25年度版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/1160891/1/111

【日本ラグビー史】昭和39年(1964)
出版者   日本ラグビーフットボール協会
出版年月日 1964
 青山学院
早大O・B・の小野田康一を
コーチに招いてチーム作りに専念し、
翌(大正)14年の春になって学友会の一部に認められた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2505473/1/68
 ◎実業団の草分
その草分とみるべきは、
大正13、14年ごろ
早大出の小野田康一がつくった
東京電気(マツダランプ)、
大町清のつくった愛国生命、
慶応出の北島辰蔵のつくった常盤生命などであろう。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2505473/1/82
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《井上元佶》三浦元佶(三浦環の支配人)【会員名簿】昭和33-40年度版早稲田大学校友会

《井上元佶》三浦元佶(三浦環の支配人)
三浦 環のマネージャー
早稲田大学
昭和13年(1938)卒業
専門部商科(第2部)
ラグビー部OB
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徳富蘇峰記念館
人物名 井上元佶
職 業 三浦環の支配人
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【会員名簿 昭和33年】昭和33年(1958)
出版者   早稲田大学校友会
出版年月日 1958
三浦 元佶 (旧姓 井上)
昭和13年 専 商
親和広告 取締役
品川区小山町六の三九一
三島荘
p556【会員名簿 昭和33年】昭和33年(1958)
p556【会員名簿 昭和33年】昭和33年(1958)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580678/1/556

【会員名簿 昭和36年度版】昭和37年(1962)
出版者   早稲田大学校友会
出版年月日 1962
三浦 元佶
昭和13年 専 商
日本電位療法研究所
鎌倉市山之内九一〇
電話 高野三〇一九
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580865/1/635

【会員名簿 別冊(学科年度別)】昭和38年(1963)
出版者   早稲田大学校友会
出版年月日 1963
専門部商科
https://dl.ndl.go.jp/pid/9544635/1/109
昭和一三年(第一部)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9544635/1/114
昭和一三年(第二部)
三浦 元佶(旧姓井上)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9544635/1/115

【会員名簿 昭和40年度版】昭和41年(1966)
出版者   早稲田大学校友会
出版年月日 1966
昭和13年 専門部商科
  第1部
https://dl.ndl.go.jp/pid/11622692/1/497
  第2部
https://dl.ndl.go.jp/pid/11622692/1/498
昭和13年 専門部商科
三浦 元佶〔井上〕
日本電位療法研究所
鎌倉市山之内910
https://dl.ndl.go.jp/pid/11622692/1/499
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《三浦元佶》三浦環の相続人【著作権者名簿 昭和35年度版】

【著作権者名簿 昭和35年度版】昭和35年(1960)
出版者   著作権資料研究協会
出版年月日 1960
三浦 環  1946年死亡
相続人   三浦元佶
作詞・作曲 品川区小山町6-391
 p240【著作権者名簿 昭和35年度版】
p240【著作権者名簿 昭和35年度版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/3430434/1/240

【信託者名簿】昭和40年(1965)
著者    日本音楽著作権協会資料部 編
出版者   日本音楽著作権協会
出版年月日 1965
三浦 環(1946年死亡) 詞・曲
相続人  三浦元佶
品川区小山町6-391 三島荘
 p103【信託者名簿】昭和40年(1965)
p103【信託者名簿】昭和40年(1965)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2933862/1/103
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《井上元佶》三浦環の養嗣子・遺産贈与証書【一等女性十人の恋】昭和30年(1955)

【一等女性十人の恋】昭和30年(1955)
著者    古谷綱正 著
出版者   東西文明社
出版年月日 1955
 国際的な恋愛行脚・老いぬ蝶々夫人
 三浦 環
https://dl.ndl.go.jp/pid/2972010/1/17
戦争が終りに近づいた昭和十九年の秋、
環は山中湖畔の自宅から上京、
三田の実弟柴田衣千郎宅に移った。

四年前から環のマネージャーをしており、
その最後の愛人といわれている
井上元佶がつきそっていた。

環はここで
「私の成功のためによく犠牲になった弟へ」
という言葉をそえて、
自分の財産目録と正式の贈与證書を衣千郎に与えた。
ところが衣千郎は元佶をきらい
「若い男を同居させるのは世間態が悪い」
といって退去を求めていた。

