橋爪城

「丹波巡察記」船井郡四村:中臺村・新町村・質志村・三ノ宮村:天保11年3月【佐藤信淵】昭和18年

【佐藤信淵】昭和18年
著者    小野武夫 著
出版者   潮文閣
出版年月日 昭和18
 p1【佐藤信淵】昭和18年
〔画像〕p1【佐藤信淵】昭和18年
 第五章 信淵と皇國農村
    (「丹波巡察記」を讀みて)
     はしがき
茲に彼が天保十一年三月、※1840年4月
七十二歳の春、
伊達侯の推薦により丹波の綾部に赴き、
藩主九鬼侯の命に從ひ村内六十ケ村を巡回して
農村事情を調査したる手記を掲げたい。
 丹波巡察記
  上 巻
踏査村落
綾部藩 十二ケ村
  中 巻
踏査村落
山裏郷 十五ケ村
川合  六ケ村
船井郡 四ケ村(中臺村、新町村、質志村、三宮村)
 船井郡四村
〇中臺村
土性淡赭壤、
田方 四町九段七畝十一歩、
畑方 五町三段九畝九歩、
高  八十六石八斗三合、
家數 十三軒、
人別 五十一人
牛  七疋あり。

〇新町村
土性 中臺村に同じ、
田方 七段二十四歩、
畑方 七町八段四畝八歩
高  四十六石四斗八升七合、
家數 十一軒、
人別 三十九人
牛  二疋あり。
右二村は他領相給地所混雜して、
明に辨ずる事能はず、
故に物産の員數も審ならず。

〇質志村(しづしむら)
土性淡赭壤、
谷地は赤埴に壚を混ず、
田方 七町十歩、
畑方 九町九段二畝十三歩、
高  百十三石三斗六升、
家數 四十六軒、
人別 二百八人
牛  四十疋あり。
當村は田畑共に
冬は大麥小麥豌豆蠶豆等を作り、
夏は田に植ゑ、
畑には大豆、小豆、黍、稷、粟、稗、
麻、烟草、楮、漆、茶等を作て
少しく此を賣出し。
其の他種々菜類瓜茄子等を作り、
木綿も六町餘も作り、
蠶兒を飼ひ繭を得る事も七八貫に下らずと云ふ。

〇三ノ宮村
土性明神前黄壤、
奥谷の邊 赤埴に腐壚を混ぜり、
田方 十三町九段九畝四歩、
畑方 六町二段二畝 歩、
高  二百三石九斗四升六合、
家數 三十四軒、
人別 百五十七人
牛  二十三疋有り。
當村は土地肥沃に百姓能く農事を勤るを以て、
種々産物の員數質志村に伯仲す、
且つ近年茶を作る事上手に爲りて、
此村にて製する茶は牛一駄、銀五十匁以上なり、
年々十二三駄を出す、
木綿も六七町作り、
繭も八十貫以上を得べし。

此村に古城跡あり、
昔 享祿天文の頃、
山内某此に居れり、
今其の子孫山内三郎兵衞代々の當村の庄屋たり、
武鑑に土州侯の始祖は
丹州三ノ宮城主山內孫次郞と記せり。

然れども予藩翰譜を按に、
土州侯始祖始めて信長に仕へられたる時の
貧寠なりしを見れば、
三郎兵衞が庶流なるかと思はれる。
何にもせよ、
山内が家は貴人の出たる家にて目出度と云ふべし、
今三郎兵衞も母に事へて孝あり、
且つ能く義に勇む事篤く、
名家の裔にて一人物なり。

