鈴木雅(まさ)・加藤まさ

非職歩兵少佐「鈴木良光」仙臺陸軍病院ニ於テ去ル五日死亡セシ【官報 1883年12月12日】明治16年

【官報 1883年12月12日】明治16年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 明治16年
◎非職歩兵少佐鈴木良光ハ
 仙臺陸軍病院ニ於テ
 去ル五日死亡セシ旨
 同鎭臺ヨリ屆出テタリ
p3【官報 1883年12月12日】明治16年
〔画像〕p3【官報 1883年12月12日】明治16年

【官報 1883年12月24日】明治16年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 明治16年
◎故歩兵少佐鈴木良光 外一名ハ
 一昨廿二日各左ノ通仰渡サレタリ
 故歩兵少佐從六位勳四等 鈴木良光
 多年奉職勉勵候ニ付
 爲祭粢料金貳百五拾圓 下賜候事
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2025年11月03日15:20
《鈴木雅子さん》陸軍中佐の未亡人で、
横浜二百十二番館の女學校を卒業した英語の達者な女性でした
:大関 和(ちか)【明治百話】昭和6年
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

横浜ノ一信姉 加藤マサ(此信姉ハ鈴木良光ニ嫁ス)明治11年1月【新島襄全集 2 (宗教編)】1983

【新島襄全集 2 (宗教編)】1983
著者    新島襄全集編集委員会 編
出版者   同朋舎出版
出版年月日 1983.7
p3【新島襄全集 2 (宗教編)】1983
〔画像〕p3【新島襄全集 2 (宗教編)】1983
https://dl.ndl.go.jp/pid/12408366/1/3

◎明治十一年二月十日、
 横浜ノ一信姉 加藤マサ(此信姉ハ鈴木良光ニ嫁ス)
 左ノ薦書ヲ以テ我会ニ入ル

 此者横浜ニアル主耶蘇基督教会ニ属スル善正ノ信徒ナリ、
 今将ニ西京ニ移転セントス故ニ
 西京ニアル貴会ニ薦挙シ其ノ交通及眷顧ヲ請フ
         横浜基督教会長老
           熊野雄七
  十一年一月廿二日
 在西京耶蘇基督教会
   長老御中
https://dl.ndl.go.jp/pid/12408366/1/297

明治十一年二月十日、
本日横浜之一信徒、
左之薦書ヲ以テ我公会ニ加入ヲヲ求む
    薦 書
     此ノ良人ハ鈴木良光ト云
            加藤マサ

此者横浜ニアル主耶蘇基督教会ニ属スル善正ノ信徒ナリ、
今将ニ西京ニ移転セントス故ニ
西京ニアル貴会ニ薦挙シ、
其ノ交通及眷顧ヲ請フ
         横浜基督教会長老
           熊野雄七
  明治十一年一月廿二日
 在西京耶蘇基督教会
   長老御中
https://dl.ndl.go.jp/pid/12408366/1/314
新島襄全集2 宗教編
1983年6月30日 初版第一刷印刷
1983年7月20日 初版第一刷発行
定 価 7000円
編集者 新島襄全集編集委員会
発行者 今田 達
発行所 同朋舎出版 〒600
    京都市下京区中堂寺鍵田町2
    電話075-343-0621
    振替京都5-22982
    東京支店 〒101
    東京都千代田区三崎町3-7-12
    清和会ビル5F
    電話03-234-4982
印 刷 図書印刷同朋舎
製 本 大日本製本紙工
https://dl.ndl.go.jp/pid/12408366/1/359
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【陸軍武官録】明治8年
出版者   陸軍省
出版年月日 明8
陸軍武官錄
 明治八年二月十日改
大尉 歩兵科
正七位 鈴木良光 濱松縣士族
大尉 歩兵科
正七位 鈴木良光 濱松縣士族
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

