足立道五郎

[足立道五郎] 「流転の青春」に呈して【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986

【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
著者    横山甲子蔵 著
出版者   [横山甲子蔵]
出版年月日 1986.4
p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/1

   序 文
  足立道五郎
「流転の青春」に呈して。
永年、心の底から言いたかったことを、
文章の形であらわすことは、
文筆家でない素人にとって、
並大抵の苦労では出来ないことですが、
これを著書として作成し
世に問うことは人間として
非常に大きな喜びであろうと思います。
昔風に表現すれば男子の本懐と言えましょう。

横山甲子蔵さんは
一九四一年(昭和16)から中国大陸にわたり、
満州開拓青年義勇隊、日本陸軍、及び
中国人民解放軍に於て、
幾多の辛酸をなめながら、
十七才から二十九才までの全青春を費やしました。

その間の波瀾にみちた経過を、
可能な限り詳細に事実調査し又
文献資料をあつめた結果にもとづいて
客観的に書きつづり、
己に失われた青春の日々が自身にとって又
その仲間の人達にとって、
どのような意義をもっていたのかを
見つめようとしています。

私共、同じ集団の帰還者達が、
これまで書き残さねばと思いながら
残し得なかったものを、
彼は五年の歳月と努力と忍耐とをもって
見事成就して下さいました。

心から感謝の意を表したいと存じます。

私共、所謂戦中派の育った環境は、
所謂半封建的資本主義社会で、
受けた教育はその基本が教育勅語にありました。

忠孝が道徳の根本であり、
日本民族は優秀民族で
他の民族の上位に君臨すべきものと
信じて居ましたが、
突如敗戦を迎えたのでした。

私自身、一九四六年(昭和21)には
牡丹江捕虜収容所内の病院で診療していて
解放軍の管轄下に入りましたが、
代表して帰国要求を執拗にしたり、
日本人の逃亡者を手助けしたりして、
「狭隘な民族観念」を持つ
注意人物としてマークされていた様ですが、
解放軍は気長に自覚を持ったものと推測されます。

そして私は漸次解放軍内の民主的管理や、
あくまで人民の利益を守る軍規律の厳しさに感銘し、
その后彼等の情勢判断が的確で、
全国解放の事業が着々と進展してゆく
現実を見せつけられて、
自分のしている医療の仕事に、
単なるヒューマニズム以上の意義を認めざるを
得なくなったのでした。

終戦后四十一年の年月が経ちました。
中国もその后、
文化大革命と称する国を挙げての
誤った路線を漸く克服して、
新たな方向を求めながら進んでいます。

一方経済大国になった日本の中には、
私共の命と青春を代償に得た
「戦争を憎み平和を求める」
という尊い教訓が踏みにじられて、
再び「力こそ正義」とか
「祖国を守るため、
 愛する人の為に戦争に出かける」
等の言葉が語られ、
一部の政治家によって
その準備が始められていることに
大きな危惧を感じます。

私共は戦争をどの様な人達が
どのような理由をつけて起させるかを
身をもって体験して参りました。
「日中不再戦」
これが両国民の共通の願であり
目標であるべきだと思う次第です。
  昭和六十一年(1986)二月
p7【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p7【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/7
流転の青春 横山甲子蔵著
頒 価 4,000円
「流転の青春」
 中国人民解放戦争従軍記
1986年3月30日 印刷
1986年4月15日 発行
著 者 横山甲子蔵
〒399  長野県松本市芳川小屋256-9
    TEL 0263-58-9203
印刷所 中信凸版印刷株式会社
〒390  長野県松本市城西1丁目2-2
    TEL 0263-32-4209
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[足立道五郎院長] 山口組三代目田岡一雄組長・安井病院安井浩副院長・津島信則医長:『ベラミ』昭和53年【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】

【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
著者    飯干晃一 著
出版者   徳間書店
出版年月日 1982.9
p2【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
〔画像〕p2【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
https://dl.ndl.go.jp/pid/12483761/1/2