右船井郡四村、
田方 二十六町六段八畝餘、
畑方 二十九町三段八畝、
高  四百五十三石八斗三升餘、
家數 百三軒
人別 四百五十五人
牛  二十七疋あり。

此郷土地小なりと雖ども、
救民積金の多くなり、
上は三郎兵衞に命じて
他領百姓に貸し付て利倍せしむるに宜し。
泉源法の積金も既に大金と爲るに及んでは、
御領内には貸し付くべき處なし、
三宮は貸し付役所を立るには
最も樞要の地なりと知るべし。
(出版會承認 い110180番)
 佐藤信淵 〔五、〇〇〇〕
著者略歷
法政大學卒業。法政大學敎授。農學博士。
昭和十八年七月十五日 印刷
昭和十八年七月廿五日 發行
定價 二圓
印刷、製本特別行爲税發行所負擔
著 者  小野武夫
編輯者  高島政衞
兼發行者 東京市小石川區小日向臺町一ノ四一
發行及  合資會社 潮文閣
發賣所  電話大塚(86)六二四八・六四三五
     振替東京一七、四四三番
     會員番號一七、五〇六番
印刷所  帝都印刷株式會社
     代表者 長谷川謹士
     (東東二一三番)
     東京市板橋區板橋町三ノ六四
配給元  日本出版配給株式會社
     東京市神田淡路町二ノ九
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※上記と同一
【綾部市史:史料篇】1977
著者    綾部市史編さん委員会 編
出版者   綾部市
出版年月日 1977.1
 綾部藩九代藩主 九鬼隆都
  巡察記
 p8【綾部市史:史料篇】1977
〔画像〕p8【綾部市史:史料篇】1977
https://dl.ndl.go.jp/pid/9573786/1/8
  巡察記 解説
https://dl.ndl.go.jp/pid/9573786/1/311
  巡察記 中
https://dl.ndl.go.jp/pid/9573786/1/319
船井郡四村
〇中台村
〇新町村
〇質志村
〇三ノ宮村
 p326【綾部市史:史料篇】1977
〔画像〕p326【綾部市史:史料篇】1977
https://dl.ndl.go.jp/pid/9573786/1/326

 p327【綾部市史:史料篇】1977
〔画像〕p327【綾部市史:史料篇】1977
https://dl.ndl.go.jp/pid/9573786/1/327
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京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
佐藤信淵像(模本)
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「西三ノ宮城」跡、東麓の道一つ隔てた所に「東三ノ宮城」跡【丹波内藤氏諸記録 第5集】1984

【丹波内藤氏諸記録 第5集】1984
著者    [丹波内藤会 編]
出版者   [丹波内藤会]
出版年月日 1984.7
 p1【丹波内藤氏諸記録 第5集】1984
〔画像〕p1【丹波内藤氏諸記録 第5集】1984
https://dl.ndl.go.jp/pid/9575601/1/1

三ノ宮城 145
①船井郡瑞穂町三ノ宮
②③――
④山内孫太郎久豊
⑤山城
⑥本丸・石垣・井戸
⑦八〇m×一八m、標高二八〇m、比高三〇m
⑧―
⑨『丹波誌』『船井郡誌』

三宮小学校の裏、※現:金木犀(特養老人ホーム)
忠魂碑の右側から尾根道を上ると
「西三ノ宮城」跡があり、
東麓の道一つ隔てた所に
「東三ノ宮城」跡がある。

後者は見張台のような役割を
果たしていたものと思われる。
 三ノ宮城址・三ノ宮西城址
〔画像〕三ノ宮城址・三ノ宮西城址[Googleマップ]

町 立 三ノ宮小学校
不断寺 芦田哲雄
 郷土誌「三ノ宮」昭和56年発行
〔画像〕郷土誌「三ノ宮」昭和56年発行

『丹波誌』によると、
当城は山内孫太郎久豊の拠った城で、
山内三郎兵衛宅の背後にあり、
石垣跡・井戸跡もあるといっている。

また貝原益軒の『西北紀行』には、
「山内村あり、
 ※山内村あり。
 是土佐守山内氏の祖先の住めりし所なりと云ふ。
 ※是土佐大守山内氏の先祖の住めりし所也と云。
 此の辺茶種多し。
 ※此邊藥種おほし。
 沢瀉を田にうゑて利とす」とある。
 ※澤瀉を田にうへて利とす。
※【日本紀行文集成 第1巻】1979:下記
  諸州めぐり 西北紀行 巻之上
  貝原篤信記
  https://dl.ndl.go.jp/pid/12458164/1/66