「亜米利加婦人教授所」「日本婦女英学校=横浜山手二百十二番普通学校」「共立女学校」【内村鑑三伝:米国留学まで】1986

【内村鑑三伝:米国留学まで】1986
著者    鈴木俊郎 著
出版者   岩波書店
出版年月日 1986.1
p3【内村鑑三伝:米国留学まで】1986
〔画像〕p3【内村鑑三伝:米国留学まで】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12267282/1/3

彼女(浅田タケ)が転入学したと
「家譜」に記載されている
「横浜山手二百十二番普通学校」という学校は、
今日の横浜共立学園の前身であり、
その呼称はその学校の正式の校名ではなかった。

この学校は明治四年八月に
横浜山手四十八番館において開始された
「亜米利加婦人教授所」
(American Mission Home)にはじまる。

これには中村正直(敬宇)識すところの
「亜米利加婦人教授所告示」
と題する生徒募集案内文があり、
その教授所の性格や内容が素朴に記されている。

この「ミッション・ホーム」は、
アメリカにおいて一八六一年に
ドリーマス(Doremus)夫人の主唱によって創立された
「米国婦人一致外国伝道協会」
(The Woman’s Union Missionary Society of 
 America for Heathen Lands)
が日本における女子教育と混血児救済の機関を
設置しようとする活動によるものであった。

それは実質的にはキリスト教主義による
家庭組織の塾舎であった。

のちにこの
「亜米利加婦人教授所」の名は
「日本婦女英学校」
(English School for Japanese Ladies)、
さらに
「共立女学校」と三度変更されたが、
アメリカ名は伝道協会創立者ドリーマスにちなむ
‘Doremus School’ で終始しているという。

明治五年(一月)、 ※「日本婦女英学校」
生徒が増加したにともない、
学校はその創立地の
山手四十八番から山手二百十二番に移転し、
それ以来その校地の呼び名によって
「二百十二番」と通称されるようになった。

校名が明治八年ごろ
「共立女学校」と改称されたのは、
この学校を創立した「米国婦人一致外国伝道協会」が、
アメリカにおけるプロテスタントの
各教派の属する婦人たちによって
一致して外国伝道のために働こうとして
組織されたものであって、
協会自身はいずれの教派にも属せず、
超教派的ないし教派聯合的な存在であり、
Union Missionary Society
という名称のその
Unionなる語が
そのことを示しているところから、
Unionを「共立」と訳して校名に用い、
また単に「英学校」であるのではなく
教科の内容は広く「女学校」であるのが
適当であると考えられたところから、
「共立女学校」と改称されるにいたったという。

そのことは同時に、
明治十四年に創立以来の校長ピアソン
(Louise Henrietta Pierson,1832-99)
によって後の共立女子神学校の前身である
「偕成伝道女学校」が併設されたことから、
伝道女学校が伝道部であるのに対して、
この女学校の方は普通部と考えられたのである。

前記「家譜」に見える
「二百十二番普通学校」という名称は、
当時同校に対する一般的の呼び名であったであろう。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12267282/1/184
(13) 以上の共立女学校の歴史に関する部分は、
 上引の『恩寵と偕に八十年—横浜共立学園八十年史—
 明治四年~昭和二十六年 1871-1951』
 (神保勝世編)からの適期摘記によるものである。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12267282/1/393
内村鑑三伝
一九八六年一月二一日 第一刷発行
定 価 九八〇〇円
著 者 鈴木俊郎
発行者 緑川 亨
発行所 株式会社 岩波書店
    〒101 東京都千代田区一ツ橋2-5-3
    電話03-265-4111
    振替東京6-26240
印 刷 精興社
製 本 牧製本
https://dl.ndl.go.jp/pid/12267282/1/396
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《鈴木まさ》初の内科看病婦取締【看護のあゆみ:明治・大正・昭和を通して】東京大学医学部附属病院看護部1991

【看護のあゆみ:明治・大正・昭和を通して】1991
著者    東京大学医学部附属病院看護部看護史委員会 編
出版者   東京大学医学部附属病院看護部
出版年月日 1991.3
p3【看護のあゆみ:明治・大正・昭和を通して】1991
〔画像〕p3【看護のあゆみ:明治・大正・昭和を通して】1991
https://dl.ndl.go.jp/pid/13292993/1/3