  3 雷鳴の京に首領(ドン)は斃(たお)れた
京阪三条駅前、クラブ『ベラミ』

昭和五十三年七月十一日の夜。
あの吉田芳弘射殺からじつに一年十カ月が経っていた。
京都は夕刻になって、前線の通過にともなって、
熱雷が発生し不気味な稲妻とともに雷鳴が轟いた。
雨足ははげしくなり、
東寺の塔、京都タワー、二条城などが
青白い閃光を浴びて夜空に浮かびあがり、
花見小路でははげしい雨を避けて酔客までが走った。

京阪三条駅前のナイトクラブ『ベラミ』は
夏枯れのせいもあって入りが悪い。
そしてこの夜のショーは
“うたとリンボーダンス”だった。

午後九時二十五分。
すでに京都を襲った雷鳴は遠のき、雨もやんだ。
『ベラミ』の舞台。
外人リンボーダンス“ルークール”が終わり、拍手がおこった。

スレージの下手(しもて)寄り二列目のテーブルに、
山口組三代目田岡一雄組長がいた。
さすが首領(ドン)と呼ばれるだけに貫録は十分で、
髪は短く、目に光のある人物である。
彼は心臓の疾患をもっていたから
アルコールは口にせず、
オレンジジュースだった。
しかしリンボーダンスのショーをたのしんだ。

奥のテーブルにいた若い男が、
この時いきなり立ちあがった。
彼は一歩踏み出すようにすると、
田岡一雄組長を狙って拳銃を両手で構え、腰をおとした。
一発、二発。男は拳銃を撃った。
のちにわかったことだが、
この拳銃はコルト38口径、
コルトスペシャルと呼ばれるものである。

山口組三代目は頸(くび)を撃たれたのだ!
「うっ」
思わず田岡一雄組長はその首をおさえた。
一瞬のうち、それがどういうことなのかわからなかった。

田岡一雄組長の席よりステージ寄りにいた
左京区安井病院の安井浩副院長は右肩に弾丸が当たり、
もう一発は同病院の津島信則神経科医長に
右背中から腹部に達する銃創を与えた。
これは気の毒にもまったくの飛ばっちりであった。

二人の医師が倒れたのを見て、
一人のホステスはおどろきのあまり失神した。

安井浩副院長らは新任の医師歓迎会で二次会として
『ベラミ』に居合わせたのである。

撃った男は拳銃を構えたまま、
「どけ、どけっ!」
とわめいて、入口から逃げた。

この時、護衛の一人、羽根組組長羽根恒夫は
そろそろひきあげる時だ、とレジで精算をして、
ついでにいわゆる“田岡御殿”に
田岡一雄組長が帰ると電話をし、
受話器を握っている最中だった。

羽根恒夫は異変に気づいて、
首領(ドン)のテーブルにかけ戻った。
首領(ドン)を撃った男とすれ違いになったのは
まさに皮肉なことであった。
p38【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
〔画像〕p38【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
https://dl.ndl.go.jp/pid/12483761/1/38

山口組三代目のお供をしていたのは、
細田組組長細田利明(山口組若頭補佐)、
仲田組組長仲田喜志登、
弘田組組長弘田武志、
それに羽根恒夫の四人だった。

首領(ドン)が撃たれた!
「追え、追えっ!」
血相を変えた
細田利明と羽根恒夫は男のあとを追ったが、
狙撃犯人の姿は闇のなかへ消えていた。
“奇蹟”というか、
頸を撃たれた山口組三代目はしっかりしていた。
自らハンカチで出血をおさえて、
「わしは大丈夫や。
 隣の撃たれた人を早よう病院に運んであげにゃ」
青くなってすっ飛んできた
『ベラミ』のママの山本千代子に
田岡一雄組長はおちついて言った。
『ベラミ』のなかは騒然としている。
  -略-
事件後三十分、新聞記者たちが殺到してきた。
「撃たれたお医者さんの安井病院といえば
 トラさん(蜷川虎三前京都府知事)の主治医の病院じゃないか」
p39【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
〔画像〕p39【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
https://dl.ndl.go.jp/pid/12483761/1/39