本丸の北側には空堀があり、
それが竪堀となって下方まで続いている。

いまでは普断寺(※不断寺)との間が
道路で切断されてしまったため
旧観は失われてしまった。
なお、城主の子孫といわれる家が残っている。
 p77【丹波内藤氏諸記録 第5集】1984
〔画像〕p77【丹波内藤氏諸記録 第5集】1984
https://dl.ndl.go.jp/pid/9575601/1/77
 丹波内藤会会員名簿
 (船井郡内)
内藤秀治 京都府船井郡丹波町須知新町41
     07718-2-0605
https://dl.ndl.go.jp/pid/9575601/1/145
丹波内藤氏諸記録(第五集)
昭和五十九年七月発行
発行者 内藤  洋
    京都府船井郡日吉町胡麻
編集者 内藤元晴
    京都府船井郡園部町熊崎
編集者 内藤義一
    京都府船井郡日吉町志和賀
https://dl.ndl.go.jp/pid/9575601/1/147
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【西北紀行 2巻】正徳3 [1713]
著者    貝原篤信 記
出版者   茨木多左衛門
出版年月日 正徳3 [1713]
 p11【西北紀行 2巻】正徳3 [1713]
〔画像〕p11【西北紀行 2巻】正徳3 [1713]
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三ノ宮城(三ノ宮村):山の内甚右衛門、弟小太夫等居住【山内首藤氏史料 第1巻】1967

【山内首藤氏史料 第1巻】1967
著者    前田泰男 編
出版者   前田泰男
出版年月日 1967
 p1【山内首藤氏史料 第1巻】1967
〔画像〕p1【山内首藤氏史料 第1巻】1967
https://dl.ndl.go.jp/pid/1708326/1/1

八 丹波 山内首藤氏族で
     系圖等は第一八項及び第九項参照。

  船井郡橋爪城(橋爪村)
  主に山内伊勢守通意あり、
  その一族山内將監通倫は、
  丹後與謝郡水部氏の聟となり、
  本庄・菅野両城主となる。
  また三ノ宮城(三ノ宮村)は
  山の内甚右衛門、弟小太夫等居住した。

  丹波志の
  天田郡條に
  「山内氏・子孫友淵村。紋丸に三ッ柏、
   赤井浪人と言ひ傳ふ。
   古家と雖、古の塚無し」、
  「山内氏、子孫河合村上河合、日向側坪ノ内に住す」

  氷上郡條に
  「山ノ内氏・大河村。
   古家、山の内甚右衛門、弟小太夫の貳人、
   船井郡三の宮城主也。
   浪人にて來住す」。
 p46【山内首藤氏史料 第1巻】1967
〔画像〕p46【山内首藤氏史料 第1巻】1967
https://dl.ndl.go.jp/pid/1708326/1/46
昭和四十二年七月三十一日印刷
呉市東片山町六八
前田泰男
https://dl.ndl.go.jp/pid/1708326/1/72
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《山内孫太郎・久豊》《山内但馬守・盛豊・猪助:橋爪城生》【皆山集:土佐之国史料類纂 第3巻 (歴史(2)篇)】1976

【皆山集:土佐之国史料類纂 第3巻 (歴史(2)篇)】1976
著者    編集委員: 平尾道雄 [等]
出版者   高知県立図書館
出版年月日 1976
 p3【皆山集:土佐之国史料類纂 第3巻 】1976
〔画像〕p3【皆山集:土佐之国史料類纂 第3巻 】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/9769763/1/3

     第五章
   一 系 譜
 一 御當家御系譜一
https://dl.ndl.go.jp/pid/9769763/1/15
 《行 方》
山内孫兵衛
丹波国橋爪城主代家系 於丹州爲兵火消失 云々