戦争は環の期待に反して敗戦に終った。
蝶々夫人を封じた誓はもう必要がなくなったが、
https://dl.ndl.go.jp/pid/2972010/1/25
環は再びうたうには、あまりに老いていた。
その頃から下腹部にできた腫瘍が、
だんだん悪化してきた。

衣千郎、元佶の板ばさみに悩んでいた環は、
昭和二十一年、元佶のすすめをいれ、
弟の家を出て元佶の知人である
玉川上野毛の大東学園病院に入院した。
衰弱は日ましに激しく、
十八貫あった身体は半分の九貫になってしまった。

最後の思い出にと、
四月十三日
NHKのマイクを病室に持ちこんで
蝶々夫人をうたった。
看護婦にささえられてベッドにすわり、
もとは手首にくいこんでいた腕輪が、
いまにも抜け落ちそうな手を医師にとられて、
環は最後の思いをこめてうたった。
その声もさすがに低く、
いたいたしかった。

環は五月二十六日に死んだ。
六十三才であった。

六月七日、日比谷公会堂で
盛大な音楽告別式が行われた。
宮中から祭祀料が贈られ、
時の文相田中耕太郎が弔辞を読んだ。

遺体は東大病理学教室で解剖されたが、
その声帯は二十二、三才の
若い女性と変りはなかった。
環の咽喉は、
東大耳鼻科教室に永久に保存されている。

環の波瀾に富んだ生涯は閉じられたが、
その余波はなお尾をひいていた。
衣千郎と元佶の間で遺産争いが起ったのである。
元佶は環の死の直前、
その養嗣子となり三浦姓を名のっていた。
そして衣千郎と同様
正式の遺産贈与証書を持っていた。
しかも三カ月も日付が新しかった。
大東学園病院で書かれたものである。

これに対して衣千郎は
「すでに環が意識不明に陥ってから
 書かせたものだ」
といい、
元佶は
「芸術に理解のない弟をきらって
 臨終直前に変更した」
と主張している。
これは、ついに訴訟沙汰にまで進んだが、
すでにそれは環とは関係ないことである。

昭和二十七年五月二十六日、
環の七回忌に上野寛永寺境内に建てられた
記念碑の除幕式が行われた。

蝶々夫人を記念して、
蝶々に形どった変った記念碑であった。
その碑の前で、
環の形見の衣裳をつけた弟子の小林伸江が
蝶々夫人のアリアをうたった。
その前に供物がならび、
左右にケサをかけた坊さんが
四、五名ひかえていた。
まことに異様な風景であった。

かつて環が、夫の墓石にすがって
哀悼の歌をうたった一場面が、
大げさな芝居といわれたが、
皮肉にもそれと同様のことが、
再現されたのである。
p26【一等女性十人の恋】昭和30年(1955)
p26【一等女性十人の恋】昭和30年(1955)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2972010/1/26
古谷綱正
1912年東京に生まる
京都大学文学部卒業
現在 毎日新聞社論説委員
本稿は、雑誌「人物往来」に
掲載したものである。
一等女性十人の恋
昭和30年3月31日 第一刷発行 ¥120
著 者 古谷 綱正
発行者 小嶺嘉太郎
印刷所 株式会社 上野印刷所
    東京都墨田区緑町1-10
発行所 株式会社 東西文明社
    東京都千代田区丸ノ内2-2 丸ビル
https://dl.ndl.go.jp/pid/2972010/1/103
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三浦環の嗣子三浦元佶氏【三浦環のお蝶夫人 (音楽文庫)】昭和30年(1955)

【歌に生き恋に生き】昭和42年(1967)
著者    藤原義江 著
出版者   文芸春秋
出版年月日 1967
可哀相な環さんだと思った。
環さんにはこういう面がかなりあったらしいが、
最後には井上元佶(もとよし)氏という
愛する夫に見守られて息を引き取ったのであるから、
結局は男運に恵まれたというべきかもしれない。
この日本が生んだ世界的プリマドンナの晩年を、
何から何まで心配して見守り、
環さんの死に水まで取ったのは、
環さんの親友である大東学園の守屋園長であった。
今日でも、毎年命日には三浦環会として
追悼を兼ねた後援会が、
守屋さんによって催されている。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2513343/1/112

