菅沼メリー

《菅沼ジョージのアメリカ留学》【長崎女人伝 下 (西日本選書 ; 1,2)】1980

【長崎女人伝 下 (西日本選書 ; 1,2)】1980
著者    深潟久 著
出版者   西日本新聞社
出版年月日 1980.9
p3【長崎女人伝 下 (西日本選書 ; 1,2)】1980
〔画像〕p3【長崎女人伝 下 (西日本選書 ; 1,2)】1980
https://dl.ndl.go.jp/pid/12260279/1/3

 ジョルダン シンフォニー事始め
大北電信会社長崎支店長夫人
カロリン・ジョルダンさんが
長崎にきたのは明治三十四年である。

デンマークのグレート・ノーザン電信会社が
長崎、上海間にケーブル二回線を敷設して
外国通信をはじめたのは明治四年である。

長崎、ウラジオ間にも海底通信を引いた。
その中継所は小ケ倉の千本松原にあった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12260279/1/64
支店は梅ケ崎に木造二階建て洋館があり、
二階がジョルダン一家の住居になっていた。

ジョルダン家はまったくの音楽一家であった。
支店長オーゲル・ルドウィック・ジョルダンは
バイオリン奏者としてプロの域にあり、
夫人のカロリン・ジョルダンは
デンマーク宮廷音楽学校出身のピアニスト。

長男のアルフはコントラバス奏者、
二男のジェームスは父親に似てバイオリニスト、
音色の美しさとテクニックのうまさ、
音量の豊かさはプロに匹敵する腕前だった。
三男のクニューはピアノとセロ。

アルフは神戸、ジェームスは横浜、
クニューは上海に勤めていたが、
ときどき長崎に集まって
ジョルダンの門人たちと演奏を楽しんだ。

明治三十八年、日露戦争が終わると
長崎音楽協会が創立された。

長崎地方裁判所長山口武洪の発起で、
ジョルダン一家を中心とした楽団を組織したのである。

会長山口武洪、賛助員は知事、市長、
三菱造船所長、三井物産支店長、三菱炭坑社幹部、
官吏、軍人、実業界の知名士らであった。

演奏はジョルダン一家に、
香港上海銀行支店長夫人
マクドナルド(バイオリン)
菅沼ジョージ(バス)
スタンダード石油支店長
プール(バイオリン)
活水音楽教師
アッシュボー(ピアノ)
それに日本人は
長崎高等女学校の音楽教師
青地キチがいた。

キチはジョルダン一家と親しく通訳的存在でもあった。
キチ自身も多くの弟子を以て音楽向上につとめている。

またジョルダンの門人深川正七、
山口武洪の娘山口節子。
節子は長崎高女から東京上野音楽学校に進み、
卒業後バイオリニストとして名声をあげた。

ほかに検事正の娘水上、
平戸町池田屋旅館の娘池田姉妹らがいた。

毎週一、二回、大北電信の階上で猛練習がはじまった。
ジョルダン夫妻の指導はとてもきびしかった。

第一回公演はその階上ホールで、
プログラムのなかに田園交響楽があった。

活水講堂やYMCAホールなどで
しばしば演奏会が開かれ、
長崎市民に大きな感動を与えたのである。

ジョルダン夫妻は休暇で一時帰国したが、
再び長崎にもどって南山手十六番館に住んだ。
したがって練習場は十六番館に移った。

グランドピアノ一台、
アプライトピアノ一台があった。

アッシュボー、ザレスカ、青地キチ、
クズネッオパらが名曲を弾いた。

華やかなスタートを切った長崎音楽協会も、
会員の分散で会の運営が困難になった。

ジョルダン家三兄弟の転勤や
深川正七と
菅沼ジョージのアメリカ留学
外人会員も続々と転出した。
それでもジョルダンは練習を続けた。
p65【長崎女人伝 下 (西日本選書 ; 1,2)】1980
〔画像〕p65【長崎女人伝 下 (西日本選書 ; 1,2)】1980
https://dl.ndl.go.jp/pid/12260279/1/65
長崎女人伝<下>
深潟 久 1980
1980年9月17日
著 者 深潟 久
発行人 福田利光
発行所 西日本新聞社
福岡市中央区天神1丁目4番1号
郵便番号 810
振替 福岡20番
TEL(092)711・5523
冷牟田印刷 篠原製本
定価1500円
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ジョルダン合奏団の人々【年譜斎藤茂吉伝 新訂版】1982【日本大学文理学部(三島)研究年報 (13)】1965