 《久 豊》
山内孫太郎 大永中卒
仕足利義晴 河州赴令
五味久庵 而 橋爪城 爲留守 後赴 尾州
〇久豊 大永元年七月朔日卒
 諡 方廣院華兵嚴相 又於阿洲卒云
https://dl.ndl.go.jp/pid/9769763/1/16
 《盛 豊》
山内但馬守 幼名 猪助
明應九年庚申 於丹波国橋爪城生
母 二宮修理亮俊宗 女 
弘治三年丁巳七月十二日卒 五十八
法性院逸溪光秀 葬墨田法蓮寺
※法性院殿逸溪光秀
      イ 刈安賀要法寺葬
 室 梶原氏女
   ―略―
〇異本 丹波国三宮城主
    山内日向守盛通 御子トス
https://dl.ndl.go.jp/pid/9769763/1/17

  五 御家御正統御院号 附 畧記御夫嬪
一 法性院殿逸溪光秀 山内但馬守盛豊公
  山内中興之祖 孫太郎久豊公
  御嗣君産
  丹波国橋爪城
  弘治三丁巳七月十二日
  尾州黒田於土居爲夜討
  御戦死御享年五十八
  同所 法蓮寺御送葬 日蓮宗也
     ―略―
一 盛豊
  大職冠 藤原鎌足公 三十代
  山内孫太郎久豊 長男
  明應九庚申年 月日不詳
  於 丹波国橋爪生
  幼名 猪助
  母 二宮修理亮俊宗 女
  後 織田伊勢守信安之幕下
     ―略―
一 一豊 ―略―
p63【皆山集:土佐之国史料類纂 第3巻 】1976
〔画像〕p63【皆山集:土佐之国史料類纂 第3巻 】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/9769763/1/63
土佐之国史料類纂
皆山集 第三巻(第五回配本>
    歴史(2)篇
    定価 五、九〇〇円
昭和五十一年二月二十九日印刷
昭和五十一年二月二十九日発行
編集委員 平尾道雄
     山本 大
     横川末吉
     弘田 競
     示野 昇
発行所  高知県立図書館
     高知市丸の内1-1-10
     電話72-6307
印刷所  関西謄写堂
     高知市北本町2-6-5
     電話83-6070
https://dl.ndl.go.jp/pid/9769763/1/366
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山内一豊の祖父久豊の居城、橋爪城【遠州松下加兵衛之綱とその一族】冨永公文1984

【遠州松下加兵衛之綱とその一族】1984
著者    富永公文 著
出版者   樹海社
出版年月日 1984.9
p3【遠州松下加兵衛之綱とその一族】1984
〔画像〕p3【遠州松下加兵衛之綱とその一族】1984
https://dl.ndl.go.jp/pid/12193934/1/3

 松下加兵衛、丹波国船坂城主六千石
https://dl.ndl.go.jp/pid/12193934/1/62
さらに、
加兵衛がその一部を領していた
丹波町の豊田、
上豊田付近には松下氏と縁の深い
山内氏の旧領があり、
又、この丹波町に隣接する瑞穂町橋爪は、
山内一豊の祖父久豊の居城、
橋爪城のあった地である。