 看護婦の先駆者、初代看護婦取締
① 《大関 和》初代外科看病婦取締

② 《鈴木まさ》初の内科看病婦取締
鈴木雅子(後に まさ)は、
静岡県士族・鈴木良光陸軍歩兵少佐と
明治一一年(一八七八)に結婚。
夫は西南の役で負傷、
二人の子供が残された。
雅子は夫の看病が行き届かなかったことが、
看護の道への動機といわれている。

鈴木は、フェリス女学校に学び、
※フェリス女学校⇒
英語に堪能であった。
桜井女学校の一期生となり、
大関らと、東大の看護教育初回の教育を受けた。
英語が堪能であるため、
アグネス・ウィッチの通訳を兼ねながら学んだ。
p24【看護のあゆみ:明治・大正・昭和を通して】1991
〔画像〕p24【看護のあゆみ:明治・大正・昭和を通して】1991
https://dl.ndl.go.jp/pid/13292993/1/24
看護のあゆみ
明治・大正・昭和を通して
平成三年三月三〇日発行(非売品)
編集 東京大学医学部附属病院看護部
   看護史委員会
発行 東京大学医学部附属病院看護部
   東京都文京区本郷七ノ三ノ一
   電話〇三(三八一五)五四一一(代)
制作 中央公論事業出版
   東京都千代田区丸の内二ノ四ノ一
   丸ビル五八八
   電話〇三(三二〇一)一一二一
印刷・製本 図書印刷
https://dl.ndl.go.jp/pid/13292993/1/184
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《鈴木雅子》加藤まさ(鈴木雅)帝大医科大学の看護婦取締【横浜共立学園120年の歩み】1991

【横浜共立学園120年の歩み】1991
著者   「横浜共立学園120年の歩み」編集委員会 編
出版者   横浜共立学園
出版年月日 1991.11
p5【横浜共立学園120年の歩み】1991
〔画像〕p5【横浜共立学園120年の歩み】1991
https://dl.ndl.go.jp/pid/13311903/1/5
 (3)ミセス・マリア・T・トゥルー
 横浜のミッション・ホームへ
一八七三年(明治6年)、トゥルー 三三歳、
W・U・M・Sの中国北京の女学校の教師として
派遣され働いていたが、
https://dl.ndl.go.jp/pid/13311903/1/40
翌七四年(明治七)年一月、
横浜のミッション・ホームに転任した。

トゥルーは、ホームのプライン、クロスビー、
ピアソン、ガスリー、ベントンと共に
二年間ホームの仕事をした。

トゥルーの日本語教師は井深梶之助であった。
日本の伝道活動、女学校の授業、
混血児養育などを体験した。

頭脳明晰な真摯なトゥルーは、
当時の生徒たち――
桜井ちか、岡見京(ケイ)、二宮ワカ、
加藤雅(まさ)などに
多くの影響を与えた。

明治九年(1876)一〇月、
ミッション・ホームを辞任して、
原女学校校主原胤昭(たねあき)の招きに応じて
東京へ行った。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13311903/1/41

 5 明治期の生徒たち
https://dl.ndl.go.jp/pid/13311903/1/72
 加藤まさ(鈴木雅)
明治五年(1872)ごろ入学・
ホームでトゥルーに教わる。
鈴木氏と結婚した。
桜井女学校の看護婦学校に入り、卒業した。
英語力は抜群であった。
帝大医科大学の看護婦取締りをし、
『婦人衛生会雑誌』の編集もした。
一八九一(明治二四)年一一月、
「慈善看護婦会」(「東京看護婦会」)を創設した。
この会は日本における派出看護婦の最初のものである。
「衛生園」の委員もしていた。

 菱川やす(安)