【年譜斎藤茂吉伝 新訂版】1982
著者    藤岡武雄 著
出版者   沖積舎
出版年月日 1982.3
 ジョルダン合奏団の人々
(右より6番目斉藤てる子)
p95【年譜斎藤茂吉伝 新訂版】1982
〔画像〕p95【年譜斎藤茂吉伝 新訂版】1982
https://dl.ndl.go.jp/pid/12464215/1/95

特にてる子夫人は、
外人の主宰するジョルダン合奏団に加わり、
歌を唱ったり、
ヴァイオリンをひいたりした。
この合奏団は一方では社交的な色彩をもち、
団員青地キチ宅を中心として、
名流夫人やその子女の社交場として華やかな存在であった。

茂吉のもとに出入りした歌の弟子原道子さんは、
その状況を次のように語っている。
「てる子夫人は二尺四寸(普通二尺)の振袖を着て
 その華やかさが人眼をひいたが、
 その長い振袖が音楽の仲間にも流行、
 外人仲間のダンスパーティにも出入して
 長崎の田舎町に異彩をそえていた」

このジョルダン合奏団の主宰者
カロリ・ジョルダン(Caroline Jordan)夫人は、
デンマークの宮廷音楽学校出身のピアニストである。

同じくヴァイオリンをひく夫
オーゲ・ルードウィック・ジョルダン
(AAGE Ludvic)は
大北電信会社長崎支店長として
明治三十四年頃長崎に来て
南山手十六番に居を構えたが、
夫のジョルダンは大正七年病没、
大正八年てる子夫人の参加した頃は、
ジョルダン夫人を中心に
伊藤辰一郎、青地キチ、深町秋子らが
主要メンバーだった。

ジョルダン合奏団の世話役をしていた伊藤辰一郎は、
マンドリンをひいていたが、
大正二年、当時五十五歳のジョルダン夫人に
ヴァイオリンの教えを乞い、
その後
長崎シンホニー・オーケストラを創立した人である。
同氏は
「てる子夫人の入会されたのは
 青地キチ女史の紹介であった」
と語っている。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12464215/1/95
年譜斎藤茂吉伝 新訂版
昭和五十七年三月二十日発行
著 者 藤岡武雄
発行人 沖山隆久
印刷人 坂田啓三
発行所 株式会社 沖積舎
東京都千代田区神田神保町一-五二
郵便番号一〇一
電話 二九一-五八九一
振替 東京三-一七七六三二
好文印刷+東光/愛千製本
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【日本大学文理学部(三島)研究年報 (13)】1965
出版者   日本大学文理学部
出版年月日 1965-02
 ジョルダン合奏団の人々
(左から1番目深町秋子・7番目伊藤辰一郎・
 9番目ジョルダン夫人・11番目斉藤てる子夫人」
p47【日本大学文理学部(三島)研究年報 (13)】1965
〔画像〕p47【日本大学文理学部(三島)研究年報 (13)】1965
https://dl.ndl.go.jp/pid/1784764/1/47
昭和40年2月10日 印刷
昭和40年2月15日 発行
発行者 秋葉安太郎
    日本大学文理学部(三島)
    静岡県三島市芝町4丁目
印刷者 小倉 兼蔵
    三光印刷株式会社
    東京都豊島区高田南町3の734
https://dl.ndl.go.jp/pid/1784764/1/119
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2024年11月24日05:35
《菅沼メリー 演說・菅沼元之助 通譯》
癲狂並ニ其療法ニ就テ【九州醫學會誌 5】1898-03(明治31年)
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《菅沼元之助》長崎市十善寺町【日本メソヂスト教会総会議事録 第4囘】大正9年

【日本メソヂスト教会総会議事録 第4囘】大正9年
著者    吉岡誠明 編
出版者   吉岡誠明
出版年月日 大正9

大正八年(千九百十九年)
日本メソヂスト敎會 第四回總會議事錄
自十月廿三日 至十一月四日
於 東京銀座敎會
p3【日本メソヂスト教会総会議事録 第4囘】大正9年
〔画像〕p3【日本メソヂスト教会総会議事録 第4囘】大正9年
   ◎常任委員
 五、日曜學校及共勵會委員(十二名)
   菅沼元之助
十二、指名委員(八名)
   菅沼元之助
   ◎特別委員
 二、年會記錄調査委員(四名)
   菅沼元之助
 年會記錄調査委員
   菅沼元之助君
 〇共勵會局(八名)
   菅沼元之助君
  信 徒
長崎市十善寺町  菅沼元之助
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長崎婦人病院(私立)長崎市十善寺中野【長崎県統計書 明治35,36年】