城地は鼓山の東方(現在寺がたっている)、
山陰道を見おろす好立地にあり、
付近には山内姓の家も多い。

同氏は当地に早くから勢力を有し、
山内伊豆守憲邦(弘安五年・一二八二没)、
山内越後守憲方
(元弘元年―南朝・元徳三年―北朝=一三三一没)
などの居城は三ノ宮城で、
城跡には井戸、濠を残している。
p65【遠州松下加兵衛之綱とその一族】1984
〔画像〕p65【遠州松下加兵衛之綱とその一族】1984
https://dl.ndl.go.jp/pid/12193934/1/65
著者<とみなが・こうぶん>
一九五六年生まれ
立命館大学産業社会学部卒業
現在、浜松市立与進中学校教諭
遠州 松下加兵衛之綱とその一族
発 行 1984年9月1日
著 者 冨永公文
発行者 那須田浩
発行所 樹海社
    浜松市富塚町209-15
    電話 0534-53-4511
    振替 名古屋7-31304
印刷所 桐屋印刷株式会社
定 価 1500円
https://dl.ndl.go.jp/pid/12193934/1/106
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《橋爪城》船井郡京丹波町橋爪の常照寺の卵塔場の東側【日本城郭大系 第11巻】1980

【日本城郭大系 第11巻】1980
著者    平井聖 [ほか]編修
出版者   新人物往来社
出版年月日 1980.9
 p3【日本城郭大系 第11巻】1980
〔画像〕p3【日本城郭大系 第11巻】1980
https://dl.ndl.go.jp/pid/12206441/1/3

橋爪城 160
①船井郡瑞穂町橋爪
②③④-
⑤山城
⑥本丸・土塁・穴濠・井戸跡
⑦一四一m×一四m、標高二四〇m、比高七〇m
⑧―
⑨『丹波志』

橋爪城は瑞穂町(京丹波町)橋爪の常照寺の
卵塔場の東側の坂道を上った所にあった。

『丹波志』には、
「山内但馬守盛豊、
 法名、法性院殿道溪光秀、
   ※法性院殿逸溪光秀
   【皆山集 : 土佐之国史料類纂 第3巻 (歴史(2)篇)】
    https://dl.ndl.go.jp/pid/9769763/1/63
 盛豊嫡子同紀三郎、其子善右衛門、
 其子山内加賀守政俊、
 船井郡橋爪城廃城の後
 檜山に蟄居す」
とある。

本丸は二四m×一四mの規模で、
高さ一m、長さ一八m、幅二mほどの土塁が
北端を限っている。

本丸の上に一四m×六mの高台があり、
この高台の北側にも
高さ五m、長さ二m、幅二mほどの土塁がある。

この高台が最高所の居館跡とすると、
天守台の祖形とも考えられる。

本丸には井戸跡らしい凹地があり、
本丸の南側の一団下った郭にも
池か泉の跡と思われる六か所の凹地がある、
また南郭には三方に土塁がめぐらされていた痕跡があり、
また南郭の東南には城戸口があって、
下方の数郭にも同方向に入口の門が認められる。

なお、中世の道としては
水呑本谷より和知町に入るものと、
当城麓の谷から三峠山を越えて
和知町に入る二つの道があった。
p63【日本城郭大系 第11巻】1980
〔画像〕p63【日本城郭大系 第11巻】1980
https://dl.ndl.go.jp/pid/12206441/1/63
日本城郭大系 第11巻
京都・滋賀・福井
昭和55年9月10日 初版第1刷印刷
昭和55年9月15日 初版第1刷印刷
発行所      株式会社 新人物往来社
         郵便番号100
         東京都千代田区丸の内3-3-1
         新東京ビル
         電話 東京(03)212-3931(代)
         振替 東京6-151643
発行者      菅 英志
編集所      株式会社 創史社(代表 菅 住江)
         郵便番号101
         東京都千代田区神田神保町1-12
         電話 東京(03)233-4546(代)
装 幀      日本デザインセンター
口絵カラー印刷  株式会社 東京印書館
口絵モノクロ印刷 株式会社 光村原色版印刷所
本文・目次印刷  凸版印刷株式会社
折込地図印刷   株式会社 東京印書館
用 紙      三菱製紙販売株式会社
クロース     ダイニック株式会社
製 本      小泉製本株式会社
製 函      凸版印刷株式会社
https://dl.ndl.go.jp/pid/12206441/1/253
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「累世丹波国橋爪の城に住す」山内氏は代々橋爪城に居住【山内一豊 (日本の武将 ; 70)】1966