【三浦環のお蝶夫人 (音楽文庫)】昭和30年(1955)
著者    吉本明光 著
出版者   音楽之友社
出版年月日 1955
〔写真〕山中湖畔、寿徳寺境内にある三浦環の墓、
左側の墓標は母堂永田トワ子の墓。
額いている人物は三浦環の嗣子三浦元佶氏。
(昭和二十三年夏)著者撮影。
p5【三浦環のお蝶夫人 (音楽文庫)】昭和30年
p5【三浦環のお蝶夫人 (音楽文庫)】昭和30年
https://dl.ndl.go.jp/pid/2474035/1/5
わが母 永田トワ子
 安政五年三月六日生
 昭和二十年四月十九日死
 (見性院唯室貞心大姉)
山梨県南都留郡中野村平野、
寿徳院に永眠
https://dl.ndl.go.jp/pid/2474035/1/108
マネージャーの井上元佶君が、
「先生、そのモンペはチンドン屋のようで
 可笑しいからおよしなさい」
と云うのを
「赤くてもとても綺麗じやない、
 私気に入つたわ」と、
井上君の注意に大不服だつた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2474035/1/114
(昭和21年)三月十八日、
三浦さんのマネージャー井上元佶君が来訪して、
二十一日の独唱会のために三浦さんは上京したが、
病気が重くなつてもうひとりでは歩けない。
十六日に山中湖畔を出て来たが、
雪の中を私がおぶつて自動車に乗せ、
お隣りに住んでいる画家の気賀麗子さんに
付添つて貰つて自動車で上京して、
三浦さんの旧友、
守屋東さんが玉川上野毛に経営している
大東学園病院に入つている。
と云う話にびつくりしてしまつた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2474035/1/117
(昭和21年3月21日)
定刻、三浦さんはマネージャーの井上君に
おぶられて楽屋から舞台の袖まで行き、
こゝからお弟子さんの寺脇さんに
介抱されてステージへ出た。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2474035/1/118
昭和三十年七月五日印刷
昭和三十年七月十日発行 定価一二〇円
著 者 吉本 明光
発行者 目黒 三策
    東京都千代田区神田鍛冶町二ノ一〇
印刷者 日出島武男
    東京都文京区元町二ノ三一
発行所 株式会社 音楽之友社
    東京都千代田区神田鍛冶町二ノ一〇
    電・神田(25)八〇五・五二八三
    振替東京一九六二五〇
https://dl.ndl.go.jp/pid/2474035/1/124
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三浦環女史の支配人井上元佶:滿洲建國十周年 昭和17年11月【満航 10(1)(108)】昭和18年

【満航 10(1)(108)】昭和18年(1943)
出版者   満州航空
出版年月日 1943-01
 三浦環女史と語る  飛鍵曲 p49-52/67
餘談はさて置いて、
環女史は建國十周年を慶祝する爲に
全滿を獨唱行脚に來られたのである
※昭和17年(1942)11月
十日、十一日(十一月)の兩日
獨唱會をなさるゝ爲に
十日の朝九時三十五分
奉天驛着列車にて撫順より來られたのである。
p49【満航 10(1)(108)】昭和18年(1943)
p49【満航 10(1)(108)】昭和18年(1943)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1583299/1/49
お部屋にはピアニストの永井靜子女史と
環女史の支配人井上某氏(井上元佶)と
其の外東京に居られた時の環女史のお弟子さん
 ―略―
勿論環女史は支配人との御相談の上
御許しを得ての御返事であつた。
それで今度は支配人に明日の計畫を樹てて相談して
約二時間程お話した後歸へつて來た。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1583299/1/50
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【月刊ロシヤ 9(2)(92)】昭和18年(1943)
出版者   日蘇通信社
出版年月日 1943-02
  滿洲とロシアの思出 p35-37/61
   三浦環
※昭和17年(1942)11月
昨年は滿洲建國十周年で
私は十一月から滿洲の所々を
歌の旅行いたしまして
皇軍の慰問もいたしまして
旅順の戰蹟も拜見してまゐりました。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1593681/1/35
昭和18年1月15日印刷納本
昭和18年2月1日發行
https://dl.ndl.go.jp/pid/1593681/1/60
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《三浦環》幻のレコード:部歌「北風」と新曲「荒ぶる」【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年

