林譲治

幸徳秋水が読み、その英才や博識ぶりに驚嘆の眼を注いだ著書『東洋小野梓君伝』山田一郎編

【小野梓全集 第5巻】1982
著者    早稲田大学大学史編集所 編
出版者   早稲田大学出版部
出版年月日 1982.3
p3【小野梓全集 第5巻】1982
〔画像〕p3【小野梓全集 第5巻】1982
https://dl.ndl.go.jp/pid/12407923/1/3

p4【小野梓全集 第5巻】1982
〔画像〕p4【小野梓全集 第5巻】1982
https://dl.ndl.go.jp/pid/12407923/1/4

「自伝志料」を収録した
山田一郎編『東洋小野梓君伝』
(明治19年(1886)2月10日刊)の表紙と、
没後10周年の追悼会で配られた「自伝志料」の石版刷
※小野梓:明治19年(1886)1月11日歿
p6【小野梓全集 第5巻】1982
〔画像〕p6【小野梓全集 第5巻】1982
https://dl.ndl.go.jp/pid/12407923/1/6
 Ⅰ 自伝
一 自伝志料  p165-171/343
https://dl.ndl.go.jp/pid/12407923/1/165
(『中央学術雑誌』第二二号付録『東洋小野梓君伝』
 一八八六年二月一〇日刊 一八八四年一一月一日筆)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12407923/1/171
昭和五十七年三月三十一日発行
     小野梓全集 第五巻
編集者  早稲田大学大学史編集所
発行者  早稲田大学
     東京都新宿区西早稲田一ノ六ノ一
発行所  早稲田大学出版部
     東京都新宿区戸塚町一ノ一〇三
印刷製本 早稲田大学印刷所
https://dl.ndl.go.jp/pid/12407923/1/340
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【小野梓】1926
著者    早稲田大學佛教青年會 編纂
出版者   冨山房
出版年月日 1926.6
  小野梓先生を懐ふ
 早稻田大學總長法學博士
    高田早苗氏
諸君が先生のことを研究なさらうと云ふ
御考がありますならば材料は種々ある。
先づ第一に今では珍本になつて居つて世間には殆んど無い、
早稻田大學の圖書館に只一冊あるだらうと思ひますが、
「小野東洋居士傳」と云ふ、
之は先生が歿くなられた當時に
友人の山田一郎君が編纂されたもので、
そは半ば先生の自傳であります。
先生自からの文章で出來て居りまして、
後の足らざる所を山田君が補はれたものである。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1909566/1/18
大正十五年六月十七日印刷
大正十五年六月十九日發行 (非賣品)
編纂者 早稻田大學佛敎靑年會
    右代表者 木山十彰
    東京市牛込區岩戸町二十六番地
發行兼 合資會社 冨山房
印刷者 東京市神田區通神保町九番地
    右代表者 坂本嘉治馬
https://dl.ndl.go.jp/pid/1909566/1/47
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《林譲治》幸徳秋水は小野梓を…英才や博識ぶりに驚嘆の眼を注いでいる[歴代厚相物語]【国民健康保険 17(1)】1966-01

【国民健康保険 17(1)】1966-01
出版者   国民健康保険中央会
出版年月日 1966-01
p1【国民健康保険 17(1)】1966-01
〔画像〕p1【国民健康保険 17(1)】1966-01
https://dl.ndl.go.jp/pid/2693084/1/1

[歴代厚相物語](13)
 二代・政治家の父と子
  林譲治氏(上)
      大野光義

林さん(右)が厚相在任中、
依岡秘書官をしたがえて、
新浜の鴨場に句作を練るひととき。
(昭和24年11月写)
p18【国民健康保険 17(1)】1966-01
〔画像〕p18【国民健康保険 17(1)】1966-01
https://dl.ndl.go.jp/pid/2693084/1/18

  有造翁と少年・秋水
——幸徳秋水が生れてはじめて、
天下の名士に接した機会は、
この林有造翁が“最初”のひとであった。
それは、秋水が十五歳の時で、
明治十八年の十二月のことである。

当時、自由党の機関誌であった、
絵入りの「自由新聞」の、
少年秋水は愛読者であったから……
四海に有造翁の声明は、
頭の中にしっかりと焼きついていた。

或る日、秋水が住む土佐の中村の町にも、
——林有造先生が講演に見える。」
という噂が街中にひろまった。
これを機会に秋水は、きっと、
お目にかかる念願がかなえられると……
胸中の喜びをおさえ切れなかった、という。
 ―略―