【山内一豊 (日本の武将 ; 70)】1966
著者    山本大 著
出版者   人物往来社
出版年月日 1966
p3【山内一豊 (日本の武将 ; 70)】1966
 〔画像〕p3【山内一豊 (日本の武将 ; 70)】1966
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984172/1/3

  山内氏のおこり  p8/167
   山内氏の系図と遠祖
山内一豊といえば、
われわれはすぐ、
妻の持参金で名馬を購入した話を思いだす。
一豊の立身出世のかげには、
この話に象徴される妻の献身があったことは
よく知られている。
それでは、
一豊とはどのような武将であるか、
また妻女はいかなる経歴の人であるか、
これから考えていこうと思う。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984172/1/8
   山内氏の発祥と山内経俊
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984172/1/10
   山内重俊と宗俊
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984172/1/11
 [山内系図] p13/167
(尊卑分脈・寛政重修諸家譜)
(山内家諸系図による   )
 p13山内系図【山内一豊 (日本の武将 ; 70)】1966
〔画像〕p13山内系図【山内一豊 (日本の武将 ; 70)】1966

   丹波への定住
訴訟に敗れた俊家(能俊)は、
丹波国三宮(京都府船井郡瑞穂町)に移ったが、
この俊家(能俊)が一豊を藩祖とする
土佐山内氏の先祖となったと伝えられている。
いわゆる山内氏家系の丹波説のもととなっている。
そして俊家(能俊)以後、
代々丹波の三宮に居城し、
一豊の祖父久豊にいたったという。

三宮城址
土佐山内の祖と伝えられる俊家(能俊)が築いた
三宮城址は綾部街道沿いにある。
京都府船井郡瑞穂町(京丹波町)所在
 p13三宮城址【山内一豊 (日本の武将 ; 70)】1966
〔画像〕p13三宮城址【山内一豊 (日本の武将 ; 70)】1966
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984172/1/13

   祖父久豊と父盛豊
さて『寛政重修諸家譜』には、
久豊の項に
「今の呈譜久豊につくり、
 万松院義晴にしたがひ
 阿波国に至り、
 後尾張国におもむく。
 大永中死すよいふ」、
 ※大永(1521年8月23日〜1528年8月20日)
「久豊旧領を捨てて彼地を去り、
 武者修行して尾張国にいたり」
と書かれてあって、
久豊の時代に丹波から尾張に移ったとしてある。
そして盛豊の項には
「累世丹波国橋爪の城に住す」
と書いてある。
これによると、
山内氏は代々橋爪城に居住していたことになる。
橋爪城は現在の京都府船井郡京丹波町桧山の地で、
山陰線園部駅から西北へ国道九号線を
福知山に向かって進むと檜山の町にはいるが、
いまも橋爪の字が残っている。

さらに別の山内系図では、
三宮城が山内の居城であったと書かれている。

三宮城は橋爪城の北約八キロの地にあるが、
久豊は橋爪城に移っていたともいわれている。

そうだとすれば、
山内氏は代々、
近距離にあるこの両城を持城としていたのであろうか。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984172/1/14
ところで、
『寛政重修諸家譜』や
『皆山集』所収の山内系図によれば、
足利義晴に仕えていた久豊は、
橋爪城を五味久菴という者に託して留守を守らせ、
丹波を去って阿波から尾張に赴いたというが、
足利義晴は大永元年(一五二一)の段階では
播磨の赤松義村に養育されており、
当時十一歳であった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984172/1/15
日本の武将70 山内一豊
<著者略歴>
山本 大(やまもと・たけし)
大正元年生まれ。
昭和十二年東京大学文学部国史学科卒業。
栃木師範学校教授を経て、
現在高知大学教授。
昭和四十一年十月二十五日 初版発行
定価480円
著 者 山本  大
発行者 八谷 政行
発行所 株式会社 人物往来社
    東京都千代田区丸ノ内三丁目二番地
    (新東京ビル)
    電話(212)三九三一(代)
印 刷 三秀印刷工業株式会社
    東京都文京区関口水道町四六
製 本 土開製本株式会社
    東京都千代田区神田三崎町一ノ三
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984172/1/164
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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京丹波町 教育委員会 社会教育課
〒629-1192 京都府船井郡京丹波町本庄ウエ16番地
電話番号:0771-84-0028
ファックス:0771-84-2100
更新日:2024年10月15日
日時
令和6年11月25日(月曜日)午前9時集合、
午前9時30分開会、正午終了予定
会場
橋爪城(京丹波町橋爪)
集合場所
森のふれあい広場(サンダイコー瑞穂店様向かいの広場)
定員 20名
参加費 無料
対象 町内在住、在勤者、出身者
講師 福島克彦氏(城郭談話会、大山崎歴史資料館館長)
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京丹波町の城【日本国誌資料叢書 丹波・丹後】大正14年(1925)