しかし『ベラミ』のホステスのなかには、
山口組三代目の顔をよく知っている者がいて、
田岡一雄組長が負傷した“事実”をみていた。
「なにっ! 首領(ドン)が撃たれた?」
記者たちは撃たれた客のなかに
山口組三代目田岡一雄組長がいたと知って愕然とした。
彼らはいっせいに電話に飛びついた。
午後十時十分。
  -略-
p40【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
〔画像〕p40【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
https://dl.ndl.go.jp/pid/12483761/1/40

  -略-
手術の終わった山口組三代目は、
かけよった組幹部たちに、
「こんなに見舞いにきてくれたら、
 わしのほうが気をつかう」
と軽口を叩くぐらいに元気で、
五〇六号室にはいった。

田岡一雄組長には夫人の文子さん、
長男の満(みつる)氏がつきそった。

いっぽう『ベラミ』で、
流れ弾に当たった二人の医師は
救急車で自分たちの安井病院に運ばれ、
午後十一時から
足立道五郎院長自身の執刀で手術が行なわれた。

安井浩副院長の右肩からは比較的楽に弾が摘出され、
三週間の傷で済んだ。

津島信則神経科医長は腸で弾丸がとまり、
出血もひどいので手術はむつかしかったが、
足立道五郎院長は五時間に及ぶ大手術の末
ついに弾丸の摘出に成功した。

そして二カ月の重傷で済んだことに
関係者の愁眉はやっと開かれた。

手術の終りと同時に夜は明けた。
p41【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
〔画像〕p41【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
https://dl.ndl.go.jp/pid/12483761/1/41
(この作品は1979年3月徳間書店より刊行されました)
 徳間文庫  雷鳴の山口組
1982年9月15日 初刷
著 者 飯干晃一
発行者 徳間康快
発行所 株式会社 徳間書店
    東京都港区新橋四ノ一〇 〒一〇五
    電話(〇三)四三三・六二三一(大代)
    振替 東京四ノ四四三九二番
印刷 製本 凸版印刷株式会社
<編集担当 石井健資>
https://dl.ndl.go.jp/pid/12483761/1/97
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2025年05月02日11:26
《足立道五郎》安井病院 院長
【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
信和会 安井病院   左京区田中飛鳥井町89
           最終学       卒年度
杉山 茂  小(顧問)京都大学      昭和 6年
足立道五郎 院 長  京都大       昭和15年
安井  浩 副院長  京都大       昭和33年
藤井 洋一 事    四条商       昭和23年
小坂喜美子 内    東京女医専     昭和10年
馬杉 雄達 内    慈恵医大      昭和22年
津島 信則 神    東北大       昭和33年
藤村喜代治 外    京都府医大     昭和30年
三渕 浩道 薬    京都薬大      昭和38年
藤坂 邦彦 検査技師 兵庫職補      昭和33年
椎名 国夫 X線技師  千葉大技師学    昭和34年
西原 はる 総婦長  府医師会助産    昭和20年
鈴鹿日出子 副総婦長 大阪厚生学     昭和20年
平田 栄子 婦長   樺太庁豊原病院看養 昭和11年
民谷 清美 婦長   近畿高看      昭和51年
篠本 京子 婦長   京都大看学     昭和44年
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【近畿病院名簿 1984年度版】昭和59年
出版者   医事日報社
出版年月日 1983.12
p1【近畿病院名簿 1984年度版】昭和59年
〔画像〕p1【近畿病院名簿 1984年度版】昭和59年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12089338/1/1
安井病院  京都市左京区田中飛鳥井町89
足立道五郎 院長、外   京都大学 昭和15年
安井  浩 副院長、内  京都大学 昭和33年
津島 信則 精・神    東北大学 昭和33年
p119【近畿病院名簿 1984年度版】昭和59年
〔画像〕p119【近畿病院名簿 1984年度版】昭和59年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12089338/1/119
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《足立道五郎》安井病院 院長【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)