【長崎県統計書 明治27年】
出版者   長崎県第一部
出版年月日 明13-45
 第五十一 病院ノ患者
※婦人病院 長崎市十善寺郷:記載なし

【長崎県統計書 明治33年】
出版者   長崎県第一部
出版年月日 明13-45
  〇衞生
 第一六三 病院 明治三十三年十二月三十一日
病院名 婦人病院(私立)
所在地 長崎市十善寺郷
醫 師      一
調劑員      一
看病人      二
患 者
 入院     五一
 外來    九八七
  計  一、〇三八
※上記と同一内容
【長崎県統計書 明治34年】
出版者   長崎県第一部
出版年月日 明13-45
  〇衞生
 第一六三 病院 明治三十三年十二月三十一日
病院名 婦人病院(私立)
所在地 長崎市十善寺郷
醫 師      一
調劑員      一
看病人      二
患 者
 入院     五一
 外來    九八七
  計  一、〇三八

【長崎県統計書 明治35,36年】
出版者   長崎県第一部
出版年月日 明13-45
  〇衞生
 第一七三 病院 明治三十五年十二月三十一日
         明治三十六年十二月三十六日
病院名 長崎婦人病院(私立)
所在地 長崎市十善寺中野
      三十五年    三十六年
醫 師      一      一
調劑員
看病人      一      一
患 者
 入院     三五     三九
 外來  二、六三七  二、六八七
  計  二、六七二  二、七二六
p181【長崎県統計書 明治35,36年】
〔画像〕p181【長崎県統計書 明治35,36年】
明治三十八年 十月三十一日印刷
明治三十八年十二月 十一日發行(非賣品)
    長崎縣
印刷者 喜多璋太郎
    長崎市豊後町壹番地
印刷所 喜多活版所
    長崎市豊後町壹番地
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《菅沼メリー君》第十五回九州沖縄醫學會 明治42年5月【長崎医学専門学校研瑶会雑誌 (89)】明治42年(1909)

【長崎医学専門学校研瑶会雑誌 (89)】明治42年(1909)
出版者   長崎医学専門学校研瑶会
出版年月日 1909-03
p1【長崎医学専門学校研瑶会雑誌 (89)】明治42年
〔画像〕p1【長崎医学専門学校研瑶会雑誌 (89)】明治42年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1775389/1/1

 ◎第十五回九州沖縄醫學會準備
來る五月一日、二日を期し
長崎に於て開會せらるべき
九州沖縄醫學會は既に其準備に着手し
委員長以下左の如く推選あり、
尤も一日は袋町靑年會舘に於て總會を催し
二日は長崎醫學專門學校に於て
分科會を開くべき都合に略決定したる由
委員長  田代  正君
副委員長 村上 安藏君
     大谷 周庵君
https://dl.ndl.go.jp/pid/1775389/1/25

  接待、宴席係
係長  村瀬三英君
委員  ―略―
    菅沼メリー君
p26【長崎医学専門学校研瑶会雑誌 (89)】明治42年
〔画像〕p26【長崎医学専門学校研瑶会雑誌 (89)】明治42年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1775389/1/26
明治四十二年三月二十八日印刷
明治四十二年三月 三十日發行
編輯者  田川 兵力
兼發行者 西彼杵郡浦上山里村字里郷一八五六番地
印刷者  富永官十郎
     長崎市今鍛冶屋町三十三番地
印刷所  重誠舎
     長崎市今鍛冶屋町三十三番地
https://dl.ndl.go.jp/pid/1775389/1/48
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2024年11月24日05:35
《菅沼メリー 演說・菅沼元之助 通譯》癲狂並ニ其療法ニ就テ
【九州醫學會誌 5】1898-03(明治31年)
 第五回九州醫學會員
 明治三十年三月五日撮影
       小川一眞製
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《菅沼メリー》醫師:十善寺中野三十六番地【長崎県紀要】明治40年

【長崎県紀要】明治40年
出版者   第二回関西九州府県聯合水産共進会
      長崎県協賛会
出版年月日 明40.10
 p3【長崎県紀要】明治40年
〔画像〕p3【長崎県紀要】明治40年

 第五節 醫師(イロハ順) p150-152/285
十善寺中野三番地    品川百樹
十善寺中野三十六番地  菅沼メリー
 p152【長崎県紀要】明治40年
〔画像〕p152【長崎県紀要】明治40年
明治四十年十月 十九日印刷
明治四十年十月二十一日發行
第二回關西九州府縣聯合水産共進會
長崎縣協賛會
印刷者 田山 宗堯
    東京市日本橋區數寄屋町一番地
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《菅沼メリー》教授嘱託:高等女學校【職員録 明治39年現在(乙)】【職員録 明治45年現在(乙)】