 水上せき(井深せき)
p74【横浜共立学園120年の歩み】1991
〔画像〕p74【横浜共立学園120年の歩み】1991
https://dl.ndl.go.jp/pid/13311903/1/74
 横浜共立学園の歩み
発行日 1991年11月5日
編 集 「横浜共立学園120年の歩み」編集委員会
発行者 学校法人 横浜共立学園 神保勝世
    〒231 横浜市中区山手町212
    電話045(641)3785~7
印 刷 神奈川新聞社出版局
https://dl.ndl.go.jp/pid/13311903/1/206
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年08月16日04:45
《菱川ヤス》第一回の生徒として入學した人たち
【横浜共立学園六十年史】昭和8年
  思ひ出を語る  p137-138/212
  (元北川)小島淸子
私は姉の北川晴子と弟の北川才太と三人で、
ミツショヨンホームが
山手四十八番に開設された
最初の生徒として入學したものでした。
私たちの外に
第一回の生徒として入學した人たちには
福澤先生のお孃さん達が三人、
又福澤先生のお姪御さんで福澤おきよさん、
井上馨(後の侯爵)さんのお孃さんが二人、
木脇お園さん。
この人のことを伯爵夫人と綽名して居ました。
中尾さん、名は何と言つたか覺えて居ませんが
何でも藝者をして居たとか云ふ事でした。
苗字は忘れましたが
お米さんと云ふ三十歳位の人も居ました。
菱川お安さん、この人は後醫師となつた。
更木お梅さん、更木お金さん、おひささん
などでした。

間もなく二百十二番に移りましたが、
移つてから入學した者のうちには
毛色の變つた人たちが居ました。
跛者のナイナと云ふ子、
顔は白人のやうであつたが
どうも外の血が混つて居たやうだつた。
この子はびつこだつたので、
何でもそのびつこを癒してやるんだと言つて
ミス・クロスビーはナイナを寝臺に縛りつけるとか
時々悲鳴を擧げて泣いて居たのを聞いた。
支那の金持ちの子でアネーと云ふ子も來て居た。
金持ちと云ふ事は
その母親が學校を訪問する時には
きつと馬車に乘つて來るし、
着物が大層よかつたやうに見へたから、
皆金持ちと言つて居た。
アリスとミネと云ふ姉妹も居た、
姉妹でもアリスの眼はブルーで
ミネの眼はブラツクだつたので
今でもこの兩人の事をよく覺へて居る。

おりようさん(後栗岡氏に嫁す)
加藤おまささん(後東京帝大の看護婦長となつた)
櫻井おちかさん(櫻井女塾を開いた)
井深おせきさん(井深梶之助博士の夫人)
おとりさん、
お角さん(後醫師になつた)
お貞さん、
おりやうさん
などであつた。
この二人は明治の初年
最初の女子海外留學生として米國に往つた。
上田てい子、吉松りよう子さんたちで
渡米後間もなく歸朝して共立に入つたのでした。

これらは開校當時の事で
明治四、五年頃の話ですが
それでも當時の社會に於ては
相當の身分のある人たちの子供たちが入學したのです。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《鈴木雅子さん》陸軍中佐の未亡人で、横浜二百十二番館の女學校を卒業した英語の達者な女性でした:大関 和(ちか)【明治百話】昭和6年