【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
出版者   医事日報社
出版年月日 1979.12
p1【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
〔画像〕p1【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12096440/1/1
京都市
https://dl.ndl.go.jp/pid/12096440/1/95
信和会 安井病院   左京区田中飛鳥井町89
           最終学       卒年度
杉山 茂  小(顧問)京都大学      昭和6年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12096440/1/106
           最終学       卒年度
足立道五郎 院 長  京都大       昭和15年
安井  浩 副院長  京都大       昭和33年
藤井 洋一 事    四条商       昭和23年
小坂喜美子 内    東京女医専     昭和10年
馬杉 雄達 内    慈恵医大      昭和22年
津島 信則 神    東北大       昭和33年
藤村喜代治 外    京都府医大     昭和30年
三渕 浩道 薬    京都薬大      昭和38年
藤坂 邦彦 検査技師 兵庫職補      昭和33年
椎名 国夫 X線技師  千葉大技師学    昭和34年
西原 はる 総婦長  府医師会助産    昭和20年
鈴鹿日出子 副総婦長 大阪厚生学     昭和20年
平田 栄子 婦長   樺太庁豊原病院看養 昭和11年
民谷 清美 婦長   近畿高看      昭和51年
篠本 京子 婦長   京都大看学     昭和44年
p107【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
〔画像〕p107【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12096440/1/107
80年度版 近畿病院名簿(第9版)
定 価 5,500円 送料別
初 版 昭和38年12月20日 発行
第9版 昭和54年12月20日 発行
発行所 株式会社 医事日報社
    本社 大阪市東区淡路町3-6 船場ビル
       電話06(231)3276・8967番
  東京支社 東京都中央区八丁堀4-11-7 神谷ビル
       電話03(553)5080番(代表)
発行者 松尾  進
印刷所 新阪神印刷株式会社
https://dl.ndl.go.jp/pid/12096440/1/234
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足立道五郎先生(日赤高松病院外科部長)【道標八十年】昭和42年

足立道五郎先生(日赤高松病院外科部長)【道標八十年】昭和42年

【道標八十年】1967(昭和42年)
著者    村上謙次郎 著 [他]
出版者   村上謙次郎
出版年月日 1967

  喜寿を祝して
昭和三十七年十月十三日は、
私の喜寿の日であるが、
芝蘭会香川本部では、
一ケ月おくれの十一月十三日の夜、
高松市内第一生命ビル内の交蘭クラブで、
喜寿祝賀会を開かれた、
集まった会員約四十名が、
たのしく、なごやかにすごしたが、
会員からあった述懐、
追慕のかずかずの言葉は、
なつかしい思い出を残した。
この稿は昭和三十八年一月発行の
芝蘭会香川支部会報の記念号に集録された
当夜の談話を要約再録したものである。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984672/1/31

足立道五郎先生(日赤高松病院外科部長)
 私ごとを申し上げて、
はなはだ失礼なんでございますが、
私、実は長く捕虜になっておったものですから、
  ※捕虜:昭和20年8月~昭和28年8月

  blog[小野一雄のルーツ]改訂版
  『追悼 故 足立道五郎先生 ご略歴』
  [左京医報2011年12月号(548号)]
  昭和15年 旧陸軍軍医(満州)~20年8月
  昭和28年 京大病院外科副手助手~ 31年1月
  昭和31年 香川県 高松赤十字病院外科部長
  blog[小野一雄のルーツ]改訂版
  小川清久:福徳相互銀行アイスホッケー部
  叔父:小川清久(母 小野文子の弟)
  昭和28年(1953) 中国より、引き揚げ
  同船の団長:足立道五郎先生
  blog[小野一雄のルーツ]改訂版
  【満州引揚】《小川清久》
  [高砂丸帰還者名簿]舞鶴入港 昭和28年8月11日

芝蘭会の支部に属したというのは、
この高松が初めてでございまして、
芝蘭会に関係した何事かありますと、
すぐに村上先生のところへ持ち込みまして、
無理難題を申し上げるんですが、
いつもスラスラと解決していただけますし、
また先生ご自身にご厄介を非常にかけております。
先生は、私のずっと前に、
日赤におきまして外科の医長もされておられますので、
直接手をとって、
ご指導はいただかなかったんでございますけれども、
ほんとうに道士と申しますか、
ほんとうの人生の先生だというふうに
感じておる次第でございます。
今後も何とぞよろしく
御指導のほどをお願いいたします。
先生のご健康を心からお祈りいたします。
 足立道五郎先生(日赤高松病院外科部長)
〔画像〕足立道五郎先生(日赤高松病院外科部長)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984672/1/34

