足立道五郎

[足立道五郎先生] 祖国の風は冷たかった【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986

【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
著者    横山甲子蔵 著
出版者   [横山甲子蔵]
出版年月日 1986.4
p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/1

  十二年ぶりに踏む祖国の土
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/198
一九五三年(昭和28)八月十一日
ついに私たちは祖国の土を踏んだ。
それはまぎれもなく日本の土であった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/199

  祖国の風は冷たかった
帰国した私は妻と長男を四国の妻の実家に預け
職探しに走り回った。
妻は実家で二男を出産した。
私はこの二男に「幸弘(ゆきひろ)」と命名した。
深い意味もなかったが「末永く幸多かれ」
と願う親の心情だった。

職探しをしながら中国で苦楽を共にしてきた
友人たちの消息を求めた。

幸い足立(道五郎)先生も、太田先生も、
堤さんも、橋本さんも、鈴木君も
みな無事帰国していた。
誰も彼もそれぞれ職を求め
生活の安定のために苦労していた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/200
流転の青春 横山甲子蔵著
頒 価 4,000円
「流転の青春」
 中国人民解放戦争従軍記
1986年3月30日 印刷
1986年4月15日 発行
著 者 横山甲子蔵
〒399  長野県松本市芳川小屋256-9
    TEL 0263-58-9203
印刷所 中信凸版印刷株式会社
〒390  長野県松本市城西1丁目2-2
    TEL 0263-32-4209
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/242
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[足立道五郎先生] 九江第六陸軍病院との別れ【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986

【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
著者    横山甲子蔵 著
出版者   [横山甲子蔵]
出版年月日 1986.4
p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
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  九江第六陸軍病院との別れ
九江の生活は私たちが解放軍に従軍してから
最も落ちついた、
また変化の多かった時代であった。

九江に来るまでは、
ひとつ所に長くても一年足らずで、
戦況の進展につれて移動移動の連続だった。
ここに来てようやく少し落ちついた。
社会情勢も変化した。

私たちにとってなんといっても
一番大きな変化は、
軍服を脱いで薪金制になったことだった。
そして結婚し子供も生れた。

これは私の人生にとっても最大の変化だった。
九江第六陸軍病院ここは私たち夫婦にとって、
いや私たち夫婦だけでない
ここで結婚した人々にとっても、
終生忘れることのできない
結婚生活の思い出の地になった。

「新婚生活」、それはその形式内容がどうあれ、
人間にとっては新しい人生の出発点として
深い意義があった。
こうした異境で、
このような環境の中での新婚生活であっただけに
尚更その意義は深かった。

一九五二年(昭和27)五月
平井出副院長・足立(道五郎)先生・太田先生
はじめ医生と大井民幹、
そのほか主だった医療技術者を残して、
半数の日本人はまた泰和へ移動することになった。

この時期にきて私たちを江西省の山奥にある泰和に、
それも全員ではなく護士や文書・工務員といった
比較的軽い職務にあった者だけを移動させたことに、
どんな理由があったのかいまでも私には理解できない。

だが、帰国の時期が近づいていることだけは分っていた。
泰和へ移動を命ぜられた者は、
命令のままに小さな船で@江を遡り泰和へ向った。

太田先生・足立(道五郎)先生そのほか
敗戦のときから、
或はまた第二後方病院が編成された時から数年、
牡丹江から雷州半島まで解放戦争に従事し、
そして再び東北へ、
さらにこの九江まで苦楽を共にしてきた
同志たちと別れなければならなかった。

特に太田先生・足立(道五郎)先生には
ほんとうにお世話になりました。

太田先生には
牡一の初年兵の時から衛生兵教育だけでなく、
学問も才能もない私は教えられることばかりでした。

足立(道五郎)先生には
妻 宮川トシ子が
やはり敗戦の時から、
五七院でお世話になってきた。

個性がはげしく欠点の多い私は、
この二人の先生のご指導と感化によって、
どれほど成長してきたことであろうか。

それを思えば感謝の気持ちで一杯だった。
そしてまた「すばらしい人生の師」を
得たことを幸せに思った。
涙もろい私は止めどもなく涙が流れた。
「生者必滅・会者定離」、
会った以上別離はまた定めでもあった。
「先生、みなさん、無事帰って下さい。
 日本でまた会いませう。」
そう言って別れた。