——この頃、
幸徳秋水は、
林家の前記の縁つづきである、
「小野梓小伝」なる
著書を読んで、
小野を東洋の傑れた政治家として
夭折を惜しみながら、
その英才や博識ぶりに驚嘆の眼を注いでいる。

実に林家は、“土佐の名門”としてばかりでなく、
その”無形“の影響力がまことに大きかった事である。

機関誌 国民健康保険 一月号
 (第十七巻第一号)
昭和四十一年一月一日発行
編 集 厚生省保険局国民健康保険課
発行人 有田栄一
発行所 国民健康保険調査会
    東京都千代田区霞ケ関二ノ一
    厚生省保険局内
    振替東京三二四四三番
印刷所 弘済印刷株式会社
    東京都台東区上野山下町二
https://dl.ndl.go.jp/pid/2693084/1/19
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【幸徳秋水全集 第9巻】1969
著者    幸徳秋水全集編集委員会 編
出版者   明治文献
出版年月日 1969
p3【幸徳秋水全集 第9巻】1969
〔画像〕p3【幸徳秋水全集 第9巻】1969
https://dl.ndl.go.jp/pid/2977663/1/3
   後の形見緒言
    ―略―
 明治廿二年一月中浣 於浪華
   幸徳傳次郎 識

(曩者東洋政治家之少年小野梓君
 死也君所記之梓小傳行于世、
 是君カ後ノ形見ノ記セシモノナラン、
 而ルニ君カ英才博識天下人ノ尊重スル所トナルノ価値ハ
 後ノ形見ト迄ニ記セシモノカ
 君ノ死後ニ行ハレタリ、
 不知君向後城キ上ゲタル工夫ノ效果ハ果シテ能ク
 此後ノ形見ヲシテ君カ死後天下ニ行ハレシムルニ至ルヤ
 ――〔執筆者不明〕) p10/317
https://dl.ndl.go.jp/pid/2977663/1/9
  解説  塩田庄兵衞
幸徳秋水の自筆の日記が、三種類現存している。
本巻に収めた『後のかたみ』『時至録』および
『記事(渡米日記 他)』がそれである。
  『後のかたみ』
幸徳秋水が、十七~十八歳のころ、
大阪および東京で中江兆民の書生に
住みこんでいた時期の日記で、
今日までに発見された彼のもっとも
若いときの作品である。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2977663/1/300
なお、原本の上欄に、
ところどころ朱筆で書き込んである感想・批評は、
印刷の体裁上本文中の適当な箇所に挿入した。
筆跡は同一人であり故・幸徳富治氏は
横田金馬のものであろうと推定しておられたが、
確証がないので〔執筆者不明〕としておいた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2977663/1/302
幸徳秋水全集  第九巻(第六回配本)
昭和四十四年十二月十日
定 価 二〇〇〇円
編 者 幸徳秋水全集編集委員会
発行者 藤原正人
印刷所 株式会社 精興社
製本所 株式会社 松岳社
発行所 株式会社 明治文献
    東京都豊島区池袋二ノ一〇七〇ノ四〇一
    電話・東京(03)984-0521
    振替・東京三六二九〇
https://dl.ndl.go.jp/pid/2977663/1/314
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《林譲治》[小野梓先生七十年記念祭]昭和30年11月:早稲田大學[歴代厚相物語]【国民健康保険 17(1)】1966-01

【国民健康保険 17(1)】1966-01
出版者   国民健康保険中央会
出版年月日 1966-01
p1【国民健康保険 17(1)】1966-01
〔画像〕p1【国民健康保険 17(1)】1966-01
https://dl.ndl.go.jp/pid/2693084/1/1

[歴代厚相物語](13)
 二代・政治家の父と子
  林譲治氏(上)
      大野光義

林さん(右)が厚相在任中、
依岡秘書官をしたがえて、
新浜の鴨場に句作を練るひととき。
(昭和24年11月写)
p18【国民健康保険 17(1)】1966-01
〔画像〕p18【国民健康保険 17(1)】1966-01
https://dl.ndl.go.jp/pid/2693084/1/18