村上博士喜寿祝賀会に出席の医師会員
 村上博士喜寿祝賀会に出席の医師会員
※前列 左から三人目 足立道五郎先生
 撮影:昭和37年(1962)11月13日(火)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984672/1/44
道標八十年 (非賣品)
昭和四十二年九月二十日発行
発行者 村上謙次郎
    高松市幸町七六ノ四
編集者 後藤 通久
印刷者 香川印刷株式会社
    杉山 桂三
    高松市鍛冶屋町
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984672/1/216
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【御親閲拝受記念写真帖】昭和14年
著者    帝都教育会 編
出版者   帝都教育会
出版年月日 昭14
 參列者名簿   p243/393
京都帝國大學   p244/393
配屬將校
 歩兵大尉 櫻井 忠記
 引卒者  長崎 太郎
  〃   豐田 多八
 學 生  島  義之
      木村  博
      淺田  茂
        ―略―
      足立道五郎
        ―略―
p244【御親閲拝受記念写真帖】昭和14年
〔画像〕p244【御親閲拝受記念写真帖】昭和14年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1685252/1/244
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【日本医籍録 第25版(昭和32年)西日本版】
著者    医学公論社 編
出版者   医学公論社
出版年月日 昭和32年
◇高松赤十字病院   p393/643
足立道五郎 外科医長
兵庫県出身 大5.10.31生
昭和15年京大卒 登録番号94304号
昭和31年1月現職
p393【日本医籍録 第25版(昭和32年)西日本版】
〔画像〕p393【日本医籍録 第25版(昭和32年)西日本版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/8798105/1/393
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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『追悼 故 足立道五郎先生 ご略歴』[左京医報2011年12月号(548号)]

『追悼 故 足立道五郎先生 ご略歴』
[左京医報2011年12月号(548号)]

[左京医報]
2011-12
XLⅥ-8(548)

『追悼 故 足立道五郎先生 ご略歴』 p9/27
生年月日 大正5年10月31日
ご出身地 兵庫県水上郡青垣町
最終学歴
昭和15年3月 京都大学医学部卒業
略  歴
昭和 8年 兵庫県立第一神戸中学卒業
昭和11年 第三高等学校卒業
昭和15年 京都大学卒業
昭和35年 医学博士号取得
昭和15年 京大病院外科副手4月~10月
昭和15年 旧陸軍軍医(満州)~20年8月
昭和28年 京大病院外科副手助手~ 31年1月
昭和31年 香川県 高松赤十字病院外科部長
昭和42年 京都市 安井病院外科部長副院長~42年3月
昭和51年 京都市 安井病院院長
昭和61年 京都市 安井病院院長退職
      その後法人理事長 名誉理事長
平成23年10月27日 死去

足立道五郎先生の思い出 p10-12/27
京都民医連第二中央病院 内科 石橋 修

左京医報 2011年12月号(548号) p27/27
発行日  2011年(平成23年)12月1日
発行所  ㈳左京医師会
京都市左京区松ヶ崎小竹藪町3-3
発行人  原 山 憲 治
編集人  渡 辺 雅 彦
印刷所  ㈱こだま印刷所
http://www.sakyo.kyoto.med.or.jp/ihou2011/sakyoihou548.pdf
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年03月14日(水)
『小野又一』『足立道五郎』:
[第一神戸中学校]【第三高等学校】【京都帝国大学】
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2176726.html

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年04月19日(木)
小川清久:福徳相互銀行アイスホッケー部
叔父:小川清久(母 小野文子の弟)
大正12年(1923)3月29日生
平成8年(1996)12月25日歿 73歳
生誕:支那奉天省営口綏定門第15号海関官舎
   大連市山縣通205番地 海関官舎
   大連市光風台53 (現)大連市西崗区民主街19
   大連高等商業学校 アイスホッケー部
昭和28年(1953) 中国より、引き揚げ。
同船の団長:足立道五郎先生
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2236666.html