病院では別れを惜しみ送別会を開いてくれた。
思えば二年近く[遊]院長・[李]政治委員・[白]主任、
よく𠮟られた[王]護理科主任、
温厚な[寥]先生、
日本語の分る[王]先生、[張]士長、
みなさん親切に私たちの面倒をみてくれた。

謝々、再見、再見
(ありがとう、さようなら・さようなら)
p175【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p175【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/175

病院の正門に通じる通路の両側には
プラタナスの若葉が五月の陽を受けて緑に輝き、
その下に傷の癒えた傷兵たちが手を振って見送ってくれた。

昨年の今ごろは重い傷を負って
遠く朝鮮戦線から送られてきた負傷兵たちも、
私たちの献身的な治療看護の甲斐あって、
いまはこうして外を散歩できるまでに
快復している者も多くなった。
ほんとによかった。
嬉しいことであった。

「你們身体健康吧」
(あなたたち身体を大事にしてね)。
看とったもの看とられた者、
その立場は違っても
一年間も同じ病棟の中で生活していれば、
民族の違い言葉や習慣の違いを乗り越えて、
そこには人間対人間の愛情と信頼が
生まれてくるのであった。

もう二度とこの人たちと会うことはないだろうが、
どうか何時までも元気でいてほしい。
そう心に念じながら九江陸軍病院を後にした。
p176【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p176【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
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流転の青春 横山甲子蔵著
頒 価 4,000円
「流転の青春」
 中国人民解放戦争従軍記
1986年3月30日 印刷
1986年4月15日 発行
著 者 横山甲子蔵
〒399  長野県松本市芳川小屋256-9
    TEL 0263-58-9203
印刷所 中信凸版印刷株式会社
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[足立道五郎先生] 九江第六陸軍病院【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986

【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
著者    横山甲子蔵 著
出版者   [横山甲子蔵]
出版年月日 1986.4
p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
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  九江第六陸軍病院
   日本人同志の分散
三度漢口に着いた私たちは各地に分散した。
全土が解放された中国大陸は経済建設と、
軍の正規化、抗美援朝に力を入れていた。

敗戦以来、数年生死を共にしてきた
私たちは肉親のような親しみを持っていた。

中南軍区司令部は私たちを、
それぞれの職務、技能に応じて
必要な部門に分散させた。

装蹄士の技術を持つ平塚要さんは
武昌の獣医処へ、
会計の人たちは経済部門へと分れていった。

医務関係者も湖北病院へ、
或は南昌の医学院へと行く者もあった。

田中民族幹事は漢口に残った。

私は足立(道五郎)先生・太田先生や
そのほか総勢五十名ほどで、
九江の病院へ行かされた。

また長江を船で下って九江に向った。
今度は洪水もなく、
迎えのトラックで病院に着いた。

九江の病院は中南軍区衛生部第六陸軍病院といった。
現在は中国人民解放軍一七一医院となっている。

この病院は旧日本軍の病院で、
俗称 椿部隊と呼んでいたと聞くがさだかではない。

建物は木造平屋建の病棟が六棟、
ほかに手術室・薬局・事務棟・炊事場・工作員病舎
などの附属建物があり、
相当大規模な病院だった。
戦火で破壊されることもなく、
そのまま病院として使用できた。
だが、まだ解放後日も浅くこれから建設の段階だった。

九江の病院にはさきに、
東北に行く際漢口で別れた
橋本萬寿治・佐藤夏美さんが来ていた。
ほかに日本人は七・八名しかいなかった。
私たちが着くと、
院長はじめ病院挙げて大歓迎してくれた。

院長は、「遊全挙」という名前の恰幅のいい、
三十を少しすぎたくらいの
見るからに温厚そうな、
大人(たいじん)の風格をそなえた人だった。

私たちは先生方から順に、
一人一人紹介され握手した。
その日は
一九五〇年(昭和25)十月二十五日であった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/159

  病院建設

こうして一九五一年(昭和26)の春ころまでには
一応の体制は整った。
しかし医療面ではやはり日本人の力が大きかった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/160

主な陣容は、
副院長・平井出博士、
主治医生・足立(道五郎)先生・太田先生、
眼科主任・栗原先生、
歯科主任・肱川先生、その下には技工士 堤さん、
ほかに高田先生・紺野先生・中村先生、
さらに実習医生・医助数名、

レントゲン室主任・星先生、その下に杉田さん、
病理検査室主任・詫間先生、
その下に平野さん、永井さん、鈴木君。
医務科護士主任・白石さん、(後に猪股士長)
護士長・本池さん。猪股さん・宮村さん・斉藤さん、
文書・岡さん・加藤さん・といった顔ぶれで、
このほか五十名ほどの護士がおり、
医療面の中心になっていた。