——林譲治さんがまだ健在の頃、
早大で「小野梓の七十年祭」が催された時、
林さんは喜びいさんで参列して、
小野梓の講演をしたことがある。

  blog[小野一雄のルーツ]改訂版
  2012年05月07日08:22
  [東洋 小野梓先生七十年記念祭]
  昭和三十年十一月:早稲田大學
  『小野梓先生七十年記念祭式典』
  日時 十一月十八日(金)午前九時三十分
  場所 本大學共通教室講堂
  式典次第
  一 總長式辭
  二 遺族挨拶
  三 記念講演
    衆議院議員 林 譲治氏
    文部大臣  松村謙三氏
  四 映畫 「早稲田大學」

それで早大出身の松村謙三翁が、
初めて林さんとの縁者であると知った感慨を
「三代回顧録」の中でもふれている。

  blog[小野一雄のルーツ]改訂版
  2019年04月03日10:16
  大隈重信侯の思い出:小野梓先生の娘さん(小野安子)
  【三代回顧録】松村謙三 著
  小野先生の記念会にも出席されて、
  あいさつをされたが立派なものであった。
  それから衆議院の長老であった
  故林譲治氏とも
  親戚の関係にあったようだ。
  当時の追憶の数々の話もうけたまわり、
  帰洛されてから手紙をよこされたが、
  その字体も文章もしっかりしたもので、
  まるで男子のようであった。

実際、林さんは世間で類のない立派な“家系”に生まれ、
よき風土に培われ、
そうして明治維新の嵐のさ中で、
自由民権の先駆的役割を果した、
尊い父を持った……。

機関誌 国民健康保険 一月号
 (第十七巻第一号)
昭和四十一年一月一日発行
編 集 厚生省保険局国民健康保険課
発行人 有田栄一
発行所 国民健康保険調査会
    東京都千代田区霞ケ関二ノ一
    厚生省保険局内
    振替東京三二四四三番
印刷所 弘済印刷株式会社
    東京都台東区上野山下町二
https://dl.ndl.go.jp/pid/2693084/1/19
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《林譲治》朝に井上毅あり、野に小野梓あり[歴代厚相物語]【国民健康保険 17(1)】1966-01

【国民健康保険 17(1)】1966-01
出版者   国民健康保険中央会
出版年月日 1966-01
p1【国民健康保険 17(1)】1966-01
〔画像〕p1【国民健康保険 17(1)】1966-01
https://dl.ndl.go.jp/pid/2693084/1/1

[歴代厚相物語](13)
 二代・政治家の父と子
  林譲治氏(上)
      大野光義

林さん(右)が厚相在任中、
依岡秘書官をしたがえて、
新浜の鴨場に句作を練るひととき。
(昭和24年11月写)
p18【国民健康保険 17(1)】1966-01
〔画像〕p18【国民健康保険 17(1)】1966-01
https://dl.ndl.go.jp/pid/2693084/1/18

この小野梓は、
大隈のチエ袋として活躍したもので、
当時の大隈の文章や演説にせよ、又、
大隈の口からホトバシルように出てくる名文句は、
殆どすべてが梓の草稿によったもの、
とつたえられている。

その重厚味ある美文は、
戦前の「教育勅語」の文章が、
井上毅によって草案されたのは、
有名な話だが……
この小野梓の名文は、
よくそれに比べられて、
当時の世の人びとからは、
——
朝に井上毅あり、
野に小野梓あり。」と、
うたわれるように
讃嘆の声が放たれたものだった。

  blog[小野一雄のルーツ]改訂版
  2022年03月21日05:30
  《小野 梓》總理大臣を夢みる
  【日本英雄伝. 第2巻】昭和11年
  大隈の唇から響く文辭は殆んど
  梓の草稿によるものと云つても過言ではない。
  壯重華麗な彼の文章は
  敎育勅語の草案に關係した井上毅と並んで
  『朝に井上毅あり、野に小野梓あり。』
  と賛嘆された。

高田早苗は、梓のことを、
——小野梓は政治家というよりも学者肌の人、
又精神的な人であった。」と評している。
明治十九年の一月、
この“天才学者”は天寿にめぐまれず、
遂に三十五歳の若死であった。
併し、この若さの中から、
①羅馬律要(明治九年)
②国憲汎論(明治一五年)
③民法の骨(明治一七年)
④東洋論策(明治一八年)
⑤東洋遺稿(上・下=明治二〇年)
等の傑れた学問上の業績を遺した。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2693084/1/18