【日本国誌資料叢書 丹波・丹後】大正14年(1925)
著者    太田亮 著
出版者   磯部甲陽堂
出版年月日 大正14
  第五節 船井郡
https://dl.ndl.go.jp/pid/1876766/1/97
須知城(須知村)
 須知主水景氏の居城也。
 須知氏、また志宇知氏とも云ふ。
 淸和源氏にして赤井と同族也と云ふ。
 六郎景澄が末孫主水景氏
 戰國時代波多野氏に屬す。
 太平記には志宇知とあり。

井尻城(井尻村)
 安田若狭守の居城也と云ふ。
 安田氏は武田氏の族か。

三ノ宮城(三ノ宮村)
 山の内甚右衞門弟小太夫等居住す。

鎌谷城(鎌谷村)
 細見河内守の居城也。
 細見氏、天田郡細見村より起る。
 武内宿禰裔紀氏の族也。

橋爪城(橋爪村)
 山内伊勢守通意の居城也。

檜山城(檜山村)
 柴田氏此地に住居す。

出野城(和知谷出野村)
 片山彦五郎の居城也、
 小野木縫殿介と戰ひ討死す、
 一族に伊豫守有重あり。
〇井上氏 鎌谷城の家士。
〇金川氏 鎌谷城の家士。
〇内藤氏、
〇船井氏、船井郡より起る。
p98【日本国誌資料叢書 丹波・丹後】大正14年
p98【日本国誌資料叢書 丹波・丹後】大正14年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1876766/1/98
大正十四年三月十五日印刷 丹波・丹後
大正十四年三月十八日發行 定價金貳圓參拾錢
著 者 太田  亮
發行者 磯部辰次郎
    東京市日本橋區鐵砲町六番地
印刷者 田中常太郎
    東京市神田區表猿樂町二番地
印刷所 三誠社
    東京市神田區表猿樂町二番地
發行所 磯部甲陽堂
    東京市日本橋區鐵砲町六番地
    振替東京一五〇五六番
    電話大手六六八七番
https://dl.ndl.go.jp/pid/1876766/1/206
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丹波霧の里
京丹波町  兜山 八田城・井尻城 ・坂井城・
垣内城・橋爪城・三宮城・三宮東城・井脇城・豊田城
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《城跡》橋爪城・大朴の城山・井尻城・八田城[檜山村誌]平成5年

[檜山村誌]平成5年(1993)
  第二節 城跡
(1) 橋爪城
船井郡誌によると承久の乱(一二二一年)後、
丹波の守護は北条時房-時盛-時益が、
又、南北朝期は、
仁木頼章-頼夏-義伊などで、
室町時代には山名時氏-氏清、
次いで明徳三年(一三九二年)以降は
細川氏が八代に亘って当地を支配した。
こうした中で地方豪族層の出現が多数あり、
山内氏は当地に於て早くから勢力を有していた。
橋爪城は山内一豊の祖父
久豊の居城であったと称されている。
而し山内伊豆守憲邦、
山内越後守憲方などの居城は字三ノ宮であり、
三ノ宮城址として残っている。
[檜山村誌]第一節 遺跡p826
〔画像〕[檜山村誌]第二節 城跡p826