男の人で数人工務班の仕事をする者もいた。

  志願兵の負傷兵を迎える
病院の体制が整うと志願軍の負傷兵の
第一陣が送られてきた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/161

朝鮮戦線から送られてきた負傷兵のなかに、
どうも日本人らしい顔をした兵士がいた。
傷はそれほど重いようではなかった。
病歴表(カルテ)の名前は『年永貴』と書かれていた。
そして中国語を上手に話したが、
どうみても日本人であった。

彼は名を『年岡冨貴夫』という
立派な日本人であった。

ただ一人で解放軍戦闘部隊に従軍していたため
抗美援朝志願軍に加わり、
北鮮の戦場で傷ついたのであった。

年岡さんは退院後私たちの仲間に加わった。

後の調査ではこのように、
志願軍として朝鮮戦線に従軍した日本人の数は、
三十人とも五十人とも、
或は百人を超えるという情報もあるが、
その数はいまもなお確認されていない。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/162
流転の青春 横山甲子蔵著
頒 価 4,000円
「流転の青春」
 中国人民解放戦争従軍記
1986年3月30日 印刷
1986年4月15日 発行
著 者 横山甲子蔵
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[足立道五郎先生] 日本人の援朝参戦回避【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986

【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
著者    横山甲子蔵 著
出版者   [横山甲子蔵]
出版年月日 1986.4
p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
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  日本人の援朝参戦回避
<1950年(昭和25)>
九月十五日
米・韓連合軍は仁川に上陸作戦を敢行した。

この仁川上陸作戦によって
朝鮮半島の戦況は逆転し、
三八度線を南下していた北鮮軍は、
反対に三八度線以北に敗退した。

連合軍は三八度線を奪回した勢いで、
北へ北へ進攻し鴨緑江の線に迫ってきた。

<1950年(昭和25)>
十月八日
彭徳懐の指揮する
中国人民抗美援朝志願軍の第一陣は、
鴨緑江を越えて北朝鮮へ進撃した。

これと時を同じくして、
第二後方病院の日本人工作員全員に
漢口への移動命令がでた。
詳しい理由の説明はなかった。

院長も政治委員も、
「長い間解放戦争に協力してくれて有難う。
 漢口に帰って学習したり、
 また新しい工作に頑張るように。」
といって別れを惜しんでくれた。

牡丹江で第二後方病院が編成されて以来
三年有余言葉も十分通じない上、
立場も思想意識も違う中で、
中国人民解放戦争という壮大なドラマを
共に体験してきたこの人たちと、
いざ別れるとなると、
断ち難い惜別の情が湧いてきた。

この人たちは「抗美援朝 祖国防衛」
という大義名分を負って、
自らに与えられた職務の遂行に邁進していくであろう。

漢口に戻る私たちの前途には
なにが待っているのであろうか。
それは中国共産党だけしか分からないことだった。
病院では盛大な送別会を開いてくれた。
そしてお互いの健闘を祈り合った。

私たち百数十名の日本人は、
田中民幹・足立(道五郎)先生・太田先生を中心にして
三度漢口への旅にたった。
今度はきれいな旅客列車に乗せてくれた。
私は敗戦以来はじめて旅客列車に乗った。

日本人がなぜ抗美援朝志願軍から除外されたか。
中共側からの説明はなかったが、
おおよその判断はついた。

志願軍の中に日本人兵士が従軍していることの
国際問題化をおそれたのでないか?
十分考えられることであった。

一年前中華人民共和国が成立している。
新しい中国を承認した国は
まだソ連・インド・イギリスなど
二・三ケ国にすぎないが、
中共政府は も早や過去の日陰者ではなかった。
堂々と世界に新しい国家として宣言しているのだ。
解放戦争初期に私たち日本人を残留させたころとは
状況が変っていた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/157

私たちの病院のように
大勢の日本人が行動を共にしていたところでは
この命令も徹底していたが、
戦闘部隊に三人・五人と少人数で
従軍していた日本人の中には、
朝鮮の戦場で戦い負傷した人たちもいた。

この人たちは、
名前を中国名に変えており、
数年の解放戦争のなかで、
区別のつかぬほど中国人に同化していた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/158
流転の青春 横山甲子蔵著
頒 価 4,000円
「流転の青春」
 中国人民解放戦争従軍記
1986年3月30日 印刷
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著 者 横山甲子蔵
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[足立道五郎先生] と野村都己さんは開平にいたころ既に結婚していた【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986