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[NOTRE DAME TIMES]
《小野先生を偲んで》
先生は一月八日体育館の和室で倒れられ、
直ちに安井病院に入院、
ここで先生の中学以来の親友のお一人である
足立副院長先生から、
手厚い手当をうけられました。
この夜以来二十三日間、
安井院長様始め多くの方々、奥さま、お二人の御子息、
御親戚の方々の日夜懸命の看護を受けられました。
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2176736.html

[NOTRE DAME TIMES]《小野先生を偲んで》

[NOTRE DAME TIMES] 第35号 1972.3.27
発行者 ノートルダム女学院高等学校
    社会部新聞印刷部発行班
    京都市左京区鹿ケ谷桜谷町110
印刷所 森岡印刷所
    大津市中央2丁目
    TEL 大津(23)0574

《小野先生》
本校主事小野又一先生は一月三十一日御逝去された。
二月一日修道院で告別式が行われた。
二月一日。
朝から降り続いていた小雨が止み上がってきた午後三時、
全校生徒の見守る中を小野先生の出棺がしめやかに行われた。
前日の一月三十一日、静かに永眠された小野先生の御遺体は
本校会議室に安置され通夜を過ごされた。
私達生徒にとっては、直接に接することのなかった先生であったが、
あのどっしりとした大きな先生の体が目に浮かぶのは、
やはり影ながらに私達の成長を眺められていたためであろうか。
とにかく私達の心にも惜しい先生を失ったという感が強い。
あるクラスでは、宗教の授業中に会議室に安置されている先生に祈りを捧げてきたり、
また帰りのH・Rでも残された遺族の方々のために黙礼などをしたが、
それが私達のできる範囲内での先生に対する心の表現であったと思う。
小野先生にとっては短いノートルダム生活であられたが、
私達生徒やノートルダムに何かを残していってくださったと思われる。

《小野先生を偲んで》
小野先生の御病気中と御死去にあたり、皆さんの御両親様や、
皆さんがお捧げくださいましたお祈り、献血など、有難うございました。
今は亡き先生もおよろこびになられたことでしょう。
御遺族の皆様も心から感謝しておられました。
小野先生がNDに初めておいでになられたのは、昨年八月のことでした。
以来僅か五か月間でしたが、
先生方、事務、用務の方々に深い心のつながりを残された方でした。
先生は学校のすべてに関心と興味を示され、
一日も早くMDを理解するよう努めておられました。
毎週火曜日の朝の祈りの会は勿論、
毎月の御ミサにも、またクリスマスの深夜ミサなど、
本校第一の特色である宗教行事には、欠かさず出席されたことも、
一緒にいらした皆さんはまだ憶えておいででしょう。
この他の行事、活動にも参加されました。
秋にはソフトの競技に参加されたことも、
ソフトボール同好会会員の方の記憶に残っていることでしょう。
NDの教育に全力を注いでおられるお姿が、ここかしこに思い出されます。
先生の告別のミサの時、
弔辞をくださった京大工学部教授椹木(さわらぎ)先生や、
先生のお友達であられた西村先生(現主事)のお話では、
先生は非常に頭脳明せきで、三高、京大時代を通じて、
優秀な成績の持主でいらしたそうです。
たしかに、NDでの御仕事振りは敏速確実で見事なものでした。
けれども先生は、それ以上のお人柄でした。
何の高ぶりも見られないばかりか、
他人の小さな良さにもすぐ気づかれ、
また、御自身の誤りはそのまま認められる謙虚な方だったのです。
人を大切にされ、かけひきのない暖かさで、誰にでも接されたため、
先生に接した人々の心に先生の心の広さと暖かさが残ったのです。
また、椹木先生、西村先生方、そして御通夜、告別ミサにかけつけられた、
中学、三高、京大時代からの親しいお友達の中に、
今に至るまでの暖かい誠実なきづかいがうかがわれる、
深い友情の美しさに感銘をうけました。
先生は一月八日体育館の和室で倒れられ、
直ちに安井病院に入院、
ここで先生の中学以来の親友のお一人である足立副院長先生から、
手厚い手当をうけられました。
この夜以来二十三日間、
安井院長様始め多くの方々、奥さま、お二人の御子息、
御親戚の方々の日夜懸命の看護を受けられました。
これにあわせ、学校、修道院でも、先生方、事務用務の方々、
生徒たちが心を一つにして、先生のためにお祈りしました。
危篤状態に入られた一月三十日夜十時四〇分、
奥村神父様から、洗礼を受けられ、
先生はあたかもこのお恵みを待っておられたかのように、
三十一日早朝二時二十六分、神の御もとに永遠に召されました。
五十五年の御生涯でした。
「若し一粒の麦が地に落ちて死なないなら、ただ一つのまま残る。
しかし、死ねば多くの実を結ぶ。」(ヨハネ 十二章、二十四節)
このキリストの御言葉は小野先生のお通夜の時に朗読された一節でした。
小野先生を失ったことは惜しいことですが、
先生の私たちに残されたものは、大きなものでした。
日頃「私は不信心で、宗教には縁遠いので・・・」などおっしゃりながら、
神さまのお召しにこたえるため、自らを準備された先生の立派なことば、
私共の心から忘れ去らないことでしょう。
NDを真に愛された先生は、
これからは天国から見守ってくださることと信じております。
[NOTRE DAME TIMES]《小野先生を偲んで》
※ 椹木教授  椹木義一
※ 西村先生  西村四郎
【第三高等学校一覧】昭和11年4月起昭和12年3月止
第三高等学校 昭和11年7月20日発行
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1275355/217
昭和11年卒業生
理科甲類卒業生 102人 p209-210/219
小野又一  京工 高知
椹木義一  京工 京都
西村四郎     京都
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1275355/209
理科乙類卒業生  40人 p211/219
足立道五郎 京医 兵庫
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1275355/211