【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年(1979.3)
著者    早稲田ラグビー60年史編集委員会 編
出版者   早稲田大学R.O.B倶楽部
出版年月日 1979.3
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/19
 満州のOBたち 緑林半騎(昭和10年)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/143
昭和17年(1942)は満州国建国十周年である。
戦局も負け戦までにはいたらず、
時々、ラジオから軍艦マーチが流れ、
戦果の発表があった当時である。
新京では盛んな祝賀行事が行われた。

そのころ、新京を訪れた小野田康一(大12)は
三浦環がお祝いと軍隊の慰問を兼ね、
この地に滞在していることを知った。

三浦環はオペラ「蝶々夫人」を歌わせれば
世界中右に出るものがないといわれた
プリマドンナである。

そして井上元佶(昭和13)が ※原本は(昭和12)
そのマネージャーとして同行している。
小野田康一(大12)はさっそく
井上元佶(昭和13)に交渉し、
かたわらコロンビア新京支店長の石丸に
※石丸五郎(大11)
頼んでスタジオを借用し、
三浦の吹き込みを計画した。

曲は部歌「北風」と新曲「荒ぶる」である。
双方の快諾でレコードは出来上がった。

欣喜雀躍した小野田康一(大12)は
旅行中であるので
数枚を携行して帰国した。
だが、一枚も現存せず
幻のレコードとなってしまった。

そのうちの一枚は、
木村文一(大12)がもらいうけけたのだが、
たまたま訪れた甥に乞われて
貸してやったのが運のツキ、
空襲によって灰になってしまったのである。

長老(木村文一)は今も嘆いている。
「貸さなければなー、
 ワタシの家は空襲も受けずに、
 もとのままなんだからナー。」
 p145【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年
p145【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/145

  卒業生一覧表 p192-194/198
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/192
早稲田ラグビー60年史
昭和54年3月31日
発行 早稲田大学R.O.B倶楽部©
編集 早稲田ラグビー60年史編集委員会
   東京都中央区銀座1-8-15
   陶雅堂内
   電話03-567-0071
印刷 大日本印刷株式会社
   東京都新宿区市谷加賀町1-12
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/196
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《秋山富一》住友商事副社長:東京商大・大丈夫会(ラグビー部)【経営コンサルタント (474)】昭和63年

【経営コンサルタント (474)】昭和63年(1988)
著者    経営政策研究所 [編]
出版者   経営政策研究所
出版年月日 1988-04
 東京商大・大丈夫会
  住友商事副社長
  《秋山富一》
つい先日、「大丈夫会」を開いたら一一名集まった。
「大丈夫会」というのは東京商大(一橋大)を
昭和二八年に卒業した
ラグビー部チームメイトの集まりである。

今回出席出来なかったのは伊丹冨佐雄君と
在米の秋山孟彦・山田成男の両君。
これに昭和五四年に急逝した丹羽喜昭君を加えた
一五名がそもそも「大丈夫会」のメンバーである。

在学中は、何事につけ「おい、大丈夫か」と
互に励まし合った仲で、
卒業後も「大丈夫かい」と声を掛け合って
行きたいということから
「大丈夫会」と命名したものである。

当時は、なにしろ戦後間もなくの食糧難の時代、
本来ならスポーツどころではないところだった。
それを我々は空きっ腹を抱えて走り回った。

なかには、学資から生活費まで、
自らの手で稼ぎ出さなければならない境遇の者もいた。

さらに、ジャージやボールなど用具を揃えるためにも
働かなければならなかった。

そんな我々のエネルギー源は何だったのだろうか。

文字通り泥と汗にまみれた青春、
皆の情熱の全てが一個のボールに
注ぎ込まれた時代だった。

同級だけで、一五名、
これでちょうど一チーム編成出来る人数である。

ほぼ、このメンバーで六年間闘ってきたのだから、
チームワークがよくて当然だろう。
いつでも腹を減らしていた我々の最大の楽しみは、
新宿西口にズラリと並んだ屋台をひやかして歩くこと。
そこには、銀シャリから麺類、おでん、まんじゅうと
多彩な食物が揃っていた。