——実にこのように……
小野梓の天才ぶりは、
その政治活動と、
学問の領域の恰で両天秤を占めたも同様であった。

併し不運に、梓は肺を患っていた。
これはおそらく、
明治四年(明治五年)に英米に留学した頃の、
その烈しい一途な勉強がたたったせいであろう。
それは、アメリカの民主政治や、
英国の議会政治に感奮をふかく身におぼえながら、
その当時、英国の倫理学者として著名な
ベンサムの「実利主義」を学んで日本に帰ったのは、
小野が、ちょうど二十三歳の時であった。

この時、世相はあげて日本の津々浦々にいたるまで、
板垣退助が中心となった
自由民権運動の声はかまびすしかった。

——小野梓にとってこの新時代精神と、
その海外留学中の学殖との結晶から生み出された
学問的所産が、
即ち――
世に目ざましい「国憲汎論」であった。
これは明治十五年、
小野の死の四年まえに辛っと完成されたが、
その草稿は恰で“黒班紙”のごとく
推敲のあとだらけであったといわれている。

小野梓は、明治十八年の師走には、
いよいよ肺患がこうじて来て……
気息奄々として、もう!
毎日の命とともに書いていた日記さえも掌に取れず、
床の上に横臥した儘になっていた。
それは十二月の二十二日の事であった。
——突然!
新聞号外の鈴の音が、鳴り響いて……
この梓が“生地獄”の世界の中に彷徨してる
むくろの頭上を、
かまびしくかすめて行った。
嗚呼!
まさにそれは、
日本で初めて「内閣制」が布かれた
驚天・動地にもひとしい、
ニュースがつたえられたのであった。
そうして、
伊藤博文が初代の総理大臣である。
この未曽有の大改革は、
年来、梓が「国憲汎論」の中で唱えた、
その学説とはほぼ一致した結果となった。
梓は心に満足をおぼえた。
かくて、天才小野は、
一ヵ月余りの後、
政治家として、学者として、
新しい時代の先見の明をば著作に遺しつつ
不帰の客となったのである。

機関誌 国民健康保険 一月号
 (第十七巻第一号)
昭和四十一年一月一日発行
編 集 厚生省保険局国民健康保険課
発行人 有田栄一
発行所 国民健康保険調査会
    東京都千代田区霞ケ関二ノ一
    厚生省保険局内
    振替東京三二四四三番
印刷所 弘済印刷株式会社
    東京都台東区上野山下町二
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《林譲治》松村謙三翁は「三代回顧録」小野梓氏は早稲田大学創立者の一人[歴代厚相物語]【国民健康保険 17(1)】1966-01

【国民健康保険 17(1)】1966-01
出版者   国民健康保険中央会
出版年月日 1966-01
p1【国民健康保険 17(1)】1966-01
〔画像〕p1【国民健康保険 17(1)】1966-01
https://dl.ndl.go.jp/pid/2693084/1/1

[歴代厚相物語](13)
 二代・政治家の父と子
  林譲治氏(上)
      大野光義

林さん(右)が厚相在任中、
依岡秘書官をしたがえて、
新浜の鴨場に句作を練るひととき。
(昭和24年11月写)
p18【国民健康保険 17(1)】1966-01
〔画像〕p18【国民健康保険 17(1)】1966-01
https://dl.ndl.go.jp/pid/2693084/1/18

林さんは土佐の宿毛で、
明治二十二年の三月二十四日、
——それは、明治維新の後、
藩閥政治を打倒の急先鋒であった、
林有造翁の次男に生れた。
この地は宿毛湾に面して、
北に金毘羅さまが祭られている武平山があり、
南には、林さんが辞世の句にある荒瀬山をめぐって、
東西に山脈が走っている。
その間を水がきれいに透き通る松田川も流れている。
 ―略―
ここでわたくしは、更に林さんの縁つづきにあたる
——小野梓という、
この宿毛の風土が生んだ、
隠れた自由民権法学の尊い学者について、
ふれる必要があると思う。

松村謙三翁は、「三代回顧録」の中で、
——小野氏は早稲田大学創立者の一人であり、
改進党創立の主要人物で大隈総理
(当時は党首を“総理”という)を助けて
幹事長をつとめた人である。」と言っている。
尚、小野梓について――
松村翁の郷里の富山県で、
大隈重信の改進党が組織される時、
翁の知人で、石黒という郷里の神社の宮司が
八方奔走した関係上、
小野梓にもらった書簡が残されており、
また松村翁は、
その内容にもつぎのように
ふれているのを注目したい。