【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
著者    横山甲子蔵 著
出版者   [横山甲子蔵]
出版年月日 1986.4
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〔画像〕p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/1
私たちは日本人だけで院内報を作ることにした。

その中に私は忘れ得ぬ一首を見つけた。

  為傷病 口にはやすし 吹雪く夜を
      看(み)とりにいで行く 同志(とも)は尊し。

護士 野村都己さん(現足立先生夫人)の作だった。
(先日このことを足立夫人にお話したらすっかり忘れていた)
この一首に当時の私たちの心情がよく詠まれている。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/120

  新鄭のひととき

第二後方病院には、
技術のすぐれた先生方がおったので、
護士の学習にはこと欠かなかった。
私も護士たちの中に入って、
足立(道五郎)先生や太田先生の講義に耳を傾けた。
統計護士といえども、
医療技術の学習は欠かせない大事なものだった。
初年兵のころ、
懸命に覚えた衛生兵の知識は大半忘れていた。

新鄭で勤務替えが行われ、
太田先生が三所から一所の主治医生に、
そして足立(道五郎)先生が三所の主治医生になった。
私は、足立(道五郎)先生の下で働くことになった。

足立(道五郎)先生は、
元ハルピン第五七陸軍病院の軍医であり、
また教育隊長でもあった。

牡丹江で第二後方病院が編成された時から一緒だったが、
その下で働く機会はなかった。

先生は、そのすぐれた医師としての技術だけでなく、
温厚な人柄と、誠実な工作態度は、
ひとり日本人だけでなく
中国人同志からも
「足立大夫、足立大夫」と尊敬され、
また院長・政治委員はじめ中国側幹部から
深く信頼されていた。

足立(道五郎)先生は、
太田先生やそのほかの日本人医生とともに、
この病院を支える太い柱の一本であった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/146

  結  婚
足立(道五郎)先生と護士 野村都己さんは、
開平にいたころ既に結婚していた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/156
流転の青春 横山甲子蔵著
頒 価 4,000円
「流転の青春」
 中国人民解放戦争従軍記
1986年3月30日 印刷
1986年4月15日 発行
著 者 横山甲子蔵
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[足立道五郎先生] 黒石鎮における最初の病院建設・第二後方病院編成表【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986

【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
著者    横山甲子蔵 著
出版者   [横山甲子蔵]
出版年月日 1986.4
p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
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   黒石鎮における最初の病院建設
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/109
 第二後方病院編成表
一所の主治医生は、
最初 池田先生
(元牡一院教育隊長軍医少佐、
 池田先生は西先生とも呼んでいた。)

二所の主治医生は、
足立(道五郎)先生
(元ハルピン第五七陸軍病院軍医大尉)であった。

池田先生は一ケ月ほどしてハルピンの病院に転勤になり、
その後、太田先生(元牡一院軍医大尉)が
一所の主治医生を担当していたが、
負傷兵の増加で三所が増設されたため、
太田先生は三所の主治医生に変り、
足立(道五郎)先生が一所の主治医生となり、
二所の主治医生は西垣先生(元牡一院軍医大尉、博士)
が担当することになった。

一所に足立(道五郎)先生・二所 太田先生と
元日本陸軍病院の優秀な軍医が主治医生となり、
さらにその下に多くの
日本人軍医・元衛生兵・日赤・満赤・陸看の看護婦がおり、
また薬局には薬剤師の太田先生が、
化験室(病理検査室)には
詫間先生(元衛生准尉)や平野さんといった
p110【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p110【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/110
病理検査のベテランが配置され、
病院としての機能が整った。

日本軍の敗戦後解放軍に参加した元満軍の軍医や、
ハルピン医大をでた中国人の医生もいたが
その数は少なく、
また技術水準も低く、
そのため第二後方病院における医療面の中枢は
日本人医療技術者がしめていた。

そればかりではなく、
経理の面にも院部の供給科に桐谷・大橋、
一所に和田、
二所に佐藤、
三所に伊藤といった
会計のベテランがおり、
その面でも大きな役割りを果していた。

その他にも工務班、洗濯班などにも
大勢の日本人が働いていた。

私たち飼養班は院部の管理科に所属し、
街はづれの地主の馬小屋に落ちついた。
牡丹江当時とは違い忙しく、
日本人だけでは間に合わくなり、
郭さんと王さんの二人がきて、
郭さんが班長をすることになって
私は副班長になった。