【職員録 明治39年現在(乙)】
出版者   印刷局
出版年月日 明治39
長崎縣
〇高等女學校
 西彼杵郡上長崎村
學校長   溝口鹿次郎
敎 諭   田代善太郎
      山名 熊吉
      龜井 千尋
      濱 八百彦
      弘田 金樹
      平山 テイ
      平野 ミヨ
      白土 千秋
      三輪 モト
      内田 タネ 兼舎監
      後藤 静香
      後藤安太郎
      阿竹安次郎
助敎諭   古川 テイ
舎 監   木下 ヤス
書 記   竹内恒四郎
      久保才之助
敎諭心得  靑地 キツ
      松崎 セイ
      飯盛 チヨ 兼舎監心得
助敎諭心得 杉野 喜代
      今里 マサ
敎授囑託  菅沼メーリ(手當年一八〇)
      八尾 フチ(手當月一八)
      今里子之吉(手當月一二)
學校醫   今村甲子藏(手當月一〇)
p64【職員録 明治39年現在(乙)】
〔画像〕p64【職員録 明治39年現在(乙)】

【職員録 明治45年現在(乙)】
出版者   印刷局
出版年月日 明治45
長崎縣
〇高等女學校
 西彼杵郡上長崎村
學校長   倉塚源太郎
敎 諭   田代善太郎
      山名 熊吉
      ―略―
敎授囑託  菅沼メリー(手當月一八)
      今里子之吉(手當月一六)
      下釜 稻吉(手當月一二)
      初村 官次(手當月一〇)
學校醫   今村甲子藏(手當月一〇)
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《菅沼メリー》菅沼氏(メーリ、米人医)にゆく:明治38年12月【田代善太郎日記 明治篇】1968

【田代善太郎日記 明治篇】1968
著者    田代晃二 編
出版者   創元社
出版年月日 1968
田代善太郎 明治5年(1872)~昭和22年(1947)
昭和10年(1935)1月25日、善太郎63歳のとき。
p4【田代善太郎日記 明治篇】1968
〔画像〕p4【田代善太郎日記 明治篇】1968
https://dl.ndl.go.jp/pid/3451050/1/4

明治38年(1905)12月
19. 火. 少雨のち晴。
たかさん、満保をつれて
菅波氏(メーリ、米人医)にゆく。
※菅波氏⇒菅沼氏

※できもの。
これが満保の命取りになろうとは、
若い夫婦は夢にも思わなかった。
人にすすめられ専門でない
米人女医にかかっていた。
治療がはかばかしくないので、
年が明けて早々、
専門医に診てもらったところ、
もはや手おくれで重体とのこと。
全身に及んだエグゼーマのために、
腎臓をおかされてたのであった。
p150【田代善太郎日記 明治篇】1968
〔画像〕p150【田代善太郎日記 明治篇】1968
https://dl.ndl.go.jp/pid/3451050/1/150
田代善太郎日記〔明治篇(九州時代)〕
昭和43年(1968)12月10日発行
定価3000円 送料120円
編著者 田代晃二
印刷所 正美社
    京都市上京区小川通一条上ル
    電話 京都(451)7701
発行所 創元社
    大阪市北区樋上町45番地
    電話 大阪(363)2531(代)
    振替口座 大阪57099番
    東京営業所
    東京都新宿区神楽坂6の73
    電話 東京(269)1051
(池田製本)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3451050/1/150
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《菅沼メリー=女医ゴールト》〔Dr. Mary A. Gault〕【ヘール日本伝導記:1877-1902】

【ヘール日本伝導記:1877-1902】1969
著者    J.B.ヘール 著 [他]
出版者   大阪女学院
出版年月日 1969
p1【ヘール日本伝導記:1877-1902】1969
〔画像〕p1【ヘール日本伝導記:1877-1902】1969
https://dl.ndl.go.jp/pid/12267907/1/1

  女医ゴールト
クリーブランド出身のメリー・A・ゴールド博士
〔Dr. Mary A. Gault〕は、
一八九一年〔明治二四年〕五月三日、
テキサス州ダラスにおける婦人伝道局の集会で
宣教師に任命され聖別された。