——君方同志の努力で富山県に
改進党をつくってくれるそうで
まことに感謝にたえない。
ついてはその名称のつけ方を聞いてよこされたが、
それは改進党富山県支部というような名称は適当でない。
よろしく富山県立憲改進党とつけてほしい」というので、
改進党幹事長小野梓と署名してある。
明治十四、五年ごろと推定して誤りない。
そのころから政党に熱中した人たちの
意気が盛んだったとみえる。
富山県政党発達史の貴重な文献である。」
とも指摘されている。

  blog[小野一雄のルーツ]改訂版
  2019年04月03日05:35
  小野梓氏の書簡は、宮司の石黒俊鬯氏の発信に対する返事
  【三代回顧録】松村謙三 著
機関誌 国民健康保険 一月号
 (第十七巻第一号)
昭和四十一年一月一日発行
編 集 厚生省保険局国民健康保険課
発行人 有田栄一
発行所 国民健康保険調査会
    東京都千代田区霞ケ関二ノ一
    厚生省保険局内
    振替東京三二四四三番
印刷所 弘済印刷株式会社
    東京都台東区上野山下町二
https://dl.ndl.go.jp/pid/2693084/1/19
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《林譲治》網走の老妓「ヨサコイ節」[歴代厚相物語]【国民健康保険 17(1)】1966-01

【国民健康保険 17(1)】1966-01
出版者   国民健康保険中央会
出版年月日 1966-01
p1【国民健康保険 17(1)】1966-01
〔画像〕p1【国民健康保険 17(1)】1966-01
https://dl.ndl.go.jp/pid/2693084/1/1

[歴代厚相物語](13)
 二代・政治家の父と子
  林譲治氏(上)
      大野光義

林さん(右)が厚相在任中、
依岡秘書官をしたがえて、
新浜の鴨場に句作を練るひととき。
(昭和24年11月写)
p18【国民健康保険 17(1)】1966-01
〔画像〕p18【国民健康保険 17(1)】1966-01
https://dl.ndl.go.jp/pid/2693084/1/18

林さんがどれほど故里を愛したことか。
たまたま、昭和八、九年のころ、
北海道の網走に遊説に出かけた時のことである。

それは愛酒家で、
小唄もなかなかの名人なので、
林さんにとっては、
このいずれにしてもノドが鳴るのを
しいて抑えかねたのだ。
そこで持ち分の演説をすますと、
こっそりと会場を脱け出して、
網走の海が見えるさる料亭で、
旅の疲れも、やすめる
ひとときの酔いを楽しんだ。

——この席上で、
林さんは老妓を相手にしながら、
上機嫌になり……いよいよ飲むほどに、
ほろほろと酔いが廻って来るにつれて、
いささか、林さんの驚かされる事がもち上った。

——突然!この老妓のノドもとからは、朗々として、
土佐の名物の「ヨサコイ」節が、
三味の鳴りひびく音も美しく唄われ出した。

どこの宴席や、酒席でも、
およそ安来節がつきものだけれども、
これは又、遥かな思わぬ所で、
故里の「ヨサコイ」節をきかされて、
林さんはすっかり感興に心踊った。
と同時に、余りの上手さに不思議に思われて、
老妓に訊いた。

——君のは……なかなかの年期が入っていて、
素晴しい歌声だ。
いつ何処で、おぼえたのか、ね。」と、
好人物の林さんの真けんな表情に、
老妓は恐縮しながら、

——お客さま、大変……
お賞めのお言葉にあずかりまして、
有難うございます。
実はむかし、
土佐の捕鯨船が、
こちらまで鯨を追ってきました時、
その船員さん達から教わりました。」と、
その老妓は、ふと、
遠き日の想い出に感傷したものなのか――
また、人生の年輪と共に疲れた、
あわれな眼ざしを、
料亭の窓の外に見える網走の海面におとして、
面わ寂しく笑うのであった。