郭さんは背の高いがっちりした、
少しずるがしそうな男だったが、
私たち日本人にはとても親切で、
「小高子班長」(背の低い班長)といって
私をひきたててくれた。

王さんは馬の飼育以外には取得のなさそうな
典型的な老百姓で、
いつも にこにこしながら
楽しそうに馬の飼育をしていた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/111
流転の青春 横山甲子蔵著
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 中国人民解放戦争従軍記
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[足立道五郎先生] ハルピン満州赤十字病院のこと:昭和20年8月31日【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986

【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
著者    横山甲子蔵 著
出版者   [横山甲子蔵]
出版年月日 1986.4
p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/1

  ハルピン満州赤十字病院のこと
私はハルピン満赤病院には何の関係もない。
それなのになぜ満赤病院のことを書くのか。
それは後に私の生涯に大きな影響を与えることに
なるからである。
「ハルピン赤十字病院の最後・
 青春を犠牲に取残された従軍看護婦の記録」
の中から一部分を抜粋してみる。
(11) 昭和二十年(1945)八月八日、
   ソ連軍は突然ソ満国境を越え侵攻してきた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/97
ハルピン赤十字病院は、
関東軍の命令により病院長以下
全職員現地応召となった。
病院は関東軍野戦病院に編入された。
当院の看護婦は一一一名であった。
名簿別添(省略)
  -略-
(18) 梅林収容所に於ける救護活動、
昭和二十年(1945)八月三十一日、
梅林の入口附近にて
有田(浩吉)病院長を中心に露営した。
翌夕方露営地を出発、梅林収容地に向った。

此処は関東軍第五軍の材料廠のあった所で、
処々に点在する弾薬倉庫の中には、
もはや弾薬は何もなく広々としていた。

この倉庫の一棟が病院勤務者の宿舎となった。
昭和二十年(1945)の九月は六十年来の寒さで
土間の寒さが身に沁みて眠れなかった。
傷病兵の身の上が案じられた。

作業班により弾薬倉庫の一つひとつが、
それぞれ外科病棟・内科病棟・伝染病棟・
手術室・処置室・薬室等に改造された。

外科病棟、(手術室・処置室を含む)
有田(浩吉)病院長・
足立(道五郎)教育隊長・
看護婦長 俵ナカ(旧姓 大石)・七条シズ(旧姓 斉藤)・
看護婦 不動照子(旧姓 大木) 外九名、衛生兵十数名。

内科病棟、
安田(實)軍医・
看護婦長 太田善子(旧姓 中村)
看護婦 大井モンエ(旧姓 海野) 外十名、
衛生兵 佐々木班長 他十数名。

伝染病棟、
井橋(節太郎)軍医・
看護婦長 加川節子(殉職)
看護婦 森下東洋子 外十名、
衛生兵 上野班長 外十数名。

以上のような編成で
一応野戦病院としての形が整った。
この野戦病院において一面波陸軍病院の戦傷兵を
引き継ぎ救護に当った。
(中略)
間もなくソ連軍の命令により
牡丹江の収容所へ移動することになり、
梅林の救護活動を終えた。
しかし相当数の犠牲者の出たことは実に残念であった。

(19) 牡丹江収容所に於ける救護活動、
昭和二十年(1945)十一月
梅林収容所より牡丹江収容所へ移動した。
(中略)
牡丹江第一陸軍病院はすでに焼けて
使用不能になっていたために、
私どもはその焼跡を修復して
関東第五七陸軍病院を開設した。
(これを五七院と呼ぶ 筆者註)
病院における勤務員の配置は
梅林収容所と同じであった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/98
流転の青春 横山甲子蔵著
頒 価 4,000円
「流転の青春」
 中国人民解放戦争従軍記
1986年3月30日 印刷
1986年4月15日 発行
著 者 横山甲子蔵
〒399  長野県松本市芳川小屋256-9
    TEL 0263-58-9203
印刷所 中信凸版印刷株式会社
〒390  長野県松本市城西1丁目2-2
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[足立道五郎] 「流転の青春」に呈して【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986

【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
著者    横山甲子蔵 著
出版者   [横山甲子蔵]
出版年月日 1986.4
p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/1

   序 文
  足立道五郎
「流転の青春」に呈して。
永年、心の底から言いたかったことを、
文章の形であらわすことは、
文筆家でない素人にとって、
並大抵の苦労では出来ないことですが、
これを著書として作成し
世に問うことは人間として
非常に大きな喜びであろうと思います。
昔風に表現すれば男子の本懐と言えましょう。