ゴールト博士は(明治24年)七月初め日本に着き、
すぐに宣教師の健康管理と日本人の治療の仕事を始めた。

彼女は一八九二年(明治25年)まで
ミッションと関係を保ったが、
その年(明治25年)
        ※菅沼元之助
結婚後長崎に移って、
そこでずっと生活し、
あらゆるキリスト教事業に深い関心を持ったが、
ことにキリスト教共励会の活動に熱心であった。
p107【ヘール日本伝導記:1877-1902】1969
〔画像〕p107【ヘール日本伝導記:1877-1902】1969
https://dl.ndl.go.jp/pid/12267907/1/107
ヘール日本伝道記
1969年4月29日 発行
著 者 J.B. ヘール
発行者 奥島敬一   非売品
発 行 大阪女学院
    大阪市東区東雲町2の200
製 作 株式会社 新教出版社
    東京都新宿区新小川町3の1
    松濤印刷・河田製本
https://dl.ndl.go.jp/pid/12267907/1/136
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【日本伝道二十五年】1978
著者    J.B.ヘール 著
出版者   大阪女学院
出版年月日 1978.11
 女医ゴールト
〔一八九一年(明治24)~一八九二年(明治25)〕
※上記及び、ゴールト博士の挨拶が記載されている。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12261605/1/191
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《菅沼メリー=Mary A. Gault》来日宣教医一覧【日本医史学雑誌 16(1)(1379)】1970

【日本医史学雑誌 16(1)(1379)】1970
出版者   日本医史学会
出版年月日 1970-04
 日本醫史學雜誌
  第16巻 第1号
  昭和45年4月30日発行
p1【日本医史学雑誌 16(1)(1379)】1970
〔画像〕p1【日本医史学雑誌 16(1)(1379)】1970
https://dl.ndl.go.jp/pid/3359247/1/1

特別講演(Ⅰ)
 近代における外人宣教医の研究
       長門谷洋治
https://dl.ndl.go.jp/pid/3359247/1/3

 第1表 来日宣教医一覧
 (安政6年―明治45年、来日年度順)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3359247/1/7

番号 29
姓名 Mary A. Gault (Miss)
   ⇒Mary A. Suganuma (Mrs.)
国  米
来日年-離日年(死亡年) 1891(明治24)~
所属ミッション CPM
出身学校(医学関係のみ)
夫妻同伴の有無 + ※来日後に結婚した。
主たる仕事、従事場所 
歴任地 
p8【日本医史学雑誌 16(1)(1379)】1970
〔画像〕p8【日本医史学雑誌 16(1)(1379)】1970
https://dl.ndl.go.jp/pid/3359247/1/8
 第2表 宣教医を派遣したミッション一覧(略名表)
欧字略名 CPM
欧文名  Cumberland Presbyterian Mission(のちPNと併合)
日本名  米国カンバーランド長老教会
来日者数 2
https://dl.ndl.go.jp/pid/3359247/1/8

なお女子一名(29 Mary A. Gault)は来日後
p10【日本医史学雑誌 16(1)(1379)】1970
〔画像〕p10【日本医史学雑誌 16(1)(1379)】1970
https://dl.ndl.go.jp/pid/3359247/1/10

  [F] Mary A. Gault
ゴールトは一八九一年(明治24年)五月三日、
米国カンバーランド長老教会が
テキサス州ダラスでおこなった
婦人伝道局の集会で宣教師に任命され聖別され、
同年(明治24年)七月日本に着き、
すぐに宣教師の健康管理と日本人の治療の仕事を始めた。
九二年(明治25年)までミッションと関係を保ったが、
その年(明治25年)
大阪第一教会の会員菅沼氏と結婚した。
        ※菅沼元之助
九三年(明治26年)長崎に移り診療所を開いた。
キリスト教共励会の活動に熱心であった。(7)(59)
p19【日本医史学雑誌 16(1)(1379)】1970
〔画像〕p19【日本医史学雑誌 16(1)(1379)】1970
https://dl.ndl.go.jp/pid/3359247/1/19
  文  献
(7) ―略―
(59) 大内三郎監修、J・B・ヘール著
   ヘール日本伝道記 ※別稿に記載
   一八七七~一九〇二
   大阪女学院 一九六九
https://dl.ndl.go.jp/pid/3359247/1/25
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【臨床科学 23(5)(362)】1987
著者    エースアート株式会社 [編]
出版者   エースアート
出版年月日 1987-05
1891年(明治24年)7月には
米国カンバーランド長老教会が
テキサス州ダラスでの婦人伝道局の集会で
宣教師に任命・聖別された女医
ゴールト(Mary A. Gault)が来日し、
宣教師の健康管理と日本人の治療に当たった。
翌年(明治25年)、大阪第一教会の菅沼氏と結婚し、
1893年(明治26年)長崎に移り診療所を開き、
キリスト教共励会の活動にも熱心であった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1787812/1/67
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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