一説によると橋爪城は
山内出羽守長宗の居城であるとも称されている。
城址は丹波誌によると、
橋爪常照寺の卵塔場東側の坂道を上った所にあって、
本丸は二四m~一四mの規模で
高さ一m、長さ一八m、幅二mほどの
土塁が北側を限っている。
本丸の上には更に一四m~六mの高台があり、
この高台の北側にも高さ二m巾二mほどの土塁がある。
この高台が最高所の居館跡とすると、
天守台の祖形とも考えられる。
本丸には井戸跡らしい凹地があり、
本丸の南側の一段下った郭にも
池か泉の跡と思われる六ヶ所の凹地がある。
また南郭には三方に土塁がめぐらされていた痕跡があり、
また南郭の東南には城戸口があって、
下方の数郭にも同方向に入口の門が認められる。
城主は山内但馬守盛豊等四代に亘り、
廃城後は桧山に蟄居すとも記されている。
一説によると城跡が橋爪山内家の上の高台にもあり、
近藤家の持山との間に堀の跡があり、
こゝにも何等かの形で居城を構えていたとも考えられる。

(2) 大朴の城山
旧村時代避病院のあった地で、
この土地を大朴方面からは道場ヶ谷と呼び、
和田方面からは飼馬谷と称していて、
大朴の城山と言われているが、
地方の豪族等の見張番の地と推意される。

(3) 井尻城(丹波誌による)
井尻区内中央部消防器具置場のあたりより
西に向って井尻川を渡った所の
城山と呼ばれているのが井尻城跡である。
谷垣氏は「往古谷口と名乗り坂井の城主であったが、
井尻の城主谷垣兵部と
[檜山村誌]第一節 遺跡p827
〔画像〕[檜山村誌]第二節 城跡p827

市場の束の山に戦い討死す。
今其所を武士谷と云う」
と丹波誌では書かれている。
本丸を中央にして東、西側にそれぞれ郭が接しており、
両端凡そ五~七mの急斜面に掘られた空堀となっている。
また南側の空堀に連なる二三m×一七mの規模の西ノ丸には、
幅約四m長さ約十一m、高さ約一mの土塁があり、
その中央は通路のようにくぼんでおり、
同形の土塁は本丸の東の郭の北端にも認められる。
さらに、本丸と西の郭との間には
中央櫓の跡かとみられる高まりがある。

(4) 八田城
国道一七三号線高畑の北方にそびえる山があり、
そこに八田城があったと伝えられている。
丹波誌によると
「八田ノ井尻 村上氏先祖ハ
当 奥八田村ノ古城主ノ子孫ニテ
往古 信濃ノ国ヨリ来往ス」とあり。
また
「吉田氏本苗 上原氏 
先祖ハ則チ八田村ノ古城主上原氏ノ分流也。
下八田村 山王権現ノ棟札ニ曰ク、
文安元年(1444)上原久左衛門ト記ス」
ともあり
八田村城主が上原氏であったことが考えられる。
「遠山文書」の「中津川秀家申忠状」によると、
観応三年(正平七・一三五二)七月十四日の記述に、
八田の地名が二ヶ所記されている。
本丸は一二m×一九mの規模で、
北西の尾根には階段上に下りながら五つの郭があり、
南の尾根にも同様四つの郭があって、
輪郭型式がとられている。
附近には巨岩が多いが、
それらが巧みに防衛線に取り入れてある。
[檜山村誌]第一節 遺跡p828
〔画像〕[檜山村誌]第二節 城跡p828
 桧山村誌
平成五年四月発行
発行者 桧山村誌編集委員会
    桧山財産区
印刷所 瑞穂印刷所
    (非売品)
表題題字 山内勝氏書(字橋爪)
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