横山甲子蔵さんは
一九四一年(昭和16)から中国大陸にわたり、
満州開拓青年義勇隊、日本陸軍、及び
中国人民解放軍に於て、
幾多の辛酸をなめながら、
十七才から二十九才までの全青春を費やしました。

その間の波瀾にみちた経過を、
可能な限り詳細に事実調査し又
文献資料をあつめた結果にもとづいて
客観的に書きつづり、
己に失われた青春の日々が自身にとって又
その仲間の人達にとって、
どのような意義をもっていたのかを
見つめようとしています。

私共、同じ集団の帰還者達が、
これまで書き残さねばと思いながら
残し得なかったものを、
彼は五年の歳月と努力と忍耐とをもって
見事成就して下さいました。

心から感謝の意を表したいと存じます。

私共、所謂戦中派の育った環境は、
所謂半封建的資本主義社会で、
受けた教育はその基本が教育勅語にありました。

忠孝が道徳の根本であり、
日本民族は優秀民族で
他の民族の上位に君臨すべきものと
信じて居ましたが、
突如敗戦を迎えたのでした。

私自身、一九四六年(昭和21)には
牡丹江捕虜収容所内の病院で診療していて
解放軍の管轄下に入りましたが、
代表して帰国要求を執拗にしたり、
日本人の逃亡者を手助けしたりして、
「狭隘な民族観念」を持つ
注意人物としてマークされていた様ですが、
解放軍は気長に自覚を持ったものと推測されます。

そして私は漸次解放軍内の民主的管理や、
あくまで人民の利益を守る軍規律の厳しさに感銘し、
その后彼等の情勢判断が的確で、
全国解放の事業が着々と進展してゆく
現実を見せつけられて、
自分のしている医療の仕事に、
単なるヒューマニズム以上の意義を認めざるを
得なくなったのでした。

終戦后四十一年の年月が経ちました。
中国もその后、
文化大革命と称する国を挙げての
誤った路線を漸く克服して、
新たな方向を求めながら進んでいます。

一方経済大国になった日本の中には、
私共の命と青春を代償に得た
「戦争を憎み平和を求める」
という尊い教訓が踏みにじられて、
再び「力こそ正義」とか
「祖国を守るため、
 愛する人の為に戦争に出かける」
等の言葉が語られ、
一部の政治家によって
その準備が始められていることに
大きな危惧を感じます。

私共は戦争をどの様な人達が
どのような理由をつけて起させるかを
身をもって体験して参りました。
「日中不再戦」
これが両国民の共通の願であり
目標であるべきだと思う次第です。
  昭和六十一年(1986)二月
p7【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p7【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/7
流転の青春 横山甲子蔵著
頒 価 4,000円
「流転の青春」
 中国人民解放戦争従軍記
1986年3月30日 印刷
1986年4月15日 発行
著 者 横山甲子蔵
〒399  長野県松本市芳川小屋256-9
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印刷所 中信凸版印刷株式会社
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[足立道五郎院長] 山口組三代目田岡一雄組長・安井病院安井浩副院長・津島信則医長:『ベラミ』昭和53年【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】

【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
著者    飯干晃一 著
出版者   徳間書店
出版年月日 1982.9
p2【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
〔画像〕p2【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
https://dl.ndl.go.jp/pid/12483761/1/2

  3 雷鳴の京に首領(ドン)は斃(たお)れた
京阪三条駅前、クラブ『ベラミ』

昭和五十三年七月十一日の夜。
あの吉田芳弘射殺からじつに一年十カ月が経っていた。
京都は夕刻になって、前線の通過にともなって、
熱雷が発生し不気味な稲妻とともに雷鳴が轟いた。
雨足ははげしくなり、
東寺の塔、京都タワー、二条城などが
青白い閃光を浴びて夜空に浮かびあがり、
花見小路でははげしい雨を避けて酔客までが走った。

京阪三条駅前のナイトクラブ『ベラミ』は
夏枯れのせいもあって入りが悪い。
そしてこの夜のショーは
“うたとリンボーダンス”だった。

午後九時二十五分。
すでに京都を襲った雷鳴は遠のき、雨もやんだ。
『ベラミ』の舞台。
外人リンボーダンス“ルークール”が終わり、拍手がおこった。

スレージの下手(しもて)寄り二列目のテーブルに、
山口組三代目田岡一雄組長がいた。
さすが首領(ドン)と呼ばれるだけに貫録は十分で、
髪は短く、目に光のある人物である。
彼は心臓の疾患をもっていたから
アルコールは口にせず、
オレンジジュースだった。
しかしリンボーダンスのショーをたのしんだ。