広瀬院長の弘前ブログ
青森県弘前市で矯正歯科クリニックを開業している広瀬です。
最新の矯正歯科治療、
大好きな弘前の町やこの町が生んだ隠れた偉人に
ついて紹介したいと思います。
 NHK朝ドラ 風、薫る 鈴木雅について
〔画像〕NHK朝ドラ 風、薫る 鈴木雅について
2025年11月1日土曜日
来年度NHK朝ドラ 風、薫る 鈴木雅について 4
これまで3回ほど、来年度NHKの朝ドラの主人公のモデル、
鈴木雅の出身校について書いた。
鈴木雅については、
横浜のフェリス女学院を卒業したという資料が多いが、
これは間違いで
共立女学校(現在の横浜共立学園)を
修了しているのではないかと、
いろいろな文献を引用して説明してきた。
こうした中、
今回、ほぼ決定的な資料が見つかったので報告する。
「明治百話」という本で、
篠田鉱造というジャーナリストが昭和6年に出版した。
大関の話では、
鈴木雅は横浜二百十二番館の女学校を卒業したと断言している。
横浜二百十二番館とは横浜共立女学校のことである。
鈴木自身、自分が行っていた学校を“共立女学校”とは人には言わず、
“横浜二百十二番館の学校”と言っていたのかもしれない。
普通、二百十二番館の学校と言っても、
すぐに横浜共立女学校を思いつくことはなく、
孫、親類もほぼ隣にある
フェリス女学院のことだと勘違いしたのだろう。
以下、省略して一部引用する。
全文については、
国立国会図書館デジタルコレクションで
見られるので確認して欲しい。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【明治百話】昭和6年
著者    篠田鉱造 編
出版者   四條書房
出版年月日 昭和6
 p3【明治百話】昭和6年
〔画像〕p3【明治百話】昭和6年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1236333/1/3
  日本看護婦の嚆矢
https://dl.ndl.go.jp/pid/1236333/1/88

  △第一回卒業の難行苦行
https://dl.ndl.go.jp/pid/1236333/1/89
明治廿年十一月英國セントマス病院の
ナイチンゲル看護婦學校卒業の
ミス・アグネス・ヴヱツチ女史が帝大第一病院で、
看護婦學を教授すると聞き、
同院の三宅秀先生におすがりして、
大學の見習ひ看護婦に採用していただき、
この聽講生の員數に加わりました。
《鈴木雅子》さんの通譯でした。
月謝が五十錢。
この《鈴木雅子》さんと申すのは、
陸軍中佐の未亡人で、
横浜二百十二番館の女學校を卒業した、
英語の達者な女性でした。

 △三宮夫人の附添看護婦
この大學病院の頃、明治二十六年でした。
惡疫チブスの流行が激しく、
瀧ノ川孤児院では全員傳染といつた有樣、
第二病院では使丁が染つたといふ大騒ぎ、
民間は大流行でした。
此時《鈴木雅子》さんが、
北里博士や高木兼寛博士に相談されて
慈善看護婦會といふものを『東京看護婦會』と改稱して、
一般の病家へ看護婦派出を盛んに始められましたが、
恐らくこれが家庭へ看護婦をば
進出させた嚆矢でせうと思ひます。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1236333/1/90
  △心中未遂の八幡樓花紫
三宮夫人のお手廻りのものは、
悉く銀器でして、
御食事は侍女のミス、ホーケといふ@がお勤めをします。
私の役目はお手術後のお手當です。
幸ひ夫人の一方ならぬ御寵愛を蒙(こう)もり、
大関々々と仰せつけられ、
實に身に餘る面目を施し、
神樣の御加護の厚きに感謝しました。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1236333/1/91
昭和六年十月一日印刷
昭和六年十月十日發行
明治百話 定價 貳圓
著 者 篠田鑛造
發行者 四條輝雄
    東京市神田區駿河臺袋町一六
印刷者 日永悌三
    東京市麴町區有樂町一ノ一三
發行所 四條書房
    東京市神田區駿河臺一六
    電話神田三八〇番
    振替東京一〇三八番
印刷所 株式會社 有恒社
https://dl.ndl.go.jp/pid/1236333/1/318
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【明治百話】1931
著者    篠田鉱造 著
出版者   四条書房
出版年月日 1931
  日本看護婦の嚆矢
https://dl.ndl.go.jp/pid/3438299/1/90

【明治百話 (角川選書 ; 24)】1969
著者    篠田鉱造 [編著]
出版者   角川書店
出版年月日 1969
  日本看護婦の嚆矢
https://dl.ndl.go.jp/pid/12228181/1/49
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

記事検索
カテゴリー
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新コメント
アーカイブ
  • ライブドアブログ