詩情の豊かな林さんは、
老妓をいたわるようにチップをはずんだ。
いつも……こうした時に、
その心ずかいには、ひと一倍も、
気をくばるのが常だった。

この網走で、林さんがまったく思いもかけない折……
しんみりと、故里の「ヨサコイ節」をきいて、
恰で童心のように喜ぶのは――
だれにもまして、
故里への愛着の純情からのことであった。

林さんは、この行きずりの老妓に別れしなにも、
こころあたたかく――お達者でね。」と、
やさしい言葉の愛想をかけるのであった。

これは林さんが、
庶民的な政治家というばかりではなくて、
その反面には、いたく“詩心”に富む、
うつくしい人間性に依るものであった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2693084/1/18

機関誌 国民健康保険 一月号
 (第十七巻第一号)
昭和四十一年一月一日発行
編 集 厚生省保険局国民健康保険課
発行人 有田栄一
発行所 国民健康保険調査会
    東京都千代田区霞ケ関二ノ一
    厚生省保険局内
    振替東京三二四四三番
印刷所 弘済印刷株式会社
    東京都台東区上野山下町二
https://dl.ndl.go.jp/pid/2693084/1/19
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《林譲治》俳号を“鰌児”秘書の依岡顕知氏[歴代厚相物語]【国民健康保険 17(1)】1966-01

【国民健康保険 17(1)】1966-01
出版者   国民健康保険中央会
出版年月日 1966-01
p1【国民健康保険 17(1)】1966-01
〔画像〕p1【国民健康保険 17(1)】1966-01
https://dl.ndl.go.jp/pid/2693084/1/1

[歴代厚相物語](13)
 二代・政治家の父と子
  林譲治氏(上)
      大野光義

林さん(右)が厚相在任中、
依岡秘書官をしたがえて、
新浜の鴨場に句作を練るひととき。
(昭和24年11月写)
p18【国民健康保険 17(1)】1966-01
〔画像〕p18【国民健康保険 17(1)】1966-01
https://dl.ndl.go.jp/pid/2693084/1/18

  blog[小野一雄のルーツ]改訂版
  2012年03月04日11:47
  写真[林譲治・坂本恭啓・小野又一]

  土佐・宿毛の風土記

  古里の荒瀬の桜逝きて見む
——林譲治さんは、
”安心立命“の厳頭の心境に立たれて、
その死の前の日にして、
怖れるふうなく……澄み切って、
この不滅の辞世の名品を遺した。

これは恰で、悠然と春光を浴びている、
気高い高僧の、そのままの姿である。

それから、発句の用語にも、
きわめて心を配られながら、
傍に見まもる、
秘書の依岡顕知氏をかえりみて、
——「ゆきては」は、「行きて」ではなく、
「逝きて」なのだよ。依岡君!
その点、間違わぬように頼みますぞ……。」
と、念を入れて、
いつもながらの林さんのように、
穏やかな温顔に、やさしい言葉で、
口述筆記のこまかい注意を
うながしていたものだ、という。

この句は、林さんが郷里へ……と、
ことさらに言い添えられた作品であった。
それほど生前から、
いかに古里の風土をば――
遥かな東京から、愛されつつあったものかは、
この辞世の一句で、おのずからに、
十分に共感もわこうし、
理解もできるのである。

——林さんは、懐しい古里の荒瀬山に、
倚りもたれかかる想いを、
心の内に秘めながらにして、
昭和三十五年の四月五日の午前九時二十二分、
慶応病院に入院中、
七十一歳でうつし世を去られた。

林さんが元気の頃、
故里を詠んだ句の中には、
また、つぎのような傑れた作品もある。

  古里にネオン灯りてほととぎす
  古里を土佐に南枝の梅匂ふ
  楊梅に幾年ぶりの帰郷かな

林さんは俳号を“鰌児”と言った。
高浜虚子や富安風生氏らに師事して、
大正九年いらいの句作がまとめられ、
それはいま「古袷」の一巻ともなっている。
句集「古袷」林讓治
〔画像〕句集「古袷」林讓治

機関誌 国民健康保険 一月号
 (第十七巻第一号)
昭和四十一年一月一日発行
編 集 厚生省保険局国民健康保険課
発行人 有田栄一
発行所 国民健康保険調査会
    東京都千代田区霞ケ関二ノ一
    厚生省保険局内
    振替東京三二四四三番
印刷所 弘済印刷株式会社
    東京都台東区上野山下町二
https://dl.ndl.go.jp/pid/2693084/1/19
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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