【京都帝国大学一覧】昭和15年度
京都帝国大学 昭和15年10月1日発行
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450807/320
医学部 医学士 p230/326
昭和15年3月学士試験合格
足立道五郎 兵庫
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450807/230
機械工学科 p232/326
昭和14年3月学士試験合格
椹木義一  京都
小野又一  高知
理学部 理学士
化学 p237-238/326
昭和15年3月学士試験合格
西村四郎 京都
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450807/237
【 】『国立国会図書館・近代デジタルライブラリー』より

※ 足立副院長 足立道五郎
[第一神戸中学校]昭和8年(1933)3月卒業『小野又一』『足立道五郎』
兵庫県立神戸高等学校
旧制第一神戸中学校(神戸一中)
【第三高等学校】昭和11年(1936)3月卒業『小野又一』『足立道五郎』
【京都帝国大学】昭和14年(1939)3月卒業『小野又一』
昭和15年(1940)3月卒業『足立道五郎』

《京都民医連 第二中央病院》
安井病院 ― 京都民医連第二中央病院 歴代院長
1976(昭和51)~ 1986(昭和61)足立 道五郎
※ 安井院長  安井信雄
《京都民医連 第二中央病院》
安井病院 ― 京都民医連第二中央病院 歴代院長
1955(昭和30)~ 1976(昭和51)安井 信雄
1976(昭和51)~ 1986(昭和61)足立 道五郎
1986(昭和61)~ 1996(平成8) 安井 浩
1996(平成8)~ 2002(平成14) 鈴木 憲治
2002(平成14)~現在      門 祐輔
http://www.shinwakai-min.com/kyoto2hp/index.html

『小野又一』『足立道五郎』:[第一神戸中学校]【第三高等学校】【京都帝国大学】

『小野又一』『足立道五郎』:[第一神戸中学校]【第三高等学校】【京都帝国大学】

[第一神戸中学校]昭和8年(1933)3月卒業『小野又一』『足立道五郎』
兵庫県立神戸高等学校
旧制第一神戸中学校(神戸一中)

【第三高等学校】昭和11年(1936)3月卒業『小野又一』『足立道五郎』

【京都帝国大学】昭和14年(1939)3月卒業『小野又一』
       昭和15年(1940)3月卒業『足立道五郎』

《京都民医連 第二中央病院》
安井病院の第3次発展計画は1985年12月より検討が始まり・・・。
―略―
『足立 道五郎(元院長)』

《京都民医連 第二中央病院》
安井病院 ― 京都民医連第二中央病院 歴代院長
1955(昭和30)~ 1976(昭和51)安井 信雄
1976(昭和51)~ 1986(昭和61)足立 道五郎
1986(昭和61)~ 1996(平成8) 安井 浩
1996(平成8)~ 2002(平成14) 鈴木 憲治
2002(平成14)~現在      門 祐輔
http://www.shinwakai-min.com/kyoto2hp/