奥のテーブルにいた若い男が、
この時いきなり立ちあがった。
彼は一歩踏み出すようにすると、
田岡一雄組長を狙って拳銃を両手で構え、腰をおとした。
一発、二発。男は拳銃を撃った。
のちにわかったことだが、
この拳銃はコルト38口径、
コルトスペシャルと呼ばれるものである。

山口組三代目は頸(くび)を撃たれたのだ!
「うっ」
思わず田岡一雄組長はその首をおさえた。
一瞬のうち、それがどういうことなのかわからなかった。

田岡一雄組長の席よりステージ寄りにいた
左京区安井病院の安井浩副院長は右肩に弾丸が当たり、
もう一発は同病院の津島信則神経科医長に
右背中から腹部に達する銃創を与えた。
これは気の毒にもまったくの飛ばっちりであった。

二人の医師が倒れたのを見て、
一人のホステスはおどろきのあまり失神した。

安井浩副院長らは新任の医師歓迎会で二次会として
『ベラミ』に居合わせたのである。

撃った男は拳銃を構えたまま、
「どけ、どけっ!」
とわめいて、入口から逃げた。

この時、護衛の一人、羽根組組長羽根恒夫は
そろそろひきあげる時だ、とレジで精算をして、
ついでにいわゆる“田岡御殿”に
田岡一雄組長が帰ると電話をし、
受話器を握っている最中だった。

羽根恒夫は異変に気づいて、
首領(ドン)のテーブルにかけ戻った。
首領(ドン)を撃った男とすれ違いになったのは
まさに皮肉なことであった。
p38【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
〔画像〕p38【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
https://dl.ndl.go.jp/pid/12483761/1/38

山口組三代目のお供をしていたのは、
細田組組長細田利明(山口組若頭補佐)、
仲田組組長仲田喜志登、
弘田組組長弘田武志、
それに羽根恒夫の四人だった。

首領(ドン)が撃たれた!
「追え、追えっ!」
血相を変えた
細田利明と羽根恒夫は男のあとを追ったが、
狙撃犯人の姿は闇のなかへ消えていた。
“奇蹟”というか、
頸を撃たれた山口組三代目はしっかりしていた。
自らハンカチで出血をおさえて、
「わしは大丈夫や。
 隣の撃たれた人を早よう病院に運んであげにゃ」
青くなってすっ飛んできた
『ベラミ』のママの山本千代子に
田岡一雄組長はおちついて言った。
『ベラミ』のなかは騒然としている。
  -略-
事件後三十分、新聞記者たちが殺到してきた。
「撃たれたお医者さんの安井病院といえば
 トラさん(蜷川虎三前京都府知事)の主治医の病院じゃないか」
p39【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
〔画像〕p39【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
https://dl.ndl.go.jp/pid/12483761/1/39

しかし『ベラミ』のホステスのなかには、
山口組三代目の顔をよく知っている者がいて、
田岡一雄組長が負傷した“事実”をみていた。
「なにっ! 首領(ドン)が撃たれた?」
記者たちは撃たれた客のなかに
山口組三代目田岡一雄組長がいたと知って愕然とした。
彼らはいっせいに電話に飛びついた。
午後十時十分。
  -略-
p40【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
〔画像〕p40【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
https://dl.ndl.go.jp/pid/12483761/1/40

  -略-
手術の終わった山口組三代目は、
かけよった組幹部たちに、
「こんなに見舞いにきてくれたら、
 わしのほうが気をつかう」
と軽口を叩くぐらいに元気で、
五〇六号室にはいった。