しかし、我々に手が出せるのは、
p10【経営コンサルタント (474)】昭和63年
p10【経営コンサルタント (474)】昭和63年
https://dl.ndl.go.jp/pid/2205749/1/10
3個10円の今川焼きか、
いもきんとんくらいのもの。
それがどれだけうまかったことか―。

今でも今川焼きに目がないというのも多分、
この時代の影響かもしれない。

当時のメンバーで唯一欠けたのが
今は亡き丹羽喜昭君。
彼は、マネージャーとして、
食糧の調達から用具の手配、
合宿所の世話など裏方を一手に引き受けてくれた。

夏の合宿では、
富浦、沼田、妙高、湯田中、新潟など各地に行ったが、
その交通手段を確保するだけでも大変な時代、
彼の苦労は並々ならぬものだったろう。

我々がラグビーにひたすら打ち込めたのも、
こうした諸事万端をまかなった彼あってのことだった。

よくラグビー魂とかラグビー精神という話題が出るが
私に言わせれば、
それはチームプレイにつきるのではないかと思う。
方向が決まったら一丸となって行動する、
トライに向けて一五人の力が結集する瞬間だ。
そこには、
ただ一片のスタンドプレイも介入するすきはない。

ラグビーというゲームは生身の肉体で激突し合う
最大の集団格闘技である。
一九世紀前半の英国の名門パブリックスクール
「ラグビー高」での出来事。
フットボールの試合中ゲームに熱中した
エリスという少年が突然ボールを抱えて走り出した。

もちろん、これは反則である。

しかし、このハプニングに
場内は興奮のるつぼと化した。

ゲームは抜きにして、
選手も観衆も一体になって、
この瞬間のプレイに熱狂したのである。
この出来事がきっかけとなって
ラグビーというゲームが生まれたわけだ。

私は、今はもうボールを持つことはないが、
年に何回かは秩父宮ラグビー場や
国立競技場へすっ飛んで行く。

神奈川テレビがよく中継すると聞くと、
さっそくその受信アンテナを揃える、
ビデオの録画にしても、
最優先でラグビーの中継を入れる――
という熱狂ぶりだ。

先般ニュージーランドのチームが来日し、
オール日本を始めとする各ラグビーチームが
それこそ完膚なきまでに叩きのめされた。

ラグビー狂の私としては
切歯扼腕しきりというところだったが、
これらの試合を見ていて思ったことは
日本選手が実力を十分出し切ることが出来たら
もっとやれるはずだということ。

オリンピックなどでもそうだが、
日本人は本番に弱い。

これは外国人とのパーティーや
仕事の面でも同じかもしれない。
どうも上手くやろうとか
恥をかきたくない
という心理が働きすぎるからのようだ。

日本人は得てして自分に
必要以上のプレッシャーをかけすぎる。
それが、本番に弱いという結果になっている
のではないだろうか。

また、最近はトライやキックで得点をあげた人だけを
個人的に称える傾向が強いが、
得点は一五人全員の総力の結果であるはず、
やはり、そのラグビーの原点を
なおざりにしてはいけない。

先日、我々一一人のメンバーが集まったが
心の中ではいつも一五人出席している。

不滅の「大丈夫会」の面々は次の通りである。
(前出のメンバーは省く)
北村  収(共栄商社社長)
川田 洋一(三菱金属常務)
藤居  寛(帝国ホテル副社長)
谷津米太郎(荏原ボイラ取締役営業部長)
木村  幹(三国コカ・コーラボトリング取締役
      食品総括部長)
鈴木  昭(栗田工業経営企画室関連事業部)
齊藤 昭男(自営業)
齊藤 賢一(新進食料工業副社長)
長谷川暢洋(三菱原子力工業企画管理部長・参与)
田村  稔(日本ケーブル取締役監理部長)
p11【経営コンサルタント (474)】昭和63年
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https://dl.ndl.go.jp/pid/2205749/1/11
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《真下 昇》エイコンクラブとエリスクラブ【経営コンサルタント (475)】昭和63年