『足立 道五郎(元院長)』
私は満州の関東軍軍医で勤務中終戦になり、
ソ連軍の捕虜、
続いて中国の解放軍に留用され
1953年(昭和28年)にやっと帰国しました。
妻が野神町の安井医院に就職でき、
院長の安井信雄先生に初めて面識を得ました。
私は医療技術の遅れに困って京大病院外科に復帰し、
その後高松日赤病院に赴任しました。
この間先生は出張の度ごとに御訪問いただいて
新設された安井病院の状況や将来構想を話され、
1967年(昭和42年)に御要請に従って、同院外科に就職しました。
初めて京都民医連に属して、
当時の安井院長や山本副院長のもとに看護師さん、
職員の方とも親しくなり、手術数も多く、
非常に楽しい勤務ができたことを思い出します。
その後、院長・副院長の逝去、蜷川府政の終焉があり、
日本の政治や医療情勢の悪化が年々激しくなり、
私たちも病院・民医連も悪戦苦闘が続きました。
併し極めて多数の患者様と地域の方々と親密な関係と
熱烈な御應援をいただいて、
努力して現状を乗り切ってまいりました。
私が職を離れて既に10年を越えました。
京都民医連と共同組織全体の力で
安井病院も第二中央病院として発展してこられましたが、
政治も医療も情勢はさらに悪化しています。
更なるご奮闘と発展を願ってやみません。
http://www.shinwakai-min.com/kyoto2hp/daimonji/sp/06.html

京都ライトハウス後援会より
次の通り、後援会費と運営資金寄付金を納入いただきました。
会員の皆様のお名前を掲げ、厚くお礼申し上げます。ありがとうございました。
(50音順・敬称略)
2010年3月1日~2010年5月31日
後援会費   1029件 2,058,000円
運営資金寄付金  43件 3,143,218円
-略―
足立道五郎
―略―
http://www.kyoto-lighthouse.or.jp/uploads/introduction/5/lighthouse_122.txt

【第三高等学校一覧】昭和8年4月起昭和9年3月止
第三高等学校 昭和8年6月30日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1275339/200
本校高等科生徒(895人)(昭和8年5月30日調) p68/203
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1275339/68
理科1年甲類1学級 37人 p79/203
小野又一  第一神戸 高知
西村四郎  京都一  京都
理科1年甲類2学級 37人
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1275339/79
理科1年甲類3学級 38人 p80/203
椹木義一  京都一  京都
理科1年乙類 37人   p80/203
足立道五郎 第一神戸 兵庫
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1275339/80

【第三高等学校一覧】昭和11年4月起昭和12年3月止
第三高等学校 昭和11年7月20日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1275355/217
昭和11年卒業生
理科甲類卒業生 102人 p209-210/219
小野又一  京工 高知
椹木義一  京工 京都
西村四郎     京都
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1275355/209
理科乙類卒業生  40人 p211/219
足立道五郎 京医 兵庫
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1275355/211

【京都帝国大学一覧】昭和12至13年度
京都帝国大学 昭和13年5月15日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1451825/301
医学部 p206/304
医学科
昭和11年入学
足立道五郎 兵庫
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1451825/206
工学部 機械工学科 p211/304
昭和11年入学 37名
小野又一  高知
椹木義一  京都
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1451825/211

【京都帝国大学一覧】昭和15年度
京都帝国大学 昭和15年10月1日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450807/320
医学部 医学士 p230/326
昭和15年3月学士試験合格
足立道五郎 兵庫
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450807/230
機械工学科 p232/326
昭和14年3月学士試験合格
椹木義一  京都
小野又一  高知
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450807/232
理学部 理学士
化学 p237-238/326
昭和15年3月学士試験合格
西村四郎 京都
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450807/237

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

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