田岡一雄組長には夫人の文子さん、
長男の満(みつる)氏がつきそった。

いっぽう『ベラミ』で、
流れ弾に当たった二人の医師は
救急車で自分たちの安井病院に運ばれ、
午後十一時から
足立道五郎院長自身の執刀で手術が行なわれた。

安井浩副院長の右肩からは比較的楽に弾が摘出され、
三週間の傷で済んだ。

津島信則神経科医長は腸で弾丸がとまり、
出血もひどいので手術はむつかしかったが、
足立道五郎院長は五時間に及ぶ大手術の末
ついに弾丸の摘出に成功した。

そして二カ月の重傷で済んだことに
関係者の愁眉はやっと開かれた。

手術の終りと同時に夜は明けた。
p41【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
〔画像〕p41【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
https://dl.ndl.go.jp/pid/12483761/1/41
(この作品は1979年3月徳間書店より刊行されました)
 徳間文庫  雷鳴の山口組
1982年9月15日 初刷
著 者 飯干晃一
発行者 徳間康快
発行所 株式会社 徳間書店
    東京都港区新橋四ノ一〇 〒一〇五
    電話(〇三)四三三・六二三一(大代)
    振替 東京四ノ四四三九二番
印刷 製本 凸版印刷株式会社
<編集担当 石井健資>
https://dl.ndl.go.jp/pid/12483761/1/97
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2025年05月02日11:26
《足立道五郎》安井病院 院長
【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
信和会 安井病院   左京区田中飛鳥井町89
           最終学       卒年度
杉山 茂  小(顧問)京都大学      昭和 6年
足立道五郎 院 長  京都大       昭和15年
安井  浩 副院長  京都大       昭和33年
藤井 洋一 事    四条商       昭和23年
小坂喜美子 内    東京女医専     昭和10年
馬杉 雄達 内    慈恵医大      昭和22年
津島 信則 神    東北大       昭和33年
藤村喜代治 外    京都府医大     昭和30年
三渕 浩道 薬    京都薬大      昭和38年
藤坂 邦彦 検査技師 兵庫職補      昭和33年
椎名 国夫 X線技師  千葉大技師学    昭和34年
西原 はる 総婦長  府医師会助産    昭和20年
鈴鹿日出子 副総婦長 大阪厚生学     昭和20年
平田 栄子 婦長   樺太庁豊原病院看養 昭和11年
民谷 清美 婦長   近畿高看      昭和51年
篠本 京子 婦長   京都大看学     昭和44年
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【近畿病院名簿 1984年度版】昭和59年
出版者   医事日報社
出版年月日 1983.12
p1【近畿病院名簿 1984年度版】昭和59年
〔画像〕p1【近畿病院名簿 1984年度版】昭和59年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12089338/1/1
安井病院  京都市左京区田中飛鳥井町89
足立道五郎 院長、外   京都大学 昭和15年
安井  浩 副院長、内  京都大学 昭和33年
津島 信則 精・神    東北大学 昭和33年
p119【近畿病院名簿 1984年度版】昭和59年
〔画像〕p119【近畿病院名簿 1984年度版】昭和59年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12089338/1/119
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《足立道五郎》安井病院 院長【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)

【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
出版者   医事日報社
出版年月日 1979.12
p1【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
〔画像〕p1【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12096440/1/1
京都市
https://dl.ndl.go.jp/pid/12096440/1/95
信和会 安井病院   左京区田中飛鳥井町89
           最終学       卒年度
杉山 茂  小(顧問)京都大学      昭和6年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12096440/1/106
           最終学       卒年度
足立道五郎 院 長  京都大       昭和15年
安井  浩 副院長  京都大       昭和33年
藤井 洋一 事    四条商       昭和23年
小坂喜美子 内    東京女医専     昭和10年
馬杉 雄達 内    慈恵医大      昭和22年
津島 信則 神    東北大       昭和33年
藤村喜代治 外    京都府医大     昭和30年
三渕 浩道 薬    京都薬大      昭和38年
藤坂 邦彦 検査技師 兵庫職補      昭和33年
椎名 国夫 X線技師  千葉大技師学    昭和34年
西原 はる 総婦長  府医師会助産    昭和20年
鈴鹿日出子 副総婦長 大阪厚生学     昭和20年
平田 栄子 婦長   樺太庁豊原病院看養 昭和11年
民谷 清美 婦長   近畿高看      昭和51年
篠本 京子 婦長   京都大看学     昭和44年
p107【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
〔画像〕p107【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12096440/1/107
80年度版 近畿病院名簿(第9版)
定 価 5,500円 送料別
初 版 昭和38年12月20日 発行
第9版 昭和54年12月20日 発行
発行所 株式会社 医事日報社
    本社 大阪市東区淡路町3-6 船場ビル
       電話06(231)3276・8967番
  東京支社 東京都中央区八丁堀4-11-7 神谷ビル
       電話03(553)5080番(代表)
発行者 松尾  進
印刷所 新阪神印刷株式会社
https://dl.ndl.go.jp/pid/12096440/1/234
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