【経営コンサルタント (475)】昭和63年(1988)
著者    経営政策研究所 [編]
出版者   経営政策研究所
出版年月日 1988-05
  わがラグビー人生
 ノーサイドの笛の音まで全力を出す
 ロイヤルドルトンドッドウェル
   営業部長 《真下 昇》
ひとたびラグビーの面白さを知ると、
決してラグビーから離れることはできない。
これは全てのラガーに共通することではないだろうか。

先日、本誌で秋山富一住友商事副社長の
”東京商大・大丈夫会“と題するエッセイを読み
改めて思った次第である。 ※別稿に記載

秋山副社長も書いておられるように、
ラグビーは最大の集団格闘技である。
しかも、あらゆる競争の要素を持っている。
サッカー、バスケットなどの
蹴る、投げる、走る――
柔道、レスリングのように
組む、タックルする――
手、足、体の全てを使う競技である。

自分の特技を生かし、
個性を発揮することによって
チームに貢献する。
ワン・フォー・ザ・オール、
オール・フォー・ザ・ワン、
これがラグビーの根本理念である。

決して自分は英雄にはならない、
自己犠牲によって同志を英雄にする――
これがラグビーだ。

だからボールを抱えて独走し、
そのままトライする。
観衆のヤンヤの喝采を呼ぶこの行為は、
むしろラグビーのそれではない。

一つのトライは十五人全員が
それぞれのパートを完全に果たした
その結果にすぎないのだ。

ニュージーランドのチームが来日して、
オール日本をこてんぱんにやっつけた。
百何対ゼロというまるで
大人と子供の試合のようなゲームだった。
結果について色々批判もあったが、
徹底的に相手を打ちのめす、
決して手かげん、手ぬきをしない、
スコアに関係なく常に全力プレイをする、
これがラグビーのマナーである。

やがてノーサイドの笛が鳴る。
ゲームが終われば、
もうサイドはない。
勝っても負けてもお互いの闘いぶりを称賛しあう。
お互いの健闘に尊敬の念を持つ。

だから、ラガー同士の友情は厚い。
ラグビーを忘れられないのは、
そういうさわやかな友情で
支え合っている面があるからだろう。

戦後、復員して来た学生たちがラグビーを始め、
社会人になった時、
自分たちのエネルギーを発散し、
友情を温め合うために、
OBのクラブを組織した。

その第一号が昭和二二年に誕生した
エイコンクラブである。
エイコンというのは、
どんぐりという意味で
皆同じだということを表している。

その一年後の昭和二三年、
エイコンの対戦相手として
エリスクラブが発足した。

エリスというのは、
秋山副社長も書いておられたように、
一九世紀前半の英国の名門パブリックスクール
「ラグビー高」の生徒の名前。
フットボールの試合中、
ゲームに熱中したエリス少年が
突然ボールを抱えて走り出した。

これはもちろん反則だが、
このハプニングに場内はわいた。
それが、
ラグビー誕生のきっかけとなったのである。

さて、
エイコンやエリスが誕生したが、
当時はまだ社会人のチームはなかったから、
もっぱら対戦相手となったのは、
進駐軍や外国人の混戦チームである。

今でこそ社会人チームや、
各地域のチームが沢山出来て、
盛んとなったラグビーだが、
当時は、
グランドの確保や対戦チームの選定にも
苦労したのである。

私は今、
関東ラグビーフットボール協会の理事と
審判委員長を務めているが、
毎日夜一時間半のトレーニングは欠かさない。

グランドでレフェリーを務める以上、
体力がないといけないし、
太りすぎてもいけないからだ。
グランドで一人だけもたもた動いたりしては
目ざわりだろう。
それで体づくりに務めているわけである。
p86【経営コンサルタント (475)】昭和63年
p86【経営コンサルタント (475)】昭和63年
https://dl.ndl.go.jp/pid/2205750/1/86
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